リューシカお願い、わたしを殺して。

月庭一花

二月のある日・(火)

 真夜中。

 寒さで目を覚ますと……虫籠窓の向こう側で雪がちらちらと舞っているのが見えた。

 小さな街燈に照らされて、火事場に舞う灰のようにも見えるのに、あたたかそうに見えるのに、火の気の絶えた室内は心底寒い。京都に住むようになって随分経ったつもりでいた。けれどこの街独特の凍みつくような寒さには、未だに慣れることができない。実際首筋から肩口にかけてが氷のように冷たくなっていた。もっとも、裸のまま眠ってしまったわたしが悪いと言えば悪いのだが。

 ぶるっと肩を震わせながらふと隣を見ると、同じ布団にくるまれた夜々子ややこさんが静かに寝息を立てている。裸のまま、気持ちよさそうに。

 時計を見ると夜中の二時をまわっていた。古い洋画が字幕で流れる時間帯。わたしは眠る夜々子さんから目を逸らし、ぼんやりと窓の外を眺めた。雪はちらちらと降り続いている。去年も雪だった。今年も雪になった。リューシカが死んだ日はいつも雪が降っている。まるで自分のことを忘れて欲しくないみたいに。

 ……雪の中であの子は寒くなかったのだろうか。今はもう寒くないのだろうか。

 わたしは布団から這い出て膝立ちのまま、部屋の冷気に一度大きく身を震わせて……格子窓の桟に指をかけ、外を見ていた。リューシカの感じたはずの寒さを少しでもこの身に感じられれば。そう思いながら。

「……一花いちか?」

 どのくらいそうしていたのだろうか。

 ふと気づくとわたしを呼ぶ眠そうな声がした。まなじりを擦りながら、夜々子さんが目を凝らすようにしてわたしを見上げている。緑色の瞳が闇の中で光っている。夜々子さんの白い、雪の色をした長い髪の毛が寝起きの頬に貼り付いている。この髪の色のせいで夜々子さんは年齢不詳だ。本当はわたしよりも年下なのに。もっともわたしだってちびで童顔で年相応に見られることはまずないから。どちらが年上か、なんて。外見からではわからない。

「ごめんね、起こしちゃった?」

「ううん。でも……どないしたん? こないな時間に。なにかあったん?」

 わたしは手を伸ばして夜々子さんの頬に触れた。大きな芋虫をつまみ上げるように。わたしはそっと夜々子さんに触れた。

「雪が降っていて。目が覚めちゃったの。ごめんなさい。夜々子さんを起こすつもりはなかったの」

 夜々子さんはくすぐったそうに目を細めている。わたしが雪を気にする理由を、今日がリューシカの命日なのを……たぶん夜々子さんも気づいている。覚えている。きっと。口にはしないけれど。

「夜々子さんの頬はあったかいね」

 わたしは呟く。湖の底で凍りつくようにして死んだ、哀れな魚みたいな声で。

「一花の指がひゃっこいんよ。いつからお布団出たはって、そないしてたん? 一花の指、なんや氷でできて……はる」

 言葉を途中まで紡いで、夜々子さんは、でも、それからなにかを思い出したように、慌てて口を噤んだ。わたしがくすりと微笑むと、夜々子さんの上手に焦点をあわせられない瞳が、静かに、睫毛まつげの影に隠れた。

「……一花。うち、隣に一花がおらんと嫌や。なぁな、早ぅ根際ねきに来て。うちがあっためなおしたげる。……あったまることしよ。……な?」

「うん」

 わたしが頷くと夜々子さんは片手で布団をめくった。闇の中でも夜々子さんの裸身はだかみ白梅しらうめのように匂い立つ。夜々子さんはゆらゆらと視線をわたしに向けて、ぽつりと小さな声で呟いた。

「……あんなぁ。一花もうちも……この世界も、ほんまはもう、みんなわやになってしもて……」

「縁起でもないこと言わないで」

 わたしは苦笑しながら言葉を遮り、体をずらして枕元に這いつくばった。わたしのささやかな胸がゆれる。夜々子さんは軽く緩やかに口を開けたまま、わたしの胸の先端辺りをじっと見つめている。わたしは横になったままの夜々子さんの口の中に指を滑り込ませた。口の中はあたたかい唾液で蕩けている。かき混ぜるとくちゅくちゅと音がする。楽しい。

