君が雨に気づかなかった理由
唯野キュウ
君が雨に気づかなかった理由
中学生の頃は高校生が煌めいて見えた。
何をするにしても自由で、何をするにも楽しんでいるように見えた。
背が大きくて威圧感があったり、集団だと大声になったりと怖い所もあるが、基本的に私は高校生の自由さに憧れていた。
私は頭が良かった。
それも飛びきりに良かったので、勉学に関して困ったことは産まれてから1度もない。
高校に入ってからもそれは同じだった。
解のある、たまに解のない私にとって簡単な問題を解けば周りの大人たちは大いに喜んだ。
周りの大人に出来ることが私に出来ると、大人はいつも珍妙がって私に尋ねた。
「よく解けるね」
「よく出来たね」
私としては逆に、何故私には出来ないと思ったのかが珍妙に感じる。
特に私は数学が好きだった。
人付き合いが苦手な私にとって、数式はコミュニケーションツールであり、式はシンキングタイムであり、解は私の主張と同じ意味を持っていた。
白紙の隙間を黒く埋める時、多く埋めれば埋めるほど、解に対する不安感は薄らいでいって、その瞬間が堪らなく心地良かった。
同じ高校生になってみると、煌めいて見えていた自由さは、思ったほどいいものではないらしかった。
初めての進路選択で、私は自由なはずの進路が選べなかった。やりたいことがない私にとって、自由はむしろ不親切に感じた。
その日は突然な雨だった。
真っ直ぐに降りしきる通り雨のせいで、傘の無い私は教室で暫くの時間を過ごすことを余儀なくされた。
「自分がなりたい姿に必要なものを選びなさい」と担任の先生は言った。
雨の中、取り敢えず近場で偏差値の高めな高校に来た私は、人生で初めて真剣に自分の進路というのと向き合った。
「なりたい姿が分かりません」
「優さんは成績も抜群に良いし、取り敢えず大学は行きたいところに行けると思っていいわ。だから、なりたい自分を探すっていう宿題を出すわね」
落ち着いて、今日の先生との会話を反芻する。
これまでで1番難儀する宿題なのは間違いないし、幸い時間はまだあるので、堅実にどんな職業があるのかを見ることにした。
教室の小さな本棚から【高校生進路希望ランキング】を選び取ってみる。
ほう。世の中の高校生はこんな職業に就きたいのか。とわざとらしく感心してみたは良いものの、どれもいまいちピンと来ない。
当然、人のなりたい職業は私のなりたい職業ではないので当たり前の感想だと思う。
「うーん」
「どうかな……」
教室でぼそぼそ呟きながら本を読んでいると、教室のドアががらがら音を立てて開く音がした。
「あ、優だ」
私を呼び捨てで呼んだのは恭介君だった。
同じ中学から入学して、勉強について行けないとボヤいていたのを見たことがあるが、高校からこうして名前を呼ばれたのは初めてだ。
同じ中学で話したこともあるので、人見知りの私でも、あまり緊張はしなかった。
「恭介君、こんにちは」
「こんにちは」
お互い目も合わせずに挨拶をした。人の目を見るのが苦手だからだ。
「帰らないの?」
恐らく、忘れ物を取りに来ただろう恭介君は私を気にかけ、声をかけてくれた。
「傘が無いの。落ち着くまでいようと思って」
恭介君は分かりやすく「え!」 と言った顔をして、閉まったカーテンを開けると外の曇天と同じような顔をした。
「まじか、俺傘もってねえや」
言われずとも何となく察したが、私のために恭介君は現状を言葉にして説明した。
「じゃあ俺も帰れないからさ、わりぃけどちょっと居させてもらうわ」
「分かった」
必要最低限の会話を終え、2人で各々雨が止むまでの時間潰しをすることになった。
私は相変わらず職業欄をじっとり眺め、恭介君はスマホをすらすら動かして適当な何かを流し読みしているようだった。
同じ場所なのに、2人はそこに居ないように、各自のやりたいことをやっていた。
私という存在に、この職業をかけ算する。
だが、思いつく限りの未来設計はどれも無彩色で、ありふれていて、どこにでもある未来だった。
特段嫌という職業こそなかれ、やりたい職業も見つからない。
悩んでいると、次に声を発したのは恭介君の方だった。
「なあ、優」
普通異性の名前を呼び捨てにするのは仲良しの人らのみだと思っていたけど、人に名前を呼ばれるのが滅多にない私は少し嬉しくて、違和感を下の方に飲み込んで、返事をした。
「どうしたの?」
「優は将来、何になりたいんだ?」
恭介君は今、私にとって1番タイムリーな話題を口にした。きっと手元のランキングを見て言ったのだろうが、答えられるならこの本を読んではいない。
「分からない」
「そうか。そんなもんだよな」
「うん、恭介君は?」
つい聞いてしまったが失礼では無かっただろうか。恭介君なりに進路に困って私に聞いたのでは。
なんて考える間に恭介君はもう答え終わっていた。
「プロのサッカー選手……」
哀愁漂う返答に私は、いかにもやってしまった感覚を覚えた。やはり進路に何かしらの不安要素を抱えて聞いてきたに決まっている。
