2013・6・8・(土)
六月に入るとすぐに梅雨になった。激しくはないがだらだらとした雨が続く。まるで心の中まで
リューシカは布団の中でビールを飲んでいる。お腹が痛い。食欲がない。青白い顔をしている。無理もない。今日は生理二日目だ。
先月の十五歳の女の子の症例以降、同じような症状を示す患者は現れていない。運ばれてもこない。あの日。日中にすべて片づけてくれたはずなのに、夜の病棟には死臭がこびりついているような気がしてならなかった。空いている時間に看護と医師の経過記録を読んだ。ひどい有様だったのが手に取るようにわかった。リューシカは深夜勤のあいだずっと気分が悪かった。
あれから一ヶ月が経つ。現場の人間に病理解剖の結果は知らされていない。通達自体がされていないようだ。理由はよくわからない。両親がなにかしらの抗議でもしたのだろうか。あの親ならやりかねない。なんなんだ、と思ってリューシカはため息をつく。ビールをもう一口啜る。なにもやる気がしない。やる気が起きない。体がだるい。寝返りを打つのも億劫だ。生理なんて来なければいいのに。自分が子どもを宿したところを想像するだけで吐き気がする。女になんて生まれなければよかったと後悔する。罪の重さを思って後悔する。仕方がない。それは呪いなのだから。
枕元に置いてあるスマホが震える。時刻表示は九時ぴったりだ。見ると花からのメールが届いていた。リューシカは本来あまりメールを読んでも返事をしない。そのことでよく職場の人間から叱られる。でも、花からのメールはすぐに返信する。仕事で長いあいだ返信できないでいると申し訳なくなったりもする。花のメールを開く。
『具合どうですか』
〝昨日はずいぶん生理痛がつらいってメールしてくれたけど。今日はどう? 二日目だよね? お腹痛くない? ……心配です。〟
花の顔が浮かぶ。花にはリューシカのシフト表を渡してある。生理の周期も知っている。だからこんなふうにメールをくれる。花はまめにメールをよこす。今日は……第二土曜日だから花も学校が休みのはず。でもこんな状態では逢えない。逢うことなんてできない。恥ずかしいから。お腹が痛いから。だるいから。ああ、寝返りを打つのも億劫だ。リューシカは珍しく花に返信せずにスマホを枕元に放り投げる。なんて返事をしたらいいかわからないから。泣き言を言ってしまいそうだから。そんな自分が恥ずかしいから。目を瞑る。雨の気配がする。いつの間にかうとうとと眠りについている。
雨。窓の外では雨が降っている。三日間降り続いている。梅雨なのだから仕方がない。でも、鬱々として、体に黴が生えそうだ。梅雨の梅の字は元々黴菌の意味であったらしい。そう言われてみるとあながち間違っていないのではないかとリューシカは夢と
浅いまどろみのような眠りから目覚める。どんな夢を見ていたのか思い出せない。あるいは夢なんて見ていなかったのかもしれない。手を伸ばしてカーテンをめくる。窓の外では雨が降っている。雨を見ると花を思い出す。花は時々学校帰りにリューシカのアパートに立ち寄る。必ず事前にメールをくれる。リューシカのシフトを理解している。だから日勤深夜の日には花はこない。リューシカの明日からの勤務は日勤深夜だ。だから明日も花はこない。
