知らない誰かと浮気の日

石宮かがみ

知らない誰かと浮気の日

 初秋の街には知らない音楽が流れていて、道を行く人たちは若々しい。結婚以来、家庭に押し込められていた身には新鮮で、息をするだけでも活力が身に染み渡る。

 昼過ぎから夕暮れにかけて遊んだのは若い子の多いところばかりで、少し歳のいった私には場違いな気もしたけれど、隣にいる男性の、初めての彼女をなんとかしておだてようとするかのような顔を見ていると……これもまあ、たまにはいいかと思い直す。

 歩きながら目を向けたカフェの、開放的な空間のテラス席は満席で、席があけばすぐに次の人が座るだろう。タイミングを待って歩き続けている人たちもいれば、並んで会話に興じている人たちもいる。

 忙しいくらいの時間の流れに心は流されるばかり。家で家事をしたり、近所の生活のためのお店や施設ばかり往復ばかりしていると、お出かけするということもない。よそ行きの人々を眺めていると、休日ってこうだよねと、なんだか眩しい気持ちになる。私自身もこの空間の一部になれているだろうか。


 隣の男性は、少しお腹の出始めたお年頃。髪を派手に固めて、この日のためにアイロンをかけた厚手のシャツ、磨き忘れているのか磨く気がないのか少し汚れた靴。こちらの別人めいたメイクと比べて、かなり手抜きに感じてしまう。

 彼は出会い系サイトで知り合った男性とでも言おうか、それとも、もう少しマシな言い方を考えてあげたほうがいいかもしれないが、少なくとも、実年齢より幾分若く申告した、自称ギリギリ二十代の出会い系男子であるのは保証する。

 待ち合わせからすぐに、がっつき気味の視線を飛ばされていた私の薬指は、今日に限り撤去された指輪が、その空席を主張している。

 結婚はしてないの? なあんて聞かれて、どちらだと思いますかと流したものの、雰囲気の作り方が下手ねと萎えてしまうこともあったけれど、おおむね順調に不倫デートを堪能できた。人は素顔でいるより、時には着飾って生きることも大切で、それはきっと人生という舞台の光と影。どちらが光になってもいいけれど、日陰がなければ日焼けしてしまうというものだ。とはいえ、我が家には息子がいる。そのため、夜の蝶とばかりに家を空けるわけにもいかず、昼なら大丈夫と、そう伝えてこの時間帯になった。

 ちょっと若い子向けだなあと二の足を踏みそうになるお店も覗いたりして、なんだこの若作りはと店員に苦笑されているだろうと思いつつ、時間は泥棒に盗まれて針を進めていく。

 町の色は鮮やかで、雑踏のノイズさえ気にならなくて、今日くらいは若いことになっているわけだから大いに遊んでやろうではないかとけらけら肩を揺らす。足取りは軽く、今にもステップを踏み出しそうになる。

 とはいえ中身は三十路の身。身分を偽って二十歳過ぎを演じているだけなので、座れるところがあれば座ってしまいたくなる。昔であればジッとしていることが苦痛で、徹夜の一晩くらいでは止められないぞと暴れ兎のごとく跳ね回っていたけれど、テンションを上げてはしゃぐのを止めてから数年。あっという間に体が衰えたのか、これほどまでに遊ぶのに体力が必要だと思わされたことはない。息子が小さかった頃なら、このくらいは毎日だった気がするのに。

 もうすぐ沈む夕日が、一日の終わりを告げる。少々明るすぎたシンデレラの舞踏会は終幕まであと少し。ちょっと健康的なお店ばかり回ったせいか、勢いでホテルに誘われなかったのは残念ね。なあんて思いながら、もうすぐ解散の時間になっても彼は続きについては何も言わない。やっぱりお互いに歳の誤魔化しまでは無理があったかなとか、それとも昼間から使わされたお金を頭の中で計算しているのか、彼はちょっと悩んだあと、見送るよと提案した。

 また会えるかと聞かれなかった。それはとても残念で、次の約束についてこちらから切り出すのも負けを認めるみたいで嫌だ。解散してからの次回のお誘いに期待……というところだろうか。なんにせよ、ここまで気を遣ってメイクしてきたのだから、この場で、なにかしらの戦果を欲しいと思うのは当然でしょう?

