2013・5・13・(月)

 その日。リューシカは近所の大きな児童公園で朝から缶ビールを飲んでいた。ミモザの若葉と白い玉砂利が目に眩しい。右手の人差し指と中指のあいだには短くなったショートホープライト。赤い弓矢のパッケージが気に入っている。なによりナースウエアのポケットにすっぽり収まる大きさなのがいい。肺にまで思いっきり煙を吸い込み、紫煙を吐き出す。ああ。生きているって感じがする。左手にはもちろん缶ビール。500ミリリットル缶の二本目だ。妙齢の女性が——それもとりわけ美しい女性が——朝から飲むものとも思えないが、リューシカは気にしない。ぐびぐびと喉を鳴らす。ああ。生きているって感じがする。

 犬を散歩させているおばさんの不審者を見るような目にも、リューシカがなにかを感じているような気配はない。そんなものを気にしていたら児童公園で煙草なんて吸えない。お酒なんて飲めない。リューシカはアパートを出るときに持ってきたコンビニのビニール袋から次の缶ビールを取り出す。コンビニの袋に入れてきたのは斜めがけにした小さなポーチには入らないから。飲み終えたビールの缶を灰皿代わりにして吸殻を飲み口にねじ込む。

 三本目の500ミリリットル缶を開ける。つまみに、と思ってパーカーのポケットに突っ込んできたチョコレートはやわらかくなってしまった。ポケットに突っ込んできたのは斜めがけにした小さなポーチには入らないから。溶けてしまったものは仕方がない。だってもう、春だもの。

 天気はどんよりと曇っている。降水確率は何パーセントくらいなのだろうと考える。新聞もとっていないし、テレビも置いていない生活では、こういうとき情報に事欠くようになる。スマホで調べようにも今は手元にない。自宅に置いてきた。誰のせいでもない。自分が悪いのだ。

 煙草とビールとチョコレート。この三日間で口にしたのはそれだけだ。あとは大量の鎮痛剤。ひどく重い生理痛を抱えていても、三日目になれば外出くらいはわけもない。それにアルコールは痛みを麻痺させてくれる。忘れさせてくれる。通勤途中のサラリーマンたちが公園をショートカットしていく。ベンチの前を通りながら眉をひそめ、なんだあの女は、という目でリューシカを見る。あるいはその奇態と美しさに見惚みとれる。リューシカは気にしない。リューシカは男になんて興味がない。ビールと煙草とチョコレート。今はそれだけがあればいい。

 リューシカは郊外の精神科単科の病院で看護師をしている。それ以外の仕事はしたことがない。平日にわりと自由に休みの希望が入れられる仕事が看護師以外に思いつかなかっただけだ。精神科に興味があっただけだ。でも、リューシカは自分が案外この仕事に向いているのではないかと思っている。はたから見てもそう思われているかどうかはよくわからない。

 リューシカの生理は必ず二十八日周期でやってくる。初潮を迎えてからこのかた、ある期間を除いて一度も狂ったことがない。だからリューシカは自分の生理に合わせて勤務の希望を入れる。生理初日、二日目はひどい頭痛と吐き気でほとんどベッドから動けない。だから二日間は必ず休みをもらう。下腹部も太い釘を刺されたようにズキズキと痛む。ベッドで横になっていると、まるで展翅されたまま箱の中で張りつけにされている虫の気分になる。だから出られるときには外に出る。けれども今、空は分厚い雲に覆われている。リューシカは小さくため息をつく。女になんて生まれなければよかったと後悔する。自分の罪を思って後悔する。仕方がない。それは呪いなのだから。

 三本目のビールが空になる。立ち上がると少しだけふらつく。外に出てきてみて、太陽の下——今は影も形も見えないけれど——で飲むビールが格別美味しいかというと、別にそうでもない。出勤や通学途中の雑多な人を眺めているのが楽しいだけ。ベッドにずっと横たわっていると気持ちがくさくさするから、気を紛らわせたいだけ。生理痛を忘れたいだけ。そして公園を行き来する人を見て、ちっぽけな優越感を覚えたいだけ。

 あなたたちはしっかり勉学に励み、仕事に勤しむがいい。わたしは朝からお酒を飲み、帰ってもう一度深く眠るわ。どう、羨ましいでしょう? といった具合に。

 リューシカは基本的に人間が嫌いだ。男も女も嫌いだ。だからそれは、あるいはリハビリだったのかもしれない。

 ふと、リューシカは急に尿意を覚える。朝から立て続けに500ミリリットル缶のビールを三本も空けていればトイレにだって行きたくなる。しょうがない。人間だもの。公園に設置されているゴミ箱に空き缶を全部捨てる。リューシカは煙草の吸殻を入れた缶を捨ててはいけないことを知らないのだ。そもそも、そのゴミ箱は燃えるごみ専用と書かれているのに。本人はそのことにまったく気づいていない。しょうがない。そういう人間だもの。

 トイレの入り口に看板が立っている。痴漢に注意と書かれている。リューシカは一瞬足を止める。周囲を見回す。少しだけ心臓の鼓動が早くなる。体の奥深くに流れる川の水嵩が増した気がする。リューシカの心はそれを敏感に感じている。近くにコンビニなどもない。家まで我慢した方がいいのだろうか。ううん。無理だ。我慢できない。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かす。トイレの入り口から中を覗く。公園の奥まった場所にあるトイレは全部和式になっている。今は誰も使っていない。少しだけ安心する。一番入り口に近い個室に入る。