「好き。夜々子さんが好きよ。だから。夜々子さん、わたしを置いて逝かないでね。わたしだけを置いて、逝かないでね」

 わたしは優しく囁いた。小さな蟻が死にかけの蚯蚓みみずに群がるように。あぎとでその身を喰むように。そんなふうにわたしは優しく囁いた。

 夜々子さんは悲しそうに微笑み、わたしの指をカリッと音を立ててかじった。指先に幽かな痛みを感じる。

ぬときは一緒やよ」

 うふふっ。

 嬉しいな。


 ——リューシカが死んだ日は、今日のように雪の降る、とても寒い日だった。もっとも発見されたのは春になって雪が溶けてから、だったのだけれど。だから、本当に今日が命日なのか、実ははっきりとしない。死亡日時を裏づけるのは解剖結果と何枚かの手帳の切れ端だけだ。

 わたしの机の引き出しにはリューシカが死ぬ間際まで書き綴っていた日記——あるいは遺書や告白文の類いなのかもしれない——の断片が封をされたまま放り込まれている。地元の警察から手渡された、義妹の『遺留品』として。なぜリューシカがわざわざ雪深い山の中で死ななければならなかったのか、どうしても思い出せない。写真で見せられたあなたの姿があまりにも衝撃的で、警察の説明はわたしの耳を素通りした。……くだんの手記を開封すれば、あるいはなにか思い出すかもしれない。けれども『遺留品』の封筒をわたしが開けることは、今後もないだろう。だってリューシカは……そんなことは望んでいないと思うから。わたしにだけは見られたくないと、思っていたはずだから。だから、わたしはこの紙片を秘匿する。わたしが見られないものを他の誰かに見られるなんて、絶対に嫌だ。わたしの両親にも見せない。誰にも見せない。

 ……心中、だったのだろうか。もしもそうならリューシカは一番綺麗な死に方を選んだだけだったのかもしれない。そう望んだだけだったのかもしれない。ただそれだけだったのかもしれない。昔読んだ小説、『阿寒に果つ』の時任純子のように。雪に埋もれた遺体は腐らない。美しいまま春を迎える。リューシカにだってきっとその知識があったのだ。けれども彼女は、リューシカは、あなたのようになることだってあり得たのだと、どうして気づかなかったのだろう。

 発見された義妹の手首には無数のリストカットの傷があった。なぜか左手の小指も根元から失われていた。ただ、うろ覚えの話によれば、その怪我はすべて生前のものだという。生活反応がどうのこうのという話を警官がしていたように思う。でもわたしにはなぜリューシカがそんな小指を失うような怪我を負うことになってしまったのか、どうしても理解できなかった。自分で切り落としたのか、誰かに切り落とされたのか、それともなにかの事故だったのか……わたしは自分の手を見つめる。五本揃った指。リューシカの小指はどこに行ったのだろう。

 あなたの遺体はリューシカのすぐそばで見つかった。あなたは最後までリューシカと一緒だったんだね。わたしにはそれが少しだけ嬉しかった。でも、あなただけ……あんなひどい状態だった理由はなぜなのだろう。どうしてだろう。あなたは雪に覆われていなかった。この世界があなたを春まで隠蔽してくれなかった理由をわたしはつらつらと考えた。たまたま樹木の影だったのか、それとも野犬にでも掘り起こされたのか……。ああ、そうか。喰われたのか。だから……あんなにも無残な姿であなたは発見されたのか。顔をズタズタにされ、肘の先から両腕を失い、はらわたを全部抜かれたような、哀れな姿で。

 わたしの義妹はほとんど腐っていなかった。あなたのように腐敗しなかった。義妹だけが、リューシカだけが綺麗なままで見つかった。あなたはそれを知ったらどう思うだろう。自分だけがなにかに喰い荒らされ、無残な姿を晒した事について、なにを思うのだろう。リューシカを憎むだろうか。リューシカに嫉妬するだろうか。リューシカを呪うだろうか。

 わたしは考える。未だ心の整理がつけられずに、考え続けている。手記を覗き見ることもできずに、考え続けている。リューシカの生に、リューシカの死に、あなたが関わった意味を。幸せだったのか、それとも不幸せだったのかを。たとえ不幸せだったとしても、せめて、なんらかの意味を与えてあげたい。リューシカの義理の姉であるわたしは心からそう思う。そう願う。

 だから。

 これからわたしが綴る物語は全部嘘だ。

 最後にリューシカに会ったとき、好きだと話してくれたあなたについて書くこの物語は、全部、嘘だ。

 リューシカが手記を残したように。

 わたしは物語を残す。

 誰に宛てるわけでもなく。

 読まれることもない、この物語を。

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