下水道に潜む

砂鳥 二彦

第1話

 LEDの人工的な発光が白いコンクリートを跳ね返って、下水道は明るく照らされていた。



 下水道とは言っても、汚水はパイプの中を通り、周囲は地下鉄駅構内のような造りだ。投棄されたごみが散乱する繁華街の通りよりも、ずっと清潔で良い。



 エドガワは普段使いの寝袋の上で横になりながら、下水道の住み心地の良さを採点していた。



 エドガワはホームレスだ。元々は公園のホームレスグループと一緒に生活していたが、どうも集団生活は肌に合わなかった。かと言って、エドガワ一人で安全に住める場所など見当もつかなかった。



 そんな時見つけたのがここ、繁華街の下にある下水道だった。



 下水道に侵入するには、目立たない裏路地にあるマンホールを入り口として。バールのようなものを使ってこじ開けて入った。下水道なら警備員も立っておらず、セキュリティは甘めだったのだ。



 たまに下水道管理に人が入ってくるが、いつメンテナンスが入るかは調査済みだ。下水道の中にあるチェック表に、大体何日何時に定期検査をするか書いてあるからだ。



 こうしてエドガワは独りで、安全で、清潔で、夏は涼しい住処を得ることに成功した。



 ただし、その日は予想外の出来事があった。



「……物音?」



 エドガワが独りごとのようにぼそりと呟く。確かに、下水道のトンネル状の通路を反響して、物音が聞こえてきたのだ。



 もしや下水道の管理が入ったか。いつもの定期検査ではなく、抜き打ちの調査が入ったのかもしれない。



 どちらにしろ、ここで鉢合わせになるなど御免こうむる。



 エドガワは急いで寝袋を大きなバックに放り込み、逃げる場所を確認した。



 音が聞こえてきたのは、いつも利用するマンホールの方向だ。念のため他のマンホールも位置は確認してあるが、そこは繁華街の人目がつく場所にあるのだ。



 仕方なく、エドガワは下水道の奥に進み、検査員の目を掻い潜ることに決めた。



 とは言っても、エドガワもまだ下水道の奥に入ったことはない。今回が初めての試みで、どこに続いているかは不明だ。



 しかし、ここで二の足を踏んでいる暇はない。



 エドガワは足音を立てぬようにゆっくりと通路の先を急ぐ。



 そんな途中、音を立てぬように睨んでいた足元で気色悪いものを見つけてしまった。



「――っ! 何だ、ネズミの死骸か」



 それはエドガワの言うように、ネズミの死骸だった。腐敗していないとは言っても、ところどころ食い散らかされて無残な状態だ。きっとネズミかゴキブリに食われたのだろう。



 エドガワは外でのことを思い出す。繁華街では、道を我が物顔で闊歩する巨大ネズミや人の雑踏の合間を縫うように走る手のひらほどのゴキブリが存在する。彼らは生ごみや下等な生物を襲うだけでは満足せず、時折寝ている人間の足に噛みついたりすることもあるのだ。



 だからホームレスの連中は彼ら害虫を忌み嫌い。可能な限り身なりの清潔さを大事にして、街のゴミ拾いも行う。なにせ、自分の身の安全にかかわるからだ。



 繁華街では、世間に吐き捨てられ、臆病者だと嫌われるエドガワ達ホームレスが、街の浄化に役立っているとは何とも皮肉な話だ。



 エドガワは見慣れたネズミの死骸だと思いつつも、不思議に思う。ここ下水道ではネズミの餌もなければ、住処にする狭いスペースもない。普段なら住み着いているはずがないのだ。