 トイレにしゃがみ、用を足す。ほっとする。リューシカの生理は重く、そして短い。明日にはもうナプキンもいらないだろうと出血の様子を見て思う。今回はたまたま三連休が取れたけれど、いつもなら今頃仕事をしていたはずだ。鎮痛剤を服用しながら。今日生理痛が軽く感じるのは、仕事がお休みだからかもしれない。

 とりあえず家から持ってきた新しいナプキンに交換する。ポーチの中にいつも幾つか常備している。いくら生理が規則正しいとはいえ、女性なのだからポーチに常備するくらいは当たり前だと思っている。汚れたナプキンを丸めて新しいナプキンの包みでくるむ。サニタリーボックスに捨てる。一連の動作は実に手際がいい。慣れたものだ。

 誰かが隣の個室に入った音がする。ドキッとする。こんな時間に公園のトイレを利用する人間は珍しい。でも足音は女の人のものだったと思う。リューシカは息を詰めてじっとしている。隣の人はただ用を足しているだけ。そう自分に言い聞かせる。人が近くにいるのが嫌なだけだ。そう自分に言い訳する。リューシカは隣の人がいなくなるまで待つことにする。それまで自分の存在を消すことにする。

 するとそのときだった。

 いきなりガアァンッと大きな音がして、お隣さんがいる方の壁がビリビリと震えた。

「きゃあっ」

 リューシカはびっくりして悲鳴を上げる。なに、なんなの? リューシカは戸惑う。心臓がバクバクしている。

「えっ?」

 隣から驚いたような声がする。まだ若い女の声だ。たぶん、自分よりもずっと若い。学生だろうか、とリューシカは考える。でも、今の学生はキレたらなにをするかわからない。なにをされるかわからない。つい先日もそんな事件に関わったばかりだ。

「あ、ごっ、ごめんなさい」

 再び少女の声がする。急に謝られてもリューシカは戸惑ってしまう。

「ううん。それより大丈夫? 転んじゃいました?」

 転んだ拍子にぶつけた音とも思えなかったが、一応訊いてみる。相手がどんな人間かわからない。ひょっとしたら急に襲われるかもしれない。再びリューシカは思う。なぜならそんな人間が世の中にたくさんいることをリューシカは知っている。だから見ず知らずの他人に接するとき、リューシカは必ず慎重になる。

「あ、いや、その。違うんです。本当にごめんなさいっ」

 おどおどした声が返ってくる。少なくとも声を聞く限りでは、敵意はなさそうだと判断する。

「よかった。大丈夫そうね」

 自分に言い聞かせるようにそう声をかける。リューシカはトイレの水を流す。隣の個室の扉が開く音がする。どうやら用を足しに来たわけでもなさそうだが。はて、お隣さんはなにしにトイレに来たのだろう。

 スカートの裾を直しながら改めてリューシカはその少女を見つめる。モスグリーンの真新しいブレザーにチェックのスカート。胸には白い鐘の校章。確かこの制服は都内のミッションスクール、美以みい女子学院じょしがくいん|高等学校のものだ。リューシカはふとそのことに気づく。

 少女は目に涙を浮かべている。不安げにゆれる表情と泣いて赤くなった瞳。それがまるで兎のようだとリューシカは思う。前髪を切りすぎているきらいはあるがなかなかに美しく、愛らしい少女だ。まだ大人でもなく、子どもとも言えない。乙女と呼び得る年頃だ。

 なぜだろう。彼女を見ていると胸が苦しい。それは懐かしさに似ている。後悔に似ている。リューシカは戸惑う。その感情に名前をつけることができない。

「大丈夫?」

 リューシカは声をかける。見ず知らずの他人にリューシカから声をかけるのは珍しい。少女のなにかが心に引っかかった気がする。でも、そのなにかをリューシカは言葉にできない。涙だろうか。その表情だろうか。

「すみません、むしゃくしゃして。つい壁に八つ当たりしちゃったんです。お隣に人がいるって気づいてなくて、本当に申し訳ありませんでした」

 少女はそう言ってぺこりと頭を下げた。

 泣くほど悔しいことってなんだろう。壁を殴りつけなければ気が済まなかったことってなんだろう。この子にとってのそれに、リューシカはちょっとだけ心惹かれる。

 胸の奥底でなにかが芽生える。やわらかな土壌から小さな双葉が顔を出す。それは瑞々しい春の風の匂いがする。

 リューシカはふと思う。この子ともっとお喋りしたい。ううん。話をしなきゃいけない。なぜそう思うのかはわからない。あるいは自分は酔っているのだろうか。ビール三本くらいで酔ってしまったのだろうか。

 リューシカは人が嫌いだ。他人と関わるのが苦手だ。それでも看護師の仕事は好きだ。看護師は人と関わる仕事だ。特に精神科の看護の場合はそれが仕事のほぼすべてである。……変なの。リューシカは思う。やっぱり酔っているのかもしれない。おかしい。自分はおかしい。リューシカはくすくすと笑う。少女はきょとんとしている。

