4


 「誠さん」


 助手席の開いた窓から聞こえた女性の声には聞き覚えがあった。


 俺は屈み込んで声の主を確認した。


 「カナです」


 さっきの店にいた準備係(?)のカナだった。


 「お疲れ」


 「歩いてホテルに戻るの?」


 「うん、まぁ」


 「したら、乗って。私の家、駅の近くでホテルの前を通るから。こっから歩いたら三十分ぐらいかかるよ」


 確かに、居酒屋で軽く腹に入れたあと二軒のバーで一杯ずつはしごした。二軒目を出たのは二十時頃で、それからしばらくブラブラと北見の街を彷徨っていたのだ。


 「じゃぁ。お言葉に甘えて」


 俺はカナの車の助手席に乗り込んだ。飾り気のない車内には、若い女の匂いがした。


 カナは店で着ていたワンピースから昼間働いている設計事務所の制服だろうか、白シャツにチェックのベスト、黒のスラックスに着替えていた。足元は同じナイキだった。


 車内の時計は二十一時四十二分。夕方眠ったので、まだホテルに戻るにしては早い時間だった。明日も道の駅のオープンは九時、八時に出発すれば充分だ。それにウトロの宿はもう押さえてあった。余裕ののんびり旅だ。出発を遅らせても誰も文句は言わない。あと一軒行ってから帰ることにしようか。そう俺は考えていた。


 道中話が弾み、その流れから何処か美味い酒を飲める店はないかとカナに尋ねたのだが、カナは外に飲みに行くことがほとんどないと言い、いつも一人家でネットを観たりテレビを観たりしながら、晩酌を少しやる程度だと言った。そして、話題はカナの家の冷蔵庫の中で寝転がっている結構高級らしい赤ワインの話になった。カナ一人では飲みきれないが、お酒を飲める友人も少なく一緒に飲んでくれる彼氏もいないという。


 「あれ、野菜室にずっといて邪魔だから一緒に飲んでくれませんか?」


 カナはそう言いながら、俺の泊まっているホテルの前を通り越した。


 「わ、わかった」


 そう俺が答えるとカナは、ホテルから二つ目の信号を右折して、北見駅にほど近いマンションの駐車場に車を入れた。


 ここからホテルまで歩いて五分ってところだ。飲み足らないだろうからコンビニでビールを買って帰るか。そう思いながらカナと二人エレベーターに乗った。


 五階で降りて左端にある部屋の前で五分ほど待たされたあと、グレーのダボダボのパーカーにグリーンのスウェットの部屋着に着替え、肩下まである髪をポニーテールのように後ろで束ねたカナが顔を出して、やっと俺は部屋に通された。


 玄関に装飾はなくシンプルだった。廊下の左に風呂とトイレが並んでいて、反対側は物置のようだった。


 開いていたドアから中へ入ると、左側にキッチンがあるL字型のリビングを兼ねた部屋で、右手の壁の向こうにもう一部屋、寝室があるようだった。


 それにしても殺風景な部屋だった。女性らしい装飾は一つもなく、リビングには奥の壁際に貼りつくように置かれた台の上にあるテレビと木製のローテーブル、そして黒のフェイクレザーの二人掛けのソファーがあるだけで、観葉植物どころかクッションすらなかった。しかし、匂いだけは女の匂いが部屋に染みついていた。


 俺はヒップバックをソファーの横に置いて、脱いだタンカースジャケットを簡単に畳んでその上に置いた。ロンTとTシャツの重ね着だけだったが寒くはなかった。ソファーの座り心地は普通だった。


 キッチンには調理器具が一通り置かれてあって、料理はするようだった。キッチンテーブルの前には、椅子が一脚だけあった。一人暮らしだ。


 「何もないでしょう」


 「そうやね」


 「すぐ用意しますね」


 なんだろう。缶ビールを俺に手渡したカナは少し緊張している様子だった。あまりこういうことには慣れていないのか、それとも演じているのか。


 元々カナの晩御飯のために準備されていたのだろう、手際良くものの十分ほどで、アボカドとホタテハムのサラダとカットされたカマンベールチーズ、チコリのオイルソテーがのったワンプレートがテーブルの上に置かれた。


