2013・7・7・(日)
患者が腐って死んだ。リューシカの務める病棟で二例目の患者。今回も十五歳の少女だった。そして今回もリューシカは直接死亡したところを見ていない。けれども準夜で出勤したときにはまだ、病室に飛び散った腐った血の跡が残っていた。押さえつけたときに内臓が潰れて吐血したらしい。
リューシカは
前回死亡した患者は素行不良で中学生の頃からシンナーや脱法ハーブを常用していた。頭も金髪で十五歳のくせに首筋にタトゥーを入れていた。入院のときに話をした親も同じようなものだった。金の鎖を首にジャラジャラと巻きつけ、娘の入院の立会いだというのに父母ともに酒臭かった。この親にしてこの子あり、リューシカはアナムネを取りながら嘆息したのをよく覚えている。もちろん、親には気づかれないように。
しかし今回の患者は違っていた。その少女はいじめに遭って引きこもり、部屋から出てこられなくなったケースだった。やがて部屋にいてもクラスメイトが自分を罵倒する幻聴が聞こえ始め、怯えて夜も眠れなくなった。そこからはお定まりのパターンだ。テレビがわたしの噂を放映している、誰かがわたしを観察している、と言って家の中を破壊して回った。母親の作った食事を摂らなくなり、寂しいと泣きながら妹の腕を縫合が必要なほど噛んだ。見かねた親が警察に通報し、そのままリューシカの病院に連れてこられた。よくある話の一つだった。
少女が運ばれてきたのは七月二日の準夜帯だ。リューシカは七月三日の日勤帯に四肢を拘束されたその少女に会っている。鎮静剤入りの点滴を受け、ずっと眠っていた姿を覚えている。七月四日、五日は生理のため仕事を休んだ。そして、六日の準夜の勤務が始まる前に、少女は死んだ。
なぜ?
リューシカは考える。前回のケースは危険薬物の副作用だと思っていた。けれども今回は明らかに違う。症状だけを見れば統合失調症や統合失調感情障害と呼ばれる類いのものに近しい。脱法ハーブやシンナーの使用歴もなかった。引きこもるまでは真面目ないい子だったという。もちろん糖尿病などの身体疾患に関する既往もない。つまり、体全体が壊死して死亡する症例ではないはずだったのだ。わからない。全然わからない。自分のいなかった二日のあいだにいったいなにがあったというのだろう。共通点はなんだろう。リューシカは考える。そういえば二人とも食事に味がしないとか、そんなことを言っていたような。
リューシカはため息をつく。窓の外の景色が高速で流れていく。七月七日の今日。リューシカは京都の学会に参加するために朝一番の新幹線に乗車している。今年の精神科看護の学会は京都で開かれる。毎年各県持ち回りになっているのだ。京都。よりにもよって京都だなんて。リューシカは気が重い。気が進まない。京都の学会が終わったら義姉に会うことになっている。
もっともリューシカは今回発表があるわけでもなく、自主的な参加で半分は物見遊山である。次年度の研究グループの一員であるため、最近の研究の傾向を知る、その下見みたいなものだ。そしてこの頃近隣近県でパラパラと発生している腐って死ぬ精神病患者について、なにか情報があればと思って遠路遥々やってきた。
京都に着くまでぼんやりと外を眺める。窓から差し込む光を反射して、左耳につけた琥珀のピアスが煌めく。金色の鎖と小ぶりの石。それはロイヤルに近い蜂蜜色をしている。時々駅の売店で買った女性誌を思い出したようにめくる。飽きるとまた外を眺める。静岡のあたりで海が見えると少し嬉しかったりする。海が見えたよ、と花にメールをする。すぐに返信が返ってくる。何度かメールのやり取りをする。そしてなにもすることがなくなると、変わり者の義姉のことを思う。
一つ歳上の義理の姉は名前を
