大切な弟を、育てていきます。

 辺りがすっかり暗くなったころ。バイトから帰って、アパートの玄関の扉を潜った私は、部屋の奥にいる八雲の姿を捉えた


「お帰り、姉さん」

「ただいま、八雲」


 挨拶を交わした後、八雲の小さな頭をそっと撫でる。

 高校生じゃなくて、小学五年生の八雲。正真正銘、私の弟だ。断じて兄さんじゃない!


 あの姉と弟の立場が入れ替わってしまった奇妙な世界から帰って来てから、もう一カ月が経っていた。

 招待状が珍妙な呪文を唱えた後、気が付いたら私は、アパートの玄関の前に立っていて。さっきまで来ていたパジャマは、学校の制服に変わっていたし。身長も元に戻っていた。部屋の中に入ると、そこには小学生の八雲がいて。それを見た私は、思わず抱きしめてしまった。


 八雲は訳が分からないようで、「姉さんどうしたの?」と、不思議そうに尋ねてくる。後で分かったとこだけど、八雲にとっては私が郵便受けを見に行って帰ってきただけ。あれから、ほとんど時間が流れていなかったそうだ。

 あの奇妙な招待状も、あれ以降現れていないし、もしかしたらあの不思議な体験は、全部私の夢だったのかもしれないって思ってしまう。


 けど、夢でも構わない。あの世界で学んだことは、今しっかり生かされている。

 バイトで疲れていた私は、そのままお風呂に入って。上がってから夕食を取る。八雲が作ってくれた、豆腐ハンバーグを。


「いつもありがとね。けど、遊びたかったらいつでもサボっていいからね」

「またそんな事言って。ちゃんと遊んだり勉強したりはしてるから、安心してよね。それに、料理するのは好きだから、別に嫌じゃないよ」


 心配する私に、屈託のない笑みで答える八雲。あれから私は、少しずつ家の事を八雲に任せるようになっていった。今まで頑なに家の事は私がやるって言ってたのに、急に態度が変わったものだから、八雲は最初ビックリしていたけど。今は嬉しそうに手伝ってくれている。


 私がバイトに行っている間に、家の掃除や買い物は済ませてくれてるし、今日みたいに夕飯だって作ってくれる。元々お母さんが生きていた頃は、積極的に手伝っていたから、すぐに勘を取り戻して。料理の腕はめきめきと上がって行って。

 私が疲れて、朝寝坊した時は、早く起きてお弁当を用意してくれたこともあった。



「ねえ、さすがに働きすぎじゃないかなあ? 八雲、家の事もいいけどさあ……」

「無理はし過ぎるな、でしょ。もう聞き飽きたよ。大丈夫、ちゃんと休む時は休むから。全然平気だから、心配しないで」


 ニッコリと笑いながらそう言い放つ。確かに手伝ってもらうようになってから、心無しか何だか前よりも活き活きしているような気がする。

 もしかしたらあの世界にいた時、力になりたいのに何も任せてもらえなかった私が体調を崩したように、今までの方が心労が溜まっていたのかもしれないなあ。八雲ってば変な所で気を張っちゃう子だから。


「忙しい方が元気って言うのも、おかしな話だけどね。いったい誰に似たんだか」

「姉さんがそれを言う?」


 ジトッとした目を向けられてしまった。ごめん、さすがに今のは、何を言おうとしているか分かるわ。結局私も八雲も、似た者同士と言う事なのだろう。姉弟なのだから似ていて当然なのか、それともうちが特別なのかは知らないけど。


「あーあ、僕が姉さんくらいの歳になったら、もっとたくさんの事ができるのになあ」

「無理して大人になること無いでしょ。子供でいられるのなんて今だけなんだから、焦ること無いわよ」


 こんな事を言っている私も、子供なんだけどね。けど本当、焦る必要なんて無いと思う。

 八雲はこれから、あの世界で見た八雲と同じ道を辿っていくのだろう。だけどこれから、無理をしちゃいけない、一人で抱え込んじゃったら、周りを不安にさせちゃうって事を、ちゃんと教えていかなくちゃいけないかな。高校生の八雲と出会って、私が学んだことを、今度はこの子に教えていくんだ。


 それにしても、八雲は将来、あんな風になるのかあ。高校生になった八雲は、姉の贔屓目を差っ引いても、格好良かったなあ。そう言えば他に気になる事がたくさんあったから聞けなかったけど、彼女はいたのかなあ? 

