第3話『Berta』

 イングランド航空戦が失敗に終わった後、暫しの休息の後、シュレーゲルは『グリュンヘルツ』と共にユーゴスラビアへ、そして東部戦線へ移動した。


 そこではソ連機の虐殺が行われていた。滑走路に駐機されたI-16の列を機関銃掃射でなぎ払い、稚拙な空戦技術で抵抗しようとする勇敢なパイロットと機体をスイスチーズにする毎日が続いた。

 同時に、メッサーシュミットの脆弱さがシュレーゲルを苛立たせた。十機の撃墜マークを描いたBf109E型は着陸脚の油圧が凍りついたせいで地面にたたきつけられ、シュレーゲルも自分の首の骨が折れたのではないかと思うほどの衝撃を受けて、野戦病院で二週間療養する羽目になった。照準機に打ち付けた額が割れていた所為だ。


 ディートリッヒ・フラーバク大尉からはしっかり休んでこいといわれたが、シュレーゲルは休むことよりも飛ぶことの方が大事に思えた。


 野戦病院でしばらく過ごした後、シュレーゲルは勝手に中隊へ復帰した。未だに頭痛が酷かったものの、飛行には問題ないと考えていたからだ。事実、問題はなかった。

 問題があったのは、ドイツ空軍の兵站網にである。シュレーゲルが乗るべきだったBF109F型は届かず、燃料も交換用部品も、なにもかもが遅延していた。輸送部隊との連絡をするために出て行ったパイロットの幾人かは、運悪くパルチザンに囚われ後日惨たらしい殺され方をして田畑に捨てられているのが見つかった。

 寒さでオイルが凍りつき、エンジンが動かなくなってしまった機体すらある。それだというのに、どういうわけか赤軍の戦闘機や攻撃機は、何食わぬ顔で飛んでいる。整備兵はどんな魔法を使ってやがるんだとぼやいている。


 季節が冬になると、なにもかもが凍りつき始めた。ヒトラーの野望も、彼の愛を受けて育った兵器たちも、なにもかもが、まるでナポレオンの軍隊のような有様になっていた。オイルは凍りつき、ガソリンの備蓄はなく、メッサーシュミットの貧弱な脚は折れまくった。足のなくなったメッサーシュミットが格納庫の横で平積みにされている姿は、まるで死体の山のようだった。

 しかし、そんな状況にもかかわらず、シュレーゲルのスコアは増えていた。それまでの十機に加え、ソ連機が九機。とはいえ、この程度のスコアを持つパイロットはいくらでもいた。皆が腕利きになり、ソ連を叩きのめしている。だが、我々の装備品は次第に貧しくなっていた。


 1942年秋、十機目のソ連機を撃墜した直後、シュレーゲルは敵の新型戦闘機に撃墜された。数箇所に銃弾の破片が突き刺さり、意識も絶え絶えに野戦病院に担ぎ込まれた彼は、そのまま後方へ送られリハビリと休暇を取らざるをえなくなった。

 ようやく日常生活を送れるようになると、一度帰省した。きっちりと制服を着てはいたが、シュレーゲルは松葉杖に包帯姿だった。ダルムシュタットの両親は喜び、ドイツの未来に悲嘆し、幼馴染との結婚を提案してきた。断る理由もなく、シュレーゲルはその幼馴染とたっぷりと休暇をすごした後、ささやかな結婚式を上げ、任地に戻った。


 教官として新兵たちを締め上げる役職についた後、シュレーゲルは新設された第11戦闘航空団へと異動となり、搭乗機はBf109G-6となった。そしてしばらくして、彼は気がついた。


 ここは、自分の知り尽くしている空ではないということに。


―――


 戦局は芳しくない。最早なにもかもがドイツの味方ではなくなっていた。宣伝されているような技術は劣化し、燃料は底をつき、弾薬は工場ごと破壊された。


 ベルンハルト・シュレーゲルは祖国同様独りだった。彼に血の繋がった家族はもういない。父も母も、純白のドレスに身を包んだ妻も、爆撃で瓦礫に潰されて死んだ。

 その報せを聞いてなおもシュレーゲルに悲しみは訪れなかった。ただ一つ、せめて痛みのない死であったら良いのだがと思った程度だ。どうせ、自分も行くところなのだから、いつも自分の先を案内したがる父が二人を導き守ってくれることだろうと。父も母も強かな人間であったから、きっと妻の手を引き守ってくれるだろうと。