 店内とも車内とも違ううなじを見せたカナに、何故だか俺は少し興奮していた。残りのビールを流し込んで気を逸らせた。


 「グラス、こんなのしかないんですけど、いいですか?」


 そう言ってカナが手に持ってきたのは、カフェや喫茶店で水飲みグラスとして出されるような透明なグラスだった。


 色気のない空間で、カナだけが色気を醸し出している。そう俺には見えた。


 「それでいいよ」


 「ごめんなさい。ワインなんか飲む習慣がないから……」


 俺はカナがグラスを置く手元を見ていた。色白で細い指で猿のような形の手が動く様は色気があった。暗いスナックの店内ではわからなかったが、左手首に嵌めた石を連ねたブレスレットの下に傷があった。


 人は何かしら過去を抱えて生きているものだと思い出す。


 「お待たせしました。さぁ飲みましょうか。開けてもらえますか?」


 そう明るく言い笑顔を浮かべながらカナは、冷蔵庫の野菜室から取り出したボトルを空中で振ってみせた。


 ボトルはオーパスワンの隣の畑、ナパ・ハイランズだった。垂涎ものだった。何故振るかと思ったのと、少し冷え過ぎなのが残念だった。


 カナは俺の目の前にボトルを置いて、そこしかないから当然だが俺の隣に座った。カナの身体は熱かった、明るさは緊張の裏返しだと俺は感じ取った。だが、そのことに気がつかない振りをして俺はコルク抜きを探した。しかしテーブルのどこにも置いてはいなかった。


 カナは本当に知らなかったようで、キョロキョロしている俺を見て、一瞬にして顔を赤らめ、


 「えっ。くるって回したら開くんじゃ……、どうしよう」


 そう言って猿のような長細い両手を頬に当てて固まった。


 「大丈夫」


 俺は、ソファーの横に置いたヒップバックのファスナーを開けてポケットから白く小さな箱を取り出した。その中からソムリエナイフを出すと爪を窪みにかけて刃を引き開けた。そして器用にキャップシールを切り裂いてシールを剥がした。久々に鉛を引き裂く感覚が堪らなかった。刃からスクリューに変えてコルクに回し込んでいく。瓶口にフックをかけて、丁寧にコルクを引っ張り上げた。コルクはちゃんと生きていた。最後はコルク自体を握って抜いた。抜いたコルクを鼻先に近づけて慣れた匂いを嗅いだ。野菜室を開ける度にコロコロと転がっていたのだろう、コルクに澱がついていた。少し置いて澱を沈ませた方が良さそうだった。


 ボトルをテーブルに置いた俺は彼女に言った。「少しこのままで置いておこうか」と。


 彼女の瞳が濡れていて、いきなり俺に抱きついて唇に吸い付き、鼻息を荒くして舌を捻じり込んできた。


 俺も堪らなくなっていたが、冷静な部分でワインが零れたら勿体無いと、彼女の舌の動きに答えながら、テーブルをソファーから遠ざけた。


 スイッチが入ったカナの唇と舌にタイミングを合わせ、俺はカナの着ているダボダボのパーカーのファスナーを引き下げた。中は黒のブラだけで白い肌とのコントラストに俺は少し興奮した。


 「ダメ、シャワー浴びてないから。私にさせて。立って」


 そう言って身体を離すとカナは床に跪くと、立ち上がった俺のジーンズとパンツを一気に下した。


 ギラギラとしていた瞳が一瞬で蕩けた。


 「ああっ……」


 カナは目を閉じながら頬擦りしたあと、鼻を押し付けスーッと胸いっぱいに吸い込んだ。


 俺も濡れていた。


 カナは猿のような形の手をしている。細く白い指を巻き付ける。


 下品な音がした。その音は、カナが貯め込んでいた不満を破裂させた音だった。


 最初はそよぐように、それから硬くして捻じ込んで吸い付いた。その間も細く長い指は休まない。深く飲み込んだまま身体を軽く痙攣させた。


 「はぁー」と大きく息を吸ったカナは、そのあとも荒く息をしながら立ち上がると、ヨタヨタと歩みを進めて奥のドアを開けて中に消えた。


 その背中を見ながら俺はどうするべきかを考えた。カナが欲するものは何なのか?考えながらソファーに腰掛けて待つことにした。


 奥の部屋で少し音がしたあと、ドアのところへカナが顔を出した。「来て」そう言うとカナはまた暗い部屋の中に消えた。


 俺はすべてを脱ぎながら奥の部屋へ向かった。


 カーテンから漏れ入るぼやけた光の中、カナは素っ裸で立っていた。無駄なものはすべて排除したような身体つきだった。


 手を引っ張って俺をベッドへ横たわらせる。俺が触れようとするとカナはまた拒んだ。まるで玩具にされている気分になった。身を任せる事しか出来なくなった俺は、カナが飽きるまでカナの髪を撫でていた。


