2013・9・2・(月)

 花の母親の葬儀にはリューシカも参列していた。葬儀のあいだずっと、南から湿気を含んだ重たい風が吹いていた。新聞社か雑誌社の人間が取材に来ていた。リューシカは氷のような目をして座っていた。誰もリューシカには声をかけなかった。それはすべてを拒絶する雪の女王の目だった。生きとし生けるものを氷漬けにせずにはいられない絶対零度の魔眼だった。リューシカは花のそばに寄り添っていた。冷たい瞳で花を守っていた。

 あの日、リューシカのアパートに花を泊めた日の翌日。リューシカは深夜に花の母親と話したことを正直に告白した。勝手に花のバッグからスマホを取り出して電源を入れたことを詫び、そして花にかかってきた母親からの電話に出て、花の了解も得ずに母親と話したことを詫びた。

「なんでそんなことをしたの? ……お母さんはなんて?」

 不安げな表情で花は訊ねる。

「ずっと連絡が取れなかったら、花が行方不明になったと勘違いするんじゃないかと思ったの。ご家族が警察に通報したら、花が大変な思いをするんじゃないかと心配だったの。ごめんね。花に内緒で勝手なことをして。でもね、お母様はご迷惑をおかけしてすみませんって言っていらしたわ。あなたがスマホの電源を切っていたから、お母様は夜遅くまでずっと探していたみたいだった。随分心配してらしたわ」

「そっか。ごめんなさい。それで、あの……」

「大丈夫。生きてた。心配いらないよ」

 リューシカはにっこりと笑う。花はホッとしたように小さなため息をつく。

「よかった」

「うん。よかったね。それでね、お母様とも相談したんだけど、しばらくのあいだうちに花を預かってはどうかって話をさせてもらったの。もちろん、花が嫌じゃなければ、ってことなんだけど」

 花の顔が少しだけ青ざめる。

「ね、ねえ、もしかしてお母さんに話したの? わたしが、わたしがあの人に……」

「話すわけがないじゃない。心配しないで。他の誰にも話したりしないから。ただ、思春期の多感な時期にご家庭に複雑な事情を抱えていらっしゃるのなら、少し距離を取ってみてもよろしいのでは、って話しただけ。折り返し連絡が来ると思うから。それまではうちでゆっくりしていっていいわ」

「……昨日言ってくれたこと、本気だったんだ」

「当たり前じゃない。わたし、花が好きだもの」

 リューシカはそう言って花の髪を優しく撫でた。花はリューシカの言葉を信じた。疑う余地がなかったからだ。疑う理由なんてなかったからだ。リューシカが連絡を受けてくれなかったら、今頃家出のことが警察沙汰になっていたかもしれない。そんな自分の浅はかな行動を花は心から恥じていた。そしてなによりも、花はリューシカのことが誰よりも好きだった。

 花は夕方までリューシカのアパートで過ごした。リューシカは生理二日目だった。けれど前よりも重くなさそうに振舞っていた。実際につらくはなかった。以前に比べて、という程度ではあったが。花が一緒にいてくれるからよ、と言ってリューシカは笑った。花も甲斐甲斐しくキッチンに立ちながら、嬉しそうに微笑みを浮かべている。

 夕方になっても連絡はなかった。一向に電話が鳴る気配はなかった。リューシカは小さく舌打ちした。焦るな。大丈夫。まだ手はいくらだってある。リューシカは自分に言い聞かせる。だってわたしは魔女なのだから。そんなリューシカを花が不思議そうに見つめている。

