6


 サッポロクラシックが残りわずかになる頃、彩香はやっと落ち着きを取り戻した。


 「ちょっとね、彩香と会って話したいことがあって……」


 ――えっ、何ですか?――


 当然の反応だった。肌を合わせたといえども、たった一度きりなのだから。不審に思うのが当たり前だった。


 ――どこに行けばいいですか?――


 当然でも当たり前でもなかったようだ。


 ――えっ、今、何処ですか?――


 俺は、ゆっくりと彩香に今の俺の現状を話して聞かせた。


 ――今週末だったら連休だし、旭川なら2時間半で行けますから、明後日行きます――


 そうノリノリで彩香は言った。そのくせ、いざ旭川で会う段取りを組むようになると、俺に一つ条件を出してきた。


 どうすれば良いものかと俺は頭をフル回転させた。もし彩香の心を搔き乱し、錯乱することにでもなったとしたら……。そう考えると、気持ちが先に進まなくなってくる。それに伽奈だって、自分自身でちゃんとケツを拭く覚悟は出来ているのだろうか?ただ日々抜け出せない罪悪感から、一刻も早く抜け出したいだけ。なのではなかろうか?


 やはりお節介は俺の性分ではないんだ。そう自分に言い聞かせようとした。


 それでも結局、俺は彩香と会うことになった。


 一旦電話を切って、買い出しを済ませて宿に戻ってから、PCを開けて旭川の宿の検索をかけている途中、今度は伽奈からメールが届いた。『連絡待っています』たった一言だった。それが逆に俺の心にズッシリと打ち込まれた気分だった。『今、会う段取りをつけている。揺るぎない覚悟が必要だと思う。すべての結果は来週連絡する』それだけを書いて返信した。


二人の女が折り合える着地点など想像もつかない。


 俺は、俺のための旅をしているはずなのに、何故、俺には関係のない事柄に巻き込まれるのだろうか?


 明後日から日曜日の夜までの三泊を、旭川駅前にある値段高めのホテルを選んで、そう思いながらクリックして予約した。


 俺は電話口で、「条件を飲む」そう彩香に伝えた。


 電話を切ってから、俺は何をしているのだろうと少し落ち込んだが、これも天命だと思うことにした。




 朝飯の白飯は美味かった。種類は豊富だがいまいちパッとするおかずには出会えなかった。イクラの醤油漬けをたっぷりと白飯にのせたイクラ丼で朝飯を終えた。


 それからお気に入りになったカモメが舞飛び小雨降る露天風呂に清掃時間の十五分前までのんびり浸かり、部屋に戻って着替えを済ませて、雨の降る中、俺はウトロの街を散策した。


 坂道を上って三時間以上かかる知床五湖まで行く気などサラサラなかったが、ウトロの港辺りは小さ過ぎるのと、降っている雨が強くなってきて、すぐに道の駅に逃げ込んだ。


 中岡ちゃんから借りているスマホを使って、徒歩圏内に旨い魚を食わす店はないかと調べた。漁協がやっている店の評判が良さそうだったが、あいにく定休日だった。


 雨がさっきより弱くなっていた。


 俺は魚を諦めて、ウトロで美味い物を食わす店を探した。


 ラーメン屋があった。ここから国道334号線を斜里方向へ歩いて五分ぐらいの所にあるガソリンスタンドの手前にあった。


 トロチャーシュー麵の塩を食べることに決めて出発した。


 流石にこの雨の中空いているだろうと思っていたが、駐車場には車数台と、雨の中なのに神奈川ナンバーのバイクが三台並んでいた。


 テーブル席はほぼ満席だったが、カウンターは空いていた。


 瓶ビールとトロチャーシュー麵の塩を注文した。この店は夜には居酒屋になるようだった。


 ご丁寧にも店員のおねえさんが「お車ではないですよね?」と尋ねてきた。俺は「宿から歩きです」と答えた。「そうですか、雨の中ありがとうございます。すぐに持ってきますね」と、笑顔に誠実さが浮かんだ対応に、俺は心地好さを覚えていた。