 あんなに格好良かったんだから、引く手数多だったんじゃないの? もっとその辺の事を、詳しく聞いておけば良かった。八雲に彼女、か……


「八雲」

「なに?」

「たくさんのことを学んで、立派なイケメンになりなさいよ」

「何なの急に?」

「ふふふ、ちょっとね。カッコよく成長して、いいお嫁さんを見つけて、素敵な結婚をするまで、見守っていきたいなあって思って」

「どうして急にそんな先の話を? そもそも、結婚するなら姉さんの方が先でしょ」

「私はいいの!」


 自分の事よりも八雲の事だ。私は八雲が幸せなら別に、一生独身だってかまわないしね。だけどそう言ったら、八雲ってば頭を抱えちゃって。「少し頭を冷やしたい」なんて言ってデザートのアイスを取りに行っちゃった。


 未来の姿を知っている身としては、あの子の将来が楽しみでならない。今思えば、あの状況を、もう少し楽しんでおけば良かったなあ。妹になって八雲に甘えられるなんて、すっごく美味しいシチュエーションじゃない。


「あーあ、もう一度あの世界に行けたら、今度は思いっきり甘えちゃうのに」

『だったら行きますか?』


 不意に、聞き覚えのある声が頭に響いた。

 驚いて辺りを見ると、すぐ横であの黒い招待状が、プカプカと浮いていた。


「アンタは⁉ なんでまだいるの? もう来ないんじゃなかったの?」

『おや、ワタシがそんな事、一度でも言いました? アナタは8000万人に一人の幸運を手にしたお人。やろうと思えばまだまだ、美味しい思いができますよ』

「それって、もう一度あの世界に行けるってこと?」

『はい。あなたが望むらなもう一度連れていこうかと思って、やって来ました。年齢を逆転させて、甘えるもよし。何ならもうちょっと未来に行って、弟さんの結婚式の様子でも見てみますか?』

「————ッ! 結婚しきって、洋装と和装、どっち⁉」

『真っ先に尋ねるのがそれですか?』


 だって気になるもの。タキシードや紋付袴を着た八雲をイメージして、思わす顔をほころばせる。前はいきなり連れていかれたせいで楽しめなかったけど、心の準備ができているいまなら、行ってみたい気もする。

 どうしよう、八雲の結婚式、見てみたいけど……


「うーん。惜しいけど、やっぱり止めておくわ」

『それまたどうして?』

「だってあまり先見しすぎちゃあ、本番の楽しみが減っちゃうじゃない。妹になって八雲に甘えるのも、もったいない気がするけど、いいわ。だってそんな事しなくても、八雲はここにいるんだもの」

『なるほど、まあそれもいいでしょう。弟君と、仲良くしてくださいね』


 そう言い残して、招待状は煙みたいに、ふっと消えてしまった。言われなくても、仲良くするわよ。

 そんなことを思っていると、二人分のアイスを手にした八雲が部屋に戻って来る。


「姉さん、今誰かと喋ってなかった?」

「ううん、ずっと一人だったわよ」

「あれ、でも確かに……まあいいや。これ、姉さんの分ね」

「うん、ありがとう」


 二人で仲良く食べるアイスは美味しくて。幸せそうに笑う八雲を見ながら、掛け替えのない大事な弟を大切に育てていこうと、改めて思うのだった。



 おしまい♪

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大切過ぎる弟の気持ち 無月弟(無月蒼) @mutukitukuyomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