「そろそろ帰らなきゃ、だよね」

 花がポツリと呟く。すでに外は暗くなっている。良い子はお家に帰りましょう。自治体のスピーカーはそう言っていなかっただろうか。

「連絡こないね」

 リューシカが煙草に火をつける。

「あ、また煙草吸って。もう、生理のときにはよくないよって言ったのに」

「ふふっ。ごめんなさい」

 リューシカは一口しか吸っていない煙草をもみ消し、花の体をぎゅっと抱きしめる。

「リューシカ。煙草の匂いがするね」

「くさい?」

「ううん。くさくない」

 花は目を瞑る。リューシカはそっと花の唇に自分の唇を寄せる。

「変な味」

 花が顔を顰める。

 リューシカはそんな花の表情を見てくすくすと笑った。リューシカはふと思う。いつからだろう、と。いつから花をこんなに大事に思うようになったのだろう、と。リューシカは基本的に誰かと一緒に過ごすのが嫌いだ。人間が嫌いだ。男も女も関係なく嫌いなのだ。それなのに、なぜ? なぜ自分は花に触れ、花に口づけをしているのだろう。わからない。でも、触れずにはいられない。自分のものにしたくて仕方がない。

「リューシカ」

「ん?」

「……好き。リューシカが好き」

「花から見たらわたし、おばさんじゃない?」

 リューシカは自虐的に笑う。一回りの歳の差を思う。花が強くかぶりを振る。その目は真剣だ。真剣そのものだ。

「そんなこと言わないで。リューシカは誰よりも綺麗よ。なによりも素敵だよ。ねえ、最初に逢ったときに話したよね? ずっと前、どこかで逢ったことがある気がしてならないの。どこかで必ずリューシカに出逢ってる。わたしにはそれがわかるの」

「前世、とか?」

「かも」

 リューシカは苦笑した。リューシカは前世なんて信じない。生まれ変わりなんて信じない。カトリックの家で育ったということだけじゃなく。そんなの馬鹿らしいと思っている。前世。前世? リューシカは自分が生まれる前に別の誰かだったなんて想像もつかない。理解できない。こんなくだらない人生なんて。一度きりで沢山だ。

「あ、笑った。信じてないでしょ?」

「わたしの前世ってなんだったのかしら」

 くすくす笑いながら花に訊ねる。

「うーん。どっちかっていうと猫っぽいよね」

 猫。猫? 人じゃないのか。前世って人じゃなくてもいいのか。どっちかっていうと? それはなにと比べて猫だったのだろう。リューシカは鈴のように笑う。楽しい。

「わたしが猫なら花は?」

「リューシカに食べられたネズミかしら」

 花はそう言って笑った。とても艶やかに。花がなにを言いたいのか、もちろんリューシカにだってわかっている。わからないはずがない。だってリューシカは花が好きなのだから。花はリューシカが好きなのだから。

「花はどっちかっていうと兎っぽいけど。よく目を真っ赤にして泣いているから」

「……ひどい」

 花が頬を膨らませる。事実なのだから仕方がない。無理矢理にでもそう思い込む。冗談めかして花の誘いをするりと躱す。

 リューシカは心から思う。

 本当に猫ならよかった。

 花がネズミならよかった。

 もしそうなら。

 今すぐ花を食べるのに。

 骨も残さず食べるのに。

 ……食べても。罪悪感に苛まれなくていいのに。

 リューシカはそう思って悲しくなった。切なくなった。だって。

 その快楽は麻薬だ。悪だ。あってはいけないものなのだ。リューシカはそのことを知っている。ううん、違う。悪だと思い込んでいる。そう言った方が正しいのかもしれない。それでも。

 リューシカは怖いのだ。

 快楽のあとの絶望が。ううん。絶望のあとの快楽が。誰かと必要以上に肌を触れ合わせることが。性的な関係を持つことが。

 結局花は母が心配してると思うから、と言って帰ってしまった。その表情は寂しそうだった。

 リューシカはぼんやりと窓の外を眺めている。人差し指と中指のあいだには短くなったショートホープライト。長くなった灰が床にぽとりと落ちる。夏の夜空に淡い光の星が瞬いている。すぐに見飽きてしまう。時間を持て余す。花がいないと寂しい。不在によってその存在がより一層強く、濃くなる。ついさっきまでここに、このベッドに花がいたのに。一晩しとねを共にしたのに。そう思うととても心が苦しい。胸が張り裂けそうになる。わかってる。自分でも矛盾していることくらい。花が欲しい。でも、セックスするのは怖い。キスより先の関係を想像できない。

