2013・8・27・(火)

 ふとなにか光った気がして、ハードカバーの本から視線を上向けた。夏の最後の花火が窓から見える。リューシカは布団の中で本を読みながら煙草を吸っている。煙草は湿った新聞紙みたいな味しかしない。頭が痛い。気持ちが悪い。お腹も痛い。無理もない。今日は生理の初日。三日間のリューシカの贖いの日々が今日からまた始まったのだ。

 耳を澄ます。花火の音は聞こえない。ここから会場まではあまりにも遠い。光だけの花火とベッドライトだけの暗い部屋。それは打ち捨てられた花壇に似ている。誰も訪れない静かな温室に似ている。順延につぐ順延でお情けのように平日に咲いた花火はどこかもの悲しい。赤や青の花が夜空に小さく開き続けている。それは一つの季節の終わりを暗示している。もうすぐ夏が終わろうとしている。

 リューシカは起き上がって網戸の桟に指をかける。夜の気配が濃い。とろりと指先から零れ落ちてしまいそうな夜だった。

 どこからか虫の鳴き声が耳鳴りのように聞こえてくる。リューシカは再び横になり、本の続きを読み始める。煙草を揉み消す。三人目の患者のことを思い出す。その患者は十六歳の少女だった。

 彼女の場合は不潔恐怖から手洗いがやめられなくなり、学校にも通えなくなったケースである。彼女は毎日自宅の風呂に六時間も入り続けた。人が触ったものには一切触れられなかった。手洗いのせいでその手指は荒れに荒れ、ガサガサに乾いてひび割れていた。抜毛してしまうため頭皮の状態もひどかった。児童思春期病棟に入退院を繰り返していたのだが、中学を卒業してからはリューシカの病棟に入院していた。時々外来に通っていた姿をリューシカも記憶している。最後に彼女と会ったときも、外来で診察待ちをしているところだった。少し痩せた? と訊くと、最近食べ物に味がしなくて、と苦笑していたのを覚えている。その彼女がなぜか突然両親を殺害した。玄関の隙間から血が川のように流れていた。不審に思った近所の人の通報で警察が到着したとき、彼女は泣きながら切り取った母親の腕を食べていたという。彼女はそのときすでに、体のかなりの部分が腐り始めていた。だから精神科ではなく救命救急センターに運ばれた。けれどもやはり、治療の甲斐なく死亡したと聞いている。

 リューシカにはよくわからない。三つのケースに共通しているのは患者がまだ全員若いということ、精神疾患の既往があるということ、女性だということ、発症前に食事に味がしないと言い出すこと……。ただ、それだけ。リューシカは思う。それは本当に自分の知っている精神病の一つなのだろうか。ミラが報告した、小説に仕立てたその疾患は、果たしてリューシカの世界で起きている〝病気〟と同じものなのだろうか。本当にそう言い切れるのだろうか。

 寂しさに耐えきれなくなると体が腐っていき、やがて衝動的に人を襲うようになる病。リューシカは思う。そんなものがあるとは思えない。理解できない。理解の範疇はんちゅうを超えている。以前アーカム・アサイラム精神病院のホームページを調べていた田所先生ならなにかご存知だろうかと思って訊ねると、その不可思議な精神病がアメリカで見つかったのはかれこれ二十九年ほど前のことであるらしい、と教えてくれた。そして発見者であるミラを殺したのも、どうやらこの症例の患者であるとのことだった。厭な符号にリューシカは背筋を震わせる。幾つかの症例について語る田所先生の話を聞いていると、やはりそれは精神病の類いであり、現実の病なのかもしれないと感じた。もっとも、なぜ食事に味がしなくなってしまうのか、なぜ人を襲うのか、なぜ体が腐ってしまうのか……リューシカには納得のできない点も多かったが。

