2013・11・2・(土)
「誕生日おめでとう」
リューシカが小さく笑いかける。後ろ手に隠した小さな紙バッグを花に渡す。深夜零時を過ぎたアパートは少しだけ冷たくて、けれどもやわらかな空気に包まれている。本当は明日の朝は早いのだが。リューシカはどうしても待てなかった。早く花に手渡したかったのだ。
あまりにも不意なことに、パジャマ姿の花は目を瞬かせている。
「え? 嘘、ありがとう。嬉しい。すごく嬉しい。ねえ、開けてもいい?」
「うん。気に入ってくれるといいんだけど」
小さな紙バッグの中には桐で作られた可愛らしい小箱が入っている。リューシカはそっと両手を自分の背後に隠すようにする。隠し持っていたもう一つのそれを左手の薬指に滑らせる。花は紙バッグの封を開けるのに少し手間取っている。再封したのはリューシカだが、少し頑丈にし過ぎただろうか。花はリューシカの指の動きにも焦りにも気づいていない。
「もしかして……ピアス? 前に約束したの覚えててくれたの?」
小さな桐の箱には〝Alice・Liddell〟のロゴが焼印されている。花はどこかでその名前を見たことがある気がした。どこだっただろう。アクセサリーかジュエリー関係だったのは間違いない。でも、なにで有名なブランドだっただろうか。花は思案顔で小箱を手にしたまま、リューシカの表情を窺っている。
「開けてみて」
リューシカは質問には答えない。曖昧に微笑んでいる。花は箱とピアスのダブルミーニングなのだろうかと少しだけ訝しく思う。花の耳にはまだ、ピアスの穴は開いていない。リューシカの耳には左側の耳朶にだけ、ピアスホールが開いている。けれども滅多にリューシカはピアスをつけない。看護の仕事にも邪魔だからだ。ただ、花は北の海で採れたという琥珀のピアスをリューシカがとても大切にしているのを知っている。いつかこのピアスを片方ずつ、一緒につけようねって。そんな話をしたことを思い出す。
「うん。……わ、わっ。え? すごいっ」
箱を開ける。そこには金色に光る指輪が入っている。カラーの花を一輪ずつ、左右逆に向かせて、互い違いになるように連ねた金の指輪。アールヌーヴォー風のデザインがとても美しい。繊細で優美である。でも。花は気づく。指輪の配置が歪であることに。指輪は箱の右に寄っている。左には柔らかく貼った天鵞絨(ビロード)に溝だけが切られている。その桐の箱は本来ペアリング用のものなのだ。
「ねえ、リューシカ……これ。……?」
意図するところがわからない。花は不安そうに訊ねる。リューシカは左手を差し出す。そこには同じ意匠の指輪が光っている。もちろん、薬指に。
驚いて声の出ない花の左手を取る。箱の中の指輪を薬指に滑らせる。よかった。サイズもピッタリだ。夜中にこっそり糸を巻きつけて測った甲斐があった。花は目を見開いたまま、自分の薬指を凝視している。
指輪が蛍光灯の明かりを反射して光っている。それはまるで
「ここのお店、花をモチーフにしたブライダルジュエリーで有名らしいんだけど……花は知ってた?」
リューシカははにかむ。まどかに相談して、リューシカがそのお店のその意匠の指輪に決めた。花がモチーフになっている指輪をどうしても送りたかった。まどかになにか良いペアリングはないかと相談すると、なにを血迷ったのか、職場にブライダル誌を何冊か持ってきた。ブライダル誌。ブライダル誌? リューシカは目が点になってしまう。まったく、なにを考えているのかと呆れてしまう。でもいい。それがいい。そう思い直す。どうせなら二人をしっかりと結びつけてくれるものがいい。
リューシカは物珍しそうにまどかに借りた分厚い結婚情報誌を車の中で開いてみた。家にはそんな雑誌は持って帰れない。ドッグイヤーされているブライダルジュエリーのページをめくると、その指輪が瞬間的に目に止まった。記事は簡素で写真も小さかった。けれども一瞬で心を奪われた。その指輪が花の指に嵌まっている姿を想像した。自分の指に光っている姿を想像した。悪くない、そう思ったのだ。
花が恐る恐る訊ねる。
「ブライダルって、それって……この指輪、結婚……指輪?」
「うん。わたしと、花の」
リューシカは花の左手に自分の左手を重ねる。指輪同士が当たって、かちり、と小さな音がした。
「カラーの花言葉は乙女のしとやかさ、清浄、そして……夢のように美しい。花嫁に、花にぴったりだと思ったの」
リューシカは歌うようにそう呟く。
「……嬉しい」
指を絡ませる。花はうっとりとした目で重なりあう指輪を見つめている。
「この前はわたしの子どもに、って……話をしたけれど。でも、こう言うべきだったんだよね」
「え?」
花が視線を指輪からリューシカに戻す。リューシカは唾を飲み込んで、ゆっくりと話し始める。
「わたしと一緒になって欲しいの。花と本当の家族になりたいの。今回の養子の申請は通らないかもしれない。それでもいつか、あなたにそれを自分で選んで欲しい。わたしの月庭って姓も借り物なんだけど……それでもいいかな」
「借り物?」
不思議そうに花が呟く。
「わたしの両親も死んじゃったの。わたしが小学生の頃に交通事故で。だからわたしは母の姉夫婦のところに引き取られることになったの。本当の苗字はね、わたしの父の姓で……
「陽月リューシカ」
「そう。それが本当のわたしの名前」
リューシカは笑う。花に微笑みかける。でも、花はどんな顔をしたらいいのかわからない……という表情を浮かべている。
「でもね、苗字なんてどうでもいいの。重要なのはわたしと花が一緒の姓になることなんだから。けれどね……もしも遊崎という姓に愛着があるのなら、正直にそう言ってもらいたい。無理強いなんてしたくないから」
リューシカは月庭の姓を受け入れた。渋々ながら。そうしなければ生きていけないと思ったからだ。今では違った選択肢もあったのではないかと思っている。苗字を変えるのは、大切な記憶を失うことと同義だった。それに、リューシカは思う。月庭の姓になってから……嫌なことばかりだった。
「遊崎はあいつの姓だから、別にどうでもいい。月庭って苗字も陽月って苗字も、どっちも素敵だと思うよ。でも、……リューシカはリューシカのままだよね。陽月でも、月庭でも、名前が変わっても。美しい香りはそのまま……」
「シェークスピア?」
リューシカは苦笑する。その台詞なら知っている。ジュリエットの台詞だ。なにもわざわざ悲恋話を引きあいに出さなくてもいいのに。そう思ったリューシカの苦笑につられるように、不意に花が顔を覆う。頬に涙が流れている。
え、……涙?
リューシカは驚いて花の顔を見つめていた。花は慌てて自分の眦を擦っている。
「あ、あれ? ごめん。ごめんなさい。嬉しすぎて、なんか……涙が」
涙があとからあとから溢れてくる。リューシカは無言で花の頬に舌を寄せる。涙を一粒ずつ舐めとっていく。甘く、そして塩辛い。それは悲しみの味である。喜びの味である。花はされるがままになっている。
「指輪も、養子のことも、本当にありがとう。どうやってこの気持ちを伝えたらいい? どうしたらこの嬉しさがリューシカに伝わるのかなぁ?」
花の瞳が光っている。キラキラと。それは乙女の瞳だ。リューシカが捨ててしまった目の輝きだ。自分は乙女だっただろうか。汚されてしまわなければ、花のような乙女でいられたのだろうか。
口の中が苦くなる。心の真ん中に穴が開いてしまったように思える。リューシカは小さな声で囁く。
「花。わたしと……結婚してください」
花は驚きのあまり、声も出せない。
「でもね……最終的な判断は明日、わたしの話を聞いてからにして欲しいの。わたしの話を聞いて、それでも家族になってもいいかどうか、花が決めて欲しいの。だからもう眠りましょう。明日の朝は早いから」
「そんな、ひどい。プロポーズなんてされたら余計に眠れないわ。それに明日じゃなくて、もう今日だよ?」
「ふふっ」
リューシカは笑う。乾いた笑いだ。温度のない笑みだ。今はまだ、そんな笑い方しかできない。すべてはまだ、つまびらかにはされていない。
「うん、そうだね。ごめん。本当は全部話をしてから指輪も渡す予定だったんだけど……我慢できなくて」
「ううん。いいの。でも、リューシカってそういうところあるよね」
花が苦笑する。リューシカはどきりとする。それはある意味リューシカの本性だからだ。我慢できない。こらえ性がない。だから失敗する。リューシカにだって痛いほどわかっている。
リューシカは部屋の電気を消す。花が抗議の小さな声を上げる。リューシカは花を抱きしめる。花の体は少し冷たい。遅くまで起こしていて体が冷えてしまったのだ、とリューシカは考えている。心臓の音が重なる。やわらかな吐息が頬をくすぐる。でも、あまり温度を感じないのはなぜだろう。
「おやすみなさい」
リューシカはそう言って花の額に口づけをする。花はなにか言いかけてやめる。窓の外では煌々と月だけが光っている。夜の闇は沈黙している。今は考えたくない。朝まで。陽が昇るまではなにも考えたくない。
月が冷たい光を放っている。カーテン越しの青い光が夜の沈黙を際立たせる。冷たい。とても冷たい。なにが冷たいのかとリューシカは問う。どこからも答えは返ってこない。静寂が世界を覆う。まるでなにかを隠蔽するように。
リューシカは嫌な夢を見た。ライフル銃を向けられたことだけは覚えている。でもそれが誰で、なにを意味するのかわからない。かつてヘミングウェイは言った。物語の中にライフル銃が出てきたら、それは発射されなければならないと。だから? だからなんだと言うのだろう。
目を覚ますと隣に花はいない。リューシカは寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回す。朝のやわらかな光。小鳥の鳴き声。部屋の中に花はいない。気配もない。スマホのアラームが鳴る前に目を覚ましたのに。……花は? さっきの夢の嫌な余韻が残っている。自分に向けられた冷たい銃口を思い出す。
「花?」
不安になってリューシカは少し大きな声で呼びかける。
「起きた?」
花が台所から顔を出す。もうすでに出かける格好をして、その上からエプロンをしている。
「お弁当作ってたの。あっ、おむすびの具はいつもと一緒で梅干しとおかかだよ」
今日は旅行に出かける日。故里に帰る日。花の左手の薬指には昨夜の指輪が光っていた。
「ちゃんと寝たの?」
心配になってリューシカが訊ねる。
「もちろん。……と言いたいところなんだけど。興奮しちゃってあんまり眠れなかった」
花ははにかむようにして笑う。花はいつもリューシカと自分のために少しだけ早起きしてお弁当を作る。それまでは菓子パンを齧るだけだったリューシカがお弁当を持ってくるので職場では随分と冷やかされるようになった。あるいはブライダル誌を持ってきたのはまどかなりの冗談だったのかもしれない。でも、リューシカは気にしない。ただただ自分のためにお弁当を作ってくれる花を愛おしいと思うだけ。
「酔っても知らないからね」
リューシカは少しだけ愁眉を寄せる。怒っているんじゃない。心配しているのだ。
「あ、そんな意地悪言うならお弁当いらないんだね?」
「えっ、嘘。食べる。花のお弁当大好きだもん」
花とリューシカは顔を見合わせてくすくすと笑いあう。楽しい。この時間が永遠に続けばいいのに。
「リューシカも支度をして。わたしはもう少しお弁当を詰めたりしてるから」
「うん」
旅行の用意はすでにバッグに詰めてある。一泊なのに、花のカバンは大きく膨らんでいる。そんな様子もリューシカには可愛らしく見える。改めて乙女らしいと思う。リューシカはパジャマを脱ぐ。寝汗をかいている。肌寒い。少しだけ迷ってシャワーを浴びる。朝の浴室に水の流れる音がする。夢の余韻が消えていく。
十一月になると急に肌寒くなった。日も短い。朝の光は薄ぼんやりしている。イチョウの葉ももうすぐ散るだろう。花の元の家は義理の父方の親族がどうにかしたらしい。詳しいことはわからない。知らないし興味もない。だからあえて訊いたりしない。勝手に処分なりなんなりすればいい。
花はこまごまとしたものをリューシカのアパートに運んできた。服。生活用品。学校に関連したもの。その他諸々。少し手狭になった。でもそれは幸せと同義だった。花もリューシカも二人でいることに慣れてきた。時々つまらないことで小さな喧嘩もした。洗濯物が裏返しになっていたとか、いつまでも食器を流しに貯め置いて洗い物をしないとか、そんな些細なことで。でも、それだって幸せと同義だった。誰かと一緒に生活することの幸せをリューシカは深く噛み締めていた。まあ、その二点に関して言えばどちらもリューシカが悪いのだが。
リューシカは支度を終える。久しぶりに左耳にピアスをしている。気合いを入れるときにつけるピアス。義姉のところに行くときにもつけていった。それはバルト海沿岸のみに打ち上げられる珍しい色の琥珀のピアスだ。色はロイヤルに近い蜂蜜色。石は小さめだがとても希少で高価なものだ。そしてそれは亡き母の形見でもある。生前父と一緒にリトアニアで購入したものらしい。リューシカはそう聞いている。リューシカの名前が東欧風なのは、その旅行のあいだに母の胎内に宿ったから。
「支度できた?」