「あの……?」

 訝しげに少女が訊ねる。

「ううん。なんでもないの。でも、びっくりしたわ。頭を打ったりしたんじゃなくて本当によかった」

 リューシカは微笑みながら言う。少しは看護師らしい台詞かな、とか思いつつ。

「こんなところで立ち話もなんだから。よかったら外で話さない?」

「え、でも」

「でもじゃないわ。あなただってトイレにずっといるわけにもいかないでしょう?」

 少女は渋々といった感じでこくんと頷く。不信感を持たれているのをリューシカは肌で感じる。そのことにちょっと傷ついたりする。

 でも。

 公園のトイレで酔っ払いの女が女子高生を泣かせている。はたからそう見えてしまうこのシュチュエーションはまずい。かなりまずい。通報されたら職を失うかもしれない。それは困る。だってリューシカは看護師の仕事が好きだもの。

 トイレから出ると空の色は一層濃くなっている。鉛のような色をしている。どこからか湿ったアスファルトの匂いがする。雨の匂いだ。今日は雨が降るのだろうか。

 リューシカはトイレから少し離れたベンチに座る。手招きして少女を呼び寄せる。少女は戸惑いながら、それでもおとなしく隣に座る。リューシカは膝の上で指を組みあわせる。いつものように。まるで教会で祈るときのように。それは最早リューシカの癖になっている。

「もしかして前にどこかで逢ったこと、ありませんでしたっけ?」

 少女が不思議そうにリューシカに訊ねる。なにそれ、まるで一昔前のナンパの台詞みたい。そう言ってリューシカは苦笑する。こんな台詞を聞いたのも久しぶりだ。昔はそんな輩が多かったものだが、今はどこに行ったのだろう。きっと保健所の職員によって駆除されたに違いない。奴らは野良犬と一緒だ。病気だって持っているに違いない。

「あなたは学校に行く途中かしら? それにしては少し遅くない?」

 リューシカは訊ねる。公園中央にある時計を見る。美以女子学院高等学校はここからまだ電車で幾駅かあったはずだ。時計の針は八時半を大きく回っている。たとえホームルームが九時からだったとしても、到底間に合う時間とは思えない。

「え? ええと、そう、なんですけど、ね」

 少女が俯きながら小さな声で呟く。

「サボり、だ?」

 リューシカはいたずらっ子のような笑みを浮かべながら、大きく背伸びをする。もっとも自分だって人のことを偉そうに言えた義理じゃない。いい大人は月曜日の朝から公園でビールなんて飲んだりしない。それも、500ミリリットルのロング缶三本も。

「サボり、です」

 そう呟いた少女はなにを思ったのか、不意に自分の右手の甲をペロリと舐めた。見ると血が滲んでいる。壁を殴ったときに痛めたのだろうとリューシカは思う。少女の右手は少し腫れて、赤くなっていた。

「怪我しちゃった?」

「ええ。……そうみたい」

「あんなに大きな音を立てるくらい思いっきり殴りつければ、そりゃ、ね」

 顔を赤くさせて俯く少女を可愛いと思う。

「わたしは月庭つきにわリューシカ。あなたは?」

 顔を上げた少女の表情は訝しげだ。リューシカ。リューシカ? それは日本人の名前には聞こえない。目鼻立ちのはっきりした美しい顔。肩先でやわらかそうにゆれる緩やかに波打つ暗灰色の髪。瞳の色も髪の毛と同じ暗い灰色をしている。背も高い。モデルと見紛うほどだ。だけど……どう見ても日本人にしか見えない。

「……遊崎ゆさきはなといいます。月庭さんはもしかしてハーフとか、ですか?」

「ううん。両親は共に日本人よ。リューシカって漢字だとね、流れる柿の花って書くの」

 リューシカは腰をこごめる。地面に指で【流柿花】と書いて見せる。少女……花はそれでもきょとんとしている。無理もない。漢字で書かれようが、リューシカという名前はどこかおかしい。

「……素敵な名前ですね」

「ありがとう。でも花って名前もシンプルで可愛いわ」

 もし自分に子どもがいたら、その子に花と名づけただろうか。一瞬胸の奥が苦くなる。リューシカはそれを無視して笑いかける。花も苦笑する。花はどう返事をしていいのかわからない様子である。

 ぽつり、と頬になにか当たる。冷たい。雨だ。雨足が急速に強まっていく。それは本当に篠突くと言い表してもいいくらい、みるみるうちに激しくなる。空が光る。雲の隙間に稲妻が走る。

「花、傘は?」

「あっ、あの、うちに忘れてっ」

「いらっしゃい」

「え?」

「早くっ」

 リューシカが花の手を掴む。その手を引っ張って走り出す。雨の中。リューシカは花の手を握りしめる。

 他人と触れあうのは嫌いなはずなのに。苦手なはずなのに。なぜこの子の手を掴んでしまったのだろう。嫌じゃないのだろう。リューシカは自分の行動を不思議に思う。

 今は走る。考えるのはあとでいい。

 リューシカのアパートは公園から程近くにある。走れば七、八分とかからない。それでも雨脚は強く、二人を容赦なく打ち据える。

 玄関にたどり着く。ポケットの中の鍵を取り出すのに手間取ってしまう。まさぐるとやわらかくなってしまったチョコレートがポケットの中で原形をなくす。溶けてしまったものは仕方がない。だってもう、春だもの。

