この口づけは、初恋の味

キム

この口づけは、初恋の味

 ――ガチャリ。


「ただいまー! アエルちゃん、帰りました!」


 んゅ……あれ、どうやらアエルさんが帰ってこられたみたいですね。

 いけないいけない。私としたことが、家主の帰りを待たずして眠ってしまっていたようです。

 ほどよく冷房の効いた室内には時計がないのでわかりませんが、きっと遅くまでお仕事をされてきたのでしょう。


「どーん。見つけたぞー」


 気の抜けた声を発しながらアエルさんが部屋のドアを開けると、自動照明がパッと点いて部屋が明るくなりました。

 お仕事帰りのアエルさんのお目見えです。しかし照明が照らすアエルさんのお顔は、少し疲労の色が窺えます。

 お仕事を一日頑張ってきたアエルさんに、私は心の中で労いの言葉をそっとつぶやきます。


 おかえりなさい、アエルさん。


「ごめんね、待った? アエルちゃん、お腹が空いちゃったから晩御飯にしよっか」


 そう言うとアエルさんは私の体を軽々と持ち上げると、部屋を出て寝室へと向かいます。

 一体この細い腕のどこにこんなにも逞しい力があるのでしょうか。私は少しばかりというものを感じてしまいます。


 * * *


 寝室には昼間の暑さがまだ残っているようで、アエルさんは冷房を入れながら「お部屋を涼しくしようね~、って誰が扇風機やね―ん」と一人でツッコミを始めました。嗚呼、きっとお仕事で疲れすぎて、誰に何を言われずとも自分から突っ込むようになってしまわれたのですね。おいたわしや。


 アエルさんは「ちょっと待っててね―」と言って私をベッドに寝かせると、晩御飯の支度を始めました。


「~~~♪」


 楽しそうに鼻唄を歌いながら、帰りに寄ってきたと思われるコンビニの袋から枝豆や塩辛、あたりめなど、いわゆる「お酒のつまみ」を次々と取り出すと、ベッドで寝ている私にも見えるように丸いローテーブルに並べていきます。


「どう? 豪勢でしょ。アエルちゃんね、明日はお仕事がお休みなので、今日はいっぱい楽しんじゃおうと思います!」


 そう言ってアエルさんはふんすと鼻息を荒くします。まったく、こんな食事では栄養も偏ってしまうでしょうに。

 まあでも、笑顔で食事の準備をするアエルさんを見ていると少しくらいならいいか、とついつい甘やかしてしまいます。むぅ……これではいけませんね。心を鬼にしなければ。

 そうこうしているうちに、どうやらアエルさんは買ってきたものをテーブルに並べ終えたようです。


「大佐! 晩ごはんの支度が整いました!」


 アエルさんがびっと敬礼をキメてきたので、私は可笑しく思いながら心の中で敬礼をします。

 するとアエルさんはベッドの上に座り、隣に並んだ私に熱い眼差しを向けてきました。


「えっと……それじゃあ、ご飯を食べる前にちょっとだけ、いいかな。いいよね?」


 頬を染めて恥じらうように問いかけてきたアエルさんは、しかし私の意見など聞かずに、自分で自分を承認してしまいました。なんですか今の茶番は。

 まったくもう、と私がぶつぶつと考えていると、アエルさんは私の体をひょいと持ち上げ、柔らかくもなければ温かくもない私の唇に、白く細い指をあてがいます。


「……くっ」


 アエルさんがほんの少し力を込めると、無抵抗な私はされるがままに口を開けてしまい、口臭とも体臭とも言えないニオイをむわっと漂わせます。


「心の準備は……ううん、そんなの聞くだけ野暮だよね。それじゃあ――いただきます」


 アエルさんにぐっと引き寄せられ、私たちはを交わしました。


「んっ、んっ、んっ……」


 アエルさんが、その小さな喉を鳴らします。それを誰よりも間近で聞く私は、その音に背徳的なものを感じざるを得ませんでした。


「ぷはぁっ。えへへ、酸っぱいね。初恋レモンの味だ」


 そう言うアエルさんの笑顔は、まるで初めて恋を知った少女の様に可愛らしく、無垢なものでした。

 初恋レモンの味だなんて……そんなの当たり前じゃないですか。



 私、レモン味のお酒なんですから。果汁は3%ですが。



「もう一回、いい? いいよー。やったー。いただきまーす」


 アエルさんが一人芝居をすると、がっつくようにしてその小さな唇で再び私の唇を塞ぎました。


「んっ、んっ……」


 喉を鳴らすたびに私の体液ストロング・ゼロが彼女の中へと流れ込みます。飲まれた私の体液ストロング・ゼロは今頃、彼女の五臓六腑に染み渡っていることでしょう。


「はうぅ、やっぱりお仕事のあとはお酒これだよねえ」


 アエルさんのとても幸せそうな顔を見ると、私も自分という存在が生まれ、飲まれて良かったと思えます。


 * * *


「それでね、アエルちゃんがホラーが苦手だって言ったら、会社の人が楽しそうにホラーゲームの準備を始めたんだよ? 酷くない? 現代が生んだ悲劇の鬼畜だよね。人間の所業じゃあない。対ゾンビ用のバズーカをどかーんと当ててやりたいよ」


 私を半分ほど飲み終えたアエルさんは、買ってきたつまみをほとんど食べ終えてしまったようで、先ほどからひたすら愚痴をこぼしています。どうやら会社の方に対して酷くご立腹のようです。

 ひょんなことからVtuberを始め(させられ)たアエルさん。普段のお仕事に加えて行うVtuber活動はやはり大変なようですね。


 ――でも。

 あなたはきっと、今がとっても楽しいのですよね。その笑顔を見ていれば誰だってわかりますよ。


「ふわあ……アエルちゃん、なんだか眠く、なって……」


 酔いが回ってきたのか、アエルさんが可愛らしい欠伸を一つしながらテーブルに突っ伏してしまいました。

 いけませんアエルさん! ちゃんとお化粧を落として、お風呂に入って、パジャマを着て、歯を……って、ああ。寝てしまいましたか。

 仕方がありませんね。明日はお仕事がないようですので、お昼過ぎまでゆっくりとおやすみになってください。



 私は静かになった部屋を、丸テーブルの上からぐるりと見回します。


『仕事しろ』


 壁に掛けられたホワイトボードには、きっとアエルさんが自分を奮い立たせるために書いたであろう文字が書かれていました。

 ひょっとしたら、会社から送られてきたものかもしれませんね。

 そのどちらにせよ、私があなたにかける言葉は同じです。


 くー、くー、と心地良さそうな寝息を立てるアエルさんに、私はそっと気持ちを贈ります。



 アエルさん。


 今日も一日、お仕事お疲れさまでした。


 頑張るあなたはえらいです。

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