花がリューシカに声をかける。リューシカから郷里は寒いところだと聞いた花は冬物のジャケットを羽織っている。
「ええ。出ましょうか」
「……リューシカがそのピアスをしてるの、久しぶりに見た」
「そう? あ、でも先月……」
リューシカは気まずくなって途中で言葉を止める。
「文化祭の日、以来だね」
花が小さな声で呟く。あの日のことを思い出している。それがリューシカの心を苛む。
「いつかこの片方を花にあげる。一緒につけようね」
「指輪と同じように?」
とってつけたようなリューシカの言葉。でも、花は擽ったそうに笑う。笑ってくれる。とても上手な切り返しをして。
「うん。指輪と同じように」
リューシカもはにかみながら答える。胸の奥がじんわりと温かくなる。残りのピアスは箱に入れ、そっと旅行カバンの中にしまいこむ。同じピアスを一緒につける。幼い頃、母としたその約束は結局最後まで果たせなかった。だから。いつか花と一緒に一対のピアスを分けあいたいと願う。リューシカは片耳にしかピアスの穴を開けていない。それは誰かと幸せを分かちあいたいという、人間が嫌いだと嘯くリューシカの……切実な願いだったのかもしれない。
アパートを出る。二人で手をつなぎながらミモザの児童公園の中を歩く。トイレが見える。花とリューシカは一瞬足を止める。顔を見あわせる。どちらともなく小さな笑みが浮かぶ。すべてはこの公園のあのトイレから始まった。そう思うと感慨深いものがないでもない。あのとき花がトイレの壁を殴らなかったら。ううん、それ以前にリューシカがあのトイレに入らなかったら。運命というのは不思議なものだ。
最寄りのターミナル駅で電車を待つ。この駅から毎日、花は学校に通う。渋々ながら。花は複雑な表情で電車を待っている。リューシカは隣でそんな花の様子を眺めている。改めて思う。自分はこの子のどこが、なにが気に入ったのだろう。どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。わからない。でもじっと見つめれば少しはわかるかもしれない。そう思いながらリューシカは花を眺めている。
花の身長は154センチ、どちらかというと痩せている。胸はそれほど大きくない。二重瞼の瞳は黒々としていて大きく、美しい。吸い込まれそうでもあり、零れ落ちそうでもある。肩にかかるかかからないかのロブの髪はリューシカとは違って濡れた烏の羽根のように黒い。そしてサラサラのストレートヘアである。本人はこけしのようで嫌だというが、これはこれで可愛い。
リューシカは自分の少し灰色がかった癖っ毛を指先でつまむ。緩やかに波打つ髪はまるで冬の海のようだ。まっすぐに伸ばした髪の長さは今風に言えばセミディといったところか。目の色も同系統の暗灰色をしている。身長は176センチ。偏食気味なので痩せてはいるが、バストは一応Dである。背は大きく、胸はそこそこ大きいといったところか。目力が強いとは言われるが、瞳が美しい、綺麗だと言われたことはなかったように思う。花とリューシカはとても対照的だ。だからこそ惹かれたのだろうか。それは外見だけのことだったのだろうか。違う。違うはずだ。自分の隣でカバンを重そうに下げている少女を愛おしく思いながらリューシカは考える。不安げにゆれる瞳が愛おしい。けれどもそれは庇護欲とは違う。違うはずだ。その答えを見つけるためにも今日、リューシカは郷里に帰る。
「電車、まだかな」
ぽつりと花が呟く。リューシカを見上げる。リューシカは小さく笑って花の髪の毛を撫でる。指通りの良い髪質。冷たくて気持ちがいい。なぜ自分の髪は温度を感じないのに人の髪に触れると冷たいと思うのだろう。リューシカは花の髪を撫でながらそんなことを思う。花は擽ったそうに身をよじる。端から見たらふたりはどんなふうに見えるのだろうとリューシカは考える。姉妹だろうか。親子だろうか。……恋人だろうか。
「ねえ、前にも訊いたことがあったよね。……どうしてわたしだったの?」
「え?」
「花はどうして、わたしを好きになったの?」
花が不思議そうに首を傾げる。
「……リューシカの匂い」
「匂い? えっと、煙草の匂い?」
「ううん。違う。なんだろう。……とても懐かしいの。お母さんのお腹の中にいたときに嗅いだ匂い、みたいに」
リューシカはそっと目を逸らす。花の言葉の意味はよくわからなかった。でも、胸の奥底が苦しくなった。
「電車、来ないね」
「大丈夫よ。もうすぐ来るわ」
リューシカが呟く。リューシカの手が汗ばんでいる。胸の奥に鉛が沈んでいるような感覚がつきまとう。リューシカはかぶりを振る。
線路の先を見つめる。鈍色に光るその先を。リューシカの郷里は震災によって大きな被害を受けた。町の様相も一変しただろう。人も多く死んだ。すべてが海に流された。自分が生まれ育ったアパートは海のすぐ近くにあったと記憶している。あのアパートも今はもうないだろう。ただ、そこを訪れたくとも正確な場所は覚えていない。当時の記憶は曖昧だし周囲の景観が変わってしまったのなら尚更だ。様変わりした町では生家の跡地にたどり着くのは困難に違いない。ふと考える。小高い丘に建てられたあの教会は津波を免れたのか。あの神父様は今も生きておいでだろうか。
——町を訪れるのはあの日以来か。
「リューシカ?」
暫し沈思黙考するリューシカへ、訝しげに花が訊ねる。
「なんでもないわ。あ、ほら。電車が来た」
リューシカは花の手を引く。電車に乗り込む。暖房の効きすぎた車内は暑いくらいだ。二人とも寒さ対策に着込んできたから余計にそう感じる。リューシカは花の荷物を網棚に乗せてあげる。花がニッコリ微笑む。一つの吊り輪をふたりで掴む。電車がゆれる。リューシカの肘が花の体に触れる。花からは白桃のような瑞々しい気配がした。
——ミラ・マリア・ステーシーが物した長編小説は『腐りゆく少女たち』ただ一冊だけだった。けれどもそれとは別に、生前の彼女は文芸誌に幾つか短編小説を寄稿している。それらは一つにまとめられて一冊の本になった。ただ商業的には失敗だったようだ。日本では翻訳されることもなかった。もっとも日本語に翻訳された『腐りゆく少女たち』も今では絶版になっており、当時の出版社が倒産した今では版権がどうなっているのかもよくわからない。もちろん本国アメリカでも既に流通していない。二冊とも。ミラ・マリア・ステーシーの名は奇妙な精神疾患の発見者としてのみ、狭い範囲で知られている。結局のところ彼女は精神科医であり、小説家ではなかったということなのだろう。
そんな彼女の不遇な短編集、『眠れる美女たちの書』の中に『琥珀とリューシカ』という、あるいはタニス・リーあたりに影響を受けたのではないかと思われる幻想的な物語が収められている。彼女の小説にしては珍しく——と言っても収められた他の短編と比較して、という程度の意味だが——東欧のとある古城が舞台となっている。時代背景はよくわからない。時代背景的な描写はほとんどない。古城を取り巻いているのは暗く沈んだ森と、暗く沈んだ水辺である。針葉樹林の森はどこまでも深く、古城近くのその湖は時の止まった鏡のようであり、どれほどの深さなのか、知る者は誰もいない。古びた城には冬枯れした茶色い蔦が絡まっている。雪がすべての音を吸収して深閑としている。鳥の鳴き声さえ聞こえない。描かれているのは若い女主人と召し使いの少女の甘く退廃的な会話の遣り取りである。
季節は冬。古城の周囲は雪に包まれている。礼拝堂はあまりの寒さに凍りついている。厨房の火も落とされている。暖炉に薪をくべながら、その少女は女主人のために茶の用意をしている。城の中で温かみがあるのはこの部屋だけだった。城の中には少女と女主人の他には誰もいないようだった。
「リューシカ。雪はまだ降っていて?」
女主人が読んでいた古い書物から目をあげ、少女に訊ねる。少女の名前はリューシカという。
リューシカはそっと微笑む。眉の濃い、鼻梁の通ったとても美しい少女である。彼女の暗灰色に波打つ髪はまるで冬の海そのもののようだ。暗灰色に冷たく光る瞳はまるで古城の上空を覆う曇天そのもののようだ。彼女はその小説の中では、灰色に輝く美しい宝石なのである。
リューシカはこの城の奉公の年季が明ければ村に帰る。そこで誰かに娶られ、子を為すだろう。これだけの美貌だ。あるいは地方領主や下級貴族の目に止まるかもしれない。ただ、そんなことはリューシカも女主人も心の底では望んでいない。
「わたしの
リューシカは微笑みながらティーポットにコゼーを被せる。コゼーには金糸の刺繍が入っている。ティーセットは支那の国の青磁である。
「なぜ?」
女主人がパタンとその重たげな本を閉じる。なにかの皮で表装された本の題名は『キタブ・アル=アジフ』という。アラビア語で書かれた古い魔術の書物であり、アル=アジフの名は〝夜の音〟あるいは〝魔物の声〟を意味するとされる。狂える詩人、アブドゥル・アルハザードによって書かれた魔道書である。
……なぜ? という女主人の問いかけに、リューシカは微睡むような小さな微笑を浮かべる。今やそれは成就した。リューシカはそれを知っている。秘められた想いは今、魔術によって結実した。
リューシカは己が興奮を抑えきれぬ口調で語り始める。
「見てくださったらお判りかと思います。ここが閉じられた世界だからですわ。わたしが……いいえ、わたしたちが心の内にそう願ったからですわ」
リューシカの左耳には北の海でのみ採れるという不思議な色の、大振りな石の琥珀が光っている。それはロイヤルに近い蜂蜜色だ。女主人が自らの手で少女の耳に穴を開けた。その耳飾りは女主人からの魔術を秘めた贈り物だった。
「……よかった。わたしたちは永遠を手に入れたのね」
女主人はリューシカを優しく抱きしめた。そして自分の望みとリューシカの望みが同じであったことを知った。閉じ込めたいという想いと閉じ込められたいという想いが重なったのだ。口には出せない。けれども同じ思いを抱いていなければ、決してそれは成されない。御伽話は言う。二人はいつまでも幸せに暮らしました。いつまでも。いつまでも。いつまでも。それは規定された時間を超えて永遠を生きる。ただ、永遠とはひとつの禁忌である。それ以外のなにものでもない。
リューシカは茶の葉が蒸れるまで。女主人の足に口づけをする。靴に口づけをして、靴下を脱がせ、爪先をそっと口に含む。指の一本一本に至るまで優しく舌を這わせていく。女主人は暖炉の傍らで再び魔道書を読み続けている。足元ではいつまでも灰色の宝石が
少女の名前はリューシカという。女主人の名前は書かれていない。
在来線のターミナル駅で特急列車に乗り換え、花とリューシカは北に向かう。列車のゆれ方が先ほどとは違う。暫くすると乗客の数が減っているのに気づく。席にも空白が目立つ。それに伴って窓から見える景色も変化した。鉄骨のビルがなくなって、民家も疎らになり、やがて景色の起伏が激しくなって木々と畑ばかりが続く。北上するにつれて木立の色も初冬のそれへと徐々に変化していく。ぽつんぽつんと立っているイチョウの黄色も目立たなくなり、落葉樹はその骨ばった寒そうな枝を風に震わせているのが目につくようになる。リューシカはまるで季節が早送りされているみたいな、そんな錯覚に陥ってしまう。
少し古い特急列車はその古さの分だけ人の気配が染みついている。温かさのようなものが篭っている気がする。リューシカはぼんやりと窓の外を見つめている。花が小さく欠伸をする。眠たそうな、とろんとした表情で。
「眠い?」
リューシカが訊ねる。
「ちょっと。でも大丈夫だよ」
「まだ暫くはかかるから。寝ていていいわよ。大丈夫。ちゃんと見ていてあげるわ。ね?」
「うん。ありがとう」
花はリューシカの肩に頭をもたせかける。そっと目を閉じる。単調なリズムが眠気を誘う。やがて花は電車のゆれに負けて寝息を立て始める。リューシカはそんな花の様子を優しい眼差しで見つめている。
そしてふと思い返す。あの日のことを。外での夕食を終え、花はタクシーの中で同じように肩にもたれかかっていた。あの日の、文化祭の日の、花のことを。
リューシカは回想する。
それは先月のことだった。十月二十日の日曜日は花の高校の文化祭、その一般公開日だった。文化祭は美以女子学院高等学校の名前から、
美以女子学院高等学校はメソジスト系のミッションスクールである。いかなる聖人の像も聖母像も磔刑のキリスト像も存在しない。所々に簡素な十字架が見られるだけである。この学院では特に英語教育に力を入れている。外語大への進学率も高い。花はクリスチャンではないが、実践的な英語教育に惹かれて美以女に進学した。校則は割と厳しい。髪の色、長さ、スカートの丈も校則によって規定されている。しかし学校帰りにはウエスト部分を託しこむように巻いて短くする生徒も多数存在している。だが花はその中には含まれない。ちょっと脚を長く見せることくらいでなにかが変わるとは思えない。それに上級生の目も気になる。だから制服を着崩したりはしない。
十月二十日の日曜日は朝から綺麗な青空が頭上高く、どこまでも広がっていた。秋晴れの素敵な一日の始まりだった。けれども花の顔はそれに反比例するように曇っていた。