 やっと満足したカナは顔を上げると、枕元に隠してあった小袋を破り、拙い手付きで被せた。


 言葉の代わりにカナは俺の目を見て微笑んだ。


 「そのつもりやないかい」とツッコミそうになったが、俺は黙って頷いた。


 逃れられない快感の波にカナは自ら溺れていった。後で束ねた髪を躍らせて、声とも叫びとも判別出来ない音を発しながら、カナは両手で何度も宙を掴む。


 迸る汗が暗闇にぼんやりと光りながら飛んでいた。


 逃げきれないとわかっているのに、少しだけでも逃げる為。何かに熱中している間だけ忘れていられるという事を、カナは思い出したから夢中になっているのだ。俺が生きているという事が、カナという女の人生の一瞬でも、役に立っているのだという事を実感した。


 手を緩めるとカナは俺の上に倒れ込んで痙攣した。


 しばらくの間、俺は少し汗ばんだカナのツルンとした背中を撫でていた。SEXというものがなんなのか、彩香の時に感じたものとは明らかに違っていた。小さくなる前に抜かないと、そう思ってカナの身体を左側に下した。俺の左太腿がカナから漏れ出た粘液で濡れた。


 ティッシュを探したのだが見つからなかった。


 そのうちにカナの意識が戻った。動き辛そうな緩慢な動作で、ベッドの下にあるティッシュの箱をシーツの上に置いた。一枚取り出し、剥ぎ取った薄い異物を包むと、ポイッとゴミ箱に投げ入れた。それでもカナはまだ名残惜しいらしい。俺はされるがままだった。


 壁際に一つだけ置かれている低い箪笥の上に置かれた目覚まし時計は、二十三時を十分ほど過ぎていた。


 カナはベッドから下りて隣の部屋の灯りを少し暗くした。逆光の中、ヨタヨタしながら隣へ向かう足の間にツーッと光る糸が一筋垂れ落ちた。


 「裸でくっついていたい」というカナのリクエストで、裸のままナパを飲んだ。折角カナの作ったツマミが少し乾燥していたが味は美味かった。それにナパが飲み頃の温度で旨かった。


 二人共喉が渇いていたのでいちゃつきながらでもペースが速かった。カナは話どおりで酔うのも早かった。


 カナは、俺が器用にコルクを開ける姿を見ていると堪らなくなったと告白した。そして、二年前まで結婚していたことや、それからはずっと一人で、セックスも前の旦那と別れる半年前にして以来だと、訊いてもないのに話し出した。そして、「私は幸せになっちゃいけないから」そう言った。


 俺は「なぜ?」とは訊かなかった。手首の傷も何かあってのことなのだから。


 カナは美味しそうに喉にワインを流し込み、「これが話してた手術のあとか……」と、チラチラと初めから気になっていた様子だったが、酔いに任せて言った。最初指で胸の手術痕をなぞっていたが、そのうちの傷に口付けたり舌で舐めたりしだした。


 俺にとって感じるような場所ではない。ただカナの好きなようにさせた。カナから一旦は潜めた獣の香りが漂い出した


 「さっき、初めて美味しいと思ったの」


 そう言って最後までカナは勢いを失わなかった。俺はただ身を任せるしかないことを悟った。本当にそれだけだった。


 「これで明日は誰ともしたいと思わないでしょ」と笑ってナパで流し込んだ。


 話は脈絡なく進み、俺が笑い話や旅のことを話し、あっという間にボトルが空いて、残りはお互いのグラスにあるだけになった。


 カナは伽奈と書くらしい。テーブルの下にある棚にあった郵便物がズレて名前だけが見えていた。


 突然、残りのワインを灯りに透かしながら伽奈は言った。


 「これなくなったら誠さん帰っちゃうんだよね」


 俺は頷いた。


 「前の旦那にも話せなかった話だけど、誠さん最後に聞いてくれる?」


 「ええよ。話してみ」


 そう言いながら俺は、何処かで同じような経験をしたはずだと思った。


 「私ね、人を殺したの」


 伽奈は宙を見上げながら言った。


 俺は、伽奈が何をもって人を殺したと定義づけしているのかを測りかねた。


 「私ね、小学校五年の時に千葉の行徳から北海道の東川町に越してきたの」


 (行徳といえば浦安の隣、市川か……)