今回仕事の関係で京都に行くと義理の母に話した際、それならば是非一花の所に行って様子を見てきてはくれまいか、と頼まれた。面倒だし気が進まないし、正直会いたい人物ではない。できれば聞かなかったことにしたい。そう思ってもリューシカは顔に出さない。義理の父と母には育ててもらった恩がある。
新幹線の売り子が来る。弁当や飲み物を詰め込んだカートを押してくる。乗客が手を上げて呼び止める。リューシカはじっと窓の外を見ている。横を通りかかっても見向きもしない。窓の外には青々とした竹林が広がっている。
新幹線は進む。ものすごい速さで景色が流れていく。煙草が吸いたくなる。花のメールを読み返す。幾度か駅に止まる。そのたびに少しずつ乗客が入れ替わっていく。またゆるゆると新幹線が止まる。京都に到着したとアナウンスが流れる。リューシカはバックを肩に下げて列車を降りる。蒸し暑い。蝉の声がする。蝉の鳴き声が関東と違う。ジージーとやけにうるさい。バッグから会場の場所が書かれた紙を取り出す。歩き出す。まだ、一日は始まったばかりなのだ。
学会での収穫はほとんどなかった。どこにでもあるような研究発表とパネルディスカッションばかり。腐る精神病患者のことに関しても特にトピックはない。記念公演もありきたりのつまらないものだった。〝病気〟に関してはひそひそと噂で語られていただけ。
学会の会場を出る。リューシカは日の傾きかけた京都の街を一人歩いている。ところどころで祇園囃子の音が聞こえてくる。京都の七月は祇園囃子に包まれる。コンコンチキチキコンチキチン、と。その音は優美でどこかもの悲しい。
一花には事前に連絡を入れてある。別にいいけど、来るなら渡したい物もあるし、と返事が返ってきた。素っ気ないが一応は了承を得たということになるのだろう。リューシカはため息をつく。一花に会うのは何年振りだろうか。少なくとも看護師になってからは顔をあわせていない。できれば今日だって顔をあわせたくはない。
年賀状の住所を頼りに歩く。京都の住所はわかりにくい。イル、ノボルと言われてもよくわからない。何度も道に迷う。イライラする。汗が滴り落ちる。喉が渇く。気温は三十度を超えている。相変わらず目の前には細い辻子が入り組んでいる。京都の街は人を迷わせるように作られているとしか思えない。
やっと辿り着いたときにはすでにじぶんどきになっていた。京都では食事の頃をじぶんどきという。訪問するのを控えなければならない時間帯である。でも、リューシカはそのことを知らない。もっとも、知っていてもリューシカならそんな因習には縛られたりしない。
古い町屋の屋根には
「リューシカ? 遅かったのね。もしかして道に迷ったの? 言ってくれたら迎えに出たのに」
不意に声をかけられる。二階の虫籠窓の辺りから女性の声が降ってくる。それは一花の声だった。小さな人影も見える。リューシカは年甲斐もなく屋根を睨みつけていたのが恥ずかしくなって、思わず俯く。あんな所にいるなんて思ってもみなかった。
暫くすると玄関の戸がカラカラと開く。
「いらっしゃい。よく来たわね」
「一花は……義姉さんは元気?」
一花がクスッと笑う。
「呼び捨てで構わないわ。わたしは元気よ。リューシカも元気そうでなによりだわ」
「義母さんと義父さんが心配していたわ。ずっと連絡寄越さないって。たまには顔を見せてあげてよ」
「そうね。考えておくわ」
リューシカは一花を見下ろす。一花は小さい。身長は145センチに届かない。それでもなぜか存在感がある。態度がでかいのだろうか。手酷く遣り込められた過去があるからだろうか。ともかく、これで自分の用は終わった。義理は果たしたはずだ。
「食事は済ませたの?」
一花が優しい声で訊ねる。
「ううん。まだなにも」
「よかった。せっかくだからわたしたちと一緒に食べましょうよ。近くに美味しい鰻屋さんがあるの」
リューシカは首を傾げる。わたしたち。わたしたち? それはどういうこと? 一花の他にまだ誰かいるということ?
