曇天の騎士
狛犬えるす
第1話『Versuch』
私の大切な友人の話をしよう。私にとっては大切でも、君たちにとっては大切ではない男の話だ。
人によっては不快になるかもしれないし、涙を流したり、ある種の義を感じることもあるかもしれないが、私にとってその男は掛け替えのない友人というだけであり、そこにはその種の特別な感情はなかった。
だが、私は君たちがそういう感情を持つことをよく知っている。
だからなにを思っても私は気にせず、君たちに解釈を一任するから、なにを思ってもなにを感じても良い。
私にとって大事なのは、私の大切な友人がいたのだということ、その一点を君たちに伝えることなのだ。
そしてその男がなにを成そうとしたのか、なにを求めていたのか、なにと戦っていたのかを覚えておいて欲しい。
もう何十年も前の話になる。
誰もが忘れて古ぼけた時代だと
まだ人間が人間を完全には効率的に殺すことができなかった時代の話だ。
友人の名はベルンハルト・シュレーゲル。
―――
そのスポットライトは、目立ちたがり屋のアメリカ陸軍航空隊第8航空軍の銀翼たちがやって来る前触れでもあった。
夜中、マーリンエンジンの
万一お
西方でも東方でも川を渡河されぬように踏ん張ってはいるが、それもいつまで持つか分かったものではない。
燃料は枯渇し、人材は死に絶え、
ベルリンの地下深くは、また別かもしれないが。
少なくとも、彼の知る範囲において敗北の冷たさがドイツを覆っていることは確かだった
敗北主義者として
まるでベッドの上に横たわった
整備中隊はあちこちにパーツを探し回ってメッサーシュミット社を
それでもBf109G-6は
その中にあってその垂直尾翼の一点だけが、乱雑にグレーの塗料で塗りたくられている。
そこにはドイツ空軍の航空機であれば大抵よく描かれている
その鉤十字も塗料の下で窒息していることだろう。街からいなくなったユダヤ人と同じように。
「少尉殿、C3燃料の手配ができたそうです」
機付整備班の班長がシュレーゲルを呼ぶと、彼は煙草を吐き捨てブーツで踏み消した。
ここはドイツ本土の外れも外れ。森を切り開いて出来た開けた野原。
そこには急ごしらえの野戦滑走路が延び、周囲には偽装ネットを被せられたBf109が駐機していた。
東部戦線でも似たような光景は見てきていたが、ここの偽装の度合いは異常でどれだけドイツ空軍が
もっとも、ヤーボの目を欺けても爆撃機編隊はその地区一帯ごと野戦滑走路やBf109を吹き飛ばすのだから、意味があるのかどうかは疑わしかった。
「そうか。
掠れた声で、シュレーゲルは言った。
班長は口元に笑みを浮かべて白い歯を見せる。
シュレーゲルは肩透かしを食らったような顔をした後、カナルヤッケのポケットから煙草を取り出すと、一本班長に投げ渡した。手に入りっこないと思っていた。
「少尉のG-6に満載できる程度には都合できました。他のG-6はみんな
「やってくれたな。で、点火プラグの方はどうだった?」
「あともうちょいで手に入りそうです」
「まったく……、どこから手に入れようとしてるんだか」
「それは聞かないほうがよろしいかと」
煙草に火をつけながら、班長は真顔で言った。
それがどういう意味かシュレーゲルは分からなかったが、とりあえず聞かぬ方がいいのだと判断し、ただ肩を竦めて見せる。
連日昼夜を問わぬ戦略爆撃と搭載弾薬を投棄しなければならない規定でもなるのかと疑いたくなるような機銃掃射は、ドイツ空軍の燃料輸送網、生成施設を完膚なきまでに破壊し、今や真新しい機体や真新しいパイロットがいたところで飛べるだけの燃料がないという有様だった。
もし飛べたとしても
そういう手合いに限ってあのゲーリングの言葉を真に受けるものだから、弾を打ち切ると体当たりする敵を探してきょろきょろと無警戒に爆撃機を探すのだ。
そして上空から迫るあの銀翼、P-51Dマスタングの12.7mmの掃射を喰らって機体ごと穴だらけになって墜ちる。
勝利者は着陸前に
古傷のように閉じてしまったかつての栄光の日々の思い出から目を背け、シュレーゲルは紫煙を吸い込む。
総統閣下はこの煙草が嫌いだそうだが、シュレーゲルにはいまいちよく分からなかった。
なぜ彼が煙草を嫌うのか。酒も肉も嫌うという。では、彼はいったいなにを楽しみに生きているのか。
女癖も悪くはないのだ。では、彼は同性愛者かといえば、そうではない。
むしろ総統閣下はそれらを軽蔑している。
では、なにを楽しんで彼は生きているのか?