 まったく俺もヤワに変わったものだと実感したが、もう成るようにしか成らないのだと腹を括った。


 瓶ビールをチビチビやっているとお目当てのものが運ばれてきた。立ち上がる香りから豚骨スープだった。


 レンゲを使わずに鉢に口をつけてスープをやった。旨い。旨かった。


 臭みやエグ味もなくスッキリしていて、丁寧な仕事が感じられるスープだった。麺は中細で縮れていた。少しだけ柔らかめかと思ったがスープも絡んで旨かった。トロトロに煮込まれたチャーシューも圧巻で、味も良く、ビールのあてにしながらやりたかったので、麺の方を最初に平らげることにした。


 麺を平らげるとチャーシューもメンマも半分以上なくなっていて、ビールももうなくなっていた。味のバランスが良すぎるせいか、次々に胃に収まってしまっていたのだ。


 ここなら生ビールでも良かったと思った。


 昔、ラーメン屋で生ビールを頼んで嫌な目に遭ったことがあったので、それ以来、店舗の清潔さと味の丁寧さを基準に生ビールを頼むことにしていた。


 けれど今はスープまで全部行くつもりになったので、生ビールはやめてポン酒で残りをやっつけることにした。


 日本酒は知床・幻氷という純米酒だった。ラーメンのスープや具材をアテに飲むのだから、細やかな味はわからなかった。


 旨いスープとチャーシューをアテに、あっという間の完食だった。


 ふと見ると、打ちつける雨粒が窓に描く紋様越しに白波を立てているオホーツク海が見えていた。


 満足感が覆いつくしている中、少しぬるくなったお冷を喉に通して、「美味しかったです」と伝えて俺は店を出た。本当に旨くて満足だった。


 外の雨はほとんど止んでいた。


 行く当てもなく、俺は道の駅に戻った。


 館内にあった知床の自然をパネル展示している所で、昨日の船旅の復習をしながら時間を潰したが、ものの三十分ほどで飽きてしまった。まだ俺には環境がどうだとか自然保護がどうしたとか理解は出来るのだが、それに対してまったく心が動かされなかった。俺に出来ることはただ、のんびりと安全に知床峠を走り抜けるだけなのだ。旅が終わればすべてを無に均す作業に入るつもりでいる俺に、それ以上の真っ当な考えを持つまでには至れていなかった。


 デザートにと、スタンプブックを持参していると五十円引きになるソフトクリームを定価で買って食べながら、その最中、俺は大切なことを思い出して焦った。相棒のマフラーを緊急補強しなければならなかったのだ。


 急いでソフトクリームを食べ終えホテルに戻った。


 ロビーのカウンターで太い針金か番線はないか尋ねてみた。すると、「設備係に確認をする」と、従業員は言った。それなら一度部屋に戻るからと俺は部屋番号を伝えてから部屋に戻った。


 俺は部屋に戻るとPCでマフラー辺りの構造を調べ、どう溶接の破損部分を吊るすように針金をかければいいかを考えた。


 ある程度考えが纏まった頃、部屋の電話が鳴った。出ると設備係の人からだった。ぶっきら棒な物言いで、他の従業員とは明らかに対応が違った。


 俺は用途を説明し、その状態で旭川まで持たせなければならないことを伝えた。


 設備係の人が、赤いタンクのバイクか?と訊くので、俺はそうだと答えると、準備しておくので下りて来いと言った。


 俺は急いで、汚れてもいいスウェットの上下に着替えて、工具バッグを抱えて相棒の元へ急いだ。


 設備係の見るからに武骨なおじいさんが待っていた。


 「すみません。お手数をおかけして」


 俺が頭を下げると、設備係のおじいさんは「ああ」と言って、「そこにあるから」と相棒の後輪のところに並べて置かれた針金達を指差した。


 「ありがとうございます」と俺は言ってすぐに、シーシーバーのうしろに括り付けている、カッパなどを入れているバッグからゴム付きの軍手を取り出して嵌めた。


 針金は想像以上に細い物しかなかった。


 一番太いものを手に取ってみたが何重にしても強度が足りなさそうだった。


 おじいさんは姿を消していた。


 俺はないよりはマシだとそれをフレームとエンジンの間に入るギリギリの四重にして固定を試みた。しかし、手で動かすと簡単に緩み、締め付け過ぎると途端に切れた。


 他に方法はないかと考えていると、「これなら大丈夫だべ」とおじいさんが俺の目の前に錆びた太い番線並みの針金を差し出してくれた。


 ずっと探してくれていたようだった。


 「あっ、ありがとうございます。これやったらいけると思います」


 俺はおじいさんからそれを有難く受け取って、早速作業を進めた。


 これは強度充分だった。三十分ほどかかって、しっかりとフレームに沿って固定することが出来た。最初に使った針金をプッシュロッドに回し掛けて、いざ切れたという時の補助にした。どれだけ手で揺らしてもびくともしなくなった。


 それでもエンジンの振動は日本車の比ではなかった。エンジンをかけてしばらく様子を見てから、もう一度チェックした。問題なかった。


 エンジンを切って、残りあと一回分あるかないかの長さが残った太い針金を、おじいさんに言って譲ってもらった。


 針金と軍手をバッグに仕舞い込み、工具を片付けていると声がした。


 「好きなんだなぁ……、大したもんだ」


 おじいさんがしみじみと言ったので、俺は照れながら言った。


 「コイツとあと七県行けば、日本全国制覇なんです」


 「へーっ、そうかぁ。気をつけてな」


 そう言っておじいさんは笑みをみせたあと、歩いてその場から去っていった。


 俺は、その背中に、「本当に助かりました。ありがとうございました」そう謝辞を述べた。背中が格好良かった。


 これで明日は何とか旭川まで行ける。ちょうど中日は雨予報だった。宿の予約をしている日数でクラッチが直れば言うことなしだ。


 そう思いながら、またカモメを見ながら露天風呂に浸かった。


 最初はぶっきら棒で不愛想に感じたおじいさんが、こんな風貌の俺のために態々太い針金を探し出してくれたのだ。本当に感謝しかなかった。最後、いつもは不愛想なのだと思う顔に笑みが浮かんだのが、俺にはとても嬉しく思えた。


 また、侵食が進んでいる。黒が灰色になりつつあるのだろうか?


 もし、白になった時の俺は、この世に存在しているのだろうか?


 そんなことを考えながら浮力に逆らわずに身体を浮かべていると、その前にどうにかしなければいけないことがあることを思い出した。


 俺は、俺を弾いた朝井を許すことなど一生ない。俺が死んでもその憎しみと怒りだけは消えずに残るのだろう。現に朝井は死んでしまっているから、やり場のない怒りは俺にはどうしようもないが、ずっと憎しみだけは消さずに持ち続けている。もし朝井が生きていたとしたのなら、俺は地の果てまでも追って追い込んで、生と死の境を俺が飽きるまで行ったり来たりさせて漂わせているだろう。そして最後は……。そう思う。


 彩香は、自分の人生を壊した伽奈に対して、どんな感情を持って生きているのだろうか?


 俺に話した時のことを思い出してもわからなかった。半分過去のことだと諦めて、その時の感情を忘れるようにと日々念じながら、心の深い深い奥底に仕舞い込んでいるのではないだろうか?そんな状態の彩香に態々、切っ掛けを作った一番憎い相手のことを話すなんて、彩香を地獄に突き落とすに似た行為なのではないだろうか?呼び起された記憶が何倍にも膨らんで、伽奈に向かって剥き出しの殺意を覚えるかもしれない。そうなった時、俺はどう対処出来るのだろうか。何も出来ないのならば、最初から触れるべきではなかったのに。


 こうも都合良く、因縁のある二人を、この腕の中に抱いたものだろうか?仕方がないと腹を括るべきなのだろうと思うのだが、いくら考えても答えなど出なかった。そもそも、俺と彼女達はそれぞれ全く別の性別で人格なのだ。俺の経験や知識が生きる場合ではなかった。


 晩飯の時間になったので湯から上がった。手も足も指先がふやけて皺皺になっていた。そのままビュッフェへ向かった。


 昨晩とさほど変わらぬものがずらりと並んでいた。


 グラスワインを何杯も頼むより、一本頼んだ方が安上がりだったが、今日はグラスワインを頼んだ。明日に備えてそうすることにした。


 ステーキを取りに行って五人分入れてくれと言うと、焼き方のコックはあからさまに嫌な顔をした。そんな顔をするぐらいならもっと美味い料理を並べろよと半分口から出掛けたが、明日の晩からの旭川で取り戻そうと考えて、口から漏れ出そうな言葉を我慢して飲み込んだ。


 今日の晩飯は、ルイベではない刺身の冷凍サーモンの上にイカのマリネをかけたものと、生野菜サラダと肉だけだった。何十種類も料理が並んでいるのにだ。


 野菜が旨いのは嬉しかった。それを何度も取りに立って、肉はまた五人前を頼み、意地悪からか脂身のところを多く入れようとするので苛立って、「脂身いらんわ。赤身んとこだけくれや」そう昔取った杵柄でドスを利かせた。まだまだ白くは成れないようだ。


 最初の瓶ビールとワイン三杯で俺は部屋に戻った。


 ガラ携にショートメールが二つ届いていた。


 一通は彩香で、明日を楽しみにしていることと、仕事が昼までに出来たので夕方までには旭川に着くということが書かれていた。


 着いたら連絡してとだけ書いて返信した。


 もう一通は伽奈かと思ったのだが、珍しいことに徳永だった。


 死んだ沢木の妻、美枝子が函館に住んでいるということが書いてあった。


 美枝子は沢木が俺を引き取った時から、母親のように姉のように面倒を見てくれた。一回りも年が離れていない綺麗な女は、俺の中の女を測る物差しになってしまっていた。今となってはどうでもいいことだった。


 住所まで書いてあったので、一応PCで調べてみた。


 函館山の麓にある坂道に面した、広い敷地に建っている和洋折衷の建物だった。


 すぐにPCを閉じて、明日出発しやすいように要らない荷物を片付けた。


 頭の中にはもう、美枝子の家の地図がインプットされていた。


 大昔に一度だけ触れたことのある美枝子の素肌の感触がいきなり手に蘇ってきた。真っ白い肌の手足には龍が踊り、背中には色彩鮮やかな弁天が舞っていた。芦屋にあるどこかの会長宅にあったプールでのことだった。酔っているのにプールに入り、その中央で脚が攣って溺れそうになっている美枝子を俺が飛び込んで救出した。


 函館に向かうには、まだまだ時間が必要だった。


 部屋の冷蔵庫に残っている最後のサッポロクラシックの500を呑みながら、俺は旭川までの景色を想像しながら眠りについた。明日からは頭も身体もフル回転だと予想していた。




 部屋のシャワーを浴びて、朝飯は昨日と同じイクラ丼だった。


 路面はまだ所々濡れていたが、雨は降っていなかった。


 相棒に火を入れて暖機しながら荷物を括りつけていると、昨日お世話になった設備係のじいさんが現れた。


 「もう、出発するの?」


 「はい、午後いちには修理のためにコイツを店に入れたいもので。昨日はありがとうございました」


 「なんもよ。気をつけてな」


 「はい」


 じいさんは奥に消えていった。エンジンの音を聞いて、態々俺を見送りに来てくれたようだった。


 嫌な思いもしたウトロだったが、再び出会った彼女とじいさんのお陰で、嫌な町にならなくて済みそうだった。


 晴れ間のない海沿いの国道334号線は思った以上に寒かった。それに、今から向かう斜里の街の辺りに海霧が流れ込んでいるのが見えて、先が思いやられた。俺はタンカースジャケットのジッパーを上までキッチリと閉めた。


 今日は何処にも寄る予定はなかったし、どこのカントリーサインを撮ることもなかった。天に続く道を最後まで進んで道道を何本か繋ぎ、国道39号線から333号線へ進み遠軽へ、遠軽・瀬戸瀬から高速で旭川だ。


 道はしっかりと予習して美しい道東オホーツクの景色を満喫する予定だったのに、霧が俺の思いを白で包んでしまっていた。


 修行のようだと思いながら相棒を走らせ、大空の街並みが見えてきた頃、やっと雲間からお天道様が顔を出したり引っ込めたりしだした。


 途中、大空で相棒に燃料を入れた時に取ったトイレ休憩と、遠軽のセブンでホットコーヒーを飲んだ休憩だけで、旭川まではクラッチをあまり使わずにノンストップに近い感じで走って約五時間で来れた。彩香は苫小牧から高速を使って二時間半で着くと言っていた。北海道はデッカイどうだ。


 小さな町から大きな街へ来ると車の多さに辟易してしまい、ゆっくりと疲労感が蓄積していくのがわかるほどに俺はなっていた。


 バイク屋は石狩川に架かる橋のそばにあった。兎に角クラッチは、預けて中を開けてからの話だった。マフラーは溶接すればすぐに直るらしく、前輪のタイヤも片減りしていて、尚且つ在庫もあったのでそれも交換してもらうことにした。


 俺は両肩に、タンクと同じ色の大きなドライバッグを担ぎ、右手にタンクバッグから取り出した地図を持ってバスに亭に向かった。


 こんなに重いものが相棒にのっかっていたのだ。それプラス俺が乗る。旅が終わったら相棒も一度オーバーホールしなければならないだろう。いくら乗ることがなくなるとしても、感謝の気持ちを持ってそうするべきだと思った。


 旭川駅まで行くバスはなく、1の7・1の8行きしかなかったが、それが駅に一番近いバス停だった。バスが来るのは三十分後、ベンチに座って徳永に貰った『檸檬』の続きを読んだ。


 どうも違和感があると思っていたら、この『檸檬』という本は短編集で、最初の話だけが檸檬なのだとその時理解した。ページをめくった先にあった『冬の日』は今読みたい気分にはなれなかった。お天道様がジリジリと俺のデコを焼いていたからだ。それに、物語よりも現実の方が、今の俺には刺激的だった。


 ガラ携が震えてメールの着信を教えた。彩香からだった。旭川に着くのが十六時半頃になるらしかった。気をつけて来てとだけ返した。


 1の7・1の8バス停から予約している駅前のホテルへ向かう道中にカットハウスを見つけた。安くて短時間で済みそうだったので、ホテルでチェックインを済ませ、シャワーを浴びてから髪を切りに行くことにした。


 流石に高いホテルだけあって、部屋まで案内されて荷物も運んでくれた。


 部屋も広くて綺麗で豪華だった。ソファーのある空間から見える奥には、忠別川、美瑛川を越えた先にある緩やかな山並みが見渡せる窓が大きくあって、その手前にはセミダブルのベッドが二つ並んでいる。


 浴室も広くて、浴槽も二人で入っても充分な大きさがあった。


 手早くシャワーを浴びてカットに向かった。上を少し切ってもらって、サイドはバリカンでスッキリさせた。髪を流して乾かせて、かかった時間は約二十五分だった。気分だけでもスッキリとして、首を突っ込むのではなかったと半ば後悔している彩香と伽奈の関係に、全力で挑むつもりでいたのだ。


 店を出たのとガラ携が鳴ったのが同時だった。


 彩香からで、ホテルの前にいるのだが駐車場がわからないという電話だった。俺が向かうからと言って電話を切った。


 ホテルの前にハザードを焚いて停まっているのは、ホッケーと湖が描かれている苫小牧の図柄入りナンバープレートをつけたブルーのスズキ・ジムニーが一台だけだった。


 まさかと思ったが彩香が運転席にいた。武骨な外装と小さな中身のギャップがあまりに大きかった。


 俺の姿を見つけたのか、フロントガラス越しに両手で手を振った。


 俺は助手席のドアを開けて「久し振り」と言いながら乗り込んだ。


 帯広の時とは違う、空色のワンピース姿で薄化粧をした、二十六歳には見えない彩香の目には涙が溜まっていた。


 「泣くなよ。駐車場に停めて、旭川を案内してくれよ」


 そう俺が言ったので、彩香は車を発進させた。


 車内は、伽奈の車とは違って匂いがあまりなかった。


 俺がキャリーバックを引いて部屋まで行った。


 彩香は俺のタンカースジャケットの袖口を掴んで歩いた。


 部屋に入った彩香は「ウワァ―」と声を上げた。


 「高いでしょ?大丈夫ですか?」


 そう言いながらも子供のように喜んで、嬉しそうにあちこち部屋の中を見て歩いた。


 「折角旭川まで来てもらうのに、頑張ったよ」


 「嬉しいです」


 そう言うと彩香は俺に飛んで抱き着いて唇にキスした。


 帯広では嗅げなかった化粧品と彩香の甘い薫のミックスが俺のストッパーを外した。


 若い頃に戻ったかのように俺は無我夢中で彩香を求めた。そして、彩香もそれに負けぬように俺を求めた。お互いの欲望が交わった。


 窓ガラスに両手をつき、空色のワンピースの裾を捲り上げて白い尻を突き出しているツルンとした彩香を、俺は後ろから餓鬼のように貪り、そして獣のように突いた。帯広では幼いように見えていた彩香が、今は一人の女としてそこに存在していたんだ。空色のワンピースが良く似合っている。高いヒールのサンダルも俺にマッチして、ワンピースの上から手に余る膨らみを鷲掴みにした。


 もっと強く、もっと早く、もっと激しく。破壊してやるのだと昔の俺が顔を出した。しかし、昔のようにはいかない。そのうちに心臓の鼓動の高鳴りが頭に響いてきた。これ以上激しく動くのは無理だと身体が悲鳴を上げた。


 その時、大きく仰け反って声を上げた彩香が全身を激しく震わせた。


 俺はそんな彩香を抱き締めると、心が揺さぶられている事に気がついた。女を好きになるなんて事はないと思っていたんだ。


 彩香は産まれてきた小鹿のように、サンダルを履いた細い脚をも震わせていた。膝上で丸まっている水色のパンツと薄いベージュのストッキングが嫌らしさを醸し出していた。


 立っていられない彩香を横抱きにして俺は、窓際にあるソファーの上に尻から倒れ込んだ。


 呼吸が荒く、鼓動も激しかった。やはり俺の中から、根本的な何かが消えてしまっているようだった。


 抱きかかえられたままの彩香は、俺とは正反対に、静かに呼吸を続けていた。


 俺は、ゆっくりと荒い呼吸を整えた。やっと落ち着いたところで、彩香は目を開けた。


 「マコチン好き」


 彩香は俺の首に両腕を回し、優しいキスをした。


 俺は頭の中で“マコチン”が気になった。誰がマコチンだと思った。


 その時、テレビの横に置いたヒップバッグの中でガラ携が鳴った。多分バイク屋からだろう。


 俺は彩香を俺と入れ替わりにソファーに座らせると、ロンTに靴下だけの姿で電話を取った。


 「はい」


 クラッチを開けてみると、クラッチ盤にも多少傷があるがまだ大丈夫で、ベアリングが駄目になっているとのことだった。


 電話をしている最中だというのに、空色を脱ぎ去って全裸になった彩香が弄び始めた。


 そして、そのベアリングが市内のベアリング屋にあるというのだが、もう向こうの会社が閉まっているので月曜日にならないと手に入らないらしい。


 彩香はとてもそれが愛おしい様子だった。音を立てないように愛しんだ。


 直るのは月曜日の夕方になると言った。 


 「そしたら、月曜日の夕方に取りに行きます」そう言って電話を切った。


 彩香が離れないように、俺は後退りしながらベッドに行って掛布団を剥ぐと、彩香を立たせて押し倒した。


 そのまま俺は彩香と一つになってからロンTを脱いだ。


 彩香の目は俺の胸の正中切開の痕を認識すると、少し悲しそうな顔をした。


 俺は彼女の唇を啄んで、行為に夢中になった。


 もうさっきのような激しさは俺にはなかった。今の俺は現在の俺が支配していた。じっくりと彩香の感じる場所を探った。


 彩香が何度か波打ったあと、彼女に言われるまま中で果てた。 




 今夜の旭川は賑やかで、心が弾んだ。一人ではないということが関係しているのかもしれない。


 俺の格好を真似したのか、紺色でワッペンがついたMA1の中に灰色のパーカーを着て、ジーンズを履いた彩香の案内で洋食屋に向かった。


 旭川の駅から続く歩行者専用道路の平和通買物公園を、彩香と手を繋いで歩いた。


 こんなことは何年振りになるのだろうか?


 あの日以前の俺は、女と手を繋ぐことなどなかったし、あの日以降の俺は、誰も寄せ付けることなどなかった。そういうものがあってもお互いその場の処理のためだけの行為だった。熱病に侵されて、身体が動くに任せて、そんな熱情などとうの昔に置いてきたはずだったのに。


 それに俺に対してこれほど純粋さを前面に押し出してくる女など、もしかしたら俺の人生で初めて経験する出来事ではないだろうか。けれど俺は、その理解しえない純粋さが怖くもあった。純粋さなど、脆く儚いものだと俺は思っているのだ。伽奈のことをどう切り出せば良いのだろうか?


 にこやかに亡き母との旭川の思い出を語りながら、俺の手を引っ張り歩く彩香に、俺は心を動かされているのだということに、4条通の信号待ちをしている時に気がついた。


 俺は純粋というものを、何時、何処の時点で手放して忘れたままにしてきてしまったのだろうか?


 『自由軒』は公園という名の通りから奥に入った所にあった。昔ながらの建物に、昔ながらの内装だった。


 彩香はカニクリームコロッケ定食。俺は店の親父さんに勧められたポークチャップと古酒。クースは泡盛で25年ものだと親父さんは言った。あと、彩香も美味しく飲めるようになったというビールを一本、乾杯用に注文した。


 グラスで乾杯して、彩香は「お母さんもカニクリームコロッケが好きだったの」と言った。


 俺は言葉少な目だった。何かの拍子でタイミングも考えずについ、伽奈のことを話してしまいそうだった。今夜は彩香を楽しませることが優先だった。


 「明日、早起きして旭川動物園に行きませんか?」


 「え、うん。動物園か」


 「ダメですか?」


 「いいや。いこ。動物園」


 「なんか、変ですね……」


 「ん?何が?」


 「いえ、ごめんなさい」


 わかりやすい女だった。俺が伽奈のことをどう説明しようか頭の片隅で悩んでいることを、イッタあとはどうでも良くなっているのだと勘違いした彩香は、浮かれている自分に醒めたのだ。


 「彩香、空色のワンピース似合ってたよ」


 彩香の顔付きが一瞬で華やかに咲いた。


 「化粧もナチュラルで、もしかしたら、俺のために?」


 彩香は顔を耳まで真っ赤にさせて俯いた。


 俺は心を持っていかれそうになっていることを自覚した。


 カニクリームコロッケ定食とポークチャップが同時に運ばれてきた。


 ソースとケチャップが合わさったような香りが俺の食欲を掻き立てた。


 彩香の前のカニクリームコロッケも美味しそうだった。


 俺はビールを飲み干し、ポークチャップにナイフを入れた。スッと入る感じで柔らかいのだとわかった。噛み締めると肉汁がソースと相まって旨かった。


 すぐに俺は彩香が食べやすい大きさに切って、カニクリームコロッケがのった皿の隅にのせた。 


 「ありがとうございます。お返しにカニクリームコロッケを一つ」


 「いや、その皿に置いといて。こっちにのっけたらソースの味になる」


 彩香は「あ、あーっ」と感心した。


 ロックの古酒も旨かった。ビールはチェイサーと変わった。


 浮足立っている彩香の言葉が大半で、俺は聞き役に回った。彩香の日常は充実しているようだった。


 カニクリームコロッケも旨かった。


 店を出ると、彩香は深々と頭を下げて「ごちそうさまでした」と言い、キラキラした瞳で俺を見詰めた。


 目の間に広がった駐車場の暗闇へ、単管パイプを跨いで俺は歩みを進めた。少しだけ星が瞬いていた。


 手を差し伸べると、彩香は黙って単管パイプの隙間を潜って俺についてきた。


 俺は衝動的に彩香の肩を掴んだ。


 彩香の顔が華やいだ。


 そのまま抱き締めて、俺は彩香にチュッと口付けた。俺はもう持たないと決めていた人を好きになる気持ちが、胸いっぱいに膨らんでいることに気がついたのだ。しかし、俺は彩香に寄り添うことは出来ない。それなのに……。