「ねえ、わたしと、一花と……あと他にもいるの?」
一花がクスッと笑う。
「もう一人はわたしの恋人。待ってて。今紹介するわ」
一花が玄関の暗がりに消えるのを見てリューシカは一人合点がいった。そうか。一花は恋人と同棲していたのか。だから見知らぬ京都の街で生きていけたのか。なんだ。……ひとりじゃなかったのか。
少しだけ悔しい。一花に劣等感を抱く自分が悔しい。ハンカチで首筋の汗を拭いながら、リューシカは思う。義姉の恋人だからといって見ず知らずの男と食事をするのは気が重い。義姉だけでも重いのだ。できることなら顔もあわせたくない。
そのときだった。からりと音を立てて玄関が再び開いた。リューシカは顔を上げた。一花に手を引かれて出てきたのは真っ白い髪の女の子だった。女。女の人? これはどういうこと? それは取りも直さず一花の恋人が女性だということ? リューシカは改めてその女性を見つめる。黒い絽の着物の下に赤いナナカマドの柄が美しく透けている。肌も雪のように白い。日に照らされると桜の花びらの色になる。染井吉野の色によく似ている。その女性は一花の肘のあたりを掴んでいる。伏し目勝ちの瞳は緑色に輝いている。それはカワセミの羽の色に似ている。あまりに美しく、人形のようだとリューシカは思う。そして、この女性が白皮症であることに気づく。彼女は先天的にメラニンの合成ができない人なのだ。
「こちらは
夜々子さんは静かに頭をさげる。リューシカの方を向いていても、視線があわない。焦点があっていない。
「夜々子さん。お夕飯は鰻でいい?」
「うちはかまへんけど。それよりも一花。きちんと紹介してくれへんと、うちよう見えへんし、初対面やし……」
夜々子さんが小さな一花の背中に隠れるようにして、じっと目を凝らしている。
「ああ、ごめんなさいね。こっちはリューシカ。わたしの妹よ。看護師をしているの。今日は学会があって京都まで来たんですって」
「学会? へぇ、そやったんですか。学会やなんて、妹さんはお偉い方なんやねぇ。うちは夜々子いいます。こないな遠い遠いとこまでようお越しやした」
そう言って夜々子さんは少しだけ警戒心を解いたように、笑みを浮かべる。目の前で白い百合の花がほころんだ。そんなふうに錯覚した。年齢は断定できないが、自分よりも若いのかもしれない。リューシカは夜々子さんに見惚れながらそんな感想を抱く。
「リューシカさんいう妹さんが来はるって聞いといやしたんえ。でも一花ったら詳しいことなぁんも言うてくれへんのやもん。いけずやわ。なぁな、ところでリューシカさんは今日のお宿はもうお決まりなん?」
暫し茫然としていたリューシカは、その言葉を聞いて慌てて喋りだす。
「あ、いえ。適当にビジネスホテルでもと思ってたんです。とくに予約はしてこなかったので」
珍しく冷や汗をかいている。なぜだろう。夜々子さんの美しさがあまりに異質だから、だろうか。人じゃないものみたいだから、だろうか。
本当は京都に宿泊せず、そのまま帰ってしまってもいいと思っていた。学会は明日もあるが、あまり参加したいとは思えなくなっていた。一花はリューシカと夜々子さんの会話を泰然とした表情で眺めている。口元には幽かな笑みが浮かんでいる。なにを考えているのか、それともなにも考えていないのか、リューシカにはさっぱりわからない。
「来週は宵山やし、ようさん人が集まるんよ。そしたらお宿なんてどこも満杯になってしもてな、予約もせんと泊まれるとこはおへんくなるんよ。今日ならまだ平気やろけど……でも、そやなぁ。ビジネスホテルいうんもなんや味気ないなぁ。なぁな、一花」
「うん? なあに?」
「リューシカさん、うちに泊まってもらはったらどないやろ。あかん?」
「ううん。あかんくない。そういうわけだからリューシカ。今日はうちに泊まって行きなさいね」
そういうわけってどういうわけだ。リューシカは混乱する。こんな事態になるとは思ってもみなかった。一花は夜々子さんのために日傘を用意しながらどこかに電話をかけている。ちらりとこちらを見る目が笑っている。