 寂しい。つらい。リューシカはため息をつく。煙草を揉み消す。ほとんど吸ってない。ほとんどただの灰になってしまった。ああ。どうしよう。寂しくて寂しくて、つらくてつらくて……心が壊れてしまそうだ。

 あんなふうに花を避けるんじゃなかった。

 もっと違う言い方をすればよかった。

 後悔ばかりが波間の藻屑のように浮かんでは消える。

 花は今頃どうしているだろう。もう、家に着いただろうか。リューシカは時計を見つめる。秒針がゆっくりと時を刻んでいく。本当は暗くなる前に帰してあげた方がよかったのかもしれない。拒むなら、引き止めなければよかったのだ。ううん。違う。帰したのが間違いだったのだ。ラプンツェルは塔からいなくなってしまった。そう思う。そう思ってリューシカは泣きそうになる。

 するとそのときだった。枕元に置いてあったスマホが震えだした。ディスプレーを見ると花からの電話だった。

 なぜだか不意に胸がざわっとする。それはある種の予感、あるいは予兆だったのかもしれない。出たくない。でも、そんなわけにはいかない。

「もしもし」

 リューシカは震える声で電話に出る。まさか。あの男が全部花にバラしたのだろうか。開き直って花になにかしたのだろうか。そう思うと喉が詰まって声が出ない。綿の塊を飲み込んだように。

「……た」

「え?」

 よく聞こえない。聞き取れない。声が掠れている。花はなんて言った?

「死んじゃった」

「花? 花? 誰、誰が……?」

「お母さんが、お母さんが殺されちゃった。あいつも死んじゃった。みんな、いなくなっちゃった。どうしよう。リューシカ。リューシカ……なんで? どうして? これ、夢だよね。悪い夢だよね。お願い」

 花の声が涙の川に沈んでいく。すすり泣く声がする。リューシカは痛いくらいに強く、スマホを耳に押しつける。

「助けて……助けてっ」

 その言葉を口にした途端、花は耐えられなくなる。嗚咽する。号泣する。涕泣する。啼泣する。慟哭する。聴くのがつらい。スマホを通して花の痛みがリューシカを苛む。

「花っ。今行く。今行くから。じっとしていなさい。いい。そこにいなさい。わかったわねっ?」

 リューシカは急いで着替える。髪はボサボサだし、化粧もしてないし、外に出られるような状態じゃないのはわかってる。でもしょうがない。しょうがないじゃないっ。心臓がどきどきする。背中に嫌な汗が流れる。脇の下にも気持ちの悪い汗をかいている。指先が震える。急がなきゃ。早く、早くっ。

 けれどもリューシカの動きが一瞬止まる。

 リューシカは考える。車のキーを手放し、すぐさまタクシー会社に連絡をする。喉がカラカラでうまく声が出ない。上手に説明できない。それでもどうにかタクシーをアパートに呼ぶ。自分の車は使わない。黄色の軽自動車は悪目立ちする。もしものとき。見咎められないように。リューシカは慎重になる。

 花の家——というよりも再婚した男の持ち家なのだが——の住所は知っている。それに花が住む家には一度行ったことがある。準夜帰り、真夜中に。そのときはそっと闇に沈む家を見つめて帰った。ストーカーみたいで情けない。恥ずかしいと思った。でも、こんなふうに役に立つ日が来るなんて思ってもみなかった。リューシカはタクシーの運転手に指示を出す。左折。右折。そのまま真っ直ぐ。それ以外の会話はしない。目も合わせない。俯いたまま下を向いていると怪しまれる。だからできるだけぼんやりと窓の外を見ているように装う。顔を覚えられないように。意識されないように。でも、リューシカはタクシーをアパートまで呼んでいる。それもあんなに慌てた声で。意識されないはずがない。それにリューシカは美人なのだ。記憶されないはずがない。でも、リューシカは気が動転してよくわからなくなっている。花の母親が死んだ。再婚して出来た義理の父親も死んだ。殺された? 誰に? いったい誰に殺されたというのだろう。それに花は? 花は無事なのだろうか? タクシーの運転手はそんな戸惑いと焦燥感を抱いた美しいリューシカの顔を、バックミラーでちらちらと見ている。リューシカは少しも気づかない。