「学校、行きたくないな」
ぽつりと花が呟く。リューシカは焼きたてのトーストにバターを塗りながら、そっと花の表情を窺っている。
「昨日なにかあったの?」
「……別に。なにもない」
しょぼんとした顔のまま花は言う。昨日、夜勤から帰ってくると花はいなかった。花は夕方に制服姿で帰ってきた。いつもと変わらない様子、そのままで。てっきり学校に行ったとばかり思っていたが、違ったのだろうか。それとも文化祭でなにかあったのだろうか。昨日はリューシカも特になにも訊かなかった。花も特になにも話さなかった。……訊けばよかった。
「せっかくリューシカが日曜日にお休みなのに。わたしだけ学校だなんて、不公平だと思う」
日曜の休みでも生理日と重なればリューシカはずっとベッドの上で過ごすことになる。自分を呪い、他人を呪う朽ちかけた藁人形みたいな今のリューシカには、正直体を動かすのさえ億劫だ。それに隔週休みの土曜日はなかなか花との都合がつかないことが多い。
「不公平って。あのね、学業は花の本分でしょう。行かないでどうするのよ」
「文化祭は学業じゃない」
「学校行事は学業の一環だわ」
珍しく花が冷たい目でリューシカを見つめている。リューシカも引かない。ここで引くわけにはいかない。相馬が言っていたことを気にしているわけではないが、子どもには子どもの世界がある。ルールがある。リューシカにだってそれくらいのことはわかる。リューシカは思う。好きな者同士、両手を繋いで円環をなしてしまえばどんなにか心安らかだろう。気持ちいいだろう。でも、それでは駄目だ。駄目なのだ。この世界はたった二人で生きていけるようにはできていないのだから。
「行きたくない理由があるならそれでもいい。でも、わたしをだしに使わないで。そういうの、はっきり言って迷惑だわ」
「なによ。……そんな言い方をしなくてもいいじゃない」
険悪な雰囲気に朝の食卓が冷え込んでいく。部屋の温度が急速に下がっていく。こんがりと焼けたパンはまるで石綿のようだ。サラダはまるで発酵しすぎたサイレージのようだ。珈琲だって、きっと泥水か墨汁のようなものだろう。リューシカが静かに食卓を立つ。その手が挙がる。花がビクッと肩をすくめる。
「ご、ごめっ、リューシ……ごめんなさいっ」
早口で謝る花の頭をリューシカは静かに胸に掻き抱く。ぎゅっと、力と想いを込めて。
「え、あ……リューシカ?」
「叩くわけがないじゃない。馬鹿。……わたしも強く言いすぎたわ。ごめんね」
リューシカは花の耳元でそう呟く。花の腕がリューシカの背に回される。おずおずと。
「でもね、花。あなたは……看護師になってもいいかなって、そう言ってくれたのを覚えているかしら。わたしたちが最初にあった日よ」
「……覚えている、けど」
花が小さな声で返事をする。
「あなたが感じているつらさはわたしにはわからないのかもしれない。誰かと同じ感情を共有するのはとても難しいことなのかもしれない。でもね、わたしは花と一緒にいたい。花がつらいときにはそばにいてあげたい。気持ちだけでも寄り添いたいの。わたしの考える看護の原点は、そういうものだわ」
リューシカは真顔で嘘を吐いた。看護の仕事にそんな思いを抱いたことは一度もない。でも。花に寄り添いたいという思いは、一緒にいたいという想いは、本当だった。本物だった。
「リューシカ」
花の声はリューシカの胸に吸い込まれて、くぐもっている。
「それに、高校も出ていない人は看護師にはなれないよ」
リューシカは手の力を緩める。花に向かって苦笑する。花もリューシカを見上げる。苦虫を噛み潰したような表情で、それでも小さく笑う。
「いってらっしゃい。夕ご飯はなにか美味しいものを食べましょう」
「それ、わたしが作る、ってオチじゃないよね」
「じゃあ、たまには外食でも」
「……うん」
リューシカは作ってくれないのか。ちょっと残念に思っているのだろう。花の笑みは少しだけ寂しさを滲ませている。
「だって、わたしが作ったらご馳走なんかにならないもの」
リューシカもぎこちなく笑う。
玄関で花を見送る。花が出かけてしまうともう、リューシカにはやることがない。ううん、違う。それは嘘だ。洗濯だってしなきゃならないし、研修のレポートだってまとめなきゃならない。本当は夜勤のあいだにやるつもりだったのに。相馬と喋っていたらやる気が失せてしまった。ううん、違う。それも嘘だ。最初からやる気なんてなかったくせに。
リューシカはため息をつきながら煙草に火をつける。紫煙をくゆらす。ライターを弄ぶ。茫漠と目の前に横たわる時間。それが確固とした質量を持ってそこに存在している。花と出逢う前、それをどうやってやり過ごしていたのだったか……。リューシカは自分にそう問いかける。けれども思い出すことがどうしてもできない。花がいない日に自分がなにをしたらいいのか、わからない。
煙草をもみ消すと火のついていない煙草をもう一本咥え、そのまま自室に戻っていく。今日は日曜日だ。ゴミの日って明日だっけ。リューシカは咥え煙草のまま思案する。リューシカのように変則勤務をしていると曜日の感覚が狂う。テレビも新聞もない生活ではそれに拍車をかける。リューシカの家にはカレンダーもない。スケジュールの管理ならスマホがあれば事足りる。何気なくゴミ箱のふたを開けると、丸められた紙くずの隙間に少し大きめなオレンジ色の栞が捨てられている。栞。栞? リューシカは不思議に思ってそれを拾い上げる。じっと見つめる。胸が苦しくなる。それは栞ではなかった。花の高校の文化祭の招待券だった。
「……花」
リューシカはぽつりと呟く。煙草を咥えたまま。あまり唇を動かさずに。くぐもった声で。その声は部屋の四方に消えていく。花には届かない。誰にも届かない。
本当に花は、この部屋に来て幸せだったのだろうか。リューシカは考える。花は以前なんとかというジャニーズのグループが好きだと言っていた。二人組のなんとかというお笑いタレントが好きだと言っていた。リューシカは名前すら覚えていない。興味がないから。……本当にそんなことでよかったのか。
花がこの部屋に来てから誰かに……例えば友達にメールを打っている姿を見たことがあっただろうか。家事だなんだと花を使ってしまって、女子高生らしい楽しみから遠ざけていたのは自分なのではなかったのか。この家にはテレビすらないのだ。リューシカはオレンジ色のチケットを握りしめる。手の中で紙片は小さく音を立てる。くしゃり。
花。わたしはもっと花のことを知らなくちゃいけない。リューシカはそう思う。そして決断する。決意する。背に腹は変えられない。
フィルターの湿った煙草を火もつけずに灰皿に捨て、パジャマを脱ぎ始める。まずはシャワー。水を吸った肌の方が化粧のノリがいい。リューシカは裸になって浴室に急ぐ。お湯が出るまでじっとしている。十月の朝は少し肌寒い。気忙しい。落ち着かない。早く、早くとリューシカは思う。
髪は濡らさない。乾かすまで時間がかかるから。バスタオルを巻いてそのまま化粧台へ。じっと自分の顔をリューシカは見つめている。女子校。ミッションスクール。嫌な思い出しかない。リューシカも以前はそんな場所に通っていた。通わされていた。義姉が通っていたから。あんなことが起きたから。義理の両親は少しヒステリックになっていた。無理もない。ただ、そこに通ってもリューシカの痛みはなくならなかった。女しかいない園で、花のような少女たちの中で、自分が汚れていると改めて思い知らされただけだった。
白いひらひらのワンピースの制服。ごきげんようの挨拶。穏やかなクラスメイトと厳格なシスターたち。庭を覆う白いシャムロックの花。やわらかな温室の如き世界。そこはまるで冗談みたいなお嬢様学校だった。
思い出せ。思い出せ。リューシカはじっと鏡の中の自分を見ている。睨みつけている。
リューシカは女学生の当時、リューシカの思いとは裏腹に、一本の輝く花だった。それもとびきり豪奢に咲く花だった。少なくとも学園の生徒の半分はリューシカに憧憬や思慕の情を抱いたものだ。あの人はわたしたちとどこか違う。そう思わせる雰囲気を常にまとっていたから。指名されて生徒会長にまでなった。|待雪草の君《ガランサス》。それがリューシカの花の名前。
リューシカはいつもよりも念入りに化粧をする。けれども淡く、ナチュラルに見えるように。少し濃い色の口紅をさし、眉を整える。マニキュアは淡い菫の色。速乾性の物だがやはり少し時間がかかる。すべてを整えてからリューシカはもう一度姿見を見つめる。素材はいいのだ。やればできるのだ。そう思う。そう思ってリューシカは鏡を見つめている。昔のように。今一度リューシカはその身に、その瞳に、あの当時の魔力めいた力が満ちていくのを感じている。
髪をシニョンにする。細かく編み込みながら。日本髪は結えない。自分では結ったことがない。
クローゼットを開ける。それは一番下にしまわれている。リューシカの持っている中で一番高価なよそ行き。少しだけ逡巡し、そしてそっと取り出す。一花はあの日、こんな場面が来ると見越していたのだろうか。これすらなにかの罠だったりするのだろうか。リューシカは顔を顰める。たとうの紙縒りを解く。赤と黒の市松模様の着物が目に眩しい。ところどころに銀糸で蜘蛛の巣の刺繍がしてある。それは本物の銀糸であり、とても手の込んだものだとわかる。それから襦袢と帯。帯締め。半衿。帯揚げ。その他のこまごまとしたもの。そして大ぶりの白いニット地のストール。上下揃いの下着をつけ、首に自分の守護聖人のメダイユを下げる。それは洗礼を受けた日に母から貰ったもの。小さく十字を切る。それはただの癖。誰になにを祈ったのか、リューシカにもわからない。
着つけが終わる。最後に左耳にピアスをつける。耳朶から金色の鎖。その先には小さな琥珀がゆれている。
リューシカが身に纏う着物は今年の夏、義姉のところに泊まった日の朝に手渡された。包みの中には和装のセットがすべて収まっていた。帯から襦袢に至るまで。すべて。
「昨日の、そしていつかのお詫び」
そう言って一花は苦笑した。リューシカは昨夜のことを思い出し、そしてあの日のことを思い出し、その頬を思いっきり引っ叩いた。京都の朝にパシンと乾いた音が響く。夜々子さんが心配そうにそんな二人を緑色の瞳で見つめていた。
「……帯も着物もあなたのために、いつか渡そうと思って誂えたものなの。本当よ。昨日から渡そうと思っていたの。でも……こんな渡し方になっちゃって、本当にごめんね。気に食わなかったら捨ててもいいから、今は持って行って。ね? いつか着る機会もあると思うから。まだ……着つけの仕方は忘れていないでしょう?」
少し赤くなった頬を押さえながら、それでも一花は笑っていた。リューシカを見上げていた。優しく、やわらかな笑みだった。気勢を殺がれた気がして、渋々包みを手にしたリューシカは無言で
確かに高校に通っていた頃、冗談みたいな話ではあるが、礼法の授業があり、一通り着つけは学んだ。一花から変わった帯の締め方も幾つか教えてもらった。それは一花との数少ない楽しい思い出の一つである。けれども今、そんなことはどうでもいい。怒り、憤り、遣る瀬なさと深い虚脱感、そして悲しみがリューシカの胸の中いっぱいに膨らんでいた。呼吸もできないくらいに。リューシカは歩み出す。夜々子さんがその
「また、来てくれはります?」
と。リューシカは振り返って義姉を見つめ、
「もう来ない。二度と来ないわ」
吐き捨てるようにそう言った。そして言葉通り、それが一花との最後になった。
最寄りの駅までリューシカは歩く。編み上げのブーツがかつかつと乾いた音を立てる。街行く人が、特に男がリューシカを振り返る。そこにはいつもの奇矯さはない。和装のリューシカはただただ美しい。帯締めは淡い緑。帯の表には彼岸花。浅黄色の裏地には黒揚羽の刺繍。さながら蜘蛛の巣にかかる哀れな一羽であるかのように。黒い揚羽蝶がよく見えるよう帯の形も片蝶になっている。……本来なら着物は前日から用意を始めるものなのだが。リューシカはそんなことには頓着しない。改札を抜ける。電車に乗る。ちらちらと視線を感じる。リューシカはじっと窓の外を見つめている。赤と黒の市松の着物に、白いストールはとてもよく映えている。シニョンに編んだ髪も印象を深くする。編み上げのブーツもどこか異国情緒的なものを感じさせる。その取り合わせは不思議とリューシカによく似合っている。アナウンスが流れる。花の高校の最寄り駅で降りる。何度か手続きのために訪れたことがあるが、歩くと少し時間がかかるのだ。慣れない和装で長時間歩きたくない。リューシカは迷わずタクシープールに向かう。客待ちをしていた運転手がリューシカに気づいてドアを開ける。
「美以女子学院まで」
リューシカは少し体を乗り出してそう告げる。香水がリューシカの体臭と混ざりあっている。唇の色が艶かしい。運転手は少しだけ焦りながら車のアクセルを踏み込む。リューシカは窓の外を見ている。一言も喋らない。ラジオからは古いジャズのアレンジが流れている。女性の声がわたしを月に連れてって、と歌っている。
Fly me to the moon,
(わたしを月に連れてって)
and let me play among the stars.