……だからこの人は苦手なんだ、とリューシカは思う。いったいなにを考えているのかわからない。あるいはなにも考えていないのかもしれない。しょうがない。義姉には勝てる気がしない。昔からずっとそうだった。
「なぁな、一花、お財布は?」
「持ってるわ。お席も取れたから。行きましょうね」
「そやねぇ」
バッグを家の玄関に置かせてもらうと一花が戸に鍵をかける。夜々子さんはその様子をぼんやりとした眼差しで見ている。大きな日傘を高く掲げた一花の肩に手を置いて、夜々子さんはそのままの姿勢でゆっくりと歩く。それは隣から見ているととても奇妙な眺めだった。傘を差すなら背の低い一花よりも夜々子さんが差した方が歩きやすかろうに。どうしても片手を開けさせたいように見える。そう思って見つめていたリューシカは、はたと気づく。ああ、この人は目が不自由なのか。
白皮症の人にはときにそういう障害が出ることがある。瞳のメラニンがないために起こる視力障害。二人の様子からリューシカは夜々子さんの目がほとんど見えていないことに気づく。そして、どれだけ一花が夜々子さんを気遣っているのかを。どれだけ愛情深く接しているのかを。リューシカは肌で感じる。
真っ白い髪の夜々子さんは人目をひく。街行く人が一花と夜々子さんの二人連れに無遠慮な視線を送る。ただ、一花がそれを気にしている様子はない。毛ほどにも感じている気配がない。義姉の愛情の深さなのか、ふてぶてしいだけなのか、リューシカにはよくわからない。小さくため息をついて、小さなポーチだけになって軽くなった肩を回し、二人のあとについていく。
「一花、もう今日はお仕事せぇへんの?」
「どうしようかしら」
「お酒飲む? うちも飲んでいい?」
「少しだけよ。夜々子さん、酔うとすぐに泣くか寝るかなんだから」
「ちょ、妹さんの前でそないなこと言わんといてよ。一花のあほ。いけず。あ、そや。リューシカさんはお酒きこしめす方なん?」
急に話を振られて口籠る。言葉に詰まる。
「リューシカはビール派よね。今でもまだ、お酒に逃げているの? 生理、まだひどいの?」
ちらりと振り返った一花の目が笑っている。頬がかっと熱くなる。リューシカはなにも言わない。静かに視線を逸らす。きつく唇を引き結んでいる。
「そう。可哀想な子」
ぽつりと一花が呟く。
その鰻屋さんは
一花が夜々子さんのお猪口にぬるめに燗をつけたお酒を注ぐ。夜々子さんはゆっくりとお猪口を口に運ぶ。頬が赤くなっている。一花が手酌で注ごうとするのでリューシカが酌をする。リューシカは一人で生ビールを飲んでいる。
「なぁな、リューシカさん。初対面でこんなん訊いてあれやけど……
「え? ええ、一応は」
「……ふうん」
一花がニヤリと笑う。
「なら今度は一緒に来はったらええよ。な、一花もそう思わへん?」
「そうね」
キュッとお猪口を干し、一花は潤んだ目でリューシカを見つめる。リューシカは視線を逸らす。無理やりにでも話を変えることにする。店の明かりに琥珀のピアスがゆれて、ちらりと光った。
「ところで一花って、仕事はなにをしてるの? 生活能力なんてこれっぽっちもなさそうなのに」
酌をしながら、一花の学生時代を知っているリューシカは改めて不思議に思ってそう訊ねる。
一花はいつも優等生然として澄ましていたが、休み時間になるといつの間にか教室からいなくなっていた。誰にも気づかれることなく、どこに行ったのかもわからない。徒党を組むのを良しとせず、辛辣な言葉ばかり吐くので友達と呼べる人間は一人もいなかったはずだ。家では家事手伝いの類いは一切しない。洗濯物は干しっぱなしにする。雨が降ってきても取り込まない。料理もしない。家で包丁を握った姿を見たことがない。大学を出てから就職したという話も聞いていない。親はもう呆れ果ててなにも言わない。言わないけれど、義理の両親は内心早く結婚して欲しいと願っている。落ち着いて、安心させて欲しいと願っている。けれどもリューシカは一花の底意地の悪さを知っている。結婚なんてできないだろうと思っている。