「ごめん、散らかっているけど、どうぞ」

「あ、あの」

 少女は戸惑う。雨に濡れた髪がべったりと頬に張りついている。モスグリーンの制服は黒く変色していかにも重たそうに見える。

「そのままじゃ風邪をひくわ。タオルを貸してあげるから。ほら」

「……お邪魔していいんですか」

「もちろんよ。わたしが花を連れてきたんだもの。駄目なわけがないじゃない」

 リューシカはやわらかく頬を緩める。リューシカの微笑みはどこか人の警戒心を解くようなところがある。患者からの受けもいい。精神科の看護師としては得難い才能である。

「じゃあ、お邪魔します」

「ちょっと玄関で待っていて。バスタオルを持ってくるから」

「はい」

 リューシカのスカートからもポタポタと水滴が垂れる。急いでバスタオルを取ってくると、玄関で寒そうに震えている花に手渡す。リューシカはその足で寝室にとって返す。衣装棚から適当に着替えを引っ掴む。脱衣所にブラウスとパーカー、スカートを脱ぎ捨てて、急いでルームウエアに着替える。下着もしっとりと湿っている。少しだけ気持ちが悪い。下着も取り替えればよかっただろうか。

「髪の毛拭けた? 制服もびしょびしょでしょう?」

「ええ。……下着まで濡れちゃった」

 そう言って花は苦笑する。頬がほんのりと赤い。はにかむと途端に幼く見える。可愛いな、とリューシカは思う。自分にもそんな時代があったことをすっかり忘れている。リューシカだってその当時は可愛らしく、美しい乙女だったのだ。

「タオル足りないかな? もう一枚持ってくる?」

「ううん。大丈夫です。ありがとうございます」

「どういたしまして。せっかくだから上がって。温かい飲み物くらいなら出せるわ」

「でも……」

 花は躊躇ちゅうちょする。

「そんなに親切にしてもらうわけにはいきません。タオルを貸してもらえただけで、もう、本当に」

「だって花、寒くて震えているわ。大丈夫よ。別にとって食べたりしないから」

 リューシカは笑う。少しでも花の警戒心が解けたらいいな、と思いつつ。

 手招きすると花はおずおずとついてくる。居間はごちゃごちゃとしている。乱雑に床に投げ捨てられているファッション誌。煙草の空箱。チョコレートの包みもその上に無造作に積み重なっている。もっと日頃からこまめに片づけておけばよかったと後悔する。誰のせいでもない。自分が悪いのだ。

 部屋を構成するのは苔色のラグマットに小さな円卓。ほこりをかぶったステレオセット。丈の低いクッションが二つ。それだけ。シンプルというよりもどこか殺風景な部屋だ。もちろん片づけられていれば、の話だけれど。不必要なものが多く、雑多ではあるけれど。逆に居間と繋がっているキッチンには恐ろしいくらい物が置かれていない。醤油も塩も見当たらない。すぐに手に取れるような場所にはなにも置かれていない。ただ小さな冷蔵庫が見えるだけ。

 花はそんな部屋の様子を物珍しそうに見つめている。リューシカは見回されているのにも気づかず、キッチンに立っている。牛乳をミルクパンに入れる。ガスコンロに火をつける。ボッという音ともに、青い炎が鍋の底を舐めた。

「あの、月庭さん」

 花がリューシカの背中に向かって声をかける。

「リューシカでいいよ」ミルクパンに戸棚から出した蜂蜜を垂らしながら、背を向けたまま答える。「わたし、月庭って呼ばれるの嫌いなの」

 月庭は本当の姓じゃない。借り物の姓だ。だからその名字で呼ばれると悲しくなる。死んだ父と母とを思い出す。いろいろなことを思い出す。だから。リューシカはただのリューシカであればいいと思っている。

「じゃあ……リューシカさん?」

「さんもいらないわ。敬語も使わないでいいよ。うーん。もっと気楽に話してくれたら嬉しいんだけど。あっ、ちょっと待っててね」

 リューシカはコンロの火を弱め、押入をごそごそと漁り始める。なにを探しているのだろうと花が不思議そうに見つめている。七、八分ほどもそうしていただろうか。リューシカが押入から取り出したのは小さな救急箱だった。どの家庭にもあるような簡易的な医療キットだ。

「ごめんね、待たせちゃって。あんまり使わないからどこにしまったかわからなくなっちゃった」

 リューシカは苦笑する。

「右手を出して。手当てするわ」

「あの、でも、もう血も止まっちゃったんですけど」

 トイレの壁を殴ったのを恥ずかしく思っているのか、花は右手を隠すように背中に回す。

「そうかもしれないけど。でも、黴菌が入ったらいけないわ。わたし、こう見えても看護師なの。いいから手を出してごらん」

 リューシカはそう言って、そっと花の手を取る。あたたかく、そして小さなやわらかい手だ。乙女の手だ、とリューシカは思う。自分にもそんな時代があったのだろうか。

 リューシカは傷口にオキシドールを吹きかける。それが沁みたのか花の手がピクリと動く。眉根が寄る。ゲンタシン軟膏を塗った滅菌ガーゼを傷口に当て、サージカルテープで止める。一連の動作は実に手際がいい。慣れたものだ。

