2013・10・12・(金)

 緊急発報装置の警報音がけたたましく鳴り響いている。患者の周りをバタバタとスタッフが走り回っている。リューシカは患者の脚を押さえながら滴り落ちる汗をナースウエアの肩で拭う。強く押さえ過ぎるとたちまち皮膚の色が変わっていく。濡れたスポンジを押すような、とても嫌な感触がする。こんなに暴れているのに彼女の脚は驚くほど冷たい。屍体のように。いや、そんなことはない。リューシカはかぶりを振る。まただ、という思いと、まだだ、という思いが激しく交錯する。

「馬鹿っ、胸の上に乗るなっ。呼吸が止まるっ!」

 リューシカが叫ぶ。馬乗りになって肩を押さえつけようとしていた柳田に早く退くように指示をする。押さえつけられた少女は依然としてひどく暴れている。なにか喚いている。自分で切った手首の傷からは血が止めどなく吹き出している。どす黒い血が壁一面に飛び散っている。

「頭押さえて、頭っ。まどかっ」

 リューシカは叫ぶ。額から汗が飛び散る。

「バイタルは? モニターちゃんとついてる?」

 田所先生の緊迫した声が響く。

「ちょ、ちゃんと押さえててっ、ivのルート取れないじゃないっ」

 三上みかみ|先生のイラついた声が飛ぶ。

「噛まれないように気をつけてっ。リントンとロヒプノールの準備まだ?」

「先生、静注厳しくない? ……人が足りないよっ。もっと応援呼んでっ。救急カートはっ? 早くしないとまたっ」

 まるで戦場のようだ。まだ新人の美弥子はオロオロと立ち竦んでいる。

「みやちゃん、なにしてんのっ。ぼーっとしてんじゃないのっ」

 まどかが檄を飛ばす。美弥子は肩をビクッと震わせる。慌てて起きあがりそうになる少女の肩を上から押さえつける。するとその途端、少女の目が白く濁っていく。唇の端から黒い血があふれてくる。

 がふっと大きな咳をして、少女は動かなくなった。まただ。いつもと一緒だ。あっけないくらい簡単に、患者たちは死んでしまう。スタッフ総員、すべての手が一瞬止まる。まるで虫を踏み潰してしまったような罪悪感が皆の心をよぎる。

 数秒間嫌な空気が流れる。思い出したように誰かがCPRを開始する。CPR、つまり心肺蘇生を。腐った胸骨の折れる嫌な音が響き渡る。ごぽごぽと口から血が止めどなく流れる。違う。こんなの間違ってる。リューシカは目を瞑る。医師の田所はそんな慌ただしい病室をぐるりと見回したあと、心肺蘇生を中止させた。彼女は蘇らない。腐った死者は生き返らない。そう判断したのだ。

 誰もが茫然自失になっていた。美弥子の鼻を啜る音と誰かの荒い呼吸の音が病室に満ちていた。血の嫌な匂いがする。腐った血の腥い匂いがする。今月だけでもう三人目だ。誰もが倦んでいた。けれどもこの病棟には他の輪番病院が断った患者が運ばれてくる。看護師長の飯田が以前冗談めかしてここは産廃処理場みたいだと笑ったことがあった。言葉は悪いがその通りの場所だった。

「もうやだ」

 美弥子が小さな声で言った。誰もがそう思っていた。

「……リューシカは今日深夜でしょ? あとの処理はしておくから。先に帰っていいよ」

 まどかが疲れた声で言う。他のスタッフは黙々と物品の片づけをしている。

「ねえ、田所先生」

 リューシカは聞こえているのかいないのか、ぼんやりとした声で訊ねる。

「みんな……なんでこんなにあっさり死んでしまうの?」

 生きながら腐っていく少女は、寂しい、寂しいと言って人を襲う少女は、最後には錯乱して、そしてあっけないくらい簡単に死ぬ。でも、こんなの人の死に方じゃない。それはまるでなにかの呪いのようだ。

 田所先生は無言で首を横に振った。

 ——〝病気〟の原因と目される異常タンパク質の同定、報告がなされたのは二〇一四年三月二十日のことだった。その記事は新聞の一面を飾った。リューシカの遺体が見つかるほんの数週間前の出来事である。

 ただし〝病気〟それ自体は今もほとんど解明されていない。ICD-10コードは依然としてF99のままであり、あくまでも特殊な精神病であるというのが一応の公式な見解だった。