「いい夢。なればいいよ」
私は素直に思ったことを告げた。
素直に告げることが、何か応援するアドバイスに繋がると思ったからだ。
「……実力が無いんだ。でも俺なりに結構頑張ってるんだけど、全然プロなんか語れるくらいじゃない」
「じゃあもっと頑張らなきゃ」
「簡単に言ってくれるなよ。これでもグラウンドで血を吐いたこともあるんだ」
「じゃあ臓器吐くくらい頑張って」
「その瞬間終わりじゃねえか」
なんて、2人で各々していた作業も忘れて恭介君の夢を語り合った。
――いつの間にか雨はやんでいたが、私達は帰る気にならなくて、窓の外を見ようとしなかった。
ふと気付いた違和感を、恭介君に告げてみた。
「そういえば、さっきまでは何してたの? 忘れ物を取りに来たみたいだったけど」
「ああ、さっきまでグラウンドに居て、忘れ物に気付いたから取りに戻ったんだよ」
私はそれを聞いても納得出来なかった。恭介君の行動で、明らかに不自然な点があるからだった。
私は少し悩んでから、悩んだ末不自然な点を打ち明けることにした。
「本当に? でも、サッカーしてたなら外の雨は気付いた筈だよね。さっきカーテン開けて雨に初めて気付いたみたいだったけど」
「……あー」
私の言ったことを理解して、どんな返答が来るのか少し緊張した。
あえて言った“嘘”なら、それをわざわざつつく私のことをよく思わないはずだ。でも、その気持ちを差し押さえてでも気になってしまった。
「……実は、部活辞めたんだよね」
衝撃の発言だった。
今しがたサッカー選手が夢と語り、私と手を止めてサッカーの話をした恭介君は、サッカー部を辞めてしまっていた。
私は是非ともその真意が気になって、恭介君を問い詰めた。
「なんで辞めちゃったの? サッカー選手になる夢は? 舌打ちしてきた選手を抜かした成功談は嘘だったの?」
思ったことを全部ぶつけてしまったけど、それ以上に返事が気になった。
「さっきグラウンドで顧問と話して、サッカー部を辞めたんだ。上を見れば見るほど自信がなくなって……」
「辞め?」
「辞めた」
「そんなにサッカーが好きなのに?」
「好きなだけじゃ上手くならないって知ったんだ」
「じゃあプロにはならないの?」
「なりたいけど、なれないよ。少なくとも今は、部活が楽しくない」
確かに不自然な点は自然になった。けど、でも。
言葉にしずらい溜飲が、喉につっかえて続きの質問を阻むので会話はそこで途切れた。
しばらく2人で黙っていた。
サッカーを辞めるのはきっと覚悟が必要だったはず。
私も、自分の解けない数式を誰かがあっという間に解いたら数式自体暫くは解きたくなくなる筈だ。
私はふと、中学生の頃の自分を思い出した。
よく知りもせずに高校生に憧れていた私は馬鹿だなあと思う。
確かに何をするにも選択は自由だけど、それを楽しめる人なんて少なくとも私はまだ見てない。
皆悩んで選んでる。よっぽど中学生の方が楽だぞ。私。
過去の自分を戒めるように心の中で呟いた。
「好きなだけじゃ、上手くならない……か」
「少なくとも俺はそうだった」
「でも、恭介君、私は、サッカーを――」
――――そこから何を言ったか、詳しくは忘れちゃった。
確か結構な間話し込んで、恭介君とは友達になった。
恭介君の勧めで私は数学者になった。
“ 頭いいんだし出来るでしょ“ と雑に、でも明確に私の進路は決定した。
それに対して私も、雑に“ サッカー続ければ?”といったような気がする。
でも、私は数学者になってよかったと思う。
まだ解けていない問題、どこの分類にも入れない不確定な式に私が名前を付ける作業はどうにも性に合って好きだ。
君は有理数、君は友愛数、君は完全数。
そんな風に、名前をつけた式を世の中に発信する時は、子供を嫁入りさせるような晴々とした気持ちと、批判を受けないか不安な気持ちが入り混じって、普段では味わえない特別な気分になる。
私は少しやんちゃな式に出会って対処に困ると“その日”のことを思い出す。雨ならもっと鮮明に思い出す。
あの時私が何を言ったのかは忘れちゃったけど、忘れるなら忘れちゃっていいことなんだと思う。
好きなだけじゃ上手くならない。そのことに気づいた彼は、よっぽど私より頭が良かった。
だけど彼に負けてはいられない。
今でも恭介君とは数式とラジオを通して会話する。
私が定理を解いて新聞に載ると、恭介君も負けじとラジオの電波に声を載せるのだ。
――【⠀日本対ブラジルサッカーW杯決勝戦 試合終盤1-2の劣勢から決めました!! 星谷です!! 星谷がこの10分で2点をもぎとり星谷は今シーズン初のハットトリックと共に日本に優勝をもたらしました!! 星谷恭介!! 前代未聞の一番星はこれから我々に何を見せてくれるのか!!】
ほら、私も負けらてれないでしょ?
fin.
君が雨に気づかなかった理由 唯野キュウ @kyu
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