花は高校に入学したばかり。まだ十五歳だ。見るものすべてが新しく、楽しいことも多いだろう。もうすでに六月だがあるいはこれから部活にだって入るかもしれない。それにひきかえリューシカはこの春二十八歳になった。日常生活の中で新鮮な驚きを感じることも少なくなった。花とリューシカはひとまわり以上年齢が違う。その事実を特に強く感じるのは花と話しているときだ。リューシカはテレビを見ない。音楽も自宅ではクラシック以外はほとんど聴かない。けれども花は歌番組が好きだ。ジャニーズのなんとかというアイドルグループが好きだ。お笑い番組が好きだ。そう言っていた。リューシカは思う。花との共通の話題があまりにも少なすぎる。時々話題についていけなくなる。ジェネレーションギャップを感じる。十三年の歳の差はとても大きい。リューシカは花と自分の関係性を改めて思う。あの子はリューシカが十三のときに産まれた。十三歳のときに。……リューシカと花はいったいどんな関係を築くべきなのだろう。
トイレに行く。気持ちが悪くて胃の中のものを全部吐き出す。口の端から垂れるのは黄色い胃液だけ。ここ二日間で口にしたのはビールとチョコレートだけ。あとは多量の鎮痛剤。でも全然効かない。効いている気がしない。生理二日目まではいつもだいたいそうなのだ。
ふらふらした足取りでベッドに戻る。寝室の壁にかかった時計の針は十二時半を指している。雨はしとしとと降っている。雨が世界を浸していく。ああ。あの雨の一粒一粒が涙なら。誰がなにを悲しんでいるのだろう。
胸の前で小さく十字を切る。意識はしない。ただの癖だ。口の中が酸っぱい。雨は静かに降っている。リューシカの耳に雨音は聞こえない。
そのときだった。玄関からチャイムの音がする。間を置いて幾度か鳴らされる。リューシカは無視する。誰にも会いたくない。テレビの受信料も新聞の勧誘もリューシカには関係ない。そんなものに興味はない。意味もない。だからリューシカは居留守を使う。スマホが振動する。電話がかかっている。花からだ。
「もしもし。花?」
嘔吐したせいで喉がいがらっぽい。自分の声じゃないみたいだ。
「あ、リューシカ? 今お家にいる?」
「いるわ。どうして?」
居留守中なのでリューシカは声のトーンを下げる。
「……ピンポンしても出てこないから。心配で。わたし、今玄関の前なの」
リューシカは慌てて跳ね起きる。サーっと血の気が引くのがわかる。でも無視する。ふらつく足取りで玄関まで急ぐ。鍵を開けてチェーンを外す。ドアを開ける。ドアノブに寄りかかるようにして立つ。開け放ったドアの隙間から雨の匂いがする。そこには私服姿の花が立っている。両手にスーパーのビニール袋と傘を下げて。そんな花の姿を見ると胸がどきどきした。なんでだろう。起きがけに急いだからだろうか。貧血だからだろうか。
「ごめんね、急に来たりして。メールが返ってこなくて、心配でいても立ってもいられなくて……迷惑だったかな」
「ううん。そんなことないよ。ありがとうね、来てくれて。でも、なにもおもてなしできないよ。気持ち悪くてさっきも吐いちゃったところだし」
「そんなにひどいの? ねえ、リューシカは具合悪いとき、なになら食べられる人?」
心配そうに訊ねる花にリューシカは苦笑しながら首を振る。
「なにも食べられない人。ビールとチョコレートくらいかな。昨日からそれしか口にしていないわ」
「……とりあえず横になって。ね?」
「うん。……それは?」
花の持っているビニール袋に視線を落として、リューシカが訊ねる。花はほんのりと頬を赤らめる。
「来る途中のスーパーで適当に食材買ってきたの」
「へ?」
リューシカは間の抜けた返事をする。食材。食材?