 ICD-10におけるFコードは〝精神と行動の障害〟とされている。その中でもF99は〝特定不能の精神障害〟が分類されている。以下、〝病気〟について簡潔に記す。

 精神病、特に統合失調症は自己と他者の境界が曖昧になる病態を呈するものを指す。いつも誰かに見張られている。自分の悪口を言う人間の声が聞こえる。ある日突然自分が神だと気づいた……。ミラの発見したこの〝病気〟に特徴的なのはその脳内にある他者と自分とを隔てる壁の崩壊が人体においても起きている、ということである。代謝機能をグズグズに壊し、自己免疫機構を破壊してしまう。脳幹に症状が及ぶとひどく体温が低下し、食欲がなくなる。普通の食べ物を食べてもまるで砂を噛むように味を感じなくなってしまう。それが前駆症状であり、やがて体全体の細胞にも作用し始め、エンドサイトーシスやエキソサイトーシスにも影響を及ぼすようになる。結果、些細な傷を基にして、急激に体が腐っていく。そして命の炎が消えてしまうようにあっけなく死んでしまう。最後に暴れまわる様はさながら燃え尽きる前の蝋燭みたいだ。

 〝病気〟に罹患すると前頭葉の二十四野を重点的に、APTX486Qという特殊なプリオンタンパク質がまるでクロイツフェルト・ヤコブ病における異常プリオンのように、脳に蓄積されることがわかっている。ただAPTX486Q自体、どこで生成されているのかは未だ解明されていない。女性だけが罹患するため発生に関しては性染色体との関連性も指摘されているが、その原理は不明なままである。

 APTX486Qがどのように体内の個々の細胞組織に影響を与えているのか——それともAPTX486Q以外にも細胞への媒介物質が存在しているのか——まだ作用機序も含めてこちらもはっきりとはわかっていない。そもそも精神病気質だからAPTX486Qが脳内で生成されるのか、APTX486Qが生成される過程で脳が精神病気質に変化していくのか……卵が先か鶏が先か、という議論と同じで答えは出ない。

 そしてこの〝病気〟は元が突発性疾患であるにも関わらず、脳や脊髄、壊死した体組織にも感染性が認められている。あるいは患者が最後に暴れまわって死ぬのは、人を襲って食べようとするのは、この〝病気〟を感染させる為のなんらかの意図が働いているのかもしれない。もっとも、感染しても発症するのは十代から二十代の女性だけなのだが。

 ……二〇一五年を過ぎ、リューシカが罹患していたこの〝病気〟が世間に知られるようになって、随分経った。しかしリューシカが生きていた頃にはまだその存在自体が謎に包まれていた。王寺おうじの小説が流行はやり、政府の対応が後手に回ったせいで、身勝手な憶測やオカルトめいた流言蜚語が飛び交っていた。日本中に悪意に満ちた噂だけが拡散していた。差別がはびこっていた。社会から隔絶され続けていた。亜急性あきゅうせい腐死性ふしせい感情障害かんじょうしょうがい症候群しょうこうぐんというやたらと長い正式名称がついた今でも彼女たちの状況はさして変わらない。治癒の可能性が見つかったからこそ、希望の光が見えたからこそ、それはさらなる悪夢として彼女たちの状況をより困難なものにしている。少女たちが殺される事件はあとを絶たない。少女たちが起こす事件もあとを絶たない。東京の近辺は未だ発症者も多く、その災禍——いや、すべてを含めて呪いと呼ぶべきか——はより激しいとも聞いている。

 呪い。

 この〝病気〟は、本当はいかなる病でもないのかもしれない。本当に呪いなのかもしれない。なぜなら寂しいと叫びながら人を襲うこの不可逆的な〝病気〟の進行を可逆的にする、ただ一つの方法。それは……。

 リューシカはのろのろとナースウエアを脱いだ。更衣室に備えつけられているシャワールームで汗と付着した血を洗い流した。胸を滴り落ちる水滴を見つめた。気持ちが弛緩して涙が溢れそうになる。先ほど劇症化した十六歳の少女は境界型人格障害と診断されていた。左腕には数ミリ刻みにリストカットの痕があり、今日も病室で発見されたときには左手首が血まみれになっていた。凶器は自分で折った歯ブラシである。両手の拘束をすり抜けて事に及んだようだった。あるいは拘束が緩かったのかもしれない。死んでしまった今となってはどうでもいいことだけれど。