リューシカは一花の両親を憐れんで小さくため息をつく。ふとさっきの会話を思い出す。夜々子さんとの会話中、今日はもう仕事をしないとかなんとか話をしていた。ならば一花は自宅でできる仕事をしているということなのだろうか。それは一花にもできる仕事なのだろうか。
黙ってお猪口に口をつけていた一花は、少しだけ眉を
「失礼な人ね。わたしだって好きな人を養うくらいのことはするわ。ね? 夜々子さん」
「リューシカさんは一花の書いた本、読んでへんの?」
夜々子さんの言葉にリューシカは
「あ、バラしちゃ駄目よ。父さんにも母さんにも話してないんだから」
「え、一花って、作家なの?」
「そやよ。幻想怪奇小説の旗手て言われてはるよ。えと、なんやったっけ? この前出版された本の題名は……」
「もう、夜々子さん。その話はおしまい。リューシカがびっくりしてるじゃない。お喋りが過ぎるわ」
「ふふっ。かにして」
とろんとした表情で夜々子さんは笑う。そんな夜々子さんを一花は飲み過ぎよ、と
店を出る。暗い路地を歩く。どこをどう歩いたのかわからない。日傘はもう差していない。二人は仲良く手をつないでいる。暫く歩くとまた一花が借りている町屋に戻ってきた。町屋の中は更に暗い。闇が
「うち、なんかもう眠ぅなってしもた」
「赤ちゃんみたいなこと言わないの。お風呂に入ってらっしゃい」
一花が苦笑する。夜々子さんは壁伝いに手で触れながら部屋を出て行く。入り口で振り返る。
「あ、でも、お客さんがいてはるのに」
「いいのよ。手伝うことある?」
「ううん。ありがと」
ぎしぎしと階段を上る音がする。リューシカはそっと嘆息する。姉の恋人とはいえ、あまり面識のない人と一緒にいるのは疲れる。
「可愛いでしょう」
一花がぼんやりとした口調で呟く。リューシカはなにも答えない。ただ、じっと一花を見つめている。
「昔は随分、ひどいいじめにあっていたそうよ。あの容姿のせいで。それに老舗の呉服屋の娘なのに、両親もなにかの祟りだと言って愛情を注ぐことをしなかった。あの子は実家では着物に触れさせても貰えなかった。ここは古い因習に縛られた街なの。神様や仏様と一緒に生きている街なの。だからああいう子は疎まれる。棄てられる。……あんなに可愛いのにね」
「目も見えないのに?」
「……だからなによ」
一花がすっと眼を細める。
「どんな世界にだって必ず障害を持つ子は生まれてくる。あなたはそれを否定するの? 看護師のくせに」
「別に、そんなつもりじゃ」
一花に
「一花は夜々子さんのことが好きなのね」
リューシカは小さな声で訊ねる。
「ええ。わたしは彼女が好き。肌の色も、髪の色も、目の色も、目がほとんど見えないことも。全部。全部わたしの愛しい宝物だもの。そう言うあなたはどうなの?」
「わたし?」
「好きな人、いるんでしょ」
リューシカは黙り込む。花の顔が浮かぶ。リューシカは花が好きだ。ただ、それが愛なのかどうかわからない。愛ってなんだろう。
そういえば。リューシカは思い返す。今月の生理も重かった。二日間ほとんどベッドの上で過ごした。花がリューシカのアパートに看病に来てくれた。ごめんね、呪いは解けなかったね、そう言って花は涙ぐんでいた。花が好きだと思う。花のことを思うと胸が締めつけられるように苦しい。ただ、それが愛なのかどうかわからない。愛を語るにはリューシカはあまりにも自分が汚れてしまったと思っている。
「リューシカの好きな子も、女の子なのでしょう?」
「……どうしてそう思うの?」
「やっぱり。簡単な推理よ。ワトソン君」
一花がニヤリと笑う。
「というのは冗談。カマかけてみただけよ。だって、あなたまだ、生理痛がひどいのでしょう。お酒に逃げているのでしょう。なら、男とはつきあわないだろうなって思っただけ。可哀想な子。あの事件のことが忘れられないのね。本当に可哀想な子。今でもまだ呪いだとか罰だとかって思ってるの?」
事件。あの事件。忘れられるはずがない。リューシカが突き落とされたのは嘆きの川。アケロンの川。同じ地獄に流れる川でもレテの流れではないのだ。できることなら自分でも忘却の川に身を沈めてしまいたいと願っている。今でもそう思っている。でも、それは叶わぬことなのだ。