「その精神疾患は今もアメリカで発症例があるんですか?」

 リューシカは訊ねる。

「いや。そういう報告はないようだね」

 初老の田所先生は、眼鏡の位置を直しながらそう答える。

「……どうしてでしょう?」

「さあ。患者が発症に至った原因も、背景も、発症のメカニズムも……なにもかもが不明なまま収束してしまったから。なんとも言いようがないね。ただ」

「ただ?」

「十八年前に発見者のミラという女医が殺害されてからは誰一人としてその症例を見た者がいない。それはミラの死をもって終わりを告げたように思えるんだよね。不思議なことに」

 十八年前。1995年。日本では阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件があった年。アメリカではなにがあった年なのかリューシカにはわからない。少なくとも、そのミラという女医が殺された年であるのは確かだ。……でも、だからなんだというのだろう。今回もミラが殺されたように、誰かが死ねば終わるのだろうか。それはミラに向けられたように、誰かに向けられた呪いなのだろうか。呪い。呪い? そんな。まさか。ありえない。

 重ねて置いてあったチョコレートをパキンと割って口に運ぶ。チョコレートは甘いだけの炭みたいな味がした。頭が割れるように痛い。吐き気が止まらずに気持ちが悪い。太い釘を打たれたようにお腹が痛い。無理もない。だって今日は生理の初日なのだから。それはリューシカへの罰の、始まりの日……なのだから。

 リューシカはもうそれ以上本に集中できなくなる。パタンと音を立てて本を閉じる。本の題名は『ステーシーの為の鎮魂歌』。それは奇しくも一花の言っていた言葉を裏づけるように、本屋の一番目立つ場所に平積みにされていた。可憐な少女たちは病に冒され、寂しさから人を襲うようになる。そして死ぬとゾンビとなって復活する。彼女たちは生前のことを覚えているが、心に巣くうのは激しい飢えだけだ。寂しい、寂しいと言って再び人を襲い、ついには自分から男たち——それは自分の恋人だったり兄だったりした——にもう一度殺して欲しいと嘆願するようになる。最初は拒否しても、嫌々でも、男たちは次第に少女を再び殺すことに対して快楽を見出していく。ゾンビとなった少女たちは徹底的におとしめられ、はずかしめられ、そして再び殺された。描写の激しいグロテスクな小説なのに。男性の嗜虐心をあおるようなひどい内容なのに。いや、だからこそ売れていた。そして空前のゾンビブームが到来しつつあった。SNSの書き込みはより過激になっている。テレビでも少しずつ報道されるようになってきた。大衆誌にも取り沙汰されるようになっている。でも、リューシカはそれらのことを知らない。テレビを見ない。新聞もとっていない。たまにファッション誌を読む程度でそれ以外の雑誌はほとんど読まない。SNSにも興味がない。だからそれらのことをまだリューシカは知らない。知りようがない。

 ベッドから起きだして冷蔵庫まで歩いていく。ふらつく。貧血だとリューシカは思う。咄嗟に手をつく。指先が痺れている。冷蔵庫を開ける。ペットボトルに口をつけて水を飲む。引き出しから鎮痛剤を取り出す。五錠まとめて口の中に放り込む。そんな飲み方をしてはいけない。お薬は用量用法を正しく守って服用しましょう。箱にも書いてある。看護師のリューシカは当然そのことを知っている。知っているだけだ。仕方がない。リューシカはそういう人間だもの。

 ベッドに再び横になろうとして、ふとなにかが気にかかった。それがなにかはわからない。あるいは虫の知らせのようなものだったのかもしれない。リューシカは窓辺に寄る。そっと外を見つめる。花火がまだ打ちあげられている。自分の気のせいだったのだろうか。視線を落とす。人影が見える。

 花。

 ……花?

「花っ」

 窓を開けてリューシカは叫ぶ。それは確かに花だった。花はビクッと体を竦ませる。振り返る。視線が絡まる。花が走り出す。逃げる。なぜ、なぜ逃げるの?

「待ってっ」

 リューシカは寝間着の上に薄いカーディガンだけを羽織って外に飛び出す。道の左右を見回す。どっち、どっちに行ったの?