 入院に至るまでの状況は以下の通り。彼女はネットで知り合った男性とホテルに入ろうとしていたところ、巡回していた警察官に職務質問を受けた。その際急に暴れだし、警官の手に噛みついたことから公務執行妨害で逮捕された。大声で喚き続けるその状況から精神疾患が疑われてリューシカの病院に搬送され、診察の結果措置入院となったケースである。彼女も事件を起こす前は食事に味がしないと言っていたらしい。

 シャワーを止める。バスタオルで体を拭う。そしてまたのろのろと私服に着替える。リューシカは駐車場まで歩く。花に逢いたい。早く。そう思うのに、足取りは重い。十月の風は少し肌に冷たい。落ち葉がカサカサと音を立てる。暫く雨は降っていない。空気が乾燥している。いつから雨は降っていないのだろう。リューシカは足を止める。空を見上げる。そして思う。王寺の小説が現実になりつつある。いや、王寺の小説に現実が犯され始めているのかもしれない。

 患者の数がじわりじわりと増え始め、その被害が拡大するにつれ、〝狩り〟と称して彼女たちを逆に襲う者たちが現れ始めた。少女に襲われそうになって反撃するケースもあったが、少女を積極的に狩る人間の多くは不良グループの成れの果てのような連中だった。所詮相手は精神病者だ。あいつらは人を襲っても精神疾患だからと罪に問われない。なら自分たちが罰を下してやる。それに、やつらはどうせすぐに腐って死ぬんだ。その前に少しくらい楽しんだっていいじゃないか。それが彼らの言い分だった。もちろん、彼らが襲った少女の中には〝病気〟じゃない者も含まれていた。

 少女たちを廻る様々な事柄がテレビのニュースや新聞にも取り上げられるようになった。精神疾患に対する間違った憶測や見解。患者への差別。襲われた被害者家族の憤り。少女を襲う者たちの驕り。リューシカはその災禍の渦中にありながら、溢れる情報から目を背け、それでも、こんなのはどこか間違っている、嘘だ、という思いを拭いきれずにいた。

 車のキーを回す。エンジンのかかる音がする。カーステレオからは聴いたこともないJポップが流れている。女の子たちが個性のない声で早く君に逢いたいと歌っている。君。君? 君って誰だろう。そこには女の子の声と同様、個性なんて存在しない。君という誰かは現実には存在しない。名前もない、どこにもいないその誰かを、ファンは自分だと勘違いしているだけだ。自分だけに歌ってくれていると誤解しているだけだ。自分に微笑みかけてくれているのだと錯覚しているだけだ。そんな人間がこの国にはたくさんいる。ごまんといる。だからこんな歌が流行るのだ。リューシカはそんな毒にも薬にもならない歌を聞き流しながら花にこれから帰るね、とメールをする。すぐに花から返信が届く。


 『お仕事お疲れさま』


 少し遅かったのね。残業だった? いつもお仕事お疲れさまです。わたしにできることなんて食事を作ったりするくらいだけど、でも美味しい料理を作って待ってます。

 早くリューシカに逢いたい。


 秋の陽は短い。アパートに辿り着く頃にはすっかり夜になっている。星が光っている。街の灯りに掻き消されるように、小さく星が瞬いている。

「……ただいま」

 玄関の鍵を開け、少し掠れた声でリューシカが奥に声をかける。

「お帰りなさい。……リューシカ、どうしたの? すごく疲れてるみたい。お仕事大変だったの?」

 花がエプロン姿で玄関に出てくる。愁眉を寄せ、心配そうにしている。

「わかる?」

 リューシカは苦笑する。

「うん。だって」

 花は小さく微笑む。

「好きな人のことだもの」

 リューシカは花を抱き寄せる。胸がいっぱいになる。花の小さな吐息がリューシカの胸に吸い込まれていく。

「お仕事お疲れさま。今日はね、カレーにしたの。食べたらゆっくり休んで。お風呂も沸かしてあるから。ね?」

「うん」

 リューシカは優しく花の頭を撫でる。台所からはスパイスのいい香りが漂っている。

「ねえ、花」

「ん?」

 花がそっと顔を上げる。リューシカは花の唇に自分の唇を重ねる。舌先に花の前歯が触れる。ゆっくりと押し開くようにその先に舌を進めると、花も自分の舌をリューシカに差し出した。花の舌は少しザラザラしている。温かくてやわらかい。自分の唾液を少しずつ花の口に注ぐ。花は少し苦しそうに、それでも嬉しそうに。ゆっくりと時間をかけてリューシカの唾液と自分の唾液を飲み下していく。