「冷蔵庫とキッチン、借りてもいい?」
「あ、うん。いいけど……」
リューシカはパジャマの胸元をキュッと握りしめる。はにかむ花の姿を見ていると胸がどきどきする。なんでだろう。もう、急いでいないのに。貧血だからだろうか。
「とりあえず上がって。まだ雨降ってる?」
「うん。小雨だけどずっと降ってる」
花が靴を脱ぐ。畳んだ傘から水滴が滴っている。玄関から居間へ移動する。キッチンに花がスーパーの袋を置く。リューシカは冷蔵庫から冷たい水を取り出してコップに注ぐ。口を漱ぐ。水道の水は嫌いだ。特に気持ちが悪いときには吐きそうになる。だからミネラルウォーターを常備している。流しに漱いだ水を吐き出す。少しもったいない気もする。でも仕方ないと思い直す。キッチンの引き出しに入れてある市販の鎮痛剤を三錠まとめて口に入れる。もう一度ミネラルウォーターをコップに注ぎ、一息に飲み干す。そんなリューシカの様子を花がじっと見つめている。
「お茶淹れようか?」
「ううん。リューシカは寝ていて。ねえリューシカ……わたしが来たの、本当に迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないよ」
リューシカは笑う。手ぐしで髪を整える。二日間寝て過ごしていたから髪がごわごわしている。鏡を見なくてもボサボサなのがわかる。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「こっちこそごめんね、寝起きで。みっともない格好してて」
リューシカが小さな声で呟く。
「ううん。みっともなくなんてない。リューシカはいつでも綺麗だよ」
花はリューシカの手を握る。そのまま寝室へ引っ張って行く。リューシカはちょっとだけ躊躇する。手のひらが汗ばむ。最近は花が来るから居間は片づけるようにしているけれど、寝室は雑多なままだ。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「ちゃんと寝ていて。ご飯の支度ができたら起こしてあげるから。ね?」
「でもわたし」
喋りかけたリューシカを、花はそっと遮る。そして腰に手を当てる。
「現役の看護師さんにこんなことを言うのもあれだけど。生理のときにはチョコレートもアルコールも本当は良くないんだよ? 煙草も吸っちゃ駄目。いい? 胃に優しいものを作るから。だからお願い。寝ていて」
「……うん」
お説教をされて、リューシカは素直に頷く。花が布団をめくる。大人しく横になる。目を瞑る。これじゃどっちが年上だかわからない。
「じゃあね」
花が寝室を出て行く。リューシカの住むアパートはダイニングキッチン——と呼ぶには少し抵抗があるが——と寝室の1DKだ。リューシカはベッドに横たわって耳を澄ましている。ビニール袋をガサガサと漁る音や流しで水を使う音、包丁でなにかを刻む音がする。普段ほとんど料理をしないリューシカはそれらの音に対して免疫がない。どう対処していいのかわからない。胸がどきどきしている。手のひらに汗をかいている。頭と下腹部は相変わらずズキズキと痛む。布団の中で寝返りを打つ。花はいても立ってもいられなかったと言っていた。でも、いても立ってもいられないのはリューシカの方だ。花が自分に食事を作ってくれようとしている。それだけで胸がいっぱいになる。花が指を切らなければいいなと思う。だるいし食欲もない。でも、花が作ってくれるものなら、食べてみたい。
窓の外は薄曇り。静かに雨が降っている。花の立てる音に集中している。リューシカの耳に雨音は聞こえない。
どのくらいそうしていただろうか。寝室の扉がコンコン、とノックされた。
「眠っちゃった?」
「ううん。起きてる」
寝室の扉が開く。花がそっと顔を覗かせる。
「ご飯作ったんだけど。どうする? こっちの部屋に持ってくる?」
「ううん。そっちに行くわ」
リューシカはゆっくりと起き上がる。貧血でくらくらする。起立性の低血圧を起こさないように。ベッドの端に座ったまま、少しのあいだじっとしている。
「リューシカ?」
「大丈夫」
心配そうに声をかけた花にリューシカは微笑み返す。立ち上がる。花がそっとリューシカに寄り添う。
居間には土鍋が用意されている。鍋敷きがないから土鍋の下には濡れた布巾が敷かれている。取り分ける為の椀と箸も用意されている。土鍋。……土鍋? そういえば買ったまま一度も使っていなかった。土鍋の存在自体忘れていた。よく花は見つけたものだ。土鍋の中身はやわらかく煮込んだうどんだ。具もたっぷりと入っている。温かそうな湯気。そして食欲をそそる優しい匂い。
「美味しそう」
リューシカは思わず呟く。お腹がキュルっと音を立てる。
「本当? よかった。味見してみて。少し薄味にしてあるの」
花の口調が少しだけ早口になる。緊張しているのがわかる。円卓の前に座る。両手を合わせる。食事の前のお祈りをする。それは最早リューシカの癖になっている。意識はしない。特になにも思わない。