 頭が痛い。無視する。気持ちが悪い。無視する。お腹も痛い。無視する。全部無視する。心臓が早鐘を打つ。気持ちばかりが焦る。汗が滴り落ちる。リューシカは駅の方に走る。ふらつく。リューシカは小さな悲鳴をあげる。サンダルが脱げて派手に転ぶ。ぐうっと声にならない声で呻く。

 ……日中、明日お見舞いに行くね、と花からメールがあった。楽しみにしてるよって、返事を書いた。意味がわからない。わけがわからない。その花がなぜ今アパートの前にいたのだろう。

 リューシカは起き上がる。また走り出す。サンダルなんて履いてくるんじゃなかった。ミモザの並木が見える。大きな児童公園に着く。辺りを見回す。こっちじゃなかったのだろうか。花。花。リューシカは立ち止まる。ふと人影に気づく。ベンチに誰かが座っている。顔を両手で隠すようにして、小さく蹲っている。泣いているように見える。……なぜ、なぜ泣いているの?

 息を整える。ゆっくりと近づく。リューシカは首筋の汗を拭った。

「花」

 声をかける。花がのろのろと顔を上げる。唇が震えている。頬を流れる涙が街燈に照らされていた。

「リューシカ」

「もう、どうして逃げたりしたの?」

「リューシカ、その膝」

「ん?」

「転んだの? 転んじゃったの?」

 見るとパジャマの右膝の辺りに血が滲んでいる。気づかなかった。今更ながらにジンジンと疼くような痛みを感じた。

「ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい」

 花の瞳からまた涙が溢れる。零れ落ちる。

「泣かないでいいの。花のせいじゃないもの。だから泣かないで。さ、一緒にアパートに帰りましょう、ね?」

 リューシカは手を差し伸べる。花がリューシカにしがみつく。声を殺して泣いている。リューシカはそっと花の背中を抱く。姉のように。母のように。

「どうしたの? また痴漢にでもあっちゃったの?」

 冗談めかしてリューシカは訊ねる。

「痴漢の方がまだましだった。……わたし、どうしよう。人を殺したかもしれない」

 リューシカは驚いて花を見つめた。嗚咽が聞こえる。やがてそれが慟哭どうこくに変わる。リューシカは咄嗟に自分の胸に花の頭を押しつける。きつく抱きしめる。泣き声がくぐもったものに変わる。周囲を慌てて見回す。誰もいない。誰にも聞かれていない。誰も見ていない。

「リューシカ。リューシカっ」

 リューシカの胸の中で花が震えている。

「行きましょう」

「でも」

「大丈夫。わたしがなんとかしてあげる。だから、ね?」

「……うん」

 花の肩を抱く。顔を上げさせる。その頬に優しくキスをする。涙の味がする。苦い後悔の匂いがする。その味を、その匂いを、リューシカは知っている。忘れるはずがない。それはあの事件の日からずっと、呪いの水となってリューシカを責め苛んできた。リューシカへの罰となって、ずっと責め苛んできたのだから。

 心臓が早鐘を打つ。早くこの場を去らなければ。花の手を取る。花は泣きながらついてくる。暗い道を歩く。遠くの方で花火があがっている。音は聞こえない。耳鳴りのような虫の声がするだけ。二人の足音がするだけ。時々しゃくりあげる花の息遣いが聞こえるだけ。歩く。手を繋いだまま二人は歩き続ける。

「それで、どうしたの? いったいなにがあったの?」

 アパートの玄関に鍵をかけ、居間に花を座らせる。インスタントのコーヒーを花の前に置く。リューシカは優しい声で訊ねる。

 マグカップを持つ花の手が震えていた。コーヒーが飛沫がテーブルに零れた。花は思い出してるのだ。その、なにかを。

「……花?」

「わ、わたし」

 カップが倒れる。

 花の口から小さな悲鳴があがる。

「は、花っ? 大丈夫? 火傷しなかった?」

「ごっ、ごめんなさいっ」

「拭くもの持ってくるから。待ってて。じっとしてて」

 リューシカは慌ててタオルを何枚か持ってくる。円卓の上から溢れたコーヒーがラグマットを汚している。タオルを当てる。コーヒーはまだ熱い。花にはかかっていないようだ。よかった。花が火傷しなくて本当によかった。