 頭にハテナマークを浮かべながらも、考えは後にする。今はそれどころではないのだ。ともかく、奥へ進まねばならない。



 しばらく行くと、周囲の様相が変わる。周りの、磨かれたような明るいコンクリート壁から、砂利の混ざった黒いコンクリート壁に変わる。



 明かりもしだいに少なくなり、電灯もLEDから白熱電灯に切り替わっていた。



 そして下水はパイプから暗渠に流れる川へと変わり、ひどい臭いが鼻腔を刺激する。どうやら、古い下水道に入ってしまったらしい。



 エドガワはむき出しの下水に入らぬよう、壁を触りながら更に先へ進む。こことて、下水道の管理人が来ないとも限らないのだ。



 そうして歩いていると、また道端に落ちているものを発見した。



 それは、脱ぎ捨てられた衣服だった。



「こいつはありがたい」



 エドガワは替えの服をあまり持っていなかった。三日に一度は洗濯しなければいかぬほどだったので、追加の衣服は天から降ってわいた御恵みのようなものだった。



 服はまだ新しく、比較的汚れが少ない。きっと着衣されてから日が浅いのだろう。



「いや、待てよ」



 エドガワは衣服を得た喜びで忘れていた疑問を思い出す。



 どうして、こんな場所に衣服が脱ぎ捨てられているのだろうか。



 一つ考え付いたのは、これを置いていったのは自殺志願者ではないかという考えだ。人によっては靴を揃えるどころか、服を畳んで自殺する者もいるという。それではないかと思ったのだ。



 だが、ここは下水だ。死ぬ場所を選ぶならふさわしい場所ではない。少なくとも、自殺志願者にとってはそうであるはずだ。



 ならば、ヤクザといった暴力団関係者が死体の処理の際に服を置き去りにしたのだろうか。



 エドガワはヤクザ、という言葉に身震いする。昔ヤクザによって会社が強請られたことがあるのだ。その時は会社の社長が不自然な形で亡くなり、後の人事異動によってエドガワはリストラされてしまった。



 だから、エドガワはこの衣服を着ていた者の末路を思い。恐怖した。



 その時、前方から、ベタッと生臭そうな音が聞こえてきた。



「ひっ!」



 エドガワは気弱な処女のように悲鳴を上げてしまった。



 おそるおそる前方を確認すると、電球に照らされて横たわっていたのはまたしてもネズミだった。



 ネズミは死んでいるようで身動き一つしていなかった。



 エドガワは落ち着きを取り戻しつつも、その死骸が異質であることに気付く。



 近寄って見てみると、そのネズミの死骸は下半身だけがないのだ。



 ネズミの下半身と上半身は泣き別れしてしまっている。どうやら刃物のようなもので裂かれたらしい。



 だが、切断面がおかしい。刃物では到底演出できない曲面を描き、奇妙な形で切り取られている。ただのナイフで、まさかこのように切れるとは思えない。



 他にもおかしな点がある。死んだネズミは切断されているにも関わらず、血が一滴も零れていないのだ。その理由はすぐにわかった。切断面はまるで焼いて塞いだかのように、肉が焦げているのだ。