 唇を離す。花が大きくぷはっと息をする。

「もうっ、意地悪。お口がべとべとになっちゃったじゃない」

 花が笑う。口の周りがキラキラと光っている。唇の端から涎が垂れている。リューシカも笑う。少しだけ嗜虐的に。疲れた刺々しい気持ちをなめすように。そしてもう一度。軽くついばむように口づけをした。花の唇から垂れた液体を吸い取るために。

 花の作る料理は美味しい。独創的ではないけれど、どこか温かみがある。優しい味がする。花と同じ味がする。だからリューシカは花の手料理を食べていると花を食べているような気分になる。そしてそんな自分を少しだけ浅ましく思う。

「おかわりは?」

「じゃあ、少しだけ」

 お皿を花に手渡す。

「学校はどう?」

 リューシカは何気なく訊ねる。

「どうって? 普通だよ。ちょっと変な目で見られることもあるけど」

 花がおかわりのカレーをリューシカに手渡す。

「変な目?」

「義理の父だった人殺しの変態のこと。それからお母さんが殺されちゃったこと。あとは女の人と同棲していること。なんかいろいろと陰で噂されてるみたい。別に……気にしないけどね」

 リューシカはびっくりする。それはいじめの予兆なのではないかと心配になる。

「花ってさ」

 リューシカは慎重に訊ねる。

「ん?」

「学校ではお友達多いの? うまくやってる?」

「なんで?」

「いや、なんでって……」

 花は擽ったそうに笑う。

「わたしにはリューシカがいるもの」

 その答えにリューシカはどう解釈していいのか悩む。自分のことが好きだというただそれだけなのか、それとも学校で友達づきあいが少ないと言っているのか……。

 不意にリューシカは気づく。花から学校の様子を聞いたことがない。友達の話を聞いたことがない。校内で花がどんなふうに過ごしているのか、誰と親しいのか、学校の先生はどんな感じなのか、授業は楽しいのか、そういったあれこれを全くと言っていいほど聞いたことがない。リューシカは愕然とする。親代わりを標榜して花を預かっている以上、彼女のことを、彼女の通う学校のことを、もっと知る必要があるのではないか。もっと親身に接してあげるべきじゃないのか。

「だって、わたしが他の子と仲良くしてたらリューシカは嫉妬しちゃうでしょう? だからいいの。リューシカがいればそれでいいの。わたしに必要なのはリューシカだけだもの。好きよ。リューシカが大好きよ」

 けれども花にそう言われてしまって、リューシカはなにも訊けなくなる。なにかが違う。なにかが間違っている。それを強く感じる。でも、リューシカにはその〝なにか〟がなんなのか、よくわからない。

「それにわたし、友達いないし」

 そして花のそんな小さな呟きは、リューシカの耳には届かない。

 二人で食事のあと片づけをした。花は学校の宿題の残りを始めた。リューシカはお風呂にゆっくりと浸かってから布団に入った。部屋の電気を消す。目を瞑る。暗闇の中に小さな光の粒が浮かんでいる。うまく眠れない。少しでも長く寝たいのに。体を休めたいのに。今日死んだ少女のこと。花のこと。思いはぐるぐると頭の中を駆け廻る。花の部屋から持ってきた古びた毛布に顔を埋める。それはライナスの毛布だ。移行対象だ。花の匂いがする。花そのものみたいに。体の芯が疼く。リューシカは下着の中に指を滑り込ませる。そこは少しだけ濡れている。けれどもそれは悪だ。いけないことだ。そう思うのに指の動きを止められない。くぐもった声が毛布に吸い取られていく。

 ……どれくらい時間が経ったのだろう。暫くすると小さく扉が開いて居間の明かりが一瞬だけ漏れた。その電気もすぐに消される。リューシカは寝返りを打つふりをして下着の中から指を抜く。それとほぼ同時に花はパジャマ姿でするりと布団に入ってきた。

「まだ眠れないの?」

 花が小さな声で訊ねる。リューシカは内心ひやりとする。

「うん。花を待ってたの」

 リューシカも小さな声で答える。

「ふふっ。嘘でも嬉しい」

「嘘?」

 どきりとする。声が掠れてしまう。

「だって、隣の部屋にいるとね、リューシカがお布団の中でもぞもぞしてるのがわかるの。気配で。きっと眠れないんだなって思ったの。だからわたし、来たんだよ」

 リューシカの頭を抱えるようにして、花が笑う。暗闇の中で。白い歯が少しだけ見えた気がした。もしかして自分の声が聞こえてしまったのだろうか。リューシカはそっと目を逸らす。顔から火が出るみたいに頬が熱い。部屋が暗くてよかった。リューシカは少しだけ安堵する。