それは呪いなのだから。
それは罰なのだから。
でも、……そう言ったのは一花じゃないか。
「わかったようなことを言わないで。わたし、あなたのそういうところが嫌い。大っ嫌い。なんでもかんでも見透かすように上からものを言うところ。昔から大嫌いだったわ」
「残念。わたしはあなたが大好きなのに。いじめたくなるくらい大好きなのに。……あら、夜々子さんが降りてこない。眠っちゃったのかしら。少し待ってて」
一花は立ち上がると部屋を出て行ってしまった。古い町屋の匂いはどこか
ふと見ると部屋の端の手文庫上に、一冊の本が置いてある。何気なく手に取る。著者名を確認すると月庭一花と書かれている。題名は『お願い、わたしを殺して』と
パラパラとめくってみる。リューシカはあまり小説を読まない。読書をしない。だからその小説が面白いのかどうかもたぶん、よくわからない。最初から読み始める。古びた書体の文字が並んでいる。韻を踏むように物語が進んでいく。ページをめくる。舞台は冬の京都。深夜。二人の女性が裸で睦みあっていて、
「それ、わたしが書いたの」
「きゃっ」
リューシカは悲鳴をあげる。本を取り落とす。心臓がどきどきしている。手に汗をかいている。一花はいつの間に自分のそばに立っていたのだろう。
「脅かさないでよっ」
「脅かしているつもりはないわ。声をかけただけじゃない。夜々子さん、寝てしまったの。お風呂の準備はできているから。あなた入っていいわよ」
本を拾い上げながら一花は言う。
「一花は?」
「わたしはあとでいいわ。あ、そうだ。そういえば最近、あなたの勤務している精神病院にも全身が腐ってしまう女の子。運ばれてくる?」
どくん、と心臓の鼓動が鳴り響く。喉がカラカラになる。なぜ、なぜ義姉がその患者たちを知っているのだ。
「そう。来るのね。関東でもいくつか発症例があるって話を聞いたから、もしかしたらって思ったの。リューシカ。あなたは『腐りゆく少女たち』という小説を知っているかしら」
「なに、それ」
掠れた声でリューシカは訊ねる。
「ミラ・マリア・ステーシーという名の女医が書いた古い小説よ。彼女はミスカトニック大学の英文学部を出てから精神科医になった変わり者でね、アーカム・アサイラム精神病院で診療中の患者に首を絞められて殺されるまで、そこに勤務したわ」
一花は手文庫の上に本を戻した。
「その小説はもう二十五年も前に書かれたの。十代から二十代の女性だけがかかる奇妙な精神病をモチーフにして。彼女たちはね、心の空隙を埋められないと体が腐っていくの。寂しい寂しいと言いながら死んでいくの。寂しさを埋めるために人を襲い、食べようとするの。普通の食事は摂れなくなるの。砂を噛むように、食べ物に味がしなくなってしまうから。……よく似ていると思わない?」
「そんな。だって、それは小説の中の話でしょ?」
リューシカの声は震えている。
「あら。実際にあった症例が元になっているらしいわ。当時ミラが診察した本物の症例がね。その不可思議な精神病が今、遠く離れた日本で広まりつつある。それも急速に。不思議ね。きっとみんな寂しいのね。寂しさに耐えきれないのね。ふふっ、可哀想に」
一花が笑う。本当は可哀想だなんて少しも思っていない。それは嘲笑だ。そこには暗く邪悪なものが潜んでいる。リューシカにはそう思えてならなかった。
「あなたは死んじゃ嫌よ。寂しくなるから」
「よく言うわ。ねえ、その小説はここにあるの?」
「小説? 『腐りゆく少女たち』? ここにはないわよ。もう絶版になっているし、人にあげちゃったもの」
一花はそう言うと小さく欠伸をした。
「
リューシカは答えない。一花は眠た気に目を擦る。指先が涙で濡れている。