 「知ってる?知らないか。大阪だもんね。行徳はね千葉のね、ディズニーランドがある浦安の隣。こっちのみんなにはわかんないだろうからディズニーランドの隣から引っ越してきたって言ってたの。まだその頃の東川では内地から移住してくるなんてまだ珍しかった」


 ソファーの上で体育座りをした伽奈は、チビリとワインを喉に流した。


 「最初の頃はね、両親も仲が良くって、兄も含めて家族四人で、道内のいろんな所を観光したりして和気藹藹って感じだった。けどね、北海道の暮らしに馴染んできた頃から、父も母も生活の方向性が違っていっちゃった。母は元々北海道への移住は望んでいなかったんだって言うようになって。父も思っていたようには会社の仕事が上手くいかないようで、いつも難しい顔をして会話もなくなった。そのうちに父にも母にも相手が出来て、それをお互いわかっているはずなのに、毎日無言の食卓を囲むようになって……。そうしたら、お兄ちゃんまでおかしくなって。それなのに、みんな表向きには仲の悪さを出せなくって、ずっと家族ごっこを続けていたの。


 そんな家族ごっこはね、辛くて、息苦しくて、死にたくなるようだったの。でも、死ぬのは怖いし、痛そうだし、嫌だから……。そうやってるうちに、どんどん何かが胸の、この胸の奥の方に溜まっていくの。私はもう、どうしていいのかわからなくて、けど、誰にも言えなくて……。


 私ね、今じゃこんなんだけど、こう見えても小中とクラスで人気者だったの。男子も女子も、結構チヤホヤしてくれてた。だから、絶対に惨めに思われるのは嫌だったの。そうしたら、あまりにも溜まり過ぎて、爆発させたいのに爆発出来なくて、ずうっとモヤモヤしてた。そんな時にね、中三になってクラスが変わって、横浜から転校生が入ってきたの。」


 (ん?)


 「中学入学の時に一気に移住者が増えてね、私の価値も無くなったと思っていたの。だけど、ディズニーランドの名前は偉大だった。けどそれも中三になって、賞味期限切れだと思っていたころだったし、眼鏡をかけていたけどその子可愛いかったし、オシャレな横浜からだったから、ああ、次はこの子がチヤホヤされるんだろうなって。


 けれど、その子ね、何を、どんなことをみんなが聞いても、なんでか『ごめんね』って言って笑っているだけだったの。いつも嘘くさくて、業とらしくて、引き攣った不細工な笑顔で笑うだけなの。だから私、その子と二人っきりになるのを狙って聞いたの。『どうして、可笑しくもないのに笑うの?』って。そうしたらその子、『ごめんなさい。わたし馬鹿だから、笑うしかできないから』って言ってまた笑ったの。無意識のうちに手が出てた。なんだか訳がわかんなくなって、すぐに逃げたの。


 帰り道で一人になった時に、(あぁ、やっちゃった)って後悔したの。明日謝ろうって思った。なのにおかしいの、どこか少しスッキリとした感覚があって、そんな感覚が自分にあることに驚いたわ。


 次の日、下駄箱のところでその子に会ったの。謝ろうと思っていたのに、その子の方から『昨日はごめんなさい。怒らせてしまって』って謝ってきたの、そしたら、それを聞いてた私の仲の良い子が『伽奈に何したのよ』って怒っちゃったの。そこで被害者と加害者が入れ替わっちゃったの。はじめはまだかわいいイジメだったけど、夏休みが終わった頃から、私もみんなも受験勉強でストレスが溜まっていたから段々とエスカレートしていっちゃって。


 10月の連休の模擬試験が終わった火曜日の放課後、その子をいつものようにトイレでイジメていたの。それまでは、たまに脱がしてもブラ付きの上半身だけだったのに、その日は、その子の膨らみが大きくなっていたの。それで、ノリで脱がしちゃえって。そうしたら似つかわしくない赤黒い乳首が現れて、止まんなくなって。最後は全裸にして大股開きにピースさせて、その子のスマホで写真を撮って冗談のつもりでネットに……。