(星々に囲まれて遊んでみたいの)
Let me see whet spring is like on Jupiter and Mars.
(木星や火星にどんな春が訪れるのか見てみたいの)
In other words, hold my hand!
(つまりね、手をつないで欲しいってこと)
In other words, daring kiss me!
(だからその……ね。キス、してよ)
タクシーを降りたときからすでに、リューシカは文化祭独特の雰囲気を肌で感じていた。アーチを見上げる。お祭り特有の狂躁じみた空気が高校の校舎全体を包み込んでいる。誰も彼もが顔を綻ばせている。揃いのTシャツを着て、顔にペイントをしていたりして。リューシカは案内所のテントに歩いていく。楽しげな雰囲気の中でリューシカの存在は異質だ。空気の濃さが違う。温度が違う。文化祭実行委員らしき生徒がリューシカを見て息を飲む。凍りついたように固まってしまう。小さな鬱金色の巾着からチケットを取り出す。リューシカはそれを静かに差し出した。
「これがあれば入れる?」
「え、ええ」
少女は小さく頷く。まるで蛇に睨まれた蛙みたいに。
「そう」
「あ、あのっ」
「ん?」
呼び止められてリューシカは緩慢に振りかえる。流し目を送る。女学生の頃、そんな目をして見つめると、相手は必ず失神しそうになった。
「あっ、えっとパンフレットがあるので、あの、これ」
本当は来場者の署名が必要なのだが。少女は頼めない。肝心なことはなに一つ口にできない。それは女王に萎縮し、進言できない家臣に似ている。震える手でパンフレットを差し出すのが精一杯だ。
「ありがとう」
にっこりと微笑む。ピアスがきらりと陽光を反射させる。一瞬だけ指先同士が触れる。少女の頬がさっと朱を帯びるのを、リューシカは黙って見ていた。
リューシカが立ち去ると背後から誰あれ、なに、モデル? 芸能人? うそ、マジで? という声が小さく聞こえてくる。リューシカは気にしない。そんな囁きには興味がない。歩きながらパンフレットをぱらぱらとめくる。花のクラス、一年C組は占いの館、となっている。占い。占いの館? リューシカはそんなものに興味はない。興味があるのは花が今どうしているのかということだけなのだ。
玄関をくぐり、スリッパに履き替える。足袋にスリッパは非常に履きにくい。というか履けなかっただろう。やっぱりブーツで来て良かったとリューシカは思う。もっともそれは、リューシカが和装用の下駄を持っていなかったせいなのだけれど。校舎のあちらこちらからざわざわとした嬌声が聞こえてくる。けれどもリューシカの近くにだけはいつも物質的ななにかのように無音が存在している。リューシカを見ると誰もが口を閉ざす。生徒も、来客も、教師も。誰一人として声が出なくなる。息を止めてしまう。女の園であれば尚のこと。リューシカの魔力は水を得た魚の如くになる。
一年C組のクラスは建物の四階にある。リューシカは静かに階段を登っていく。ぱたりぱたりと小さな足音を立てながら。廊下のちょうど真ん中あたりにその教室はある。廊下には生徒がひしめきあっている。そんな中にあって、リューシカはまるで空間にできた黒い穴のようだった。視線を集めるけれど、誰も近寄れない。
リューシカに気づいた受付の子の表情が固まる。それまでクラスメイトと楽しく談笑していたのに。慌てて背筋を伸ばしてリューシカを見つめる。定規を、焼き鏝を押し当てられたみたいに。
「花は……遊崎花は中にいるかしら?」
涼やかな声でリューシカは訊ねる。
「え、あ、はい。いるはず、です」
「花はなにをしているの」
「あの、占いをしていると」
「……そう」
なんであの子がそんなことをしているのだろう。させられているのだろう。リューシカは不思議に思う。訝しさが表情に現れる。受付の女の子は塩の柱になってしまう。旧約聖書にある、ロトの妻の逸話のように。
「案内をお願いできる?」
リューシカは訊ねる。少女はこくこくと頷く。声が出ない。
教室の中は暗幕で覆われ、薄暗い。キャンドル型の電燈が床に置かれ、ゆらゆらと仄かに光っている。理科室あたりから引っ張り出してきたのだろうか、骨格見本にマントが被せてある。それ以外にもおどろおどろしい飾りつけがしてある。キャンドル型の電燈と同様床に置かれた香炉からは仄白い煙が立ち上がっている。その匂いはどこか乳香を思わせる。特別な祈りのときに嗅ぐ懐かしいミサの匂い。机と椅子は片され、教室の中央には代わりに小さなテントのようなものが三基並んでいる。左から手相・タロット・動物占いと看板が出ている。動物占いの元が四柱推命であることを考えれば、相・卜・命から一つずつ選んでいることになる。偶然だろうか。
「遊崎さん、今大丈夫? あの、あなたにお客様が……」
受付の少女がか細い声でタロットと書かれたテントの中に話しかける。
じゃらじゃらとしたアクセラリーだらけの腕が内側から天蓋をめくる。ベール越しにアイシャドーをした花と目と目があう。
「……リューシカ?」
花の眼が見開かれる。
「なっ、なんで、え? なに? その格好どうしたの?」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ。花こそどうしたのよ。それ、花に全然似合ってないわよ?」
リューシカの右手がベール越しに花の頬を撫でる。
「こ、これはクラスの子が悪乗りして無理やり朝わたしに渡してきて……って、もう、いいから、お願いだから早く中に入って」
クラスメイトの視線が痛いのだろう。花はそう言ってテントの中に引っ込んでしまった。リューシカは苦笑して、案内をしてくれた子にもういいわ、と微笑みかけた。少女は顔を真っ赤にさせて受付へと戻っていった。
「本当に本当に……リューシカだよね? 嘘……リューシカってこんなに綺麗だった? わたしの知ってるリューシカじゃないみたい」
信じられない、と言った声音で花が訊ねる。それはそれで失礼だとリューシカは思う。紫色のベールを脱いで、花はまじまじとリューシカを見つめている。テントの床には怪しい模様のチープな絨毯が敷かれている。キャンドル型の電灯が、下から花とリューシカを仄白く照らす。小さな台の上にはベルベット調のクロスが広げられており、その中央にタロットカードが角を揃えて鎮座ましましている。まったく。リューシカは小さくため息をつく。改めて花をじっと見つめる。確かに雰囲気はある。それは認める。けれども真っ赤な口紅も紫色のアイシャドーも花には全然似合っていない。文化祭の予算もあるのだろうが、サテン地のマントもゴテゴテと飾りつけたアクセサリーもひどく安っぽく見えた。
「そんな格好して。あなたの方こそ……本当にわたしの知ってる花よね?」
そう言ってリューシカは花を抱き寄せ、首筋に唇を這わせた。ひくん、と花の肩が震える。それはとても甘美で、背徳的な口づけ。
「や、ちょ、待って、学校でそんなことしないでっ」
花が拒絶するようにリューシカを押し退ける。周囲に聞かれないよう細心の注意を払った、小さな悲鳴である。
「どうして? どうやって入ったの? 美以女祭にはチケットが……あ」
「あ、じゃないわ。そうよ。その通りよ。文化祭の招待券をゴミ箱から見つけたの。……来てほしくなかったのは知ってる。でもあんまりだと思うわ。あんなふうに捨てられていていい気分がすると思う? ねえ、わたしがどれだけ心配したかわかってるの?」
リューシカの目には薄っすらと涙が光っている。花のマントを握りしめる。その手が小さく震えている。
「馬鹿みたい。よそ行きなんて持ってなくて、義姉からもらったものなんか着て。こんなに気合を入れなきゃ、ここに来れなかった。せっかくの日曜日のお休みに花と一緒にいられなくてつらいのはわたしも一緒だわ。……花、花。逢いたかった。どうしてもあなたに逢いたかったの」
リューシカは花の唇にそっと自分の唇を重ねた。安いルージュの味がする。こんなの花らしくない。けれどもここが花の学校、そして花のクラスだと思うと、ぞくぞくするような嗜虐的な気持ちが胸の奥底から湧き上がってくる。
「わたしを許してくれる? ねえ、花?」
そっと唇を離す。花の口紅が少しだけ滲んでいる。
「……許すもなにも」
花もリューシカの着物の袖を小さく遠慮がちに摘む。
「もう来ちゃったじゃない」
そしてそっと視線を逸らす。そのままこてんとリューシカに体を預ける。教室の中いっぱいに焚かれたお香。けれどもそれを覆うように、それに負けないくらいに、リューシカの匂いと香水の匂いが混ざりあっている。ラストノートは少し焦げ始めた糖蜜と黒胡椒、そして擦りたての墨の匂い。マザーグースの歌の匂いがする。
What are little girls made of?
(女の子ってなんでできてるの?)
What are little girls made of?
(女の子ってなんでできてるの?)
Sugar and spice
(砂糖と香辛料)
And all that`s nice.
(それと素敵ななにか)
That`s whet little girls are made of.