 花の家から少し離れた場所にあるコンビニエンスストアにタクシーを停車してもらう。料金を支払う。男の手が一瞬リューシカに触れる。リューシカはただそれだけのことに嫌悪感を抱く。タクシーを降りる。急ぎ足でリューシカは歩く。頭がガンガンする。胃がムカムカする。子宮がキリキリと痛む。痛みがリューシカを苛む。痛みは愉悦に変じたのではなかったのか。新たな呪いは痛みすら凌駕(りょうが)するのではなかったのか。わからない。もうなにがなんだかわからない。でも、今はそんな痛みに構っていられる場合じゃないのだ。

 リューシカは歩く。遊崎という表札を確かめる。車のナビで来たときと勝手が違う。間違っていないか不安になる。でも遊崎という姓は珍しい。それは確かに花の家なのだ。

 呼び鈴を押す。返事はない。玄関のドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。

「花っ、花っ! いるの? お願い、返事をしてっ!」

 家の中は真っ暗だ。でも、明らかにおかしい。腥い匂いがする。血の匂いがする。大量の血の匂いがする。背筋がざわっと粟立つ。二の腕に鳥肌が立つ。血の匂いに噎せそうになる。リューシカの足はガタガタと震えた。

「花っ!」

 もう一度叫ぶ。やはり返事はない。リューシカは靴を脱いで玄関に上がる。なにかに足を取られてまろぶ。床が濡れている。リューシカはそれがなにか考えない。考えたくない。

「……花っ!」

 奥歯を噛みしめる。足に力が入らない。それでもなんとか立ち上がる。居間に続く扉を開ける。手探りでスイッチを探す。電気をつける。そこに広がっているのは、

 一面の血の海だった。

 ……リューシカは絶句する。乾きかけた血溜まりの中に女性が倒れている。女性の傍に花がへたり込んでいる。花はもう泣いていない。その目はなにも映していない。倒れている女性は身動きひとつしなかった。ぴくりとも動かなかった。

「電気、つけないで」

 花がぽつりと言う。

「見えないように、電気、消したの。だから、つけないで。つけないで。お願い。お願いだから……」

 その先は声にならない。喘ぐように花は泣き始める。リューシカは電気を消す。恐る恐る近づく。脈を取らなくてもわかる。暗くてもわかる。全身に刺傷がある。その傷はとても深い。生きているとは思えない。

「お母さん、お母さん、お母さんっ」

 花が死体に取り縋って泣いている。リューシカは自分の手足を見つめる。暗くてもわかる。手も、足も、血に濡れて真っ赤に染まっている。

「花、警察、警察に連絡しなきゃ」

 花は泣きじゃくっている。

「あいつは? あいつはどこにいるの?」

 花は返事をしない。

 リューシカはひとり階段を登っていく。血の足跡が二階に伸びていたからだ。手すりに掴まる。ゆっくりとゆっくりと登っていく。寝室と思しき部屋の扉を開ける。梁からロープが伸びている。男が首を吊っている。ロープが真っ直ぐに伸びている。まるで空間に線を引いたように。足元には尿失禁の跡が水溜りになっている。首がありえないほど伸びている。目を剥き、どす黒い顔をして、だらりと舌を出して、暗がりからリューシカを見ている。リューシカは立っていられなくて座り込んでしまう。その場で堪えきれなくなって胃の中のものをすべて吐き出してしまう。悪い夢だ。全部夢だ。歯の根があわない。呼吸ができない。息ができない。胸が苦しい。夢だ。これは夢だ。そう思えたらどんなにか楽だろう。