「ごめんね、ごめんね、リューシカ」

「大丈夫だから。謝ったりしないでいいの。それより本当に大丈夫ね? どこにもかかってないわね?」

「うん。でも」

「え?」

「ラグマットが汚れちゃった」

「馬鹿。そんなのどうでもいいの。花が無事ならそれでいいの。マットなんて汚れたら洗えばいいんだから」

「うん。……ありがとう、ごめんね、リューシカ」

 花が笑う。その目からポロポロと涙が零れる。リューシカは花の髪を優しく撫でる。こんなとき、どうしたらいいのかよくわからない。

「花」

 リューシカが名前を呼ぶ。その先が続かない。名前を呼ぶことしかできない。悔しい。もっと、もっとなにか言うことはないのだろうか。

「……どこから話せばいい?」

「花が話しやすいように。話してくれたらいいよ」

 焦ってはいけない。努めて冷静になろうとする。大丈夫。大丈夫なはず。自分は大丈夫なはず。あのときとは違う。あの日とは違う。リューシカは思う。無理矢理にでもそう思い込もうとする。花がぽつりぽつりと話し始める。

「母の再婚相手に押し倒されたの。だからわたし、咄嗟に……身近にあった電気スタンドで思いっきり頭を殴っちゃったの。あいつ、動かなかった。……死んだのかな。こ……」

 花の唇が震える。

「殺しちゃった、かな」

 リューシカの心臓が止まる。再び動き出すまでどのくらい時間がかかっただろう。頭が痛い。気持ち悪い。お腹が痛い。空っぽのお腹が痛い。……耐えきれない。

「……ごめん、ちょっと待ってて」

 リューシカはトイレに駆け込む。胃の中のものを全部吐き出す。喉が灼ける。胸が灼ける。黄色い胃液しか出ない。涎が口の端を伝う。涙が溢れる。心の中が真っ黒に塗りつぶされていく。そんなリューシカの様子を心配そうに花が見つめている。

「ご、ごめんね。変な話をして。迷惑だったよね。でも、行くところがなかったの。どこにも行くところがなかったの。リューシカ。わたしにはリューシカしかいないの。ごめん、ごめんなさい……っ」

 リューシカはトイレットペーパーで口を拭う。溶けた紙が口の端につく。手で擦る。振り返って笑ってみせる。うまく笑えているだろうか?

「花は悪くないわ。大丈夫。きっと失神しただけよ。女の力で殴ったってたかがしれてるもの。そいつ、血は出ていたの?」

「わからない。どうだっただろう。たぶん、出てなかったと思う」

「そう」

 リューシカは思う。血が出ていないからといって安心はできない。急性硬膜下血腫を起こしていれば、当然死に至ることだってあり得るのだ。植物状態で一生を過ごすことだってあり得るのだ。

「それなら大丈夫よ。血も出ないくらいにしか殴れなかったってことでしょう?」

 立ち上がる。冷蔵庫の前まで移動する。ペットボトルの水でうがいをする。流しに吐き出す。そんなリューシカの様子を心配そうに花が見つめている。

「そう、なのかな。本当に? 本当に大丈夫?」

「……もちろんよ。看護師さんの言うことは信用しなさい」

 リューシカは笑う。再びアケロンの川は増水する。黒々とした濁流になる。足がつかない。リューシカをその流れの中に引き摺り込もうとする。抗えない。沈んでいく。息もできない。ああ。花、花っ。今、わたしは、


 うまく笑えているだろうか?