「リューシカはどうしてあんな場所にいたの?」

 処置を受けながら花が訊ねる。年上の人を呼び捨てにするのに少しだけ戸惑っているように見える。

「そういう花はどうしてあんな公園のトイレに? あ、いけない牛乳牛乳っ」

 リューシカは立ち上がる。キッチンに走っていく。時折雷の音が響く。窓に雨粒が叩きつけられる激しい音がする。この世の終わりのようだ。

 本当に終わってくれたら嬉しいのに。半分本気でリューシカはそれを願っている。

 部屋の中は薄暗い。電気をつけてもなお薄暗い。それは世界の黄昏みたいだとリューシカは思う。

 自分はなぜこんなにもこの子に執着しているのだろう。リューシカはふとそう思う。ミルクパンの中の牛乳は温めすぎて薄い膜ができていた。タンパク質が変性したのだ。変だ。こんなの絶対に変だ。でも、花を引き留めずにはいられない。胸の中を小さな虫が這っているような気分。でも、不快じゃないのはなぜなのだろう。

 マグカップに温めた牛乳を均等に注ぐ。居間に運ぶ。片方を花に渡し、もう片方に口をつける。

「ありがとう」

「ごめんね、こんなのしかなくて」

「ううん」花もマグカップに口をつける。のどがこくんと小さく動く。「……あたたかくて美味しい」

 花が呟く。濡れた前髪がキラキラ光っている。

 リューシカが訊ねる。

「制服、乾かしてあげようか」

「どうやって?」

「浴室に乾燥機能がついているの。タオルで余分な水気を取って干しておけば、すぐに乾くと思うわ」

「お願いしていいの?」

「うん」

「……でも」

「ん?」

 花の頬がほんのりと赤らむ。

「服、脱がなきゃいけないよね」

 リューシカは言葉に詰まる。花の気持ちもわかる。見ず知らずの人の家で、いきなり服を脱ぐのは抵抗がある。自分ならどうだろう。……たぶん、他人の家にはついて行くことさえしなかったはずだ。

 なんて声をかけたらいいのかわからない。すると不意に花が立ち上がる。あまりにもリューシカのことを不審に思って、帰ってしまうのかと不安になる。けれども花はブレザーを脱ぐ。少しためらってからスカートのホックも外した。リューシカは濡れた制服一式を受け取る。花の顔は真っ赤に染まっている。お互いにお互いの顔が見られない。リューシカは慌てて制服をハンガーにかける。浴室に吊るす。乾いたタオルを制服に当てる。乾け、乾けと念じる。乾燥機能をセットする。タイマーを一時間にあわせる。胸がどきどきしている。手が震えている。どうしよう、と思う。寝室から使っていないタオルケットを持ってきて花に渡す。花のブラウスも雨に濡れ、下着の柄まで透けて見える。

「ご、ごめんね。恥ずかしいよね」

 リューシカの声が少し掠れている。緊張しているのだ。

「……本当に学校、サボることになっちゃった」

 花が笑う。どこかほっとしているような笑みだった。

「訊いていい?」

 タオルケットにくるまれた花に、リューシカは質問する。

「なにがあったの?」

 花は少し沈黙する。マグカップを両手でつつむように持ち、口に運ぶ。こくんとのどが鳴る。リューシカは花が話し始めるのをじっと待っている。

「……前髪を切りすぎたんです」

 花が小さな声で呟く。

「なかなか髪をうまく整えられなくて。それで遅刻しそうになって……。ほんと、馬鹿みたいですよね」

 花が自嘲気味に呟く。俯く。眦が赤くなる。なにかを思い出そうとしている。あるいはなにかを忘れようとしている。

「いつもより遅い電車にしか乗れませんでした。そうしたら電車、ぎゅうぎゅう詰めで。身動きがとれなくて。お尻になにかが当たるんです。初めは気のせいだと思いました。でも……スカートがたくし上げられて、下着の中にまで指が入ってきて。それで途中の駅で慌てて降りたの。わたし、今日生理三日目だったんです」

 マグカップを持つ手が震えている。悔しそうに唇を引き結んでいる。

「頭の中が混乱して、改札を出たあと……どこをどう歩いているのかわかりませんでした。気づいたらこの公園の入り口に立っていました。それでね、なんか違和感があったんですよ。股のあいだが変にごわごわしているんです。だからトイレで確認したんです。そうしたら」

 マグカップを握りしめる手の上に、ぽたりと雫が落ちる。涙が頬を伝って落ちていく。花が悔し涙を流している。声を押し殺して泣いている。リューシカはそんな花の様子をじっと見つめている。

「ナプキンの位置がずれていて、下着が汚れちゃってて。……そいつ、わたしが生理中だって知ってたんだって、ナプキンを取ろうとしてたんだって、そう思ったら恥ずかしくて、悔しくてっ。どうしようもなかったんです。だから、だからわたし、トイレの壁をっ」

「もういい、もういいから」

 リューシカはタオルケットの上から花を抱きしめる。ふるふると震えているのは寒さのせいか、怒りのせいか、それとも羞恥のせいなのか。リューシカにはわからない。わからないけれど男にひどい目にあわされたときの気持ちなら知っている。あの激しい絶望感をリューシカは忘れない。だから。リューシカは花が握っているマグカップを優しく取りあげる。花も素直に手放す。そしてそっと円卓の上に乗せる。マグカップを置いたリューシカの手も震えている。この子に出逢ったのはあるいは神様のお導きなのだろうか、とリューシカは考える。……なぜ。今更、とリューシカは考える。