 リューシカは自分の仕出かした事象に慄然とする。この男が本当に死ぬなんて。花の母親を道連れにして死んでしまうなんて。これは、本当に……自分が望んだ結果だったのだろうか。リューシカの悪意が人を殺したのだろうか。

 リューシカは這うようにして階段を降りる。暗がりに目が少しずつ慣れていた。花は母親にしがみつくようにして泣き続けていた。

 リューシカは震える指でスマホを取り出し、警察に通報する。自分でなにを喋ったのかわからない。しばらくするとパトカーのサイレンが近づいてきた。周囲の家々から人が出てくる。リューシカは花を抱きしめた。怖い。怖い。怖い。ガタガタと震えながら、狂ったように泣き続ける花を抱きしめていた。

 それから警察の事情聴取があった。司法解剖があった。よくわからないいろいろなことがあった。リューシカは調書を取られ、読み聞かせられた上で署名、捺印をさせられた。でも、自分で喋ったことも聞かされた内容も全く覚えていない。押収された男のパソコンには一見なにも入っていなかったように思われた。しかし復元してみると花の隠し撮りの写真が大量に出てきた。勤め先の小学生と思われる少女たちの写真も。花はそれらを見せられたらしい。警察は花の母親がその写真に気づいて夫を問い詰めた結果、男が思い余って妻を殺害し、その後自殺した、と考えた。あながち間違いではないかもしれない。わからない。リューシカはあの日、電話で男と話したことは決して口にしなかった。

 リューシカは花との関係を訊かれた。母親が殺された当夜リューシカのアパートに花が泊まっていたからだ。なんと答えたのかよく覚えていない。恋人、と答えたのだろうか。それとも大切な友人と答えたのだろうか。

 二人の関係には曖昧な点や不審な点がないとは言えなかったが、それは瑣末なことだった。リューシカは解放された。でも、身も心もボロボロに疲れ果てていた。花は、花はどうしているのだろう。取り調べで嫌な思いをしたのではないか。そう思うと胸が潰れるようだった。

 花には親戚がいない。母方の血は絶えている。義理の父親側の家族はいるが、花は会おうとしなかった。葬儀は九月二日の月曜日に行われた。義理の父親の遺体は受け取りを拒否した。母親のためだけの葬儀。そしてそれは誰にも知られることなく死んだ、花の弟……あるいは妹のための葬儀。けれども弟妹は骨すら残らなかった。

 葬儀は滞りなく終わった。リューシカは最後まで遺影を見られなかった。花は自宅に帰るのを拒んだ。そこにはまだ血の匂いがこびりついていたからだ。そんな家に帰りたくない花の気持ちは痛いほど理解できた。でも、どうしたらいいのだろう。どうするべきなのだろう。これからなにをしたらいいのかわからない。手続きは山のようにあった。やらなきゃいけないことは山ほどあった。でも、今はなにも考えたくない。花も。リューシカも。疲れ果てていた。

 花は結局リューシカのアパートにやって来た。リューシカの車の助手席に座り、大事そうに母親の骨壷を抱えて。ただそれだけを持って。花の着替えはリューシカが見繕って鞄に詰めてきた。それと花のお気に入りの古びた毛布も。それはライナスの毛布。それがないと花は上手に眠れないらしい。リューシカはそっと匂いを嗅ぐ。花の匂いがする。

「お母さんも一緒なんだけど……いいかな。リューシカ、は……気持ち悪い、……かな」

 アパートの玄関で花が立ち止まる。リューシカが花の顔を覗き込む。花は小さな声で途切れ途切れに言った。あんな家にもう、母親を置いておけない。その気持ちはわからないでもない。

