語彙試し!

千木束 文万

ア行 第1話 愚者

 揚げ雲雀あ ひばりさえずる空とは対照的に、彼の立つ隘路あいろ暗澹あんたんとしていた。

 裏庭で鹿毛色かげいろの馬が嘶くいななと、残り少ない雪花菜おからを与えに行く。


 彼は、アガペーの精神に身を捧ぐ敬虔けいけん基督キリスト教徒だ。

 思想が古く、正に石部金吉金兜いしべきんきちかなかぶと、堅い人間である。御年五十二歳、未だ生涯で笑顔を見た者は両親のみだったが、聖書は葦編三絶いへんさんぜつし、神への信仰は人一倍厚かった。


 さて、なぜ彼が斯様な生活をしているのかというと、この男、右顧左眄うこさべんばかりする阿呆上司に慇懃いんぎんに応ずる事をうべなわず、「貴方達に阿諛追従あゆついしょうする必要はない」と反発していたら、馘首されたのである。

 この時は、彼も丁度、人間関係の軋轢あつれきに倦んでいた為、退社時は清々しい気分であった。

 彼が会社にいた頃は、社内は殷賑いんしんを極めたので、いさめるものがいない今のオフィスには多少物寂しさも感じたが、やはり後悔は微塵も無かった。


 そして「今後は成功一筋」と意気込んで田舎に引っ越し、農夫になったが、徒花あだばなを咲かせた。やがて神への信仰のみが一縷いちるの希望となり、男鰥おとこやもめ故に一人で祈るばかりが生活となっていた。

 それもその筈、彼は野菜の栽培方法を調べず、昔一度だけ育てたことのあるトマトの栽培法を全ての野菜に適用していたからだ。


 そんな、一斑いっぱんを見て全豹ぜんぴょうぼくすような的外れな方法で彼が成功する確率は、盲亀もうき浮木ふぼく優曇華うどんげの花であり、交喙の嘴いすか はしに終わるのは当然であった。そもそも農夫という選択自体が、商いの神に疎抜うろぬかれるには遙かに迂遠うえんの道だったと言えよう。


 ふと過去を振り返ってみると、自分は基督教徒であるのに、いやしくも上司であった人間に隣人愛を注いでいなかった事に気付き、更に自己嫌悪に陥った。

 私がしていたのは諫言かんげんではなく、ただの反抗だったのだろう、と、考えれば考えるほど己に嫌気がさし、死しても遺恨いこんが残るであろうと思った時、春にしては珍しく、雨氷うひょうに見舞われた。


 その夜、彼は人生で初めて酒を買い、口にした。宗教上の理由ではなく、単に苦手だったのだ。

 新品の一盞いっさんを傾けると、頭が眩々して、「栄耀えいようは望まねども、せめて心は豊かでありたかった」と胡乱うろんに呟き、そのまま床に就いてしまった。


 彼は、壁蝨だにしらみに躯を蝕まれながら縊死いしし、いみなをつける者もない、という夢をみた。

 まるで自らの存在が烏有に帰うゆう きすかのような感覚に、彼はいよいよ持って絶望した。

 死後は蓮の台はす うてなに座すことが望みだった――実は、彼は密かに仏教に浮気していたのだ――が、最早その葉は池に身を沈めているのではないかと思われた。


 翌朝、畑仕事をしながら元気横溢おういつわらべをみると、少しは微笑ましい気分になったが、やはり笑みは顔までは達さず、ついに綻びることはなかった。

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