「今日は泊まって行きなさい。……寝室にいらっしゃい」

「でも、わたし」

「いいの。今はゆっくり休みなさい。どうするかは明日考えましょう。ね?」

「うん」

 花の手を引く。シャワーを使わせる。着替えをさせる。リューシカの服は花には大きい。シングルのベッドは狭い。二人並んでタオルケットに包まれるとベッドはそれだけでいっぱいになる。シャワーを浴びたばかりなのに花の体は冷たい。冷え切っている。震えている。リューシカは花をそっと抱きしめる。花は小さな声で喋り続ける。再婚相手が小学校の教師をしていること。母がその男の子どもを妊娠していること。だから母には迷惑をかけられないこと。母の妊娠以来再婚相手の男が時々花のことをじっと見つめていること。その視線に耐えながら生活してきたこと。今日はたまたま母が外出していて……リューシカはなにも言わない。ただ黙って花の話を聞いている。時々髪を撫でる。背中を優しくさする。小さく首肯する。そうか、そいつも教師なのか。そう思うだけ。

「どうしたらいい?」

「今は眠るの。なにも考えないでゆっくり休みなさい」

 花がしくしくとすすり泣く。涙を流している。リューシカは涙の川に口づけをする。

 不意に義姉の、一花のことを思い出す。夜々子さんを組み敷く一花の姿を思い出す。なにかとても黒々としたものがリューシカの胸を満たしていく。あんなふうにしたい。あんなふうになりたい。自分にもその権利があるはずだ。そう思う。そう思うと胸の中に黒い水が溜まっていく。呼吸が苦しくなる。リューシカの中の呪いの水が膨れ上がる。

 だって、義姉に出来て、自分に出来ないなんて。間違ってる。

「ねえ、花」

 リューシカは小さな声で呟く。

「……ん?」

「ここで、一緒に住む?」

 花が驚いてリューシカの顔を見つめる。

「……ありがとう。嘘でも嬉しい」

 本気なんだけどな。

 そう思う。そう思いながら花に口づけをする。花が擽ったそうに笑う。どうかせめてわたしの隣にいるときくらい、花が幸せな表情を浮かべられますように。

 リューシカは胸の中で小さく祈る。ううん。それはきっと祈りじゃなかった。もっと別のなにかだった。


 深夜。ベッドの端に座り、傍らの花を見下ろす。煙草を一本口に咥える。花はすうすうと寝息を立てている。いとけない花の寝顔にリューシカの胸は締めつけられるように痛む。空っぽのお腹が痛む。ライターを擦る。煙草の先にオレンジ色の火が灯る。煙草の銘柄はいつものショートホープライト。赤い弓矢のパッケージが気に入っている。なによりナースウエアのポケットにすっぽり収まる大きさなのがいい。肺にまで思いっきり煙を吸い込み、紫煙を吐き出す。ああ。死ぬほどまずい。腐った新聞紙みたいな味がする。

 花の鞄からスマホを取り出す。電源が切られている。リューシカは当たり前のように電源を入れる。パスコードのロックがかかっている。そのままじっと見つめる。待受画面が暗くなる。自分の枕元に花のスマホを放り投げる。煙草を灰皿に押しつけて消す。白い煙が立ち昇る。リューシカはそれをぼんやりと眺めている。煙草の煙が消えたあとも、リューシカはじっと真っ暗な虚空を見つめていた。

 どのくらいそうしていただろうか。不意に花のスマホが震えた。ディスプレーを見ると〝お母さん〟と表示されている。リューシカは無造作にスマホを取り上げ、通話パネルに指を滑らせる。向こうからかかってきた電話に、パスコードは無意味だ。

「もっ、もしもし? 花? 花なの? どこにいるの? ねえ、返事してっ」

「こんばんは。花のお母様ですか」

 リューシカは返事をする。煙草を咥えて火をつける。

「……誰? あなた誰なの? は、花は? 花はいったいどうしたんですかっ?」

「わたしの隣で眠っています。申し遅れました。わたしは花の友人で月庭と言います。精神科の看護師をしております。花は今泣き疲れて眠ってしまっているので、どうかそのまま寝かせてあげてくださいませんか」