(そういうものでできてるよ)
「ごめんね、リューシカ。心配させちゃって。でもびっくりした。……いつもよりずっと綺麗なんだもん」
小さな声で花が呟く。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。でも、花に占いができるなんて知らなかったわ。……タロット?」
リューシカはカードを一枚めくってちらりと目をやる。大アルカナの愚者の札。けれどもそれは有名なマルセイユ版ではなく、A・E・ウェイトのいわゆるライダー版とも違う。白と黒のみで印刷された古めかしい札はどこか禍々しい印象をリューシカに与える。
「そのせいでこんなことしてるんだけどね」
花は苦笑して、小さなため息をつく。
「せっかくだから占ってほしいな」
「……なにを?」
訝しげに花が訊ねる。花はリューシカが占いなんて信じていないことを知っている。雑誌の占い特集を馬鹿にしていたのを覚えている。
「わたしと花のこれからについて」
リューシカは事も無げに言う。花はあきれながら答える。
「カードリーディングをする人を巻き込むような形で依頼者の運命を占うことはできないの」
「そうなの? でもこれは遊びの一種なんでしょう? そこまで深く考えなくていいんじゃないかしら。ね?」
カトリックの教えを受けて育ったリューシカは基本的に占いを信じていない。星座占いなんて十二通りだし、血液型占いならたったの四通り。そんなもので人間の運命がわかるわけがない。そう思っている。タロットカードなんて所詮はインチキだ。そう思って内心では馬鹿にしている。仕方がない。リューシカはそういう人間だもの。
花はやれやれという顔をしながら、テーブルの上に置いた札をすべてリューシカに渡す。
「ん?」
札を手にしたままリューシカは困惑気味の表情を浮かべる。
「リューシカが切るの。自分の気が済むまで。ただ、シャッフルするんじゃなくて、テーブルの上でまぜこぜにして」
花はそう告げて苦笑する。擬似的な蠟燭の明かりが花の顔を神秘的に照らしている。リューシカはそんな花にしばし見惚れていた。
リューシカは札をテーブルの上にバラバラに広げ、ゆっくりとかき混ぜながら、一つの束に戻していく。天鵞絨に似た生地の上をカードが滑らかに滑っていく。まるでトランプ遊びの神経衰弱をしているみたいだとリューシカは思う。もっとも、神経衰弱なら再び束に戻したりはしないけれど。
「はい」
リューシカは花に札を手渡す。
花は三枚かける四枚、合計十二枚の札を裏にしたままテーブルの上に並べていく。それはケルト十字展開法のような有名なスプレッドではなく、ホロスコープを元にした展開法のように凝った形のものでもない。リューシカの目にはいたってシンプルに見える。まるでトランプ占いみたいだと感じる。
「下の……リューシカ側の四枚が過去」
小さな声で呟きながら花は札をめくっていく。
悪魔。
太陽のリバース。
剣の三。
塔のリバース。
「真ん中は現在」
同じように花が札をめくっていく。
貨幣の四のリバース。
剣の七のリバース。
杯の六のリバース。
月。
「そして未来」
残った四枚をめくっていく。
審判のリバース。
世界。
剣の十。
運命の輪のリバース。
花はしばらくじっとカードを見つめている。
「……花?」
リューシカはそっと花の名前を口にする。なぜだろう。遊びのつもりだったのに、胸が苦しい。緊迫したなにかを感じてしまう。
「リューシカは昔、つらいことがあったんだね」
小さな声で花が呟く。
「え?」
リューシカの声は掠れていた。締めつけられていた心臓がドクン、と一際大きな音を立てた。
「それはリューシカの尊厳に関わること。肉体的なこと。深い悲しみと誰にも打ち明けられない苦しみ。……違う、それは打ち明けたあとも続いたのね。今もずっとそのことに対して悩みを抱え続けているのね。可哀想なリューシカ」
口の中が乾いていく。背中に、手のひらに汗が滲んでいく。
「そして今、リューシカはわたしに隠し事をしてる。話せないなにかがある。それがわたしたちのあいだに深い溝のように存在している。リューシカが前に話してくれた自分が汚れている、呪われているってこと……だけを指しているわけじゃないみたい。そのことについては来月話してくれるって約束したものね。だから引っかかりは別のところにある。……そっか、心ない言葉で誰かを傷つけたのね。リューシカの姉妹の暗示が出ているわ。義理のお姉さんがいるって前に話してくれたけど……喧嘩したのかな。でもそのことだけじゃないんだろうな。そう読むんじゃないんだろうな。独占欲……きっとわたしに直接関わることなのね。だからその隠し事はリューシカの遠い過去にまつわる出来事じゃないのね。そう。もっと最近のこと。ただ、それを隠しておくのがいいことなのか、悪いことなのか、わたしにはわからないの。カードからも上手に読み取れない。だから……そのことについては言ってくれてもいいし、言わないでいてくれてもいい。わたしだってリューシカに隠し事の一つや二つ、あるもん。言えない秘密があるもの。それにね」
花は少しだけはにかんだように笑みを浮かべる。すっと細められた瞳で見つめられる。リューシカはとてもいたたまれない気持ちになる。
「……たとえリューシカがわたしも知らないうちに……わたしの知っている誰かを心ない言葉で傷つけたのだとしても。大丈夫だよ。わたしは必ずリューシカを許すもの」
花の指先がカードの表面を撫でていく。花はなにを知っているというのだろう。なにを読み取ったというのだろう。心臓がバクバクと早鐘を打っている。リューシカは思う。この子がクラスメイトに受け入れられないのは、きっと、花の潜在的な得体の知れなさのせいだ。彼女も教室の中の異物なのだ。リューシカのそれは憧憬(しょうけい)を与えた。花のそれは排斥された。だから彼女はこんな小さなテントの中に閉じ込められているのだ。
「は……花?」
問いかけるリューシカの声が震えていた。もういい。やめさせたい。やめさせなきゃいけない。怖い。怖くてたまらない。そう思うのに体が動かない。なぜ? なぜだろう?
「最後。わたしたちの未来。……」
けれどもそれ以上花は喋らない。じっと黙っている。
「あの、どうしたの。急に黙っちゃうと心配になるわ」
心とは裏腹に花を急かしてしまう。リューシカは裏返りそうな小声で呟きながら、小さく笑う。それはとても乾いた笑みだった。
「……自分に深く関わることだからうまくリーディングできなくて意味の構築がしづらいの……。うーん。どう解釈したらいいんだろう。正位置の世界が示すのはとても良い結果のはずなの。例えばふたりの……和合、とかね」
花は少しだけ顔を赤らめる。
「でも、世界を挟む他の三枚が悪すぎる。あ、……ううん。きっと大丈夫。そんな顔をしないで。これは困難を乗り越えなきゃいけないって捉えたらいいと思うの。これから先、行き詰まったり打ちのめされることがあったりすると思う。でもね、わたしたちはそれを乗り越えなきゃいけないんだと思うの。……大丈夫よ、リューシカ。そんな顔をしないで。わたしはなにがあってもリューシカが好きよ。大好きよ。だから、一緒に幸せになろうね」
「……うん」
今度は花の方から唇を寄せる。花は言わない。本当はわかっていた。全部わかっていた。そこにあるのは死と別れの暗示。肉体的な苦痛の予兆。間違った形での合一の徴(しるし)。花とリューシカの歪で、そして完全な一致。だから決して口にはしない。リューシカを不安にさせたくない。けれどもそんな花の思いとは裏腹に、小さなテントの中で口づけを交わしながら、リューシカの胸に去来していたのはただ、深淵を覗き込むような、真っ黒に染まっていくような、そんなコールタールにも似た不定形の不安だけだった。
その後、リューシカは花と連れ立って文化祭を巡った。花は少し困惑した顔をしている。リューシカがあまりにも人目を惹くからだ。それでも時々笑みを零し、楽しそうにしていた。リューシカはそんな花の様子をじっと見つめていた。
ふと気づくと夕闇が迫っている。文化祭の終わりが近づいていた。花は教室の片づけがあるから少し遅くなると言った。構わないとリューシカは答えた。そしてリューシカは校門の前でずっと花を待っている。星が瞬き始めた暗がりの中、街燈が灯りだす中、立ち尽くすリューシカの姿はとても美しい。
時折校舎の窓から人目を感じた。リューシカはじっと街燈の明かりを受けながら、微動だにしなかった。空が群青色に染まる。雲が闇に紛れて見えなくなる。気づくとリューシカははらはらと涙を流していた。どうして泣いているのか。そんなのリューシカが一番よくわかっていた。
花。花。
……どうかわたしを許して。
下校する生徒たちが涙を拭うリューシカの姿を見て瞬間的に足を止める。熱病に浮かされたような瞳で見つめている。そして足を止めたことを恥じたように足早に去っていく。胸の鼓動を高鳴らせながら。ああ。少女たちはこの日のリューシカの姿を一生忘れないだろう。
「……リューシカ?」
花の声がして、リューシカは慌てて顔を上げた。
「どうして泣いてるの? わたしが遅くな……きゃっ」
リューシカは花を抱きしめた。強く。想いと力を込めて。
「や、ちょ、待って。見てる。みんな見てるからっ」
「構わない。好き。花が好きなの」
リューシカは花の耳元でそう囁いた。遠巻きに見ていた生徒が熱っぽい吐息で自分の胸を濡らしている。花が慌てたようにその身を離し、リューシカの手を引いて足早に去っていく。呆然としていた少女たちはふたりのいなくなった方向をぼんやりと見つめていた。まだ夢の中にいるみたいな、恍惚の表情を浮かべて。
——リューシカは自分にもたれかかって眠る花を見つめながら、あの日の……文化祭の日のことを思い出していた。電車のゆれが心地いい。窓から見える空はとても晴れやかだ。
誰もリューシカの心の奥底の、黒い点には気づかない。
「……ん」
花が身じろぎをする。そっと目を開ける。
「あ、ごめん。寝ちゃってた?」
「うん。よだれ垂らして気持ちよさそうに」
「なっ? 嘘、よだれっ?」
花は慌てて姿勢を正し、口元をごしごしと拭っている。
「冗談よ。嘘よ」
リューシカはそんな花の様子を見てくすくすと笑う。途端に顔を真っ赤にさせた花はリューシカの肩をペチンと叩いた。
「馬鹿っ、リューシカの意地悪っ」
「ふふっ。ねえ、お腹空かない? ちょっと早いけどお弁当食べない?」
「……そのお弁当だってわたしが作ったんだからね」
ムッとしたままの表情で花が答える。電車がゆれる。窓の外には海が広がっている。紺色の輝かしい海がどこまでも広がっている。青い空には真白い鰯雲。それはまるで幸福を告げる使者のよう。リューシカは思わず眼を細める。この幸せは……いつか終わるのだろうか。あの話をしたときに終わってしまうのだろうか。
「わかってるわ。でもそんなにむくれてると可愛い顔が台無しよ?」
「べっ、別に可愛くなんてないもん」
顔を真っ赤にして花はそっぽを向く。そういう仕草がリューシカにはたまらなく可愛いのだが。花は気づいていないのかもしれない。
そのあいだにもリューシカは花のバッグからお弁当箱を二つ取り出して、膝の上に広げる。俵型のおむすびと卵焼き。照り焼きの鶏肉。ミックスベジタブルを使ったポテトサラダ。大根のべっこう煮。プチトマト。アスパラガスのベーコン巻き。花はお弁当の中身を見つめている。自分で作っておいてなんだが、どれも美味しそう。しかし列車の中で食べるとなると少し気がひける。いくら特急列車が向かい合わせのボックス席だとはいえ、テーブルになるようなものはなにもないのに。けれどもリューシカはまるで頓着していないように見える。花は小さくため息をつく。花だってもうとっくに気づいている。リューシカはそういう人間なんだって。
「ポットにほうじ茶入れてきたよ」
苦笑しながら。花もバッグからステンレスの水筒を取り出す。大振りなポットの中には温かいほうじ茶が入っている。蓋をコップの代わりにしてリューシカに手渡す。リューシカはいただきます、と言いながら右手で十字を切る。それはもうリューシカの癖になっている。意味なんてない。おむすびを一口頬張る。……あれ? リューシカは眉根を寄せる。卵焼きを一つ口に入れる。
やっぱり。
「……どうかした?」
リューシカの表情に花が心配そうに問いかける。なにか失敗してしまっただろうか。
「いつもよりちょっとしょっぱいなって」
「え? そう? おかしいな。味見したんだけど」
花も慌てて卵焼きを口にする。……いつもと変わらないと思う。でも、リューシカが言うのならきっと塩辛いのだろう。それとも……?