「病院でなにかつらいことがあったのね。でも大丈夫だよ。わたしがついているから。だからゆっくり休みなさい」

 花が呟く。リューシカは花のパジャマの胸に顔を寄せる。

「花」

 リューシカがぽつりと呟く。

「なに?」

「珍しくブラしてないのね」

「……エッチ」

 リューシカは目を瞑る。花は寝るときにもブラをしている。形が崩れるほど大きくないのに。邪魔なのに。リューシカはパジャマの上から花の胸の先端に唇を寄せる。ぴくんと花の体が震える。熱い吐息がリューシカの灰色の髪を優しく撫でていく。

 ——ふと目を覚ます。いつの間にか眠っていたらしい。遅れて目覚まし時計代わりのスマホのアラームが鳴る。リューシカは眠い目を擦りながらディスプレーを見つめる。もう、支度をしなきゃいけない時間だ。花は小さな寝息を立てている。自分の毛布を握りしめている。よかった。起こさずに済んだ。リューシカはそう思いながらゆっくりとベッドから抜け出る。

 でも。

「……リューシカ?」

 眠そうな花の声が背後から聞こえる。振り返ると花が手首の辺りで自分の目を擦っている。

「ごめんね、今日も起こしちゃったね」

「ううん。大丈夫。お仕事の時間?」

「うん。支度したら出るね。花の方こそ一人で大丈夫? 明日は休みなんだから、ゆっくり起きていいからね。なるべく早く帰るようにはするけど」

「あっ、待って」

 花が小さく声を上げる。リューシカは訝しげに振り返る。

「……明日ね、学校なの」

 布団から起き上がった花は、そう言って自分の髪を軽く掻き揚げた。

「学校? あれ、明日第二土曜日だよね?」

 花の通う高校は隔週で第二、第四土曜日が休校になる。リューシカは首を傾げる。明日は休みのはずなのに。

「それは、あの……明日からうちの高校の文化祭が始まるから」

「……え?」

 支度を始めていたリューシカの手が止まる。

「ちょ、え? 文化祭? そんな話、聞いてないんだけど」

「言わなかったの」

「どうして?」

 リューシカの声は少しだけムッとしている。昼間のこともあって神経が尖っている。いつもよりイライラしてしまう。それは花にも充分伝わっていると思う。でも。それでも。リューシカは思う。花の高校の文化祭なら見てみたい。行ってみたい。前日までなんの連絡も報告もなかったのは自分の気持ちがくさくさしているのを差し引いても、少なからずショックだった。それに親代わりなのに。学校行事を知らないでいいわけがない。第一、文化祭前にはクラスの出し物のために下校が遅くなったりするのが相場ではないのか。花はいつもと変わらずリューシカよりも先に帰ってきていた。……どうやって切り抜けていたのだろう。リューシカは不審に思う。

「うちの高校、文化祭にはそれほど力を入れていないの。だからあんまり盛り上がらないみたいだし。それに一般公開は日曜日だけで明日は非公開だから。言わないでいいならいいかなって。ごめんなさい」

 花はそう言って笑う。リューシカは少しだけ肩の力を抜く。なんだそうだったのか、と心の中で思う。花の言動の不自然さにリューシカはまだ気づいていない。

「……というのは建前。そんなの文化祭のこと、言わなかった理由にはならないもんね。明日学校に行ってたらどのみちバレちゃうもんね。ごめんなさい。本当は言えなかったの。ずっと言い出せなかったの。本当はね……リューシカに学校でのわたしを見て欲しくなかったの。リューシカに心配かけちゃうから。だからリューシカには知られたくなかったの」

 リューシカは眉根を寄せる。

「それは……夕ご飯のときに言っていたことに関係する?」

 花は確かに言った。自分は奇異な目で見られていると。リューシカの胸の内をひやりとしたなにかが撫でていく。まさか、自分と一緒にいるところを見られるのが、嫌なのだろうか。