 エドガワはその異質なネズミの死骸に妄想を膨らませた。



 一体、ネズミに何があったのか。ネズミを襲ったものは何なのか。



 得体のしれない存在にエドガワの身体から冷えた汗が噴き出る。



 エドガワがそんな想像に苛まれていると、拍車をかけるように異音が響く。



 下水道のトンネルに共鳴して、ゴム靴のようなべちゃりべちゃりとした靴音が聞こえてきたのだ。



 またそれ以外にも、周囲を確認するかのようなコツコツとした打音が、心音のように壁を伝わってくる。



 異音は曲がり角のすぐ先から聞こえてくる。ただ曲がり角自体は影を吹き付けたかのような暗闇で何も伺えない、だが確かにそこにいる。



 その何かは、エドガワの存在を感知したかのように、鳴き声を上げた。



 何かの鳴き声は、まるで重低音になった馬のいななきだった。寂しいような、怒りに満ちているような、どうとでもとれる不気味な響きだった。



 ただしエドガワは直感した。その何かは獲物を見つけた高揚から、鳴いたのだ。



 エドガワは走った。当然奥に向かってではなく、来た道を一目散に逃げだしたのだ。



 この下水道から逃げなくてはならない。エドガワの鈍い警戒心でも、それだけは分かった。



 エドガワは壁を触ってひたすら足を前に出す。時折コンクリート壁にぶつかり、身体のあちこちをすりむきながらも出口を求めた。



 けれども、相変わらず行く先は暗い。来た道はそんなに長くなかったはずなのに、一向に明るい下水道へたどり着かない。



 エドガワは森に迷い込んだかのような方向感覚の狂いを感じて、頭が混乱する。



 どうして着かないのか、追ってくるものは何なのか。絶望からか思考は惑わされ、あるはずもない正解を探そうとする。



 そうしてエドガワが彷徨っていると、幸運な場所に巡り合えた。



「は、梯子!」



 エドガワが見つけたのは錆の目立つ古い梯子だった。梯子の先はマンホールで塞がれているものの、そこは間違いなく地上への出口だった。



 エドガワは梯子に手をかける。早く早くと自分を急かしながら、駆け上がっていく。



 行く手を塞ぐマンホールの蓋も、火事場の馬鹿力のような腕力でこじ開ける。すると、新鮮な空気が下水道に流れ込んできた。



「出口――」



 喜びから顔がパッと希望にあふれる。エドガワは財宝を見つけたかのように、急いで身を乗り出そうとした。



 そんなエドガワの足を、黒い影が舐めた。



「アッ!」



 どす黒い死の予感が足元から溢れる。鉄臭さがエドガワの鼻にまで追いすがり、全身の毛が総毛立つ。



 エドガワは自分の死を感じ、瞼を固く絞った。



「……」



 だがエドガワの意識は途絶しなかった。目を開けば、蒼天を貫くような清々しい空がビルの合間から覗き。真夏の暑さが冷えたエドガワの身体を温めていた。



 エドガワは急いでマンホールから飛び出し、自分の身体に傷がないか確認した。



 多少は服や皮膚が破けているのものの、身体に大事はない。エドガワは五体満足なままだった。



 エドガワは、ホッと胸を撫で下ろした。



「あんれえ? エドガーじゃねえか」



 聞きなれた呼び名に、そちらを向くと、いたのは三人のホームレスだった。



 その一人に、エドガワの顔なじみがいた。



「ワシのこと覚えているか? 公園のテントの隣におったササキじゃよ」



 ササキはエドガワがホームレスグループにいた頃、唯一の話し相手だった。暇なときはよく世間話をして、お互いを周知する間柄だった。



「エドガー、何かあったのかい? 顔が真っ青じゃよ。ホームレス狩りにでもあったのかい?」



 ササキは心配そうにエドガワの顔を覗きこむ。



「な、何でもない」



 エドガワが顔見知りと会って安心していると、自分の腹が鳴るのを感じた。



「腹が減ったのかい? ちょうどいい。俺達はこれからコンビニの廃棄弁当を貰いに行くところでな。一緒にどうだい」



「それはいいな。連れて行ってくれ」



 エドガワはこうして仲間のいることを感謝した。もう二度と下水道には潜り込まない。人間がいて、ネズミやゴキブリがいる普通の居住空間が最も安全なのだ。地下など、人が住み着いていい場所ではないのだ。



 エドガワはササキに続いて、表通りに出ようとした。



「あんれえ? マンホールの蓋が開きっぱなしじゃねえか」



 ササキとは別のホームレスが、マンホールに近づいてそう口にした。



「あぶねえから蓋閉めるぞ。手伝っ――」



 ホームレスの一人が頼みを言うのも途中に、消えた。まるで影にさらわれたかのように、マンホールの闇へと吸い込まれたのだ。



 エドガワはその時、理解した。どうしてマンホールの外が安全だと錯覚していたのか。どうして奴が下水道の外まで追ってこないと確信していたのか。



 その根拠はどこにもなかったのだ。



 マンホールの奥から、血の滴るような足音が外へ外へと染み渡り始めた。

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