髪結い紐と赤と黒

佐倉真由

髪結い紐と赤と黒

風に乗ってふわりふわりと揺れる、癖の強い赤毛。

まとまりづらいくせに、水を被ると濡れた犬みたいにみっともなくなるから、全然好きじゃない。

子供の頃から「血染めの赤毛娘」なんて村の子供にはやし立てられれば、いくら優しかった父と同じでも、自分の赤毛を嫌いにならない方が難しかった。

それでも髪を短くして海にいた間、周囲の人間は自分を処刑人の子と蔑んだりしなかったし、男と女ではこうも待遇が違うのかということさえ思い知らされた。もう女に戻るつもりも、そんな意味もないとすら感じ始めていた。そうしてやっと好きになれた自分の髪は、いつだって短かった。


「……伸ばすつもりなんてなかったのにな」


口を尖らせてみても、これでもかというほど鮮やかな赤い髪が突然短くなったりブルネットやブロンドに変わったりするわけじゃない。同じ赤毛でも、せめて兄のような、真っ直ぐで扱いやすい毛質なら良かったのに。踏んだり蹴ったりとはこういうことを言うのだったか。


ふっくらした唇、ちょっとつり気味の黒目がちな目、つまむと餅のように伸びる頬。ふとした瞬間これはどこのどいつだろうなんて考えてしまうほどに、数年前の面影は消えうせてしまった。

現にこうして鏡を見れば、向こう側から不機嫌そうにこちらを見つめるのは金の瞳の少女だ。


何をどう間違っても、海の荒くれを従え、無法者に恐れられた「女王の聖剣」などではない。


サー、なんて呼ばれていた頃からは想像もできないほど艶やかで柔らかい髪の毛。これが自分のものだと納得するにはもう少し時間が必要だ。


「ジゼル? いる?」


じっと鏡を神妙な面持ちで眺めていた彼女は、はっと我に返った。

返事を律儀に待っているらしいこの屋敷の主人に返事を返すと、するりと身を滑らせるように彼は部屋へ入ってきた。ここにいることが彼の乳母であり教育係でもあったソフィーに知れると、また大目玉を食らいかねない。


まったくそんな面倒を抱えてこっそり来るくらいなら、ジゼルの方をどこへなりと呼び出せばいいのだ。ここの領主はこの男、シャルクランデ公爵の長男であるセヴランであって、屋敷の中では彼が法律であるにも等しいのだから。

まあ、こういうところが屋敷の連中に好かれているのだとは知っている。ジゼルだって彼がこうだから気に入ったのだ。


「ソフィーは?」

「俺よりこの屋敷の抜け道に詳しい奴なんていないよ」


ぺろりと舌を出して笑ってみせる様子はまるで子供そのものだが、おおよそ貴族らしくも年相応でもない。おかしくなって吹き出すと、彼は嬉しそうに目を細めた。ああ、この顔は嫌いじゃない。


「1人で何してたの?」


手頃な椅子が見あたらなかったのか――何せこの部屋の椅子は小柄なジゼルやメイド達のために小さめに設えてあるので――ベッドの上に腰掛けながらセヴランが問うた。本当なら未婚の女性の部屋に入り込んできてベッドに陣取るなんてとんでもないことだが、そのあたりお互いに気を使わない方がジゼルにとっては気安くていいのだと彼は解っている。

普段はネズミに蹴飛ばされても気付かなそうなくらい鈍そうなくせに、時々驚くほど鋭い。相手が本気で嫌がっていること、実際そうでもないこと、そういったことをあっさり看破し、当然のように相手に合わせて振る舞う。こういうところはやはり貴族だなと感心せざるを得ない。


優しい紫色の中に流動する赤を混ぜ込んだ瞳が、少し上目遣いでじっとこっちを見ている。奇妙な色だが、やっぱり嫌いじゃない。


「別に。ちょっと腹減ったなって思ってただけ。お前こそ仕事あったんじゃねぇのかよ」

「休憩中だよ。クッキー食べる?」


気味が悪いほど美しいとまで噂される美貌の侯爵様が、そこいらの子供よりよっぽど無邪気ににっこり笑って小さな包みに入ったクッキーを取り出すものだから、うっかり頷きそうになったが。