「煙草の吸いすぎで舌が馬鹿になっちゃったんじゃないの?」
さっきのお返しとばかりに花は意地悪な声で言う。
「……そうかな」
暗い顔で俯くリューシカに、花は冗談だからね、と笑ってみせる。リューシカも小さく笑う。でも、リューシカの心になにかが引っかかる。
ライフル銃。
ライフル銃。
それは今朝方の夢。物語に登場したのなら、必ず発射されなければならない。
その後も何度か乗り換えを繰り返し、リューシカの故郷に辿り着いたときには午後の三時を大きく回っていた。駅の改札口を出て大きく背伸びをしている花の隣で、リューシカは愕然とした思いで目の前に広がる街を見つめていた。思い出の中の景色とあまりにも違っていたからであり、違いすぎていたからである。本当にここが自分の故郷なのか一瞬わからなくなる。温泉地特有の硫黄の匂いだけが懐かしい故郷のそれと重なる。駅前のあちらこちらはまだ更地のまま取り残されている。重機が動いているのも見て取れる。震災の爪痕は至る所に残されていた。
そんなリューシカの様子に花も気づく。そっとリューシカを見上げながら心配そうに袖を引く。それは子どもが母親にする仕草によく似ている。
「……リューシカ? 大丈夫?」
「うん。ちょっとびっくりしただけ。街がこんなに変わっちゃってるとは思わなかった」
リューシカの呟きは空に消えていく。西日が空の色を優しくさせる。やわらかな色合いで空と海とが混ざりあっている。
来る途中の列車からの景色ではわからなかった。あの震災の映像を見たときも半分他人事のように思っていた。違う。そう思い込もうとしていた。そこは捨てた場所であり、決別した場所であり、見捨てられた場所。二度と戻ってくることはないと思っていた。だから。
あの日以来、新聞を読むこともテレビを見ることも、やめてしまったのだ。
リューシカはぼんやりとした足取りで歩き始める。花も慌ててついていく。
「リューシカ」
「……宿を取ってあるから。行きましょう」
魂の抜けたような表情でリューシカはタクシープールに歩いていく。ピアスの金色の鎖がきらりと光る。ゆれる琥珀は溶けかけた飴のようだ。
二人でタクシーに乗り込む。リューシカは宿の名前を告げる。胡麻塩頭の初老の運転手は了解、と言いながらタクシーを発車させた。無線の音が時々流れてくる。目の前を街並みが流れていく。見覚えがあるようでもあり、ないようでもある。リューシカにはよくわからない。最後にこの街に来たとき、リューシカはまだ十三歳だった。
「今日は観光ですか? 昔は温泉客が大勢来たもんですが」
無言の車内を気にして運転手がリューシカに話しかける。
「観光、というか帰郷なんです。ね?」
なにも答えないリューシカの代わりに花が答える。リューシカはぼんやりと窓の外を見ている。
「十五年振りだわ」
花の問いかけに窓の外を見たまま、リューシカはぽつりと呟く。
「そうですか。この辺りもずいぶん変わっちまって驚いたでしょう。魚場もそりゃ酷い有様だった。沖の方まで流されたのは輪をかけて酷い有様で戻ってきたもんです。人間もあっちこっち喰われたりしてね。でも、帰ってこれただけましでしょうかね」
そう告げたタクシーの運転手の口調は、少しだけ侮蔑的だった。震災の、あの大変な時期にいなかったことへの当てこすりだったのかもしれない。リューシカがぎりっと音を立てて奥歯を噛んだ。花は青い顔をして黙って俯いていた。タクシーの運転手は自分の失言に気づいたように口を閉ざした。それは客商売にあるまじき行為であった。怒りで朱に染まる視界の端を風景が流れていく。西に傾きかけた太陽。青い空はどこまでも果てしなく広がり、海との境界に一筋の線を引いている。その向こうから押し寄せるものは、今はもう影も形も見えない。リューシカはじっと窓の外を見ている。なにも言わない。なにも答えない。
タクシーが速度を落とす。細い坂道の前で停車する。リューシカは無言で料金を支払っている。花はそんなリューシカの顔をつらそうな表情で見つめている。車の外に出ると駅前で嗅いだ硫黄の匂いが一段と強くなる。それは懐かしくもあり、疎ましくもある。リューシカが伸びをしている横で花が小さく欠伸をしていた。手で口元を隠していた。
「ごめんね」
なにに対してだか自分でもわからないまま、リューシカは小さな声で呟いた。嘆息した。花もため息をつきながら「大丈夫だよ」と笑って見せた。それでもどこかその笑みはぎこちなかった。旅の疲れがタクシーに乗ったせいで更に増したように思えた。遣る瀬ない空気がふたりの上に重く伸し掛かっている。
旅館は小高い丘の上に建っていた。遠くにさっき着いたばかりの駅や電車の路線、そして海が見える。遠目に見る海は穏やかだ。光を反射して青く、銀色に光っている。
端に苔の生えた小さな坂をリューシカは登っていく。ふと、花がその背中に訊ねた。
「ねえ、リューシカ。リューシカはクリスチャンでしょう? 神様を信じているんでしょう? なら、どうして神様はこの世界で起きている酷いことをお見過ごしになるのだと思う? なんで地震なんかで人が大勢死ななきゃいけないの?」
リューシカは足を止めた。振り返り、花を見た。そして坂の上からもう一度海を見おろした。暗い灰色の髪がさらさらと風にゆれている。
「この震災があったあとにね、花と同じ質問をパパ様にした女の子がいたらしいわ。彼女も被災者だったのかしらね」
「パパさま?」
訝しげに花は首をかしげる。
「ベネディクト十六世。一代前の教皇様ね。花には……ローマ法王と言った方が通りいいかしら」
「あ、それなら知ってる」
リューシカは苦笑する。髪をかきあげ、海を見つめている。
「わたしもずっと気になっていたわ。なぜ神様は世の中のひどい事をお見過ごしになるのだろうって。なぜ……救いは訪れないのだろうって。パパ様はね、少女の質問に『どうして皆さんがこれほど苦しまなければならないのでしょうか。わたしには答えることができません。けれども、わたしは知っています。イエスは、罪がないにもかかわらず、わたしたちと同じように苦しまれました。イエスのうちにご自身を現してくださったまことの神は、皆さんのそばにいてくださいます』って、そうお答えになられたの」
花はリューシカの視線を追って海を見つめている。秋の陽に照らされた海はどこまでも穏やかに広がっている。心地よい風が花の髪を擽る。けれども注意すると街の至る所が更地になっているのが見て取れる。壊れたままの建物がある。人が動いている。車が動いている。この世界は綺麗だ。この世は美しい。多分それは間違いない。花は思う。リューシカだってそう思う。でも、薄皮一枚めくれば……世界は違う様相を呈するのだ。
「わたしはミッション系の学校に通っているけどクリスチャンじゃない。だからリューシカの話を聞いても理不尽だとしか思えない。学校の牧師の先生が言ってたわ。日本の神道や仏教のようにキリスト教では目に見える利益を求めたりしないって。祈りや神の救いはそういうものじゃないんだって。なら……せめてこの世界はもう少し優しくてもいいんじゃないかなって……思うんだけどな」
リューシカは俯く花を見つめている。世界が優しくないと感じるのは花を取り巻いている状況がそうさせているのだろう。自分のせいとはいえ、やりきれないな、と思う。
花の通う美以女子学院はメソジスト系の教会が経営母体となっているミッションスクールだ。リューシカはプロテスタントの教理をよく知らない。だから花の学校の牧師がどのような意図でその発言をしたのかわからない。
リューシカは足を止めたまま少しだけ考える。
「フランスのピレネー山脈の麓にルルドと呼ばれる場所があるのは……知らなそうね」
顔を上げた花の表情を見て、リューシカは小さく笑う。
「その小さな町の洞窟でね、一八五八年二月十一日、当時まだ十四歳だったベルナデッタの前に……聖母が現れたの」
「へ?」
きょとんとした顔で花は訊ね返した。唐突すぎるリューシカの言葉が花にはよく理解できない。
「聖母って……イエス・キリストのお母さん?」
メソジスト系のミッションスクールである美以女子学院の聖書教育では、大方のプロテスタントの学校がそうであるように聖母マリアはあまり重要視されてない。だから。聖母が出現したと言われても花にはその奇跡譚に馴染みがない。それがどのような意味を持つのかも。花にはわからない。
「うん。聖母はベルナデッタに洞窟の奥の水で顔を洗い、水を飲むように指示したわ。けれどもそこには泥水が少しだけ湧き出ているだけだった」
「……それで?」
「彼女は当たり前のように泥水を顔に塗り、その水を飲むの。そうするとその水の流れは徐々に増えていった。これが病を治す湧き水、ルルドの泉の始まり」
リューシカはそう言って花の髪の毛を優しく撫でる。眼を細める。眩しいものを見ているみたいに。そして、冷たい髪だと思う。
「以来大勢の人がここを訪れるようになったわ。大きな聖堂も建てられた。何千人という患者が癒され、奇跡的に回復したわ。もっともその中で本当の奇跡と認定されたのは六十件くらいだったと思うけど。だからね。キリスト教の祈りがまったく現世利益とかけ離れたものではないんじゃないかなって、わたしは思うの。つらいときに助けて欲しいと願うのはいけないことじゃないと思う。カトリックではそのときそのときにお願い事をする聖人も沢山いるし。けれどね、ベルナデッタ自身は骨肉腫や肺結核を患って僅か三十五歳で亡くなってしまうわ。それに、この泉の水に触れたからといってすべての人間が癒されるわけじゃない。癒された患者だって別に不老不死になるわけじゃない。いつか必ず、死ぬの」
花が静かに瞳を閉じる。きっと死んだあの男のことを、殺された母のことを思っているのだろう。そのことにリューシカは引き裂かれるような胸の痛みを感じたまま、花の髪を撫で続けている。
「聖書の中で主イエス・キリストは様々な癒しの奇跡を行うわ。重い皮膚病を治し、目の見えない患者を癒し、人の体から悪霊を追い払う。けれども結局みんな死んでしまうわ。生き返ったラザロだって永遠に生きたとは書かれていない。きっとまた死んだでしょう。なら、癒しには、救いには……奇跡にどんな意味があると思う?」
リューシカは訊ねる。リューシカの中には一つの答えがある。けれどもそれを口にはしない。口にする資格がない。花がそっと閉じていた瞼を開き、リューシカを見つめる。風が吹く。冷たく、そして優しい風が花の、リューシカの髪を撫でていく。
花は考える。リューシカのそのなんとかという泉の話が本当なら、そこに集まってくるのは医者にも見放され、困り果てた人たちだ。藁にもすがる思いでそこにやってきたに違いない。
なら、なぜ、皆が癒されないのだろうか。
どうして救われる人と救われない人がいるのだろうか。
……奇跡って、いったいなんなのだろう。
花はもう一度坂の上から町を見下ろす。震災で死んだ人と生き残った人はなにが違っていたのだろう。それはどうやって分けられたのだろう。ある人は死に、ある人は生き延びた。けれども生き延びた人だって百年後には全員死んでいるのだ。泉の水で奇跡的に治癒した人にだって、必ず死は訪れるのだ。
花は思う。自分はクリスチャンじゃない。そして学校で習ったキリスト教の教義だけでなく、宗教自体に馴染みがない。奇跡なんて信じないし、神様だって信じていないし、神社にお賽銭をしたくらいで受験に合格したとも思っていない。もちろん初詣の際は、高校に合格しますように、と必死で念じたけれど。仏教のことだってよくわかっていない。お母さんのお葬式に来てくれたお坊さんの宗派だって、説明は受けたはずだが全く覚えていなかった。
この世界に本当に神様はいるのだろうか。
いるのだとしたら、どうしてこの世界は、こんなにも……不公平で優しくないのだろう。
花はリューシカの顔を見上げる。暗い、灰色の瞳を見つめる。
「奇跡の意味なんて……」
長い沈黙のあと、花はぽつりと告げた。
「わかんないよ」
リューシカはもう一度花の髪を撫で、そして坂を登り始めた。
旅館のフロントで記帳を済ませ、リューシカと花は部屋に入る。普段あまり嗅ぎ慣れていない畳の匂いがする。リューシカが行儀悪く寝転んだその隣に、花も体を横たえる。足の指先がじんわりとしている。リューシカは天井を見つめながらポケットから煙草を取り出し、口に咥えて一本引き抜く。花がリューシカからライターを受け取って火をつける。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リューシカは花の言葉に苦笑しながら紫煙をくゆらす。ふうっと大きく息をつく。それはまるで魂のように見える。ゆっくりと天井に登って霧散する。どこにも辿り着けない。ただ、消えていくだけ。