そのあいだに花が椀にうどんをよそう。山椒を少しだけふりかける。リューシカは箸を取る。そっと椀に口をつける。昆布と煮干しの優しい出汁の味がする。うどんはわざとやわらかく、くたくたに煮込まれている。ほうれん草が山ほど入っている。それから南瓜と大根も。半熟の玉子も。
「美味しい」
リューシカは思わず呟く。今までの生理中に口にしたものの中で、多分、一番美味しい。
「お世辞じゃない?」
訝しげに訊ねながらも花は相好を崩して破顔する。嬉しさが顔に滲み出ている。
「お世辞なんて言わないわ。嬉しい。ありがとう、花」
リューシカも顔をほころばせる。雪の雫が、小さな花になるように。
「よかった。あのね、鉄分が足らないといけないかなって思って、ほうれん草をいっぱい入れてみたの。レバーとかの方が鉄分の吸収にはいいって聞いたんだけど、気持ち悪いときは
箸を止め、自分をじっと見つめているリューシカに、花は言葉をなくす。
「ねえ、花……」
リューシカはそっと箸を置く。その眦は赤い。頬が熱い。胸が熱い。涙が零れそうだ。
「ぎゅうってして、いい?」
リューシカが囁く。花は驚いた顔で、なにも言わない。
「駄目?」
恐る恐るリューシカが訊ねる。花はなにも言わない。小さく首を横に振る。それが否定なのか、肯定なのか、リューシカにはよくわからない。
「おいで」
少しだけ掠れた声。リューシカは手招きする。猫に餌づけをするように。烏に餌づけをするように。
「……うん」
這ってきた花を座らせる。正面から花を抱きしめる。花の手が恐る恐るリューシカの背中に回される。リューシカも優しく花の背中に腕を回す。指先に下着の線が触れる。そっと指を滑らせると硬いホックに当たる。花の体がぴくんと震える。あたたかな頬の感触。吐息。そして心臓の音が重なる。鼓動が早くなる。どきどきする。花も。リューシカも。
「花はいいお嫁さんになれるね」
耳元でリューシカが囁く。照れ隠しに。でも、花はかぶりを振る。その言葉を否定する。拒否する。そんな言葉が欲しいわけじゃない。
「わたしは結婚なんてしない。だって」
「だって?」
「男の人なんて嫌い。結婚なんてしたくない。……リューシカが好きなの」
リューシカの背中に回された手が熱い。花の手にぎゅっと力が籠る。リューシカは寝るときに下着をつけない。だから花の指の引っかかる場所がない。いつまでもなにかを探している。……なにを探しているのだろう。
「わたしも花が好きよ」
「嘘」
「……嘘じゃないよ」
「じゃあなんで?」
なんで? なんでだろう? なぜリューシカは花が好きなのだろう。
「花はわたしに似てるから」
花がゆっくりと顔を上げる。リューシカは優しく笑いかける。
「わたし、リューシカみたいに綺麗じゃない」
「そういう意味で言ったんじゃないわ」
そっと手を離す。名残惜しそうに。花も手を離す。名残惜しそうに。体を離す。リューシカは無言で箸を進める。花もそんなリューシカの様子をじっと見つめている。
「おかわり、いる?」
花が小さな声で訊ねる。
「うん」
リューシカも小さな声で答える。
土鍋の中にはまだたくさんのうどんが残っている。
「お夕飯に温め直して」
「花は? 食べないの?」
「わたしはいいの。味見しながら料理してたらお腹いっぱいになっちゃったの。リューシカが美味しそうに食べてくれるのを見てたら満足しちゃったの。だからいいの」
そう言って花は笑った。私服姿の花は可愛い。キュロットスカートから伸びた素足が眩しい。それは乙女の脚だ。リューシカはそう思った。自分にはもう失われてしまったものだ。いつ、リューシカはそれを失ったのだろう。そもそもそんな脚をリューシカは持っていたのだろうか。リューシカは考える。答えは出ない。
「ねえ、訊いてもいい?」
花が小さな声で訊ねる。
「なに?」
「リューシカはどうしてそんなつらい生理痛を放っておくの? 飲んでるお薬も市販のものだよね。ちゃんとお医者さんには通ってるの?」
リューシカは暫し沈黙する。思い出したくない過去が暗い淵の底から浮かび上がろうとする。かぶりを振る。ズキンと頭が痛む。お腹が痛い。あの日みたいに。乙女の脚を失ったあの日みたいに。
罪人になった、あの日みたいに。
「わたしの生理痛はね、病気とか身体的な問題じゃないの。精神的なものなの。だからピルとか治療とかそういうの、全部無駄なのよ」
「……どうして?」
「呪いだから」
リューシカは自嘲気味に呟く。
「呪い」
花が青白い顔で呟く。声が掠れている。
「そう。でもいいの。諦めてるから」
「ねえ、リューシカ」
「ん?」
花がこくん、と唾を飲み込む。
「呪いなら、解けるんじゃないかな。例えば……」
「例えば?」
「キス、するとか」
「……え?」
花の顔が真っ赤になる。しどろもどろになる。
「だ、だって、ディズニーの映画とか、みんなそうでしょ? だから、だから、その、……ね?」
「冗談、だよね? だって……女同士だよ?」
恐る恐るリューシカは訊ねる。胸がどきどきしている。キス。キス? それは口づけのこと? どういうこと?