 リューシカは唾を飲み込む。

 でも、花の話の続きはもっと、リューシカの胸を締めつけるものだった。

「もう……誰もわたしには話しかけてくれない。まるで腫れ物に触れるように、みんなわたしを避けるの。話すのは必要最低限のことだけ。だから……明日の文化祭もサボろうと思ってたんだ。でも、やらなきゃいけないことができちゃって、そういうわけにもいかなくなっちゃって……ごめんなさい。うまく言えないんだけど、でもね、リューシカに嘘は吐きたくなかったの。リューシカになにかを隠していたくなかったの。わたし、リューシカにだけは嘘を吐きたくない。だから」

「花……。ごめん、ごめんね」

 リューシカは花の頭を両手でぎゅっと抱きしめる。

「なんでリューシカが謝るの?」

 花が頬を濡らしながら訊ねる。リューシカは答えない。ただ、腕に力を込めるだけ。

 言えやしない。

 花の母を殺したのはわたしだ、なんて。

 口が裂けても言えやしないのだ。

「…………? 泣いてるの?」

 花の瞳も暗がりの中できらきらと光っている。リューシカは鼻をすする。手の甲でゴシゴシと眦を擦る。

「花はわたしが守ってあげる。絶対に。誰にもなにも言わせやしない。……好き。花が好き。大好きよ」

「わたしも」

 リューシカの唇に花がそっと唇を寄せる。吐息が温かい。

「わたしもリューシカが好き」

 花が涙を拭う。

 少し顔を赤らめる。

「ねえ、ひとつだけ……お願いがあるの」

「ひとつだけでいいの? なんでも、いくつでも聞くよ?」

 リューシカが頭を撫でる。花がくすくすと笑う。

「ひとつでいい。ねえ、リューシカが帰ったら。……わたしと、して。最後まで」

 一瞬リューシカの手が止まる。逡巡する。不安そうに花はリューシカを見つめている。

「……来月、温泉に行かない? わたしの故里、東北の温泉地なの」

「旅行? ……里帰りってこと?」

 花が訝しげに訊き返す。理由がわからない。顔にそう書いてある。リューシカはそれを読み取って小さく頷く。少しだけ心臓がどきどきしている。鼓動の早さが花に伝わってしまわないか心配になる。指先の震えは伝わっていないだろうか。

「うん。そこで、わたしの話を聞いて欲しいの。わたしの秘密を。わたしの過去のことを。それでも……それを聞いても花がしたいと思ってくれるなら。わたしを許してくれるなら。呪われたわたしでもいいと言ってくれるなら。……そのときはちゃんと最後までしましょう」

 暗い海。雪と潮騒。耳が切れるような冷たい風。なぜだろう。あの街の思い出は冬の景色ばかりだ。物悲しい修道院の鐘。雪の積もったマリア様の像。……あの神父様はまだご存命だろうか。

 リューシカは花の額に口づけする。花は目を瞑る。そして小さく頷く。

「ねえ」

 リューシカが訊ねる。もう仕事に行かなきゃいけない時間だ。結局もう一度シャワーを浴びる余裕はなかった。

「……文化祭、行ってもいい?」

 花は口を閉ざしている。静かに首を横に振る。夜のしじまを深い闇が覆っていた。


「今日は静かだね」

 ラウンドを終えたリューシカに相馬そうま勇一郎ゆういちろうが声をかける。相馬は三十路を過ぎたベテランの看護師だ。なんとかというよくわからない古武術の段位を持っている。物腰は柔らかいが患者を押さえつけるときには的確に関節をホールドして動けなくさせる技術を持っている。身長も百八十を超えている。背の高いリューシカでも大きいと感じてしまう。そんな相馬は二児の父親でもある。

「日中すごかったんですから。これで夜まで忙しかったら死んじゃいます」

 リューシカはそう言って苦笑する。今日の夜勤は女性スタッフ二人、男性スタッフ二人だ。リューシカは人間が嫌いだ。男はなおのこと苦手だ。仮眠の時間帯になって男のスタッフと二人きりになると、余計に意識してしまう。それもいつものことだった。