「ねえ」
リューシカは隣に寝転ぶ花に向かって訊ねる。
「花は天国ってあると思う?」
「それを信じている人の心の中にはあるんじゃないかしら」
「……花は?」
花はごそごそと起き上がると、覆いかぶさるようにリューシカの顔を覗き込む。花の髪がゆれている。蛍光灯の明かりを受けてきらきらと。まるで天鵞絨の天蓋みたいに。
「信じてない。天国も、地獄も」
花はそっとリューシカの唇に自分の唇を重ねる。花の冷たい唇を割ってリューシカが舌を差し出すと、嬉しそうに自分の舌を絡ませてくる。くちゅっという濡れた音。荒い息遣い。花の手がゆっくりとリューシカの胸に触れる。ブラウスのボタンに指がかかる。
「駄目」
リューシカが小さな声で言う。顔を背ける。
「……どうして?」
「煙草の灰が畳に落ちちゃう。ねえ、お茶を淹れて。喉が渇いたわ」
「うん」
花は起き上がってスカートの裾を直し、ポットから急須にお湯を注ぐ。湯呑みを二つ並べる。ゆっくりと蒸らしてから静かに茶を淹れる。茶器に指輪が当たって時々カチッと音を立てる。花の顔は少しだけ強張っている。
リューシカはそんな花の様子を横になったまま眺めている。花に気づかれないように小さく深呼吸する。花が灰皿をリューシカに渡す。リューシカはもう一口吸ってから、ぎゅっと煙草を押しつけた。
「ごめんね」
なにに対してだか自分でもわからないまま、リューシカは小さな声で呟いた。嘆息した。花もため息をつきながら「大丈夫だよ」と笑って見せた。それでもどこかその笑みはぎこちなかった。
「いいの。リューシカの話を聞いてから。だもんね」
リューシカも少しだけ笑う。
「お茶どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そしてお互い顔を見合わせて、くすくすと少しだけ笑いあう。楽しい。楽しくないわけがない。でも。
リューシカは思う。早くしなきゃいけない。いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
「花。少し休んだら温泉に入らない?」
起き上がりながらリューシカは花に囁く。
「一緒に?」
「もちろん」
「……嬉しいな」
「わたしも嬉しいよ。一緒のお風呂は初めてね」
一緒にシャワーを浴びたことはあっても、温泉に二人で浸かるのは初めて。花はリューシカに抱きつき、その胸に顔を埋める。
「リューシカ、煙草の匂いがするね」
花が囁く。
「くさい?」
「ううん。くさくない」
幾度となく交わした会話。それをまた繰り返す。
お湯から上がると、どっと疲れが体の奥底から滲むようだった。体が潤(ほと)びている。部屋に戻って浴衣に着替えようとする花に、リューシカはこれから出かけるから普段着にしなさい、と告げる。
「これから? だってもう夕方だよ?」
花が訝しげに訊ねる。
「明日じゃ駄目なの?」
「今日じゃなきゃ駄目なの。お願い」
秋の陽は短い。五時前だというのに、すでに外は薄暗い。
「まあ、いいけど」
お風呂場に行くのにタオルと替えの下着しか持っていかないから変だとは思っていた。花もそれに習ったのだが、まさかこれから外出するとは思ってもみなかった。
リューシカはそんな花を尻目に化粧を直している。そしてもう一度左耳にピアスを吊るす。
「花。その格好じゃ寒いわ。もう一枚羽織って。こっちの夜はぐっと冷え込むの」
「うん」
温泉に浸かってまだ体が火照っていたが、花は素直にリューシカの言葉に従う。正直この頃秋の気配が濃くなったとはいえ、あまり寒いと感じていない。東北にいるのだからいつもよりも、もっとずっと寒さを感じてもいいはずなのだけれど。
「どこに行くのかくらい、教えてくれる?」
リューシカは少しのあいだ目を閉じる。沈黙する。花も急かしたりしない。
「昔お世話になった方に会いに行くの」
暫くしてから呟くようにそう答える。
「教会の神父様。もう十五年もお会いしていないわ。お元気だといいのだけど」
「……教会?」
訝しげに花は訊ねる。
「行くって連絡したの?」
「してない。いなければいないで構わないわ」
そうしたら。
自分の中で言い訳ができるから。神様なんていないって、言い訳できるから。
花はそんな言い振りのリューシカを不思議そうに見ている。こんな遠くまで来ておいて、いなくても構わない? じゃあ、ただのついでだとでも言うのだろうか。
来たときと同じ坂道を下り、旅館に頼んで呼んでもらったタクシーに乗り込む。車内は暖房が効いていて少し暑いくらいだ。
「花。暑かったら上脱いじゃっていいよ。汗かくと余計に冷えるから」
行き先を運転手に告げたあと、小声でリューシカが花に言う。
「ん? 大丈夫だよ。そんなに暑くないし」
「すいません。ちょっと暖房弱めましょうか?」
別に耳をそばだてていたわけではないのだろうが、申し訳なさそうに運転手が花とリューシカにそう声をかけた。
「寒くなるって言ってたもんで。つい、強めにしてあったんですよ」
「あ、じゃあすみません。少し弱めてもらっていいですか?」
リューシカがぺこっと頭をさげる。車が夜の街を抜けていく。そこは山の裾野の近くであり、小高い丘のようになっている。まばらな民家のその向こう側に、小さな教会と附属の幼稚園が見える。門をくぐってすぐの所は丸いエントランスになっている。イエス・キリストの像が手を開いて立っている。エントランスには何台かの車が止まっている。枯れかけた芝生の近くで年配の男性が幾人か固まって煙草を吸っている。藤の棚が見えるが、すでに葉は落ちたあとだった。
「人、多いね」
リューシカに続いてタクシーを降りた花は、少し驚いたようにリューシカを見上げる。
「今日は……亡くなった人のためのミサがあるから」
十一月二日は典礼に定められた死者の日である。それは昔から変わらない。リューシカが懐かしそうに眼を細める。きょろきょろと辺りを見回している。その視線がぴたりと定まる。ある一点を見つめて固定される。まるで石になったみたいに。身動きしない。
「……リューシカ?」
花の問いかけが聞こえなかったかのように、リューシカは歩いていく。
リューシカの見つめる先にはローブのような奇妙な茶色い服を着た老人がいて、信者と思わしき老婆と話し込んでいた。
「……神父様。お久しぶりです」
その声に老人が振り返る。一瞬訝しげな表情を浮かべる。けれどもすぐに両目が見開かれ、驚きを露わにさせる。おお、というくぐもった声が漏れる。
「もしかして、リューシカ? リューシカなのか? こんなに大きくなって。ああ、今日はなんて日だろう。なんて良い日だろう。リューシカ。リューシカ。帰ってきたんだね」
老人は相好を崩しながらリューシカを抱きしめる。リューシカも老人を抱きしめ返す。
「ご無沙汰してます。神父様もお元気そうで。……本当に良かった」
リューシカを抱きしめる老人の瞳に涙が光っている。花はそんな二人の様子を不思議そうに眺めている。会えてよかったね、と声をかけるべきなのか、迷っている。
「こっちの女の子は?」
老人が花に気づいてリューシカに訊ねる。
「……わたしの大切な、宝物です」
大仰な説明に花の頬が少し赤くなる。
「そうか。そうなんだね。じゃあ、あのときの子なんだね。そうか、もうこんなに大きくなるのか。わたしも歳をとるわけだ。お嬢さん、お名前は?」
急に問いかけられた花は、
「あ、えと、花と言います。初めまして、神父様」
そう言って頭を下げた。けれども花は不審に思っていた。あのときの子。あのときの子? 意味がわからない。リューシカは暗い目つきで花を見つめている。
「そうかい。花。花か。いい名前だね。今日はミサのために来てくれたのかい? リューシカのご両親のためにも、それから、震災で亡くなった人たちのためにも、祈りを捧げなければいけないね。リューシカ、あとでゆっくりと話を聞かせておくれ」
リューシカは首を横に振る。
「いいえ、神父様。今日はあの日の続きをしに来たんです。あの日の告解の続きを」
老人の顔が夕闇の中に沈む。リューシカの表情も見えない。
リューシカはゆっくりと深呼吸をする。大丈夫。大丈夫。そのためにここに来たのだから。
「そうか。じゃあ、こちらにおいで、リューシカ」
老人が歩いていく。教会の入り口で指に聖水をつけ、十字を切る。リューシカもそれに習う。二人は告解室へ向かう。リューシカは振り返り、入り口で呆然と眺めている花に座って待っていて、と声をかける。
教会の中は十五年前となにも変わらない。清浄な、静謐な空気に満たされている。祭壇の先には大きな磔刑のイエス様。壁にはステンドグラスと十字架の道行きのパネル。今日は白い百合の花が飾られている。告解室のランプに赤い燈が灯っている。リューシカは告解室に入る。仕切りの向こう側にはすでに人の気配がする。
「父と子と聖霊の御名によりて」
その声にリューシカはアーメンと答える。そして神父の回心を促す言葉が続く。
「……あの日の続き、と言ったね。でも、リューシカはちゃんと答えを出したんじゃないのかい? 主の、カトリックの教えを守り、そして立派に子どもを育てたのだろう? それは素晴らしいことだよ。主のご加護があったのだよ」
囁くような、優しい声。リューシカは十字を切り、目を閉じる。それは神父様の声であって神父様の声ではない。神父様の耳を通して聞いておられるのは、神様だ。
「……わたしは四人、あるいは五人の人間を殺しました」
そしてリューシカは言う。沈黙が流れる。
「続けなさい」
「今日連れてきたあの子も、わたしの子じゃありません。わたしは自分の子を殺しました。わたしを犯したあの教師を殺しました。そして、あの子の両親を殺しました」
「なぜ」
「なぜ? 決まってるじゃないですか。あんな奴の子どもなんて欲しくなかっただけです。わたしは、懲りもせずにわたしに伸し掛かるあいつの頭を近くに置いてあった……なんだったかしら。よく覚えてません。なにかで殴りつけてやりました。なにかが潰れるような嫌な音がしたのを覚えてます。気持ち良かった。当然の報いだと思って胸がすっとしました。当たりどころが悪かったんですね。脳死だったそうです。風の便りにその後死んだと聞きました。わたしが殺した二人目です」
「あの子は? あの子は……」
「わたしの大切な、宝物です。あの子が欲しくて彼女の両親を殺しました。もっとも直接わたしが手を下したわけじゃないです。父親の方……と言っても再婚した義理の父親だったんですけどね、こいつがクズみたいな奴でした。花を犯そうとしたんです。わたしが脅したらあの子の母親を殺して自殺してしまいました。母親は身籠っていました。その子を含めて……わたしは五人、殺めたのです」
「……それを告げるために、ここに来たのかい? 罪を告白して、神様の許しを請うために?」
リューシカはふうっと息を吐き出す。煙草が吸いたい。
「違います。神様に許してもらうことなんてなにもありません。もう、わたしは神様を信じていません。許してもらいたいのは神様になんかじゃないのです」
リューシカは言う。泣きそうになりながら。
「神様はわたしに……罰と呪いしか与えてくれない」
ガタリ、と仕切りの向こう側で大きな音がした。違う、という言葉が聞こえたような気がした。
「ううん。違わない。違わないわ。神父様、今までわたしを覚えていてくれて、ありがとう。今日はお別れをしに来たんです。神父様に、神様にお別れをしに来たのです。わたしはこの教会が、神父様が、大好きでした。心の支えにしようとしました。でも」
リューシカは席を立つ。
「なんの役にも立たなかった」
待ちなさい、という声が響く。もちろん。リューシカは待ったりしない。扉を開けて出て行く。席に座っている花の腕を取る。驚く花を一瞥して、そのまま引っ張って教会を出て行く。神父は追いかけてこない。でも、追いかけてくるかもしれない。リューシカは焦る。もう、会いたくない。顔をあわせたくない。ねえ、ちょっとどういうことなの、という花の問いかけも無視して、リューシカは早足で歩き続ける。吐く息が白い。大通りに出る。通りがかったタクシーに乗り込む。リューシカは顔を覆う。安堵なのか後悔なのかわからない。涙が溢れて止まらない。ごめんなさい、ごめんなさい、と呟いている。花はそんなリューシカの背中を撫でながら、当惑した表情で運転手に旅館の名前を告げる。
走り始めた車の中に、リューシカのすすり泣く声だけがしている。運転手は無言で車を走らせている。花はずっとリューシカの背中を撫でている。