「女同士じゃ駄目なの? わたしが女だから駄目なの? 好きになったらいけないの? 好きになったら……リューシカは困るの?」
リューシカは言葉に詰まる。涙を浮かべた目で花がじっとリューシカを見つめている。視線を逸らすことができない。でも、言葉も出てこない。こんなにも思いつめた花に、なんて声をかけたらいいのだろう。リューシカは軽はずみな自分を恥じた。それが伝わったのだろうか。
「ごめんね。……帰る」
「待って」
花が立ち上がる。リューシカは咄嗟に花の手を掴む。花はその手を振りほどこうとする。駄目。この手を放してはいけない。このまま花を帰してはいけない。そう思う。そう思ってリューシカは指に力をこめる。
「や、痛いっ、放して」
「待って、花っ。お願い、わたしの話を聞いて」
リューシカも立ち上がる。少しだけふらつく。でも無視する。花を抱きしめる。正面から強く抱きしめる。花はリューシカの胸の中で暴れている。むずがる子どものように。リューシカは抱きしめるのをやめない。花が少しずつ静かになる。胸が痛い。疼くように痛い。パジャマの胸元が涙と吐息でしっとりと濡れ始める。
「馬鹿。……リューシカの馬鹿っ。抱きしめたりとか、そんな、思わせぶりなことしないでっ。好きでもないのにそんなことしないで。男の方がいいなら、わたしのことなんて初めから放っておいてくれればよかったのにっ。ねえ、……本当は好きな人がいるの? つきあってる男の人がいるの?」
「そんな人いない。そんな人、いないわ」
慌ててかぶりを振る。リューシカは男が嫌いだ。ううん。人間が嫌いだ。笑顔の裏側にある悪意を知っている。だから。どれだけ偽善的か知っている。だから。笑い顔で自分を
「ごめんね、花。違うの。そうじゃないの。わたしは汚いから。汚れているから。あなたまで穢したくなかったの」
すすり泣き、涙に濡れ、赤くなった瞳で花はリューシカを見上げる。睨みつけるように見上げている。その瞳はゆらゆらとゆれて光っている。ああ。この子はまるで兎のようだ。最初に見たときと変わらない印象。美しい、小さな獣だ。
「嘘、嘘だよ。リューシカは汚くなんかない。わたしは呪いなんて言われても信じない。ねえ、どうしてそんな嘘を吐くのっ?」
花が叫ぶ。リューシカはなにも言わずに花を見下ろしている。
「……ごめん。大きな声を出してごめんなさい。……でもね、もしその話が本当なら、嘘じゃないなら。わたしはリューシカを救いたい。わたしがリューシカを救いたいの。わたしの力が足りなくて、たとえリューシカを助けられなくても、それでもいい。わたしも一緒に呪われてあげる。好きだから。リューシカが好きだから。わたしの好きはそういう好きなの」
花の手がリューシカの胸に触れる。なにかを探している。指がかかる場所を、掴まる場所を探している。リューシカのパジャマを握りしめる。リューシカの乳房に指が食い込む。胸が痛い。疼くように痛い。花の探しているものはそこにあるのだろうか。
「ごめんね、ごめんねリューシカ。そうだよね。女同士だなんて、気持ち悪いよね。ひくよね。でも……仕方ないじゃない。しょうがないじゃない。好きなんだもの。好きになっちゃったんだもの。自分でもどうしようもないんだもの」
花の瞳から涙が零れ落ちる。はらはらと。頬を伝って落ちていく。
「花……教えて」
それはきっと分水領だ。分かれ道だ。どうしよう。どうしたらいいんだろう。リューシカは戸惑う。そして花に訊ねる。
「どうしてわたしなの? どうしてわたしがいいの?」
「リューシカ」
花は小さな声で囁く。