 上目遣いになった私は、極めて自然な笑みと、キュートな顔の角度を用意する。

 最後にプレゼントを用意してるのと囁き、目を閉じてもらい、その頬に強く強くキスをする。突然のキスに唖然とする彼に微笑んで、ついでのサービスで、少しかさついた唇にもキスをした。



    *    *    *



 大急ぎで家に帰って、まだ旦那も息子も帰っていないことに安堵する。化粧を落とすのも一苦労だからだ。すぐに洗面所で化粧を落としはじめ、ケアは夜中に改めて行えばいいかと思い直して髪を洗う。

 チョコブラウンの色が流れ落ちて、排水溝に消えていく。ヘアカラースプレーの色がほんのりと残っている気がしたが時間はかけられない。ブリーチで脱色した金髪が露になって、私をひと安心させる。

 この日のためにこっそり買った見栄えだけそれっぽい安物のバッグをクローゼットに放り込み、友達に借りた服は畳んで隠す。証拠隠滅、よし。

 冷蔵庫から作り置きの料理を取り出して、食卓に並べていく。

 息子が帰ってきて食事が始まるころに、デザインミスで渋顔になった仏像みたいな顔をして帰ってきたのは旦那だ。その顔は昼間と同じ男性で、というか最初から最後まで徹頭徹尾見慣れた顔で、昼間と同じ調子で二十歳過ぎのように振舞いそうになる。

 あぶないあぶない。昼の顔は終わりにしないと。


 昼間から別人に扮装して自分の旦那と会っていたのは、旦那のスマホが原因だった。出会い系なんてやってる旦那が想像がつかないけれど、男というのは浮気する生き物なのだと世間で言われていることを考えれば、これもまあ噂話の当事者が自分になったような話であり、突然の交通事故に見舞われた悲劇のヒロインであることに気づいたのは泣いて目覚めた真夜中だった。

 気が早いのは昔からで、私の決意は早かった。

 こうなったら復讐だ、と。離婚より先に包丁で刺すほうを選ぶ女を嫁に選んでおいて、よくも裏切ってくれたなと鬼女に変身。そのまま二度寝などせず、旦那が使っているのと同じ出会い系アプリに偽名で登録した。

 旦那が若い子を希望しているのは想像がついていた。というのも、田舎だと同い年を探そうものなら、顔見知りや、知り合いの知り合いなんてことは当たり前にある。だから年齢層はズラしているだろうし、ズラすなら下だと踏んでいた。実際、予想通りだった。登録年齢を若くしてみれば、住所は近いのだから旦那からこちらにマッチングするに決まっている。田舎には、それほど人がいないのだから。

 もっとも、旦那が五つもサバを読んでいたのにはびっくりした。その顔でその歳は無理があるよ、と言いたかった。言えなかったけれど。……もしかしたらデート相手の偽名女の歳について旦那も同じ事を思ったのかもしれないが、そこはお互い様。

 出会い系なんてとんとん拍子で話が進むものだから、旦那を誘い出すのは簡単だった。こちらの罠にかかっているとも知らず、旦那はほんと暢気なものだった。

 デートで少し遠い町を選んだのは、家に近すぎるとバレる可能性が高くなると考えたため。帰り際、顔へキス跡を残したのは、旦那がすぐ帰られないようにするためだ。おかげで、同じ帰り道でも私のほうが早く帰ることができた。クレンジング無しで口紅を落とした旦那は、さぞや苦労したことだろう。


 夜になって二人でベッドに入っても、旦那は口数が少なかった。浮気した男は口数が多くなったり少なくなったりするというのはどうも本当らしく、うちの一家も実例のひとつに登録されそうだ。

 枕元に置いた私のスマホには通知のひとつもなく、出会い系アプリには旦那の浮気アカウントからの連絡はない。もっとも、今後連絡が来たら来たで、見知らぬ二人で通してあげる。ね、私の知らない誰かさん。

 旦那の頬をつついて、イヤイヤと顔を背ける姿を観察していると、これからどんなことをしてやろうかと令和残酷物語が脳裏に展開される。ふんだ。あんたの嫁は、黙って泣き寝入りする女じゃないぞ。


 などと思っていたら、もぞもぞとこちらを向き、「今日のこと怒ってる?」と旦那。

 古ぼけた壁掛け時計のカチコチ音が、沈黙を引き連れてぐるぐる回る。

 何のことかしらととぼけると、旦那はこちらを向きもせず、声をひそめた。


「俺、目だけで分かったよ。いや、写真じゃ分からなかったんだけど、会うとやっぱり分かるわ。めちゃくちゃびっくりしたよ」


 ふうんと生返事をして、それで言わなきゃいけないことは全部なのかと意地悪く言ってみる。

 それから旦那は何度も謝って、出来心だと、浮気する気はなかったと、もうみっともないことこの上ない言い訳を延々として、最後にこちらの空気に気づいたのか、一言ごめんと呟いて、それっきり電池が切れたように止まってしまった。

 静かすぎてあまりにもうるさい壁掛け時計のカチコチ音、小さくなった旦那の肩。はあ、男はほんと、めんどくさい。


「浮気は何度目だった?」

「だから、何度も言うけど、今度のが初めてだったんだって」

「それで、これからはどうするの?」

「……だから、もう絶対しないって」

「信じるのも許すのも一回だけだからね。でもまあ、あなたにしてはよくできました」


 子ども扱いされてむくれる彼の頬を再びつつく。その指に無言で力を込めて、今度は昼間のように雑ではない、本当のキスをする。見知らぬ二人の続きは、棚に上げておいてやろう。

 続きがあったら許さないからね。旦那ちゃん。

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