シュレーゲルには分からず仕舞いだ。
なので、この考えにも彼は目を背け、一番近しい者に目を向けた。
黒い男達と呼ばれる整備兵たちは、どんな状況でもよく働いていることをシュレーゲルはよく知っている。
白髪交じりの坊主頭を撫で付けながら煙草を吸うこの古参整備兵も、良い仕事をする。
なぜ分かるのか? それはこの整備兵がシュレーゲルのBf109G-6の機付長だからだ。
シュレーゲルがこの
それからかれこれ三機を失っている。
もう少しでシュレーゲルはあの燃え盛る愛機と共に火葬されるところだったが、寸でのところでこの古参整備兵が助け出してくれたのだ。
その際に彼は髪を少々失ったため、坊主頭になった。
彼は「
「今ある点火プラグの数はどうなんだ?」
「常備定数には届きませんが確保できてます。少尉の機体には最優先で回してますから大丈夫です。マイヤー殿に知られたら大目玉でしょうが」
「あの太っ腹じゃ俺たち下々の確認なんてできやしないさ……」
そう言うとシュレーゲルはカナルヤッケのポケットから煙草を取り出し、火を点け、紫煙を吐く。
ゲーリング元帥のことを今更上辺だけの敬愛で語る意味などなく、今やあの太っ腹の男はただのマイヤーだった。
あの男にあるのはBf109G-6の塗装のような、上辺だけの騎士道精神であり、その心の中には人間の野蛮な欲望が、野心が渦巻き、敵味方の判別すら失ってただ怒鳴り散らし、自らの保身に駆け回る無様な白い豚と相変わらない。
最早敬愛や尊敬、先の大戦のエースパイロットという華々しい無形のものは彼から剥がれ落ち、今や彼の所持する華々しいものといえば、趣味の悪い金色のP-08ルガーとあの白い軍服、そして元帥杖だけだ。
時代は1944年12月、新たな年月の到来がすぐそこまで迫り、東方では赤い津波がオーデル・ナイセ川へ、そして西側では連合国陸軍がライン川へと迫っていた。
―――
1940年、まだBf109が空力的に無駄の多いE型だった頃、シュレーゲルはフランス上空で初撃墜を上げた。
その頃から彼は第54戦闘航空団『グリュンヘルツ』の所属で、今と同じようにより大口径の銃火器に執着する大砲屋だった。
その時にはBf109-E4に描き込む自分専用のマークを思案して、イギリス人やフランス人との稚拙な空戦技術を鼻で笑ったこともあったが、時折撃墜される戦友たちを見ていくとそのような下賎な気持ちは遠のいていった。
腕を撃ち抜かれて脱出しようにもできないパイロットもいた。
その最期の瞬間までシュレーゲルは見守り、そして彼が「運が悪かった」と言い残してフランスのどことも知れぬ土地に墜落して機体と一緒にぺしゃんこになったのも見た。
不思議と復讐心は湧かず、そのままシュレーゲルはBf109E-4についての理解を、そして敵側の戦闘機の性能への理解を深めていった。
フランスが陥落しヴィシー・フランスと自由フランスに引き裂かれた頃になると、シュレーゲルは機体の垂直尾翼に五機目のスコアを描き込んでいた。
シュレーゲルは1919年、西部戦線で左腕を失くした大学講師の父と従軍看護士をしていた母の子供として生を受けた。
生まれはヘッセン州のダルムシュタットだった。
程なくして戦後の混乱期に入り世界恐慌が直撃し、シュレーゲルが生まれた頃、ドイツは列強の名を冠した国とは思えぬ貧困に喘ぎ、ダルムシュタットもまた同様だった。
しかし、シュレーゲルは幼い頃、人々がファシズムに反対して行進したりしているのを見たことがあった。