「な、泣いているって、……花は無事なんですよね?」

 紫煙を吐き出す。

「ええ。もちろんです。ただ、花は多感な時期です。いろいろと悩みも抱えているみたいです。失礼ですがお母様は妊娠していらっしゃるとか。やはり花も年頃の女の子ですし、複雑なんです。再婚されたというお父様とのこともお有りでしょうし……花の気持ちが落ち着くまでは少し、距離を措いた方がいいのかもしれませんね。わたしでよければ協力させてくださいませんか。友人として花の力になりたいのです」

 少しの沈黙。リューシカからはなにも言わない。

「……ご迷惑をおかけしてしまったみたいで、本当に申し訳ありません。わたしが至らなかったのがいけなかったのですね。月庭さんとおっしゃいましたでしょうか。本当にご迷惑をおかけしました」

 いいお母さんだと思う。でも、花のことをしっかり見てあげられなかったのだ。男を見る目もなかったのだ。リューシカはそう思う。その男とどんなふうにして知りあったのかは知らないけれど。別に知りたくもないけど。煙草を強く灰皿に押しつける。煙が少しだけ目に沁みた。母親なのに。……一緒に暮らしていてなにも気づかないものなのだろうか。

 わたしが母親ならよかったのに。

「いいんです。さっきも言いましたが花はわたしの大切な友人ですから。今日のところはわたしのアパートでお預かりさせてもらってもいいでしょうか」

「ええと、あの……すみません。色々と甘えてしまって。でも、失礼ですがうちの花とはどういったご関係なのですか? 花の友人だとおっしゃられても、看護師さん、ですか? 失礼ですが歳も随分離れているみたいですし……」

「花が痴漢に遭っていたのを助けたのが縁でして。それから親しくおつきあいをさせていただいています。時々うちに遊びにくるんですが……花からなにも聞いていませんでしたか?」

「そうだったんですか。重ね重ね申し訳ありません」

「いえ。ところでお父様はすぐ近くにいらっしゃいますか?」

「え? ええ」

 母親の声に訝しげな気配が漂う。リューシカは気づかないふりをする。

「お父様とも少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか。花をお預かりする上でご挨拶申しあげたいのですが」

「はい。わかりました。そういうことでしたら」

 がさがさと音がする。

「……もしもし」

 押し殺したような低い声が聞こえる。生きていたのか、とリューシカは思う。小さく舌打ちをする。胸の中のどす黒いなにかが急速に喉元に向かって昇ってくる。

「もしもし?」

「わたしはお前が花になにをしようとしたのか知っている。お前がいる家に花を帰すつもりはないわ。ねぇ、あんたさ、奥さんを説得してくれないかしら。花はわたしが引き取るから。あんただって邪魔でしょ? いらないでしょ? おもちゃなら別に探してよ」

「な、なにを……そんなこと出来るわけが……」

 隣で自分の妻が、花の母親が聞いているからだろうか。男の声は抑制されている。静かである。

「出来るか出来ないかなんて訊いてないわ。やるの。もしも無理だって言うなら構わないわ。出るところに出ましょう。このまま警察に通報したっていいのよ? 花のためならお前の家庭も、仕事も、全部滅茶苦茶にするくらいのことわけないのよ? 近頃はDVや虐待に対して警察も過敏になっているわ。マスコミもね。あんた小学校の先生なんだってね。すべてを失ってもいいなら。どうぞ?」

「そ、それで、僕はどうしたら……」

 小さな声。元々は気弱な男なのだろう。魔がさしただけなのだろう。でも、許さない。リューシカは絶対に許さない。

「知るか馬鹿。自分で考えろ。わたしは嫁を説得しろってそう言っただろうが。……お前には二度と花の体に触れさせやしない。指一本触れさせないわ。変態。最低のクズ野郎。今度同じことをしたらわたしがお前を殺すから。明日まで待つわ。話がまとまったらもう一度この携帯に連絡して。あ、そうだ。あなたの頭は大丈夫? 花に殴られて失神したんだってね? ばーか。……そのまま死ねばよかったのに!」