「そうだったらしいね。俺は深深だったから詳しく知らないんだけど」

 相馬の言う深深とは深夜明けの夜にもう一度深夜勤務に入るシフトを指す。体が夜型になるので元に戻すとき苦労する。

「いつもと一緒。暴れまくった挙句にぽくっと死んじゃうんだもの。なんだか徒労感だけが残る感じです」

 リューシカは話をあわせる。そのくらいのことはできる。内心、少しだけ冷や汗をかいているとしても。

 カルテをめくる。寝ていなかった患者をチェックしていく。

「急に増えたよね。あの〝病気〟の患者。俺、精神科の看護を長いことやってるけどさ、こんなの今までなかったよ。なにが原因なんだろうね」

「王寺謙也の書いた小説のせいじゃないですかね」

 ぽつりとリューシカが呟く。

 いつも真面目なリューシカが冗談を言ったのかと、相馬は驚いている。

「あの、グロい内容の小説? 若い女の子がゾンビになるっていう……。あんなのが売れるようじゃ世も末だね」

「相馬さんも読みました?」

「いいや。小説は嫌いなんだ。新聞の書評で見ただけだよ」

「……読んでみるといいですよ。嗜虐心がそそられます」

 相馬はくつくつと笑う。リューシカも空っぽの笑みを浮かべる。

「月庭さんて冗談言うんだ」

「言いますよ。それから、わたしのことはリューシカでいいです。何度も言うようですけど、月庭って苗字嫌いなんです」

「名前で呼びあうのって馴れあうみたいで好きじゃないんだよ。確か就業規則にも書いてあるはずだよ。苗字で呼びあいましょう、って」

「お固いんですね」

 リューシカは苦笑する。相馬も苦笑を返す。

 寝静まった病棟は息苦しい。時計のちくちくちくという音がする。それはまるで時間が夜のとばりを縫いあわせているみたいだ。ガラス張りのナースステーションからはなにも見えない。ナースコールも鳴らない。

「さっきの話だけど、うちの下の娘も今年十五歳になるんだ。ああいう死に方をする子を見るのはやりきれないね」

 リューシカは心の中で指を折る。

「相馬さんってたしか今年三十六歳でしたっけ? 随分若い頃のお子さんなんですね」

「かみさんの連れ子なんだよ」

「ああ」

 なるほど、そういうことか。リューシカは納得する。

「そういえば、さ」

 相馬の椅子がギシっと音を立てる。

「月庭さん、知りあいの女の子を引き取ったって言ってたけど、どう? うまくやってる?」

「どうでしょうね」

 リューシカは曖昧に微笑む。うまく。うまく? それってどういう意味? きちんと育てられているかという意味? それともちゃんと愛してあげているかという意味? リューシカにはわからない。

「相馬さんの下の娘さんも高校一年生ですか?」

「そうだね」

「文化祭って、相馬さんも行きますか?」

「文化祭?」

 相馬は自分の顎を撫でる。無精髭がざらりと音を立てる。

「……もう終わっちゃったんじゃなかったかな。あんまり興味なかったからいつだったのかも良く覚えてないよ」

「そうですか」

「それが?」

「日曜日、うちの子の高校の文化祭なんです。それでちょっと訊いてみただけ」

 ナースコールが鳴る。眠た気な声で追加の眠剤を希望している。眠そうだから少し横になりましょうと返す。どうしても眠れなかったらもう一度コールして、と。そんな応対をしているリューシカを相馬は欠伸混じりに見つめている。

「誰?」

金森かなもりさん。むにゃむにゃした声でした。ほっといても寝ると思います」

 リューシカはナースステーションの机に突っ伏して、ため息をついた。

「文化祭に来てほしくないって言われちゃった」

 ぽつりとリューシカが呟く。

 相馬は先程リューシカがナースコールで対応した患者の、中途覚醒の記録を書いている。

「思春期の子は難しいよ。血が繋がってなければ尚更」

 カルテをパタンと閉じる。

「でも、月庭さん……雰囲気が少し変わった気がするね。ちょっと丸くなったかな?」

「太ってませんよ?」

「体じゃないよ」

 くつくつと相馬は笑う。

「人を極力避けるところは変わらないけれど。仕草や身に纏うものがやわらかくなった。隠しきれない刺々しさが減ったよ。きっと、その女の子のことが本当に好きなんだね」

 リューシカは苦笑する。余計なことはなにも言わない。だからこの男は嫌いなんだ。心の中だけで悪態を吐く。古武道なんてものをやっているからだろうか。人のありようを感知することに長けている。

 時計の針が三時を指した。

「ラウンドに行ってきます。金森さんもあのあとコールないから寝ちゃってると思うので」

「うん。お願いするね」

 相馬は苦笑する。全部ばれている気がする。そう思うと口惜しい。感に障る。忌々しい。男なんて大っ嫌いだ。

 ナースステーションを出る。ちっと舌打ちする。懐中電灯を片手に廊下を歩く。少し早足になる。リノリウムの床にコツコツと足音が響く。緑色の非常灯が不気味に光っている。窓の開閉を極力排した精神科の病棟は、夜になってもなお息苦しい。