だが無駄だった。1933年、アドルフ・ヒトラーが政権を握ると、当時十四歳だったシュレーゲルはフリードリヒ・エーバート広場がホルスト・ヴェッセル公園に、ルイーゼン広場はアドルフ・ヒトラー広場になり、ファシズムのイデオロギーが故郷を染め上げていくのを呆然と見ていることしかできなかった。
そしてユダヤ人だ、共和主義者だという理由で何組もの家族が
父はそういった暴力的な事柄はすべて戦争だと既定し、諦めている人だったが、母はそうではなかった。
母はシュレーゲルに説き続けた。それは大まかに言えばキリスト教の教義にも似ていた。
そして母は「父のように表面だけでもファシストの振りをしなさい」ときつく言いつけた。
シュレーゲルの空への渇望は彼が少年の頃から存在していた。
飛行機やグライダーを見ていつかこれに乗るんだと強く抱き、読めもしないのに海外の航空雑誌を父にねだって酷くぶたれたこともあった。
しばらくしてグライダークラブで滑空士免許を取ると、ヒットラー・ユーゲントのグライダーグループで飛行のひの字すら知らない見栄っ張りたちに、動力飛行よりも滑空というのは楽しいものだと教えたり、文字通り叩き込んだりする日々になった。
グライダー乗りとしてなら、彼は既に一級の飛行機野郎だった。
ギムナジウムを卒業し、空軍に入隊して訓練学校を出、
戦友が、上官がいた。
全力を尽くして競い合う、敵がいた。
ドッグファイトがあり、一方的な空戦があり、
空軍を
あの水上機乗りたちにシュレーゲルは今でも感謝している。彼らがいなければ今の自分は恐らく存在していなかったに違いない。
だが、ゲーリングやヒトラーはそんな命がけの戦いになど興味はなかったのだ。
彼らが欲しかったのはイギリス人の血と領土であり、玉座から王を引き摺り下ろして
―――
東部戦線のエースパイロットも、ここ西部戦線の高高度を飛ぶ米陸軍航空隊第八軍の四発重爆撃機B-17『フライング・フォートレス』の
低中高度で単発、もしくは双発機を相手とすることの多い東部戦線では通用した戦術も、ここ西部戦線の四発重爆撃機には通用しない。
慣れ親しんだ
実質、あの空飛ぶ要塞――ゲッベルスは空飛ぶ棺桶と呼ぶが、十数丁の12.7mmで武装した装甲化された棺桶などかつてあっただろうか?――に通用するのは2センチ機関砲のみであり、
それを、重爆同士が防護機関銃で相互支援しあう重弾幕に晒されながら行わなければならない。
一瞬でも撃墜という名誉に取り付かれて敵の真後ろにつけてしまったら最後、死に物狂いになった敵機関銃手が12.7mmで機体ごとパイロットを蜂の巣にする。
そうして東部戦線のエースは西部の空に散っていく。
五十機だろうが、百機だろうが、それは同じだった。
シュレーゲルが知る中でこうした戦いの中で生き残り、あの忌々しいP-51Dマスタングすらを撃墜した東部戦線のエースは、かつての
彼は不運な衝突事故で負傷し、今は古巣の東部戦線にいるというが。
「今夜もまた眠れそうにない」
飛行場近くの接収した民家の中で、ベルンハルト・シュレーゲルは窓際に立って空襲警報のけたたましいサイレンを聞きながら夜空を見上げる。
サーチライト回廊に高射砲群の打ち上げた砲弾が炸裂し、大羽根を広げた爆撃機共が腹に溜め込んだ爆弾を投下し、周囲を警戒するモスキートたちが夜間戦闘機を返り討ちにし、暇を見つけては手当たり次第に地上を機関銃で掃射していく。
制空権などあったものではない。
ここはドイツの空だというのに、ドイツ空軍の空ではないのだ。
騎士然として華々しく綺麗に死ぬことすら許されない戦場がここにある。