「……ってお前がそうやってちょくちょく餌付けするから俺ちょっと最近太ったんだぞ!!」

「何言ってんの。まだ体重も体積も俺の半分くらいしかないんだからもっと太ってくれなきゃ」

「基準がおかしいだろうが馬鹿!」


貴族は背が高い。食べている物も違えば生活も違うのだから当然だ。

ジゼルの実家は処刑人で、そこそこ裕福ではあったけれど、ずっとそこで暮らしたわけでもない。おまけにここのところ何年も、少年として振る舞うため、端から見れば異常なほどの食事制限を続けていた。胸や腰の曲線が生まれることが恐ろしかったのだ。「女」は船の舵を取らせてもらえない。


そんな努力の甲斐あってか、16歳になるまで胸も尻もぺったんこ、肋が浮くほどのやせぎすだったのだが。

この家に来てからそろそろ一年、三食デザート付きでうんざりするほど食べさせられ、髪だの肌だのにありとあらゆる手入れを施され、逃げようとすればソフィーの説教が待ちかまえているという状態では当然ながら、太る。恐ろしいほど女性的に。

おかげさまでジゼルの姿かたちは、相変わらず小柄で童顔ではあるものの、今の彼女ならば誰と並べても見劣りはすまいとメイドたちが太鼓判を押すほどの「淑女」へと変貌した。本人としては気に入る気に入らない以前に戸惑いっぱなしだったが。


それどころか、初めはどこもかしこも緩すぎて合わなかったドレスがしっくり肌に馴染み始めると、微妙な恐怖心までもが頭をもたげ始めた。自分が一体誰なのか、鏡を見てもわからないとは重症だろう。本当に自分は「ジゼル」なのだろうか?

ぼんやりと黙り込んだジゼルを見て、セヴランはさも何か今し方思い出したかのように立ち上がる。


「ジゼル、もしかして髪結おうと思ってたんじゃない?」

「え?」

「鏡の前に座ってたから。さっきから髪ばっかりいじってるしね」


そう言えば、最初にここへ座ったときは、髪を束ねようと思ったのだった。

鏡を見ているうちにいろんなことが思い浮かんで、当初の目的はさっぱり忘れていたけれど。

そうだった、という風に口をぽかんと開けたジゼルを見て、セヴランは満足げに笑った。


「なら俺がするよ」

「は?」

「編み込みでいい?」

「い、いいよ。自分でやるし」

「俺の方が器用」


そんなこと言われなくてもわかっている。

ジゼルの不器用さは、刺繍でも教えようとやって来たメイドがあっという間に血で染まった布を見て片っ端から卒倒するほどで、髪を2つに分けて束ねるだけでも綺麗に位置を合わせて結べた例がない。

それに引き替えセヴランは何をさせてもそつなくこなす。腹立たしいほど当たり前のように。


「別にいいだろ? 俺だって好きでやってるんだから」


さらりとそう言ってジゼルを抱き寄せ、拗ねたように彼女の頭に顎を乗せる。

先ほど彼が言ったのは過ぎた誇張ではなかった。ジゼル1人くらいすっぽり収まってしまうほど広い腕の中で、彼の心臓の音を聞く。穏やかに打つ音だ。どこか優しくて彼らしいと思う。

抱きしめられて体を預けるなんてどうかしているとも思うが、いつからかこの年上の甘えたがりを放っておけないと思って、気がついたらもう慣れてしまっていた。そもそも、嫌がって離れようとすれば余計力を込めるに決まっているし。


ともかく、言い出したら聞かない男だ。ジゼルを構うことが楽しくて仕方ないといった節もある。

どうせ自分じゃまともに結えないのだから、ここは大人しくこの侯爵様の遊びに付き合ってやるとする。


「わかったよ。じゃ、頼むぜ」


満足げに頷いて、彼は手袋を脱いだ。青白いほど白い肌の上に、痛々しい赤色が踊る。夜には痛む事もあるという。他人の血を飲めば、痛みは引くのだという。手の甲を覆う真っ赤な蔦模様を知るのは、この屋敷ではソフィーとジゼルの2人だけだ。