 最初、花を引き取るという話をしたとき。義理の両親はもちろんのこと病棟の看護師長である飯田聡子あきこにも難色を示された。子育ての経験もなく、結婚もしていないリューシカには養子縁組は厳しいのではないかと。

「申請が通るかどうかもわからないのに。それに子育てはあなたが思っているよりも大変なのよ? ましてや他人の子を引き取るだなんて……。それがわからないわけじゃないでしょう?」

 噛んで含めるように飯田は静かな口調でそう言った。

「別に子育てをするわけじゃありません。わたしは一緒に生きていくだけです。彼女はわたしと人生を共にする……パートナーですから。今が駄目でも彼女が自己決定できる年齢になるまで待つつもりです」

 リューシカははっきりとそう言った。飯田は渋い顔をした。

「……自分の言っている意味はわかっているのよね?」

「ええ。もちろんです」

 深いため息が聞こえた。リューシカはじっとしている。なにも反論しない。

「ま、いいわ。仕事に穴は開けないでね。どうしても困ったら相談には乗るけど。仕事に戻っていいわよ」

 ナースステーションの隅で行われていたそんな遣り取りを、まどかが心配そうに見つめていた。看護記録を書くための中央テーブルに戻ると、彼女がそっと隣に来て、小さく声をかけられる。リューシカは苦笑を返す。まどかは呆れた顔をしている。

「前々から思ってたんだけどさ」

 カルテに記載をするふりをしながらまどかがリューシカに向かって話しかける。目はあわせない。リューシカも心得ている。まだ師長の目はこっちを向いている。

「なに?」

「……あんたって、やっぱり変わり者よね。どんな知りあいだったのか詳しくは知らないけど、義理の父親が母親を殺して自殺したって……新聞に出てたあの事件の子どもでしょう? 本当に大丈夫なの?」

「わたし、新聞取ってないから。記事の内容なんて知らない。わからないわ」

「そういう意味じゃないでしょうが」

 まどかも深いため息をつく。リューシカはなにを言われても気にしない。もう決めたのだから。花と生きていくことを、そのためならすべてを捨てても構わないと。リューシカの堅い決意はゆるがない。

 部屋を一つひとつ廻っていく。どの部屋の患者もぐっすりと眠っている。リューシカは寝ている患者と起きている患者を見定めるのが得意だ。本能的に嗅ぎわけることができる。だからどうしたという話なのだが、精神科の看護師としては得難い才能でもある。

 ラウンドから戻ると相馬は委員会の書類のまとめを行っていた。

「全員眠ってましたよ」

「ありがと。ご苦労様」

 相馬はパソコンのディスプレーを覗き込みながら返事をする。リューシカは首を回す。ゴキッと嫌な音がする。なにかが崩れ去るような音がする。それから花のことを考える。もうさすがに寝ただろうか。明日は——もう日付が変わってしまったから今日なのだが——きちんと学校に行くだろうか。ああ。……たった一人で惨めな文化祭を過ごす気分はどんなだろう。

 リューシカは知らずにため息をつく。

「あんまり考え過ぎない方がいいよ。子どもってのは結局のところ、親の思い通りにはならないもんだから。子どもには子どもの世界とルールがある。大人には干渉できない世界があるんだ。俺はそれを思い出すのに丸一年かかったよ。自分にも子ども時代ってのがあったはずなのに、いつの間にか忘れてしまうんだね」

「……わたしの心を読んだようなこと言わないでください」

「ん? 違ってた?」

「当たっているからムカつくんです」

 相馬は背中を向けたまま、くつくつと笑っている。肩が上下に動いている。相馬を相手にイライラしても仕方がない。頭に輪っかをつけられた猿じゃあるまいし。手のひらの上で踊るのは趣味じゃないのだ。リューシカは肩の力を抜く。緊張しどうしでは疲れてしまう。

 夜は長い。欠伸を噛み殺す。早く仕事が終わればいいのにと心から思う。でも、時計の針はゆっくりとしか進まない。それに早く時間が過ぎても。

 ……家に花はいないかもしれない。いた方がいいのだろうか、いない方がいいのだろうか。

 病棟はひっそりと夜の闇に沈んでいる。いくらナースステーションの中から目を細めて見ても、隔てるガラス窓は冷たく、無機質なだけだった。

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