『グリュンヘルツ』で味わった東部戦線にも飛行士同士の絆は敵味方に微かながらにも存在していたというのに、ここでは誰もがそんな余裕もなく相手を殺し、殺され、地上へと墜死する。
不時着した敵機に機関銃掃射を食らわすP-51Dマスタングなどはもはや見慣れた存在で、ベルンハルトはそれで何人かの腕利きが地面に突っ伏したまま動かなくなるのを目にしていた。
ここにはもう誇りも名誉も存在しない。
ただの殺し合い、ただの戦争が空を侵食し始めている。
いずれそれは空を、そして世界を飲み込むだろう。
「いつものことだ。どうせもう慣れただろう。
詰まらなそうな口調で言うのは、椅子に座ってボトルを弄んでいるギュンター・アイク曹長だ。
彼はシュレーゲルの列機でもある。着崩したジャケットはドイツ空軍正規のものではなく、どこからか
シュレーゲルも背はあまり高くない方だが、アイクはさらに背が低く、顔つきはどこかチャップリンめいて見えた。
そのうち、あの顔だけでゲシュタポが検挙するのではないかと開戦からこのかたずっと言われているそうだが、幸運にしてゲシュタポはこのドイツ産空飛ぶチャップリンにはあまり関心を持っていないらしい。
アイクはどこからか持ち出してきたブランデーのボトルをラッパ飲みすると、アルコール臭い息を吐き出し、口元を歪めて天上を見上げた。
「吹っ飛ぶときは一瞬だ。12.7mmでスイスチーズみたいにされるよりはずっと良い。一方的にやられるむかつきは昼間に晴らすさ」
「その前に死なないと良いがな。……昼間も昼間で雛たちが満足に飛べれば、もっと効率的な攻撃方法を実践できるんだが」
「何を言っても航空学校は増えないし、錬度は上がらないよ少尉」
なにかを嘲るようにアイクは笑った。
なにを嘲るにしてもドイツではそれを反逆罪と言う狂信者たちがいたが、シュレーゲルはその狂信からもっとも遠い僻地にいる男だ。
なにも言わずに彼のボトルを引っ手繰ると、僅かに残ったその中身を一気に飲み干し、空になったそれを突き返した。
アイクは不機嫌そうに眉間に皺を寄せたが、少し思い悩んだ後溜息を吐き出し、禿げ上がった頭頂部を略帽でごしごし擦りながら言った。
「少尉、新人たちの大半は雲の層すら突破できない。今更何を言っても無駄なんだ」
そう怒るなよと、アイクは言外に告げながらボトルを両手で転がし、唇を噛む。
雲海の中で着氷しその重みで失速、というのならまだマシな方だった。
雲中で失速し
狂ったように動き回る計器に、周囲は灰黒い雲で覆われ、どこが上でどこが下なのか、どこが空でどこが地上なのか分からなくなる。
そんな中、たった一人で冷静に錐揉みから回復できる新米飛行士たちは
きちんと育つ事もなく、
飛行時間が百時間にも満たない多くの若者たちが、敵機との遭遇ではなく事故によって失われていく。
まるで燃えながらプロペラを回すエンジンのようだ。
「……そうだな」
申し訳なさそうに呟くと、シュレーゲルは深呼吸をしてソファに横になり、目を閉じた。
あちこちで爆音が響き地面が揺れていた。夜間戦闘機たちが空を飛びまわり、爆撃機編隊の間で闇夜の中を戦っている。
だが、シュレーゲルたちにはなにもできない。Bf109は夜間戦闘機ではないのだ。
そうするだけのスペースも時間もない。
しばらくして、アイクも椅子に座ったまま目を閉じた。
しかし二人は朝まで何度か転寝した程度で、本格的な眠りはついに一度も取ることができなかった。
―――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます