ア行 第2話 現人神

 彼が再び懊悩おうのうしながら仕事をしていると、いつの間にやら前に人が居る事に気づいた。顔立ち美しく、婉然えんぜんとした雰囲気の女性であった。しかし、開口一番、


「貴様のミソは味がせぬ。即ち価値がない。空蝉うつせみまれにみる才知の無さであるぞ」


 と。

 嫣然えんぜんとしているが、婉然えんぜんとはかけ離れていたようである。

 少しばかりいきどおりを感じ、彼は言った。


「何者であるか。齷齪あくせく働いている最中に闖入ちんにゅうして置いてからに、その口は私を侮蔑するのみか」


「我は、現人神あらひとがみ。植物の神である。薬用のおけら、弓用のあずさ、建築のおうち、秋には秋桜あきざくら/コスモス、夏には苧環おだまき馬酔木あせび沢瀉おもだかなど、その全てを司る植物界の女王だ」


 しかし、彼は透かさずこう言った。


「神はただ一人、イエス・キリストのみである。また神であるなら、個人の人間に文句など言わず、教訓を説くはずである。そもそも何故此処へきた?」


「誰が、神は文句を言わぬ等という噂をあまねく広めたのだ。人間社会が推している『個性』を埋没させる発言ではないか」


 間髪かんはつれず言い放つ。


「我はな、神性からか、下手物に惹かれるのだよ。禍福に同じく、英邁えいまい烏滸おこあざなえる縄の如し。貴様は烏滸のみ、我は英邁のみ。合わせれば平等で丁度良い。世間とはよく出来ているな、農夫よ。勿論あいろにぃだが」


「日本の神が使い慣れぬ外来語を使うなど、仰々しく滑稽極まりない。その点で君は既に烏滸だ」


痘痕も靨あばた えくぼ、というであろう?」


 有無を言わさず続ける。


「最早貴様は遅きに失したものしか持ち合わせておらん。一将功成りて万骨枯るいっしょうこうなりてばんこつかる、と言うことわざがあるが、このままではそのうずたかき下人の山に身を投じるばかりであるぞ」


「私は他人の成功に力を貸しているつもりはない。……今は、仕方なく一籌いっちゅうしているだけだ。盈虚えいきょによって、いずれ私の時代がくる」


 彼は反抗的な目をして言った。

 しかし現人神はおもむろに口を開くと、諭すように言う。


「良いか? 多くの失敗は、往々にして一つの成功を際立てるものである。貴様はそのおびただしい数の失敗の渦に呑まれ、周りを見ぬが故に、成功者を引き立てていることに気づいていないだけである。オプチミストの我が言うほどであるから、かなりの危機に瀕していると見よ」


「…………」


 彼は黙り込んだ。


かちどきをあげよ。成功には雲煙過眼うんえんかがんの心意気がかなめだ。これからは我を信仰するが良い」

「それは出来ぬ。まず私は君が現人神だという事を信じていない。そして、神はイエス・キリストのみだ」


 すると、現人神は手を後ろに回し、湯呑みを取り出した。


「ほれ、甘茶あまちゃを飲め。誠に霊験灼れいげんあらたかであるぞ」


「人を物で釣るな。祈願もしていない上、自ら『霊験灼か』と豪語する神等いないだろう。それに、これは他教の飲み物だ」


 前をみると、現人神はもう後ろを向いていた。


「甘茶は置いていくが、いずれまた会おう。その時には我にお神酒みきを捧げよ。叡覧えいらんし、叡慮えいりょによって呑むか呑むまいかを決める。れと、貴様はもうすぐ博打ばくちうちに会うことになる。淵源えんげん作りだ。励め」


 そう言い残し、現人神は森の方へ帰っていった。「自己に対して天子に遣うような言葉を遣うとは、随分なご身分だな」とか言ってやりたいが、口は一分いちぶたりとも動かない。

 ふと気がつくと、腋窩えきかの汗が、つうっと腕を這っていた。

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語彙試し! 千木束 文万 @amaju

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