「女になんて生まれなければよかった」

 花が悔しそうに呟く。リューシカはそんな花の背中を撫でている。リューシカは今になって花に惹かれた理由を知る。この子はもう一人のわたしだ。花は昔の自分自身だ。そう思う。そう思って背中を撫で続けている。部屋の中は薄暗い。電気をつけていても外の暗さには勝てない。光は分厚い雲に吸い込まれていくようだ。雨が降っている。激しく雨が降っている。時折稲光が走る。空が割れるような音がする。その合間に花のすすり泣く声がする。リューシカは花の背中を撫でている。姉のように。母のように。

「ねえ、全部やり直してみましょうよ。最初から」

 リューシカが呟く。きょとんとした表情で花がリューシカを見上げる。リューシカは花の涙を指先でそっと拭う。それは雛鳥に餌を与える姿に似ている。リューシカは親鳥の気分になる。

「どういうこと?」

「前髪。いっそのこと全部揚げちゃったらどうかな。おでこの形も綺麗そうだし。ちょっと試してみていいかしら」

「え、あ……はい」

 花が恥ずかしそうに視線を逸らす。リューシカがくすりと笑う。寝室の化粧道具入れからヘアピンを幾つか持ってくる。花に目を瞑らせ、前髪をピンで留めていく。やっぱりおでこの形が美しい。ゆで卵のようにつやつやしている。自分にもこんな時代があったのだろうか。リューシカはふとそんなことを思う。自分にも乙女であった時代が確かに存在していたはずなのに。それは遠い過去の川に流されてしまった。振り返って見ることすら困難だ。体の奥深くに流れる川の名前はアケロンという。それは冥府に流れる川の名だ。

「いいよ、目を開けて」

 リューシカが優しく呟く。

「どうかな。これもなかなか可愛くない?」

「……うん。可愛い」

 卓上に置かれた小さな鏡を覗き込み、花が呟く。四角い、赤い鏡は部屋の中を、そして花とリューシカを映し出す。並んで鏡に映る姿は姉妹のようだ。あるいは親子のようだ。

 花がリューシカの肩にそっと自分の頬を寄せる。あたたかい。ううん、熱い。それは他人の熱。自分以外の誰かの体温。髪の毛からは雨の匂いがした。雨はいつ降り止むのだろう。

 浴室からタイマーの音が聞こえる。乾燥が終わった合図。リューシカは立ち上がる。名残惜しそうにゆっくりと。浴室にかけた制服の乾き具合を確かめる。生乾きだけれど着られないほどじゃない。でも、どうしよう。雨はまだ激しく降り続いている。花をこのまま帰してしまっていいのだろうか。

「リューシカ?」

 手ぶらで戻ってきたリューシカに花が声をかける。

「生乾きなんだけど。どうする? 着られないことはないと思う」

「……もう少しだけ。いてもいい?」

「構わないわ。じゃあ、もうちょっと乾燥かけておくね」

「うん」

 リューシカは浴室に戻る。もう一度タイマーをセットする。少しだけ安堵している自分に気づく。でもそれがなぜなのか、自分でもよくわからない。

 再び戻ってきたリューシカに花が訊ねる。

「ねえ、リューシカ。今日はお仕事お休みなの?」

「わたし? うん。お休み。看護師は平日に休めるの」

「そっか、それもいいね。わたしも看護師になろうかな」

「夜勤とかあるから大変だけどね。今日も……というか日付が変わる頃からだから明日みたいなものだけど、深夜の勤務に入るの」

 リューシカは苦笑する。花も笑う。ホットミルクは冷めてしまった。表面に白い膜が浮かんでいる。タンパク質が変性したのだ。

「リューシカ、訊いてもいい?」

「いいよ」

「リューシカはなんであの公園にいたの?」

 リューシカは言葉に詰まる。花の話を聞いたあとでは朝からビールを飲んで酔っ払っていた、なんて言えない。いい大人は朝からロング缶を三本も空けない。恥ずかしい。改めて自分の行動を省みる。穴があったら入りたい。

「わたしも今日生理三日目でね、生理痛がひどくて。痛みを紛らわすために少しお酒を飲んでたの。それで酔い覚ましにぷらぷらしてて、おトイレに入ったらいきなり隣からガアァンッでしょう。びっくりしちゃった」

「……ごめんね。驚いたよね」

 花が申し訳なさそうに縮こまる。リューシカは苦笑する。嘘は言っていないとリューシカは考える。もちろん。真実に多少の嘘が混じるのは世の常だ。真実は嘘の欠片でできている。あるいは嘘は真実の欠片でできている。

 無性に煙草が吸いたくなる。でも我慢する。花に煙草の匂いが移るといけないと思う。だって、花は学校に行く途中なのだから。もしまだ学校に行く気があればの話だけれど。

「飲み物、取り替えようか。冷たくなっちゃったでしょう」

「ううん。いい。ありがとうリューシカ」

 花がリューシカの肩に頬を寄せる。

「リューシカ。煙草の匂いがするね」

「……くさい?」

「ううん。くさくない」

 花は目を瞑る。思いのほか顔が近い。リューシカは少しだけどきどきする。花の髪の毛からはもう、雨の匂いはしない。気づくと花は小さな寝息を立てている。眠ってしまったように見える。声をかけようか迷って、結局そのままにする。精神を落ち着けるために人は眠る。惛々こんこんと眠る。それは精神科ではよく見られること。だからリューシカは声をかけない。タイマーが切れるまで、まだ四十分以上あるのだ。