どことなく嬉しそうにジゼルの髪を梳いていたセヴランの手が、不意に止まった。


「痕、残ったのか」


つい、と首筋をなぞられ、ジゼルの肩が跳ねた。慌てて彼の撫でた場所を見れば、確かに傷跡と見える小さな穴が2つある。何か言いたげに眉を寄せたセヴランを見て、ジゼルはからりと笑った。


「いいって。目立つもんじゃねぇし。大体、今更傷が一つ二つ増えたって変わらねえよ」

「……優しいな」

「そりゃどうも」


肩に置かれていた彼の手をぱちんと叩いて、ジゼルは口の端を吊り上げる。セヴランは少し笑い返すと、微笑を浮かべたままジゼルの髪を取り、緩く編み始めた。

流れるように自然な動作で髪を編み込んでいく男の手を鏡越しに見つめながら、別の生き物のようにジゼルに反抗的なこの赤毛も、こいつの手にかかればこれだけ大人しくなるのかと感心してしまう。

先まであっという間に編み終わり、彼はふと訊ねてきた。


「ジゼル、リボンとかは?」

「ああ、こっちの引き出し…………」


届かない。

椅子に座った体勢では、どうあがいても届かない。


しばらく様子を見ていたセヴランが、笑いを堪えながら言った。


「……。編み直すの面倒だし、俺のでいい?」

「わ、笑いたきゃ笑えよな……どうせ俺は馬鹿だよ……」

「いいんだよ、ジゼルはそこが可愛いんだから」


どういう意味だ、と腕を振り上げたかったが、今回は全面的に自分が抜けていたのが悪いのだからと我慢した。このやろう、後で覚えてろ。


片手でジゼルの髪を押さえ、セヴランは自分の髪をまとめていた髪紐を解いた。ぱらりと散った黒髪は、思っていたより長かった。もしかするとジゼルよりも長いかもしれない。

髪紐を半分に折って中心を口にくわえる。そのまま、ぷつりと噛みきる。一回り短くなった紐は、鮮やかな赤色だ。


「赤なんて好きだったか?」


普段どちらかといえば身につける物には寒色系が多いように思えたのだが。

片方を仕上げ、もう片方の編み込みを作っていたセヴランはあっさり頷いた。


「少し前からね。黒髪に赤って結構映えるだろ?」

「でも俺の髪じゃまるで保護色だな」

「当たり前だよ。ジゼルの髪と同じ色を探したんだから」


そうかと頷きかけて、ジゼルは内心首をひねった。

何だかおかしくはないか、今の会話。


「……?」

「ジゼルにも黒いリボン似合うかな。どうせだから今度取り寄せてみようか。シンプルで、でも縁に白いレースがついてるやつがいい。幅は広い方がいいけど、広すぎるとバランス悪いな」

「なあ、セヴランお前さっき」

「はい完成」


とん、と肩を叩いてセヴランがそう言うので、ジゼルは鏡を見ようと前に向き直る。鏡の向こうからは小柄な赤毛の少女と、背の高い美貌の青年。ふんわり編まれたおさげが肩にそっと落ちている。

不思議な事に、これが自分なのかという疑問は湧いてこなかった。間違いなくここにいる少女はジゼルで、その証拠に、後ろの青年は慈しむように微笑んで彼女の額に口づける。




はい?