 リューシカは通話終了のパネルを押す。胸に溜まった空気を吐き出す。心臓がどきどきしている。指先が震えている。笑みが零れる。あははっ。乾いた笑い声が夜のしじまに小さく響く。リューシカは楽しくて楽しくて仕方がない。花は静かに寝息を立てている。しどけない表情で眠っている。可愛い。愛おしい。あと少しでこの子が自分のものになるかもしれない。そう思うと心が震える。涙が出そうになる。でも、リューシカだってそこまで馬鹿じゃない。こんな電話一本で花が自分のものになるだなんて思っていない。これは最初の小石だ。建物を築く為の親石だ。動揺を誘えればいい。ううん。もっと。心が壊れるほどゆさぶってやればいい。最初にきつい条件を出せば譲歩を引き出すのは簡単なのだ。焦るな。ゆっくり。大丈夫。きっと花はいつか自分のものになる。リューシカは震える指で煙草に火をつける。頭が痛い。気持ちが悪い。お腹も痛い。でも、全部気にならない。痛みが治まったわけじゃない。痛みは痛みとして確かにそこに存在し続けている。でももう、そんなのはどうでもいいことなのだ。リューシカは悟った。知ってしまった。呪いを解く必要なんてなかったのだと。更に強い呪いを身に受ければいい。それだけのことだったのだと。リューシカは独り嗤っている。くつくつと嗤っている。あいつの頭を打ち砕いたあの日のように。あいつの命を摘み取ったあの日のように。痛みが心地いい。痛みに愉悦さえ感じてしまう。罰なら罰でいい。甘んじて受けよう。どうせこの身は呪われている。

 リューシカはそっと花の髪を撫でる。花の頬がぴくんと震える。


 わたしの可愛いラプンツェル。

 あなたを手に入れられるのなら。

 わたしは魔女でいい。


 歯車が狂っていく。世界が腐って錆びついていく。リューシカはいったいどこに行こうとしているのだろう。花を得ることでいったいなにを手に入れようとしているのだろう。わからない。リューシカにもそんなのわからない。

 そして花が起きたときに吐かなきゃいけない嘘をあれこれ考えながら。花の寝顔を見つめながら。嗤いながら。リューシカはゆっくりと眠りについた。


 『ラプンツェル』は貧しい夫婦から魔女が赤子を奪う物語。妻が子を身籠り、食が細くなって食べ物が食べられなくなったとき、魔女の庭のラプンツェルなら食べられる、と夫に言う。夫は何度か魔女の庭のラプンツェルを盗んだが、ついには見つかってしまう。そして魔女はラプンツェルと引き換えに生まれてくる子どもを自分に渡すよう命じるのだ。

 その後の展開はよく知られている通り。塔の中から歌うラプンツェルを王子が見染め、二人は結ばれるのだ。

 ただ、改訂前のグリム童話では、ラプンツェルが王子と密会を重ねて子を宿す様子が描かれている。現在に伝わっている物語よりもずっと生々しい。そしてラプンツェルはある日、魔女に宣う。最近服がきつくなってしまったわ、と。魔女は知るのだ。なぜお腹の部分がきつくなっているのかを。自分が裏切られていたことを。

 ……花がもしもラプンツェルなら。リューシカがラプンツェルだと思うなら。花はいつかリューシカを心ならずも裏切るだろう。手ひどい仕打ちを魔女に行うであろう。

 でも、それは違う。間違っている。花とリューシカの魂は、もっと深く、分かちがたい。初めから硬く結ばれている。最初から……奪う必要なんてなかったのに。

 リューシカはそのことに気づかない。このときはまだ、気づいていなかった。

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