 時間は砂時計の砂のようだ。必ず下に流れる。砂時計の上には空隙が残る。それは寂しさに似ている。花が帰ってしまったあとの部屋には空隙が残っている。それは寂しさに似ている。ううん。寂しさそのものだ。

 リューシカは煙草に火をつける。肺にまで思いっきり煙を吸い込み、紫煙を吐き出す。でも、不思議と生きているって感じがしない。どんな感じもしない。なんにも手につかない。

 花は乾いた制服をもう一度着て、学校へ行った。リューシカは駅までの簡単な道順を教えた。ついて行こうか、と言うと、花はやんわり断った。大丈夫。心配しないで。と。

「ねえ、最後にひとつ、お願いしてもいいかな」

 花は言った。つきそいを断ったとき、リューシカが悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべたのを花は見逃さなかった。

「傘を貸して欲しいの。またここに……必ず返しに来るから」

 玄関を開け、そう呟いた花の顔はほんのり赤い。雨は幾分小降りになってきた。それでも止んだわけではない。遠くの方ではまだ雷の音が鳴っている。雲は分厚く、いかにも重そうに見える。

「せっかくだから一番いい傘を持って行って。わたしのお気に入りのやつ。だから……ちゃんと、必ず返しに来て」

 花は驚く。リューシカの顔を見上げる。リューシカの頬も赤い。別れがたく思っている。二人ともそれを強く感じている。言葉にしなくても伝わるものがある。

「約束」

 リューシカが小指を花の目の前に差し出す。

「うん」

 花もその指に自分の小指を絡める。

「あ、あの……メアド、訊いてもいい?」

 花がおずおずと訊ねる。リューシカは微笑みながら頷く。

「リューシカはSNSとかする人?」

「しない人。LINEもツイッターもフェイスブックも興味がない人」

「わたしもそういうの興味ないの。……一緒だね」

 花が笑いながら濡れた鞄を開ける。中からスマホを取り出す。リューシカの言った番号を、アドレスを登録する。少し間が開く。お互いが沈黙している。テーブルに置きっ放しのリューシカのスマホが震えた。確認すると知らないアドレスからのメールが届いている。

「届いた?」

 花が心配そうに訊ねる。

「うん。大丈夫。登録しておくね」

「うん」

 メールには『遊崎花です』と題名がついている。本文の代わりに花のアドレス情報がついている。

 花は玄関を閉める前、そっと後ろを振り返える。リューシカが花に手を振る。花も手を振り返す。扉が閉まる。がちゃんと音がする。階段を下りていく音がする。なんだろう。胸に穴が空いてしまったようなこの感じ。喪失感、だろうか。リューシカはなにを失ってしまったのだろう。新しい出逢いがあったのに。花と知り合えたのに。なんでこんなにも寂しいのだろう。

 リューシカは煙草を揉み消し、冷蔵庫を開ける。チーズと牛乳と卵、ミネラルウォーターのペットボトルしか入っていない。パタンと冷蔵庫を閉める。買い物に行く気もしない。シリアルとカップ麺ならいつでも常備している。でも、食欲もない。チョコレートも食べる気分じゃない。布団の中に入る。目を閉じる。眠気はこない。今はなにも考えたくない。手を伸ばして部屋の電気を消す。部屋が暗くなる。雨の音がする。雨は降り続いている。

 それでもいつの間にか眠ってしまったらしい。目覚めるとすでに部屋の中は真っ暗になっている。スマホで時刻を確認する。花からのメールが入っている。


 『ありがとう』


〝無事に学校に着きました。本当にありがとう。今日はリューシカに出逢えて、すごく嬉しかったです。今夜は仕事だって言ってたよね。お腹痛いの大丈夫ですか。無理しないでくださいね。

 また遊びに行ってもいいですか? 傘、返しに行きます。〟


 リューシカはすぐに返信を打つ。支度をする。時間を見ると十九時半になるところだった。リューシカは簡単に着替えてアパートを出る。しとしとと小雨が降っている。近所のラーメン屋さんでタンメンを食べる。チョコレートとビール以外のものを口にしたのは三日ぶりだろうか。優しい塩味が胃に沁みる。口の中を火傷しそうになる。家に帰ってシャワーを浴びる。裸のままベッドに横になる。しばらくぼんやりと天井を見上げる。

「花」

 そう、口に出してみる。呟いてみる。その名前は雨のようだ。水面にいくつも波紋を起こすように、リューシカの胸をざわつかせる。

 出勤の時間までだらだらと過ごす。何度も見たはずの雑誌をめくる。服を着てメイクを整える。玄関にかけてある車のキーを取る。リューシカの車は黄色い軽自動車だ。アパートから少し離れた駐車場に置いてある。雨は止んでいる。雲の切れ間に星が光っている。花はもう眠ってしまっただろうか。それともどこかで、リューシカが見ている星を見上げているのだろうか。

 カーステレオからは聴いたこともないJポップが流れている。バックミラーにかけたロザリオが小さくゆれている。

 ヘッドライトが濡れた道を浮かび上がらせる。道端の雑草が光っている。雨の痕跡は至る所に残っている。雨の匂いが残っている。それはリューシカに花のことを思い起こさせた。モスグリーンの制服。肌に貼りついたブラウスと、下着の柄。髪の毛に残っていた雨の匂い。