「髪結い代。このくらいしてもいいだろ?」


にやりと笑い、彼は耳元で囁いた。ついでにこめかみにまでキスされた。

カッと頭に血が上る。不意打ちとは卑怯な。何が髪結い代だ。誰が頼んだって言うんだ、お前がどうしてもっていうからいじらせてやったのに。


この際、おさげの出来にちょっと満足していたことは忘れることにする。


「ふっ、ふざっけんな!! ばかぁ!!! ばか変態、この、この……」

「変態だなんて。むしろよく我慢したと思うんだけど。ジゼル、自分の格好わかってる?」

「妙な事言ってごまかそうったってそうは、……」


言いながら視線を落とす。白いレースに縁取られた裾が見える。足は裸足。肩は剥き出し。

クリーム色で刺繍の施されたシュミーズは派手過ぎなくて気に入っていたが、そこは問題ではない。


「目の保養にはなったけどね」


そこいらの子供なんかよりずっと無邪気にセヴランが笑う。

思わず毒気を抜かれそうになるほど柔らかく優しい声だったが、言っている事は最低だ。



とどのつまり、ジゼルはシュミーズをたった一枚着ているだけだった。



「前までその格好で屋敷中走り回っても平気な顔してたのに、最近照れるよね。なんで?」

「きっきききききっ気付いたんなら最初に言え馬鹿ぁあ!!」

「いや、俺としては外に出るつもりがないなら別にそのままでも構わないし。でも窓開けっ放しはいただけないな。誰か男にでも見られたらどうするの」

「おっ、お前はどうなんだお前は! 男だろが! ……胸ばっか見てんじゃねぇよもう!!」


傍にあったクッションを投げると、ぼふんとあんまり痛く無さそうな音がしてセヴランの顔に命中した。

まじめくさった顔で落ちたクッションを拾い、セヴランは心外そうに眉を寄せた。


「別に下心ばっかりなわけじゃない。ただほら、食べた分の栄養がちゃんと有効活用されてるかなって心配で。まあ心配なさそうで何より……頭の養分まで取られてるのかもとはちょっと思ったけど」

「出て行け馬鹿ぁああああああああ!!」


ほとんど涙目になって手当たり次第枕だのクッションだのを投げつけ始めたジゼルに笑って返し、セヴランは降参とでも言うように両手を上げた。


「冗談だってば。でも綺麗になったと思うのは本当だ」

「うるせぇ着替えるんだから出てけッ! もう来んな変態領主! 仕事してろ!」

「はいはい。……そうだ、新しいドレス気に入ってくれた?」


あんまりにも優しい目をして言うものだから、一瞬だけジゼルは気が逸れた。

クロゼットの中の普段着はいつの間にか入れ替えられたり、新しいドレスが入っていたりするが、不満を持った事は特にない。

最初こそ見るからに女物のドレスなど着てやるものかと意地を張っていたが、よくもまあジゼルの趣味がわかるものだというほど彼女の気を引くものばかり見せられては、そんな意地もいつの間にか氷解してしまっていた。


今日はまだクロゼットを開いていない。彼の言う、新しいドレスが入っているのだろうか。

見てみなよと微笑まれ、おずおずとクロゼットの扉を開く。なるほど、見慣れない服が一着ある。

広げてみるとそれはやっぱりジゼルの好きな、甘すぎず媚のない、それでいて優しいドレスだった。


全体は柔らかい灰色だが、スカート部分はふんわりとした黒。シンプルなので、細身のブーツを合わせたらいいかもしれない。何より裾が長すぎないのがいい。外へ出て跳んだり跳ねたりしても転ばないし汚れにくいからだ。袖や切り替え部分には、黒いリボンがついている。縁に縫いつけられた白いレースが控えめながら愛らしい。


……白レースの縁付黒リボン? どこかで聞いたような。


満足げに微笑んで、セヴランは言った。


「気が向いたら着てみてくれ。君が黒を好きになってくれると嬉しい」

「? 別に嫌いなわけじゃねぇぞ」

「駄目なんだ。好きになってもらわないと。世界で一番にね」


変な奴、とジゼルは眉を寄せ、降って湧いた疑問を投げかける。


「だったらお前は世界で一番赤が好きなのか?」


髪紐にわざわざこんな、強烈な赤を使うくらいに。


「そうだよ。でももっと好きなのは、ふわふわ巻いた柔らかい赤毛」



一瞬何のことだかわからなくて、ジゼルは目を瞬かせた。

数秒考えたけれど、やっぱり意味がわからなかった。


仕方がないのでジゼルは呟くように言った。


「俺の髪みたいだな。でもこれ、あんまりいいもんじゃないぞ。……交換してみるか?」


小さく吹き出してセヴランは彼女に背を向ける。ひらひらと手を振りながら、彼は最後にこう言った。



「それじゃ意味がないんだ。また来るよ、可愛い人!」

「……来んなっつったろ! ばかウサギ!」



1人で部屋に残り、黒いリボンのドレスをあててみる。真っ赤な髪に、黒いリボンはきっと映えるだろう。

鏡に映った少女は、どこか楽しげにこちらを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

髪結い紐と赤と黒 佐倉真由 @rumrum0830

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る