また、あの坂の下に車が止まる。旅館に通じる坂の下に。泣き続けるリューシカの手を取り、花はタクシーから降りる。二人はゆっくりと坂を登っていく。
花は坂の途中で振り返る。街に燈が灯っている。海に反射してきらきらと光っている。どこからか硫黄の匂いが漂う。白い湯気が揺蕩う。温泉地の匂い。リューシカの故郷の光景。
「リューシカ、見て。綺麗だよ」
リューシカも目を擦りながら振り返る。しかし眼下に広がる風景を、記憶のどこにもないこの景色を、少しも綺麗だとは思えない。
「うん」
けれども花の言葉に、リューシカは小さく首肯する。
「もうすぐご飯だよ。お腹空いたね」
「うん」
本当はお腹なんて空いていない。
「……じゃあ、早く入ろう。ね?」
「うん」
本当はどこにも行きたくない。
花はリューシカの手を引く。リューシカは子どもみたいに花の後ろをついていく。
向かいあい、ほとんど味のしない夕ご飯をぽそぽそと食べる。ぎこちなく、会話も少ない。テレビをつけようか、とリューシカが小さな声で訊ねる。そんなもの、見たくはなかったけれど。花は小さく首を横に振る。
「わたしね、本当はテレビ、そんなに好きじゃないの」
リューシカは訝しげに首を傾げる。
「そうなの?」
「うん。お笑い番組もジャニーズのアイドルも、みんなそんなに好きじゃないし。ただね、そういうのを見ておかないと、知っておかないと、周りに変な奴扱いされるから。話題についていけないから。だから好きな振りをしてたの。ただ、それだけ。今はもう、そんな振りをしないでもいいから。今の方がずっと楽だよ」
そう言ってはにかんだような笑みを浮かべた。
ボリュームがあったのもあるが、いっぱい残してしまった。もったいないな、と思うけれど、もう食欲がなくなっていた。胸が詰まって食事どころではなかった。早々に宿の人に片づけてもらった。
浴衣に着替える。花がお茶を淹れてくれる。リューシカは小さなため息をつく。ぼんやりと机の上の湯呑みを見つめている。
「リューシカ」
意を決したように、小さな声で花が訊ねる。
「訊いてもいい?」
「いいよ」
「……教会でなにがあったの? 喧嘩したの? あの神父様と」
「ううん。違う。……改めてね、わたしってひどい人間なんだなぁって、思い知っただけ」
畳の上にぺたんと座り込んだリューシカは、花の淹れた茶を飲みながら、ため息まじりに言う。
「全部正直に言うね。……わたしね。十三歳のとき、子どもを堕ろしたの」
「……えっ?」
花は自分の耳を疑う。思わず大きな声を出してしまい、慌てて自分の口を押さえる。
「なんで? え? 本当に? ……十三歳?」
指が冷たい。血が通っていない。問いかける花の声も氷のようだ。
「うん。その頃通っていた中学校の教師に……なんども、無理矢理、されて。気づいたら生理がこなくなってた。誰にも言えなかった。その頃にはもうお父さんもお母さんも死んでいて月庭の家に預けられていたし、そんなことを話せるような友達もいなかったし。相談できる相手なんて誰もいなかったの。だからね、以前住んでいたこの街の……神父様に相談しに来たのよ。神父様は子どもだったわたしにいつも優しかった。両親の葬儀をしてくれた。月庭の家に引き取られて街を離れるときも、ずっと神様と一緒にわたしの幸せを見守っていると言ってくれた。だから、神父様ならわたしを救ってくれると思ったの。その日もさっきみたいに告解室でわたしの話をじっと聞いてくれていたわ。心の底からわたしに同情してくれたわ。けれどね。神父様はおっしゃったの。子どもを殺してはならない。宿った命を大切に守りなさい。いつかお前にも主の御心がわかるから……って。わたしは絶望したわ。そんなこと言われたって、わたしはまだ中学生だったのよ? 自分一人で子どもを育てることなんてできない。そんなのわかりきってたわ。じゃあ、じゃあわたしは月庭の両親に正直に打ち明ければよかったの? 中学校の教師に犯されて妊娠しましたって、そう言えばよかったの? ……わたしはなにも言えなかった。カトリックの教えが中絶を認めていないのは知っていた。知っていたけれど、じゃあ、どうしろって言うのよって、……。苦しかった。苦しかったの。だからそのときも告解の途中で逃げた。誰もわたしを救ってくれないんだって、思い知らされた気分だった」
リューシカの頬を涙が伝う。唇を噛み締める。つらい。心臓の音がうるさい。こんな心臓、潰れて仕舞えばいいのに。
「わたしの日常はそのあとも変わらなかった。写真やビデオに撮られて脅されていたから、その教師を拒むこともできなかった。どんなにひどいことをされても……月庭の家の人たちにはなにも言えなかった。でもね、ある日ね、犯されてる最中にね……手になにかが当たったの。なんだったのかわからない。わたしは咄嗟にそれを掴んだ。そして、思いっきりあいつの頭を殴ったの」
花の肩がびくんと震える。それは、その情景は……。
「そうだね。花のときと一緒だね。でも花のときと違って、わたしの場合は打ち所が悪かったのよ。頭蓋骨陥没骨折。脳挫傷。長いあいだ意識を取り戻すこともなく、あいつは死んだわ。わたしは情状酌量の余地ありということで罪には問われなかった。あいつの部屋にはわたしの写真がいっぱいあったし、わたしが妊娠していることも、全部……含めて」
鼻をすする。リューシカは顔を覆う。
「事件が発覚して、わたしは子どもを堕ろしたわ。月庭の家にもバレちゃったけど。仕方ないよね。暫くはまるで腫れ物に触れるみたいな感じで、ね。嫌だったな……本当に、本当に嫌だったよ」
「リューシカ」
花の目にも涙が浮かんでいる。
「生きていれば、産まれていれば、花と同い年になるのね。でも、わたしは、殺した。この手で、わたしが殺してしまったの。それ以来よ。生理のたびに思い知らされる。自分がどれだけひどい人間だったのかって。人殺しなんだって。苦しくて、つらくて、気が狂いそうになる。それがいつしか痛みになった。頭が割れそうに痛くて、吐き気が止まらなくて、お腹の中がまるで釘を刺されたみたいに痛むの。呪われたんだと思った。神様の罰だと思った。けれど当然だと思ったわ。わたしは人殺しなんだもの。自分の……自分の子どもを殺したんだもの」
嗚咽しながら。ポタポタと大粒の涙をこぼしながら。リューシカの本当の告解が始まる。
「義理の姉は初等部からずっとカトリックのお嬢様学校に通ってたわ。わたしはなんとなく義姉と一緒になるのが嫌で公立の中学校に通わせてもらっていたの。でも、その事件があって、義理の両親にほとんど無理矢理転校させられた。義姉と一緒の学校に通うことになったの。学校の先生もシスターたちも事情を汲んで優しくしてくれたわ。けれどもその学校に通っているときも、ずっと痛みは続いていた。決してなくならなかった。女しかいない環境でも、真綿で包むように優しくされても、結局なにも変わらなかった。ずっと苦しかった。今でもずっと苦しいの。どうしたらいいのかわからないの。だから、諦めることにした。このままずっと、呪われたまま、罰せられたまま生きていかなくちゃいけないんだな、って。わたしは諦めてた。でもね、そんなときだった。春の日の公園でね、一人の女の子に出会ったの」
リューシカは花を見つめた。花は涙を流している。
「その子はわたしによく似ていた。痴漢にあって泣いていたの。わたしはその子が放って置けなくなった。ひとりにさせたくなかった。だから公園のベンチに誘ったの。話しているうちに急に雨が降ってきたわ。ひどい土砂降りだった。だからわたしは一緒にアパートに連れて帰ったの。あんなにどきどきしたのは、楽しかったことは、今まで一度もなかった。わたしはその子が好きになった。大好きになった」
「リューシカ」
手の甲で涙を拭いながら、花は反対の手でリューシカの浴衣の袖を掴む。きゅっと。
「でも、それはいけないことだった。わたしはそんなことを望んでいい人間じゃなかった。わたしの欲望がその子を傷つけた。わたしは……わたしはその子の母親を殺してしまったの」
「りゅ……しか?」
花にはリューシカの言葉の意味がわからない。驚愕に目を見開きながら。次の言葉を待っている。
「わたしが、あなたのお母さんを殺したの」
リューシカは話し続ける。本当はあの日、花が襲われそうになったあの日、花の義理の父親とも電話で話したことを。そのことがきっかけで事件が起きたことを。花の家族を自分が奪ってしまったことを。花は
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。どんなに謝っても、許してもらえないのはわかってる。でも、黙っているわけにはいかなかったの。花の高校の文化祭の日、あなたに言われたことがずっと心に残ってた。わたしの秘密を花に打ち明けてもいい。打ち明けなくてもいい。そう言ってくれた。でも、打ち明けずにあなたと一緒に暮らすことにもう、耐えられなかったの。許して……わたしを許して」
リューシカが泣いている。
花の口から嗚咽が漏れる。顔を覆う。指のあいだから、涙が滴り落ちる。嗚呼、嗚呼。そんな言葉しか出てこない。花は泣きながらリューシカの肩を叩く。何度も。何度も。何度も。
「うぅ、ううっ」
花がギュッと唇を噛み締める。
一筋の血が流れる。涙と一緒に。鼻水と一緒に。涎と一緒に。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。…………」
リューシカが泣いている。
リューシカが泣いている。
花の手がリューシカを抱きしめる。花の手は震えている。怒り、憤り、憐憫、諦念、悲哀。いろいろな感情が花の表情を歪ませている。
「許す。全部。許す。許すよ。リューシカを許すよ。リューシカ。リューシカ。リューシカ。泣かないで。もう、泣かないで。お願いだから泣かないで。お願い。お願いだから」
呪われろ。呪われろ。全部。この世のすべて。それでもいい。そうしてくれた方がいい。花。花。リューシカは思う。好き。花が好き。もうリューシカにはそれしか残っていない。
花はリューシカの胸に顔を埋めながら、号泣している。
リューシカは花の頭をかきいだく。
「ゆるして。わたしをゆるして」
花がリューシカを見上げる。涙で、鼻水で、涎で、その顔はぐちゃぐちゃだ。
花はむしゃぶりつくように自分の唇をリューシカの唇に押しつける。無理矢理唇を割る。舌でリューシカの歯を抉じ開ける。力一杯押し倒す。組み敷く。浴衣がはだける。リューシカの下着が見える。花はそれを乱暴にたくし上げる。リューシカの胸が露わになる。
「ゆるして。わたしをゆるして」
リューシカは両手で顔を覆う。
花が胸の先端に吸いつく。歯を立てる。リューシカの口からくぐもった悲鳴が上がる。胸に吸いついたまま、花の手はリューシカのショーツを、その中にあるものを探している。隙間から指がねじ込まれる。無理矢理に。まだ濡れてないのに。リューシカの中に花の指が入ってくる。リューシカは身をよじる。花は許さない。リューシカの中で指が動いている。やがてぐちゅぐちゅと音を立て始める。リューシカはやめて、と小さな声で言う。震える声で言う。花の手を押し留めようとする。
「やめないわ。やめるわけがないじゃない。ずっと。ずっとよ。ずっとこうしたかった。リューシカとこうしたかったの。許す。許すよ。リューシカを許すから。わたしを許して。わたしのことも愛して。同じようにして」
リューシカの中から指が引き抜かれる。濡れた指先を確かめて花が唇を歪ませる。愛おしそうにその指を見つめている。口に含む。甘い。血と発情した女の匂い。花の指はリューシカの味がする。花はショーツの上からその指を自分の秘部にあてがってみる。そこはリューシカのそれと同じくらい濡れている。ショーツをずらし、自分の中に指を入れる。思わず声が漏れてしまう。自分の中から溢れてしまう。くちゅくちゅとかき混ぜる。ゆっくりと引き抜いた指をリューシカの口に押しつける。
「舐めて」
リューシカがおずおずと唇を開く。
花はそれをじっと見ている。この世の暗がりをすべて集めたような瞳で。この世の呪いをすべて集めたような瞳で。
笑いながら。
嗤いながら。
……夜が更けていく。東北の十一月は冷たい。この地方ではときには雪になることもある。窓を見る。窓が曇っている。
部屋の窓が曇っていく。
白く曇っていく。
暖房なんて、つけていないのに。
花の肌は、吐息は、花は、冷たいのに。
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