 二十五分ほど車を走らせる。いつもの道。慣れた道。車を病院の駐車場に止める。守衛に挨拶しながら病院に入る。真夜中の病院は深閑としている。廊下に足音が響く。

 そして、

 更衣室で同じ病棟勤務の三嶋みしままどかと一緒になった。

「お疲れさま」

 声をかける。まどかもリューシカにお疲れさまと返事をする。

「今日はリューシカと一緒か。あと加納かのうさんと……誰だっけ?」

柳田やなぎだ|君じゃなかった?」

「ああ、柳田か」

 まどかがため息をつく。

「柳田君、嫌い?」

「ううん。そうじゃなくて。単純に疲れてるだけ。ほら、今日わたし日勤深夜だし。それに……日中一人、ステったのよ」

 リューシカは着替える手を止める。まどかは下着姿のまま白い靴下に履き替えている。

「死んだの? 誰が?」

 リューシカが驚くのも無理はない。精神科で誰かが亡くなるのは珍しい。この病院は単科の精神病院だ。身体的な合併症がある患者は極力引き受けない。ステる。ステルベン——死亡する——というドイツ語も久しく聞かなかった。誰か自殺でもしたのだろうか。

「金曜日に入ってきた女の子、覚えてる? ショッピングモールでお母さんから赤ちゃんひったくって齧った子。警察に連れてこられたときギャーギャーわめいていた金髪の。飯がまずいとかなんとか言って結局持続点滴になったあのお馬鹿ちゃん。入院とったのリューシカだよね?」

 外来に迎えに行ったときに暴れる少女を押さえつけた。腕を引っ掻かれた。忘れるはずがない。

「もちろん覚えているけど……あの子児童思春期病棟に転棟になるって話だったよね? え? 死因はなに?」

「それがよくわからないの」まどかはそう呟いて頭をかいた。「気づいたらもう全身ネクってて手がつけらんなかったのよ。今頃県立大辺りで病理解剖してるんじゃないかしら」

 ネクる。ネクローシス。つまり壊死したということ。でも……意味がわからない。糖尿病の患者では急激に壊死が進むケースもままある。でも、あの女の子はまだ十五歳だった。基礎疾患もなかったはずだ。それなのに、なぜ?

「未知のウィルス、とか」

 リューシカは呟く。声が少しだけ震えている。もしそうなら……病棟は安全ではない。この病院には感染症を防御する設備は存在しない。

「ううん。それはないみたい。感染症を示すような所見は特別なかったし。逆に体温なんて氷みたいに冷たかったわ。田所先生がアメリカのアーカムなんとかってサイト見ながら首かしげてたけど……なんなんだろうね」

 なんなんだろうね、と言われてもリューシカも困る。

「でもあれって新手の脱法ハーブとかなんじゃないのかなぁ。使用者の低年齢化も進んでるし。最近特にたちの悪いのが出回っているみたいだし。まあ、それでも心配だから一応は病理解剖に出してるんだと思うけど。そういえば朝のおしっこ真っ黒だったな。CPKもめちゃくちゃ高かったっけ」

 脱法ハーブ。それは翌年には危険ドラッグと名前を変える。まどかの話を裏づけるように深刻な社会問題になっていく。今はまだ少し大きな駅前にでも行けば簡単に手に入る。インターネットでも容易に入手できる。警察関係者や精神科の医療者以外には、あまり危機感を持たれていないのが現状だった。

「本当に大丈夫なのかな」

「さあ。知らない。どうだろうね」

 まどかは苦笑した。無責任な、とリューシカは呆れる。

「それよりもさ、みやちゃんが取り乱しちゃって大変だったのよ。新人で人が死ぬのを見るのも初めてで……それがよりにもよってあんな死に方だったんだから。無理もないけど」

「……そんなにひどかったの?」

 リューシカは訊ねる。長谷部はせべ美弥子みやこはまどかがプリセプターをしている。色々と思うところもあるのだろう。

「随分暴れたんだ。でね、押さえつけると皮膚の色が変わるの。ぐずぐずって。ああ、やだやだ。思い出したくもないわね」

 げっそりとした表情を作り、まどかが答える。まどかはリューシカよりも看護師としての経験が豊富だ。三次の救命救急にいたこともあり、ひどい状態の患者も数多く見ている。そのまどかが青い顔をしている。もちろん美弥子のこともあるのだろうが、それだけではないのも確かだった。リューシカは首を振った。考えたくなかった。想像したくなかった。リューシカが勤めるのはスーパー救急と呼ばれる場所だ。精神科の急性期に特化した閉鎖病棟だ。薬物中毒の患者も数多く運ばれてくる。それこそ毎日のように。けれども全身が急激に壊死する症例は今まで見たことがない。聞いたこともない。確かにあっという間に横紋筋融解症を引き起こして死に至るドラッグは存在する。でも、……今回の劇症化の一例は本当に危険薬物の作用なのだろうか。

「でもあの子、最初っから……腐ってたんじゃないかな」

「え?」

「ううん。なんでもない。そんな気がしただけ。……先に行くね」

 ナースウエアに着替えたまどかが更衣室を出て行く。

 リューシカは茫然としながらその背中を見送った。嫌な予感がした。ひどく陰鬱な気分だった。

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