「ない? まあいいわ。出版社で奇書についての対談で顔をあわせたときのことなのだけれどね、彼から今こんな不思議な〝病気〟が蔓延しつつあるのを知っているだろうか。あなたが持っているという『腐りゆく少女たち』を僕もぜひ読んでみたい。少女がゾンビになって人を襲う話の下敷きにしたい、なんて申し出があって。わたしもそう言われて嬉しくなっちゃって、ついはいどうぞって渡してしまったの。同じ怪奇物でも激しいアクションやエログロで知られた人だから、わたしは彼の小説にはあまり興味がなかったのだけれど。ふふっ、今から考えると少しもったいなかったかしら。書きあげた小説を読ませてもらったら悔しいけどちょっと面白かった。でもね、ミラの小説にインスパイアされたというよりもまるで三流のパスティーシュみたいにされちゃっていて、残念だったわ。換骨奪胎ってなにってくらいにパロディーにされてしまっていたわ。それはね、少女たちをもう一度殺す男たちの話なの。娘が、恋人が、妹が、ゾンビになってしまったから。彼らは再びその手にかけるの。斧やチェーンソーで女の子を何度も何度も切断するの。ぐちゃぐちゃになるまで。そうしないと再び死なない設定なのね。少女たちがゾンビになるのは未知のウィルスのせいなのですって。それは宇宙からやって来たのですって。ミラの小説では精神の病であったはずなのに、随分わかりやすくしちゃったものね。でもね、わかりやすいのはなにも王寺の著書だけに限った話じゃないわ。どんな小説を読んでもゾンビという存在そのものはテンプレなのよ。蘇った死者が生者を襲う。その繰り返し。それ自体は別に構わないわ。ジョージ・A・ロメロの映画はわたしも好きだもの。主体として見れば死んだらゾンビとして蘇ってしまったわたし、と言ったところかしら。けれどもね、リューシカ。本来的な意味でのゾンビというのはね、ただの歩き回る死者でも人を喰らうだけのモンスターでもないの。それは共同体の中から排斥された者たちなの。社会的な制裁を受けて生きたまま死者と
くつくつと一花が笑う。
「まあ別に、興味がないならそれでもいいし、あなたが買わなくたって王寺の小説の売り上げが変わるわけでもないでしょうけど。彼の小説は売れるわ。世相とも相まって。今はまだ報道規制でもされているのかしら、どのメディアにも〝病気〟のことも彼女たちのことも取り沙汰されていないみたい。でもね、SNSでは憶測やオカルトじみた噂が静かに広まっているわ。いつかそれは爆発的に広まるわ。王寺の小説はきっかけになるでしょうね。だって……彼の小説を読めば気づくもの。現実の彼女たちはどんなフィクションよりもずっとゾンビらしいってことに。腐っていくからじゃない。人を襲って食べようとするからじゃない。ねえ、リューシカ。彼女たちのような罪を犯した精神病の患者って、社会から排斥されてしまうものでしょう? 社会的な死者にされてしまうものでしょう? 理想論なら聞きたくないわ。おためごかしなら言わなくていいわ。日本の精神科の隔離政策の歴史を見ればそれがよくわかるもの。新しいところでは二〇〇一年の池田小事件を契機に医観法病棟が作られたのは……ああ、そんなのきっとリューシカの方が詳しかったわね。でも精神障害者が裁判を受ける権利は依然として剥奪されたままだわ。それと一緒よ。なにも変わらないわ。彼女たちのような存在は必ず隔離される。隔絶される。排斥され、廃絶されるわ。わたしが楽しみなのはね、彼の小説のような間違ったイメージが先行して拡散していったら……どんな世界になるんだろうってことなの。彼女たちのことが歪められた形で浸透したあとで、手遅れになってから〝病気〟のことが公表されたとしたら……どんな世界になるのか楽しみで楽しみで仕方がないの」
リューシカはごくっと唾を飲み込む。怜悧で、そして狂気じみた一花の視線から目を逸らすことができない。
「現実世界の少女たちも人を襲うわ。寂しさを埋めるために。現実世界の少女たちも腐っていくわ。寂しさを埋められなくて。ねえ、リューシカ。それを見た男たちはどうするのでしょうね? 目の前で腐っていく少女を見たらどうするのでしょうね? 自分が食べられそうになったらどうするのでしょうね? うふふっ。女の子たちは王寺の小説のように殺されてしまうのかしら。ぐちゃぐちゃに、ばらばらにされてしまうのかしら。彼女たちは最後になにを懇願するのかしら。ああ、無知な男たちの手を罪の色で染めてやって欲しいわ。彼女たちにはその権利があるんだもの。ねえ、リューシカ。リューシカ。どうせ動き回る死者ならば、せめて最後に噛みついてみたいと思わない?」