 最悪でしょ、私。すぐにその子自身で消去させたのだけど、次の日からその子は学校に来なくなちゃった。週の半ばにはクラスの男子が画像を見つけて大騒ぎになったの。そうしたら、みんなはビビっちゃって、どうしようどうしようってキョドってたけど、私はすごい後悔と強い自己嫌悪しかなかった」


 (俺はその子を知っている。彩香だ)


 「十一月に入ってしばらくしたら、その子が家庭の事情で引っ越したって担任が淡々と言ったの。大人は知っているはずなのに知らないふりをするんだってわかったの。そうしたら、ますます自己嫌悪になった。


 色んな噂話が嫌でも耳に入ってきた。転校してきたのは、神奈川にいた時に援交して補導されたからだとか、妊娠して堕したことがあるとか、校内のトイレで誰と誰がその子とやっていたのを見ただとか、嘘ばっかりだった。そんなことをするような子じゃなかった。けれど、少し経ってから流れてきた噂には胸が締め付けられたの。写真を見た地元の不良達にまわされたらしいっていう噂にはね。高校に入っても、その子の噂話は時々流れてきたの。その度に胸が締めつけられて」


 伽奈は静かに涙を流していた。


 「でも、もう私に出来ることなんかなくて。そしたら、誰かがその子は自殺したって言って……」


 今度は子供のように顔をくしゃくしゃにして泣いた。


 「死んじゃったんだって。私、人を殺しちゃったんだって……」


 俺は少し喉を湿らせた。タンニンが舌に刺さった。俺はどうしようか迷ったが、事実を知ってそこからどう伽奈が動くのかが気になった。俺の中にいる厭らしさが顔を見せたのだ。


 「それって、サヤカかアヤカって名前の子やない?」


 「えっ……」


 伽奈はこれ以上開いたら目玉が飛び出るのではないかと思うほど見開いた。


 「色彩の彩に、香りの香って書く」


 「そうサヤカ。どうしてそれを……」


 伽奈の顔からは血の気が失せていた。白い肌がより白くなって、手足がブルブルと震え出した。


 俺は伽奈の話を聞いても怒りや憎しみは湧いてこなかった。ただそうした事実があって、二人の女はそれぞれその事実を引き摺って生きている。それどころか、よく自死しないものだと思うだけだった。俺はこうやって“死”に向かって生きているというのにだ。若さが生きる希望を持たせるのだろうか?待てよ。伽奈は彩香と同い年には見えない。引き摺っている過去が伽奈を老けさせているのだ。過去は消せない。誰にも消せないのだ。


 パニックのように泣きじゃくっている伽奈に、俺は簡単に彩香との経緯を話して聞かせた。


 「生きているの。本当に生きているの」


 「うん。多分。まだ確証はない。明日にでも彼女に確認してみるよ。生きてると安心するのはそれが終わってからにしよか」


 俺は伽奈が落ち着くのを待ってから、淋しさと侘しさの中に希望の灯が微かに瞬き始めた部屋をあとにした。


 北見の夜空には星が瞬いていた。


 他人の人生に触れてみる事は、今の俺にとって悪くない事だと思えていた、いったいどんな変化をもたらすのだろうか?そんなことを思いながら、ひっそりとした街を歩いた。




 翌朝は八時に目が覚めた。カーテンを閉めて寝たので、アラームが鳴らなければまだ眠れていた。


 シャワーを浴びながら、彩香にどう話をつけるかを考えた。


 走りながら考えるかと答えを出した。


 今日も快晴だった。キュルっとなるクラッチとオイル染み以外に不快なものはなかった。


 初めて北見に入った道道122号線で美幌の街に寄って、燃料とオイルを足した。


 国道39号線で、パラグライダーの絵から、美幌峠から望む屈斜路湖の眺望へ変わった美幌町から、飛行機が飛ぶ大空町へ。360度見渡す限り高いもののない空と大地を堪能しながら、片隅で彩香のことを考えた。


 道の駅・メルヘンの丘めまんべつで、朝飯代わりに「さくら豚丼とシジミ汁」グルメパスポートを使って¥500をペロリと平らげた。旨かった。超空腹だったからか、今までで一番ではないかと思うぐらい旨い豚丼だった。