 空気を変えるように「もっと飲みたいな。何処か良いところ知ってる?」と、俺は彩香に尋ねた。


 彩香はドギマギしていたが、少し考えて、「串鳥に行きましょう」と言った。


 駅に向かって5条通を越えた先に串鳥はあった。串鳥はチェーン店らしくて、彩香は、亡くなった母親と札幌の店によく行っていたと言った。


 三組ほど待っていたが、彩香がお勧めだというので並ぶことにした。メニューを見て安さに驚いていたら、さほど待つことなく店内に通された。壁沿いの個室のようなテーブル席だった。


 酔い出すと彩香は、如何に俺からの連絡を我慢して待っていたかを、切々と俺に説いて聞かせた。そして、初めて男の人を好きになったと言った。


 好きな気持ちは俺も一緒だと彩香に言いたかった。しばらく誰かに必要とされたことのなかった俺は、彩香を傷付けたくないと思う気持ちが膨らんだが、俺がいつまでも彩香のそばで守るわけにもいかないのだと心を律した。


 「俺は旅人やから、まだまだ旅は続くし、旅立った場所へいつかは帰らなあかん」


 彩香はジッと俺を見詰めていた。


 「俺だって彩香に好意は抱いてる。けど、彩香の愛情に、どっぷりと浸かる訳にはいかんのや」


 「知ってるよそれぐらい。いいの。私が好きでいたいだけだから」


 「えっ」


 「マコチンが私を可哀そうだと思って抱いてくれたのはわかってた。けど、マコチンが私を好きにさせちゃったんだから、こっちにいる間だけでも諦めて下さい。会ったり電話したりしている時だけ、恋人みたいでいて欲しいだけだから」


 「はーっ、なるほど……」


 「私だって子供じゃないんだよ」


 明日、動物園から戻ったら、俺は伽奈のことを切り出そうと決めた。


 それでも、その夜は、ガキがするようなデートを楽しみ、どっぷりと彩香の寄せる愛情に浸かっていた。


 何軒か店を回ったが、彩香の笑顔を眺めていると、何処にいても同じ所にいるようで、俺の気持ちは浮ついていた。


 最後に入った店も俺達が座ったテーブルだけ個室のように隔離されていた。


 「楽しいですね」


 「そうやな。俺はこんなん、初めてかもしれん」


 「ん?」


 「こんな浮かれた感じのデートは」


 「嘘。若い時は、一杯デートしてたんじゃないんですか?」


 「ん、いや。その頃は生きていくので精一杯やったから……」


 彩香の眼差しが急に、子供やペットを見るような目になっていた。


 「なぁ、彩香は昔のことを思い出して、落ち込んだり昂ったりすることはないの?」


 「んー、最近はめったにないけど、あるよ」


 「昔、彩香を傷付けた奴らに仕返ししたいとは思わへん?」


 「思わない、今は」


 「今は?」


 「うん。だって全部過去があって今があるんでしょ。お母さんが言ってたもん。だから、幸せだった白いブランコのある家から、お母さんと二人で北海道へ来て、嫌なことがいっぱいあり過ぎて、でも、お母さんがいたから。けど、そのお母さんも死んじゃって、どうしていいのかわからなくなってて。そんな時に他の男とは違うマコチンと出逢って、優しくされて……。他人のことを好きになるなんて思ってもみなくて。セックスして気持ち良くなるなんて考えたこともなくって。ああ、生きていればいいこともあるんだって」


 「そうか……」


 まだ時間は早かったが、彩香が帰りたいというのでホテルの部屋に帰った。


 一緒に風呂に入り、丁寧に愛し合い、そのまま二人は眠った。


 彩香の踵には、靴擦れのサビオが貼られていた。






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