「……あんた、頭がおかしいんじゃないの? うちの病院でよければいつでも紹介してあげるわ」
リューシカは吐き捨てるようにそう呟く。背中に嫌な汗をかいている。指先が冷たくなっている。だからこの人とは会いたくなかったのだ。
「今はまだ遠慮しておくわ」
一花がニヤリと笑った。
「ねえ、リューシカ。人間はどこかしら少しだけ狂っているものよ。気づかないうちに少しずつ狂っていくものよ。わたしも、そしてあなたもそうなのよ」
真夜中。といってもスマホで確認すると、まだ零時になるか、ならないか。リューシカは目を擦る。変な時間に目が覚めてしまった。ふと気づくと二階から人の声と家のきしむ音がする。家鳴り? こんな時間になにをしているのだろう。
部屋は真っ暗だ。リューシカはそっと布団を抜け出る。声が聞こえる。やめて、という切なそうな声が聞こえる。ハッとする。リューシカは唾を飲み込む。脇の下に汗が滲む。そっと、音を立てないように階段をあがっていく。町屋の階段は急にできている。リューシカは這うような格好で登っていく。炎の明かりに誘われる蛾のように。足元の階段が少しだけ小さな音を立てる。どきっとする。心臓の鼓動が耳のすぐ近くで聞こえる。手のひらにも汗をかいている。二人の寝室の
「やっ、嫌やって。うち、お風呂はいってへんし、汗くさいまんまなんて、あっ」
「眠ってしまった夜々子さんが悪いのでしょう? それにわたし、夜々子さんの汗の匂い、好きよ」
一花が夜々子さんの脇の下を舐め、鼻を蠢かせる。きゃっ、という小さな悲鳴があがる。リューシカはその光景から目を逸らせない。胸の奥でバクバクと音を立てて鼓動が高まる。その光景はあまりにも淫靡だった。苦しい。呼吸ができない。まるで喉元に心臓がせり上がってきたみたいに。
「や、めて。かにして。お願い。お願いやから。そんなしたら、うち、声、声が」
「あら。駄目なの?」
「やて、妹さん、が、起きて、あっ、指っ、だめ……っ」
くちゅくちゅと濡れた音がする。白い髪と一花の長い黒髪が絡みあっている。ゆれ動く。一花のおとがいから汗が滴り落ちる。すべてが布団の上で
「あっ、あんっ、抜いて、お願い、広げちゃ、やっ、いや……っ」
「すごい。三本も入っちゃった。ふふっ。指がふやけてしまいそうだわ。ねえ、本当は見られたいのでしょう。リューシカに恥ずかしい姿を見て欲しいって、そう言ってよ?」
一花が半裸の夜々子さんを組み敷いている。はだけた襦袢が艶かしい。一花は夜々子さんの首筋に舌を這わせている。右手は下腹部に充てがわれて典雅なスタッカートを刻んでいる。左手の動きにあわせて乳房の形が変わっていく。夜々子さんがそのたびに切なそうな声をあげ続けている。一花は奏者だった。夜々子さんは一つの楽器だった。
「ゆるして。おねがい、おねがいやから。ゆるして」
「だめ」
はらはらとこぼれる涙を一花は舌先で掬う。
「ほら。リューシカがこっちを見ているわ」
耳元で囁く。や、いやっ。夜々子さんがひときわ大きな声で啼いた。一花の濡れた瞳が暗がりの中からリューシカを見つめている。目と目があう。見られている。一花はリューシカがそこにいるのを知っている。一花はリューシカが覗いているのをわかっている。いつから? いつからバレていた?
ねえ、見ているだけでいいの? 満足なの? 嘘。……思い出して。ほら。あの日、あのとき、あなたは……わたしを否定できなかったでしょう? 認めてしまったんでしょう?
ねえ。
本当は、……気持ちよかったんでしょう?
一花の目がそう言っている。そう言っている気がした。
わたしの魂を犯した目だ。
リューシカの背筋が凍りつく。強烈な吐き気を覚える。頭を抱えて
一花がニヤリと
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