 腹ごなしにメルヘンの丘が見えるベンチで、すぐ横を多くの車が行き交う中、珈琲を淹れて飲んだ。


 やっぱり、彩香には直接言葉で伝えた方が良いと思った。


 畝に緑が綺麗に並んでいるのを見ながらそう思ったんだ。


 網走市のカントリーサインに出逢ってから少し行くと、道は小さな湖沿いに通っていた。地図で見る網走湖はもっと大きいものだと思っていたので、網走川に変る近くまで行って初めて湖面の上に広がった空を見つけ、そこが網走湖なのだとわかった。


 右手に走る石北線の踏切を渡れば、山の中腹に有名な網走監獄がある。


 映画のセットのような敷地内を、俺はぶらっと散歩がてらに見て回った。


 五方向へ放射状に延びた舎房を見渡せる中央見張り台からの眺めに感心していると、何故だか俺の脳内で、健さんではなくアレックス、マルコム・マクダウエル『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』の映像がダブった。


 敷地内を隅々まで見ても良かったが、お天道様が「走れ。勿体ないぞ」と言っているような気になったので、のんびりと先に向かった。


 国道39号線は、大曲1の交差点で国道238号線と合流して、網走川沿いに右に曲がる。次の信号を左折して網走川を渡ると網走刑務所がある。


 もしかしたら昔の顔馴染みが収監されているかもしれないが、今の俺には関係のないことだった。


 網走の道の駅は平日でも人が多かった。網走の街も思っていたよりも大きかった。


 少しぐずついている相棒を宥めながら網走の街を流した。


 クラッチだけではなくて、一速のギアの噛みも甘くなっている。このバイクによく出る症状らしいと聞いていた。何とかこの旅中は持ちこたえてくれそうだった。


 街中を走ることは、俺にも相棒にもストレスが溜まることなのだとわかった。


 オホーツク海沿いの国道244号線を走っていると、鱒浦駅を過ぎた海側に『感動の径』の矢印標識がポツンと立っているのが目に入った。先でUターンして踏切を渡り高台へ上った。


 そこには、富良野や美瑛に勝るとも劣らない壮大な丘の風景が待っていた。


 誰もいない、何も走っていない道は、いつの間にか網走市から大空町へ入っていた。


 キリがないほど丘が続く。感動とは別に、この旅が終わると俺の人生も終わるのかと思ったら、俺の中で淋しさや絶望が急に湧いて膨らんだ。そんな気にさせる空の色だった。


 これ以上行ったらウトロへ着かなくなる。Uターンして引き返そうとした。


 俺は丁字の交差点の広さのあるところでUターンしようと左足を地面につけた。しかし、足元には細かい砂利が浮いていて見事に俺はバランスを崩した。必死で立て直そうとしたのだが、ゆっくりと相棒を左に寝かすことしか出来なかった。


 少し腹部の乖離部が気になったが、思い切って相棒を起こしあげた。


 ハンドルと満載の荷物のお陰で車体に傷はつかなかったが、クラッチレバーの先にある球だけが飛んだ。


 道の端にスタンドを出して相棒を停めて、俺は相棒に腰掛けながらヘルメットを脱いだ。


 やっぱり空の色が悲しく見えた。涙が流れた。一筋どころか滝のように流れた。ジーンズの腿が青く色を変えた。


 溜まっていたようだ。強がっていても、体力はそれほど戻らないし、毎朝スッキリと昔のようには起きられない。すべてが最低だった術後すぐと比べてマシになっているだけだった。やりきれなくて何度も繰り返し流してきた涙が、今日偶然この地でまた流れ出てきただけだった。


 けれどこの旅はちゃんとやり切りたかった。


 バンダナでサングラスを拭くついでに涙も拭いた。


 涙が出た分だけ、心が軽くなった気がした。


 海沿いの国道に戻って東へ向かった。


 途中、JR釧網線・藻琴駅の喫茶店で休憩しようかと思ったが、今日どうしても神の子池の青を観たくなっていたので我慢した。代わりにオホーツク海に面した北浜駅の小さな展望台に上って、薄っすらと見えている知床連山を眺めペットボトルのお茶で休憩した。あそこに今夜の宿がある。


 道東の景色に走る力を貰った俺は、濤沸湖からオホーツク海へ流れる川に架かる橋を渡ったところで小清水町のカントリーサインと出逢った。


 この辺りには、今まで見たことも経験したこともない異世界のような景色があった。あるのは草と線路と道と湖。建物はどこにも見えなかった。そんな直線路が7キロほど続いた。






 

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