「そんなことないよ。一緒にいてあげなさい。ね?」

 リューシカは答えた。リューシカは骨壷を受け取り、大事そうにテーブルの上に置いた。

「でも、早くお墓に入れてあげないと。成仏できないものね」

 そしてリューシカは優しく囁く。でも、成仏。成仏? カトリックの家庭で育ったリューシカにそんな概念はない。死んだらそれまでなのだ。最後の審判の日まで人は眠りにつくのだ。だからそれはリューシカの吐いた嘘だった。でも、そう言ってあげなければ花が可哀想だった。憐れだった。いつかきちんとお墓に入れてあげたい。それが仏式であれなんであれ。きちんとお墓に入れてあげたいのだ。リューシカは花の母親に償わなきゃいけない。なにも知らずに死んだかもしれない母親に、骨すら残らなかった花の弟妹に、リューシカは心を込めて祈る。静かに手をあわせる。

「ごめんなさい。リューシカを巻き込んじゃって。リューシカに迷惑をかけて。ごめんなさい。ごめんなさい。お願い。わたしを許して。……許して」

 花の頬を涙が伝う。

「花はなにも悪くないわ。ずっとここにいて。わたしのそばにいて。わたしが守ってあげる。花を守ってあげるから。だから、もうわたしから離れないで。お願い。花。……花」

 リューシカの頬を涙が伝う。花の涙を見ていると悲しくなる。きつく抱きしめあう。二人の体からは抹香の匂いがする。葬儀の匂い。死者の匂いが。服に染み着いている。リューシカはそれを強く感じる。だから服を脱ぐ。裸になる。それでも匂いは取れない。二人でシャワーを浴びる。泣きながらシャワーを浴びる。二人で体を洗いあう。それでも匂いは消えない。まるで六条の御息所のようだ。その匂いは自分を苛む。リューシカの心の奥深くに鋭い爪痕を残す。いつまでもシャワーを浴び続けるリューシカを、花はじっと見つめている。リューシカも花の濡れた体を見つめている。初めて見た花の裸体はとても小さく、弱々しかった。

 こんなつもりじゃなかった。

 なら、どんなつもりだったのだろう。

 リューシカは考えた。自分がなにを手に入れ、なにを失ったのかを。

 二人で浴室を出る。リューシカは花の体をバスタオルで拭く。花はされるがままになっている。花とリューシカはのろのろとTシャツをかぶり、ショーツに足を通す。リューシカの髪は濡れたまま。暗灰色に波打つ髪はまるで冬の海のよう。

 寝室に入る。二人でベッドに横たわる。手を繋ぐ。泣きすぎて頬がひりひりする。窓がカタカタと鳴っている。台風が近づいている。強い雨と強い風を連れて、嵐が来ようとしている。時計を見る。午後四時三十五分。空は分厚い雲に覆われている。電線が震え始めている。ひゅんひゅんと音がする。それは夕顔の泣き声のように、葵の泣き声のようにリューシカの耳に響く。苛む。

「リューシカ」

 花が呟く。多分、意味はない。

「うん」

 リューシカは頷く。条件反射のように。目を瞑る。眠る時間には早すぎる。でも、なにも考えたくない。なにもしたくない。窓がカタカタと鳴っている。電線がゆれている。街路樹の葉擦れの音がする。嵐が来ようとしていた。花がリューシカの胸に手を這わせる。その手が下がっていく。やがてTシャツの中に指先が潜り込む。素肌に花のやわらかな指を感じる。今度は少しずつ、少しずつ上に。いつしか花の指はリューシカの胸の先端に触れている。甘く、切ない刺激がその中心から全身に広がっていく。駄目。リューシカは首を横に振る。なぜ? 花が首を傾げる。お母さんのお葬式の日にそんなことをしちゃ駄目。リューシカは優しく諭す。花の手を押しとどめる。そしてゆっくりと髪を撫でる。花は目を瞑る。しくしくと泣いている。なにかに触れていなければ、なにかに溺れていなければ、壊れてしまいそうな自我を保てない。それがリューシカには不憫でならない。でも、このままふたりで快楽に浸ってしまうわけにはいかない。快楽は麻薬と一緒だった。悪だった。あってはいけないものなのだ。リューシカはそのことを知っている。身を以て体験している。それなのに抗えない。沈んでいくと感じてしまう。まるで底のない沼に引き摺り込まれるように。

