game8.

 ハル先輩が出てくるのを察知して、咄嗟に建物の陰に身を隠してしまった。これで完全に盗み聞き確信犯だ。

「悪かった」

 いつの間にか部室の戸口に立っていた部長が、相変わらずの無表情で言う。さっきまで激しい口論をしていたとは思えない、いつもどおりの、無感情。ひょっとしたらそれは、文芸部にいるときだけのもので、本意ではないのかもしれないと、今はじめてそう思った。

「……いえ」

 ハル先輩はグラウンドで、さっきと変わらぬ溌溂とした声を張り上げている。背を向けてこちらを見ようともしないハル先輩は、私がいたことを知らない。

「私、いてよかったんですか」

「俺が連れてきた。責任は負う」

 珍しく頼もしいことを言って、部長が校舎のほうに戻っていくのを、私は慌てて追った。

 いや、珍しく、ではないのだ。

 部長は文芸部なんて、どうでもいいのだと思っていた。話し掛けられたくなくて、部員と仲良くするのが面倒で、今の文芸部室ができあがっているのだと思っていた。

 部長が、本当はどうにかしなければいけないと思っていること、どうにかしたいと思っていること、でもどうにもできていないこと、真意を知ったのはこれがはじめてだった。

 部長もひとりの人間であることを、ようやく実感した。悩んだり、人と仲良くしたがったり、友人と喧嘩もする、ひとりの高校生。ちゃんとハル先輩のことを考えていて、ちゃんと文芸部のことも考えていて、それでいて何もできない自分に悩んでもいる、ひとりの人間。

「城島、これから部室行くの」

 部長の声に、顔を上げた。

「えっと、はい、そのつもりです」

「そう。原稿返しといたから」

 数日前に提出したまま取りに行っていなかった。ハル先輩と出会い、ファンタジーを書き始めるなんて知らなかったころの私が書いた、掌編ミステリの原稿。私の机に置いておいた、と、そういうことだろう。

「ありがとうございます」

 アスファルトのところまで戻ったところで、じゃあ、と部長は片手をあげた。そうか、部長は部室に戻らない。みんなが帰る時間まで。

「熱中症には気をつけてくださいね」

 そう言うと、部長は肩を竦めた。

 どうやら一緒に出てきたのは、私を送ってくれただけらしい。グラウンドに引き返そうとする部長に、私は、

「あの」

 部長が振り返る。眩しそうに眼を細めて。

「ハル先輩って」

 聞きたいことが多すぎた。聞いてはいいのかすら分からないことが多すぎた。

 足のことって何ですか。茉緒先輩のことって――私のことって。

「――いえ」

 部長がグラウンドのほうへ戻っていく。私は校舎への入り口である渡り廊下に向かいながら、自分がじっとりと汗をかいているのを感じた。

 グラウンドが見えなくなる寸前で、一度だけ振り返った。ハル先輩は今度は攻撃側に回るようでバックネットの傍に立っていたけれど、その体はやはり左に傾いでいた。その姿に、私は足を止めた。

 あ。

 書かなければいけない小説がある。

 小説の構想が、頭の中に広がる。ひととおり筋が決まって、はっと思い至った。

 こんなの、こんなファンタジーじみたもの、文芸部では書けない。

 どこで書こう。原稿用紙を広げたいから、机は欲しい。図書室は、駄目だ。文芸部員が来るかもしれない。教室で原稿を広げるのは躊躇いがある。誰かが忘れものを取りに帰ってきたら。

 ……適当にカフェでも探すか。できれば壁向きのひとり席。知り合いに見咎められるぐらいなら、不特定多数の知らない人に、何かやってるなと思われるほうがまだましだ。

 ああ、部長もこんな気持ちだったのかな、と、私は苦笑いした。鍵を借りているから帰るわけにはいかないところを除けば、今の私は、文芸部から逃げる部長とそっくりだ。

 いつか、部長の作品も、お目にかかれる日が来るのだろうか。

 来ないだろうな。私が、ファンタジーを文芸部に見せられない限り。

 とりあえず、提出した原稿を回収して、白紙の原稿用紙を拝借しようと私は部室に足を向けた。


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笑顔をみせて 森音藍斗 @shiori2B

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