「そんなことを言わないで。そんなことを訊かないで。リューシカがいいの。リューシカじゃなきゃ駄目なの」
花は知っている。リューシカが迷っているのを知っている。だから。決意を秘めた声で囁く。
「……リューシカお願い、わたしとキスして」
リューシカはごくんと唾を飲み込む。花の右手が、リューシカの鼓動を探るように、胸の上に置かれている。……駄目。どかさなきゃ。そう思う。そう思ってリューシカは花の手に自分の手を重ねる。花は反対側の手でリューシカのパジャマの袖をキュッと握りしめる。あれ。あれ? まるでそれは、二人で胸の前で手を重ねあわせたようになる。
「あ」
リューシカの声が漏れる。唇から吐息が漏れる。そこに、温かいなにかが重なる。花の唇が重なる。花は目を閉じている。睫毛が長い。眉の形が綺麗だ。そう思う。そう思いながらリューシカは恐る恐る
そっと、花の唇が離れる。ぷあ、と小さな声がリューシカの唇から漏れる。慌てて息をする。
「息、止めてたの?」
花が不思議そうに首を傾げる。リューシカは顔を赤くさせながら、こくんと頷く。
「……リューシカってなんか、可愛い」
「ば、馬鹿。……大人を揶揄うものじゃないわ」
リューシカの頬は一段と朱に染まる。殊更に。心臓が破裂しそうだ。
「リューシカの胸。どきどきしてる。わたしも。どきどきしてる。ねえ、……呪いは解けると思う?」
花が呟く。
「もう一回、する?」
リューシカは自分の唇に触れる。指が震えている。キス、した。花とキスしてしまった。
気持ちよかった。そう考えている自分に愕然とする。一回りも年下の女の子と、キスして、気持ちいいとか……大丈夫なのだろうか。法律に引っかかったりしないのだろうか。迷惑防止条例とか。未成年者なんとか、とか。そんな馬鹿なことを考えているあいだにもう一度唇を塞がれる。
リューシカは自分がどこか遠いところに流されていくのを実感していた。それは抗うことのできない、運命のようなものだと思っていた。
花が帰ったあと、夜になってから一人でうどんを温め直して食べ、またベッドに横になった。ご飯が食べられる。食事が喉を通る。たったそれだけのことがリューシカには驚きだった。チョコレートとビールと煙草。今まで生理のときに食べられるものは、口にできるものは、それだけだった。
このまま呪いは消えるのだろうか。リューシカへの罰は許されるのだろうか。
暗がりの中で考える。頭痛も吐き気も腹痛も、それほど変わりはしないのに。食べ物を口にできる、花の手料理が喉を通る。そのことが嬉しい。それだけで嬉しい。リューシカは寝返りを打つ。体を丸まらせて胸の前で指を組む。目を閉じる。
神様。神様。
あなたはわたしを許してくれるのでしょうか。
枕元に置いてあるスマホが震える。ディスプレーにメールの受信を知らせるマークが出ている。花からだ。
リューシカは組んでいた指を解き、そっとスマホの表面に指を滑らせる。
『今日はごめんなさい』
〝今日は勝手に来ちゃってごめんなさい。
どうしても、リューシカに逢いたくて。リューシカの迷惑も考えないで押しかけて、ごめんなさい。お見舞いに行ったのに、不機嫌になって大声出したりして、ごめんなさい。……キスして、ごめんね。でも、リューシカに触れたくて、キスしたくて、気が狂いそうだったの。……また、お見舞いに行ってもいいですか? お食事を作りに行ってもいいですか?
リューシカが好きです。
大好きです。〟
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