 リューシカは幻の沼の中に立っている。下半身まで泥に覆われている。そこからまず左足を抜き取る。大丈夫。ゆっくりと右足も泥濘から引き抜けばいい。花。花。わたしはこれ以上あなたを傷つけたくない。嘘を吐きたくない。だから今、あなたを抱くことはできない。

 そう思う。そう思って花を抱きしめる。

 花はイヤイヤをするように首を振る。そして古びた毛布に顔を埋める。その毛布は何度花の涙を吸ってきたのだろう。どれだけ愛されてきたのだろう。そう思うとリューシカの胸は震える。それがつまらない嫉妬だということにリューシカは気づいていない。いや。気づかないふりをしている。

 結局リューシカは義姉と夜々子さんのような関係になることを最後の最後でためらった。抱きしめることしかできなかった。快楽に溺れ、自分の楽しみだけに浸るわけにはいかなかった。本当はそうしたかった。ぐちゃぐちゃに融けあってしまいたかった。だからリューシカは魔女になろうとしたのだ。でも。でも欲望は人を、自分を傷つける。忘れたつもりはなかったのに。思い出したくもなかったはずなのに。なぜ。なぜ。……なぜ? リューシカは繰り返し考える。自分が殺した四人、あるいは五人のことを考える。彼らは今、天国にいるのだろうか。それとも地獄に墜ちたのだろうか。

 煉獄で身を清めるために、火に灼かれているのだろうか。

 この世に罪を負わずに生まれてきた者はいない。一人もいない。なら、天国に行ける人間なんていやしない。魔女のなりそこないは考え続ける。もう神様なんて信じない。信じていない。無慈悲なものに縋ったりしない。でも、自分は死んだら確実に地獄に墜ちるのだろうな、と。


 パラパラと降り出した雨は夜の十時を過ぎると叩きつけるような激しさに変わった。街路樹の葉っぱがちぎれて窓に貼りついている。空に風が渦巻く音がする。轟々と。気圧が変わったせいでリューシカは頭が痛くなる。いつもの鎮痛剤を口の中に放り込む。ペットボトルの水で嚥下する。

「リューシカ」

 ベッドから起き出してきた花がリューシカに声をかける。その声はどこか不安げだ。

「どうしたの?」

「なんだか風の音で落ち着かなくて。頭痛いの?」

「少しだけね。気圧のせいだと思うけど」

「そう。……リューシカは明日仕事?」

「うん。いっぱい休んじゃったから。これ以上はちょっと、ね」

 苦笑しながらリューシカは呟く。

「花、一人で大丈夫?」

「台風が来てるから。じっとしてる。……警察から渡された書類も書かなきゃいけないのが幾つかあるし。でも」

 花はきゅっとTシャツの裾を握りしめる。ピンク色のショーツがちらりと覗く。

「……ちょっと寂しい」

「なるべく早く帰るから。ねえ、花」

「ん?」

 リューシカは少しだけ躊躇する。でも、言う。しどろもどろになりながら。

「あの……わたしの養子、に……ならない? 手続きは色々と大変みたいだけど、えっと……明日職場のPSWに相談してみようかと思うの。あ、その、今すぐどうこうって言うんじゃなくても、あの……」

 PSW、精神保健福祉士の仕事にそんな職員からの相談に関する業務は含まれていない。それを訊くなら職員担当の事務員だろうに。そもそもPSWは入院患者のために働いている。リューシカの相談に乗るために病棟に勤務しているわけじゃない。それはわかっている。リューシカにだって充分わかっている。けれども仲の良いPSWなら相談に乗ってくれるかもしれない、と思ったのだ。

「わたしが、リューシカの子ども、に?」

 花は驚いたような口調で問い返す。青天の霹靂へきれきだ。もっとも、今は夜で台風が分厚い雲を引き連れ上空を覆っている。

「う、うん。一緒に住むには、将来的にもそうするのがいいのかな、って、思って……」

 リューシカの声は消え入りそうだ。花の瞳から一筋の涙が零れる。……涙? リューシカは息を飲む。後悔する。まただ。またやってしまった。母親の葬儀の日にする会話じゃなかった。台風の夜にする話じゃなかった。そう思って後悔する。

「ありがとう。でも、少し考えさせてもらって、いい……かな。嬉しい。嬉しいけど……ごめん、ごめんね、リューシカ。あれ、変だね、なんでわたし泣いてるんだろう」

 リューシカは花を抱きしめる。花の肩が震えている。嗚咽が漏れる。花の涙がリューシカの胸を濡らす。花が泣いているとリューシカも泣きたくなってしまう。

「わたし、リューシカとおつきあいしたかった。恋人になりたかった。親子じゃなくて、恋人同士になりたかった……」

 ああ。

 リューシカは考える。この先何度花を泣かすことになるのだろう。どれだけ間違いを繰り返せば……花を幸せにできるのだろう。

 リューシカは強く花を抱きしめながら、同じくらい強くそう思う。花の頬が涙で光っている。リューシカの頬にも涙が光っている。風が強くなっていた。窓ガラスがガタガタと音を立てていた。どこか遠くで救急車のサイレンの音がする。花とリューシカは嵐に翻弄される小舟のようだった。心細かった。リューシカは間違ったのだ。リューシカはこう言うべきだったのだ。


「花お願い、わたしと結婚して」


 ……と。たった一言でよかったのに。

 この国では同性同士の結婚は未だ認められていない。同じ戸籍になるには養子縁組をするしかない。ただ、たとえ同じ養子になるのだとしても。花は結婚して欲しいと、一緒になって欲しいと、そう言って欲しかった。淡い、夢のような話ではあるのだけれど。

 白いウエディングドレスを身に纏う二人の女性が、ネズミの踊る遊園地で挙式したのは今年の三月のことだ。花はその模様をテレビで見ていた。レズビアンのカップルがその遊園地で結婚式をあげるのは開園以来初めてで、少しだけ話題になった。テレビのニュースにもなるくらいに。けれども花はその頃にはなにも思わなかった。実際に自分が女性を好きになってみて、結婚式を挙げた女性たちの姿が時々ふっと脳裏をよぎるようになった。そんなとき、花はリューシカと自分がウエディングドレスを着ている姿を夢想してみたりした。いつかそんな日がくればいいなと思っていた。淡い、夢のような話である。

 ただ、それを思うといつも花の心に、違和感がつきまとう。

 窓ガラスがゆれる。風が空を切る音がする。花が不意に訊ねる。

「ねえ、もしわたしがリューシカの子どもになったら、リューシカをなんて呼べばいい? 母さん? それとも……ママ?」

 花のその呟きに、リューシカの心臓がどくん、と動いた。なにかを思い出しそうになった。忘れていたなにかを。忘れようとしていたなにかを。でも……リューシカにはそれがなにかわからない。どこかのシャッターになにかが当たった音がした。とても大きな音がした。リューシカは一瞬びくりと肩を震わせ、そしてかぶりを振った。蒼白になったリューシカの顔を、花は涙に濡れた瞳で、じっと、不思議そうに見ている。ママ。花は思う。なぜかしっくりくる。

「……わたしはリューシカでいい。いつまでも。ただのリューシカでいいよ」

 けれども花を強く抱いたまま、リューシカはぽつりと呟く。風と雨の音はいつまでも鳴り止まない。まるで世界の終末に高らかと響く、天使の喇叭ラッパのように。

 もちろん世界は終わらない。終焉はこない。台風はリューシカの街をかすめるように通過していった。そして直撃した街には甚大な被害をもたらした。死者六人、行方不明者二人、重軽傷者十三人と発表された。けれどもリューシカは新聞もテレビも見ない。そんなものには興味がない。だから被害状況を知ったのは、次の日、職場に出向いてからだった。

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