 それだけがシュレーゲルの思ったことだった。涙は流れない。死があまりにも親しくし過ぎた。死があまりにも日常的過ぎた。今更、三人の死に涙など流せなかった。


「………戦争は終わる。もう数ヶ月ともたないだろう」


 飛行場近くの接収した民家の中で、ベルンハルト・シュレーゲルは不意に呟いた。煙草を咥え、口元から紫煙を吐き出し、ぼんやりと窓の外を見つめている。

 隣にはアイクがいた。日は過ぎ、1944年の終わり日のことだ。昼間、着任予定の新人たちのうち二名が途上で墜落し、残りの三名が滑走路に突っ込んで機体をぶっ壊し、一名が首の骨を折って死んでいた。

 

「少尉、それは言わない約束でしょう」

「そうだったか?」

「私以外の人間に聞かれたらどうするんです。少尉がいなくなったら、私は一人で飛ばされてしまいますよ」

「大丈夫だ、アイク。お前の顔はドイツ臣民の敵によく似てる。俺が逮捕されるとき、お前もその隣で手錠をかけられてるだろう」

「それはそれで嫌ですな」

「嬉しいと言え、このチャップリンめ」


 くつくつと笑いながらシュレーゲルが言うと、アイクは肩を竦めて口を開く。


「私の名前はギュンター・アイクでございますよ、少尉殿。私は子供を拾う放浪者じゃありませんし、空腹のあまり靴を茹でて食べたり、盲目の花売り娘に一目惚れもしません。ああ、精神もいかれてませんよ。弾薬と燃料満載のメッサーシュミットに乗って、生きるか死ぬかの戦いに身を捧げてるだけです」

「そうだな、数百機の編隊にたった十数機で立ち向かおうとしているだけだ。まるで風車に突撃する老いぼれドン・キホーテのように、へとへとになりながら自分の敵を倒さんと威勢を張っている。その結末がどうなるかなど、自分がよく知っているというのにな」


 真っ暗な窓の外を眺め、口から紫煙を吐き出し、シュレーゲルは溜息を吐く。

 もはや逆転などできはしまい。上層部は現実逃避からか、奇想天外な兵器開発にリソースを割いて長いこと結果を出せずにいる。ナチス・ドイツ空軍の始まりからここまで共にあったBF109は既に限界を向かえ、Fw190でさえも連合軍の新鋭機の前に対抗できなくなっていた。ゲーリングは結果を出せない空軍を臆病者だとなじり、高射砲部隊は空軍などどこにもいないと冷笑する。


 シュレーゲルは胸が張り裂けそうだった。この有様を見て、それでもなお空軍飛行士が臆病者だというのであれば、誰であろうと、ドイツ空軍飛行士の名誉にかけて射殺してやりたい。二十歳にもならない若者が、育成すら満足にされずに潰れ、焼かれ、空に散っていく。幾多の戦場を駆けてきた勇者たちが、何倍もの敵と対峙し、激闘の果てにその身を散らすこの有様をして、いったい誰が臆病者だと言えるのか。


 誰もが祖国のために、家族のために、名誉のために命を捧げている。この命欲しくば取るが良いと、その身と愛機を捧げているのだ。だというのに、その熱情を、その勇気を、その名誉と誇りを無為にしているのは誰か。その高潔な生き方を、その勇ましい人生を、その全うな人格を、卑劣な感性と人格で罵倒するのは誰か。


 そんなもの、分かりきっている。上には媚び諂い、旗色をうかがい態度を二転三転させ、下々を罵倒し見下し罵り挙げる卑劣漢。忌々しいドイツの寄生虫であるドイツ人、あのゲーリングのような、まるで自分が一番悲劇に見舞われているとでもいいそうな人間たちだ。確固たる意思もなく口だけは回る。分かり易い劣悪なプロパガンダを垂れ流す宣伝省の屑どもも、まるで会社の出世競争のように滑稽な政争を繰り返す本部も、皆同じだ。


 皆、勇敢なる死者たちの怨念で燃え死ぬがいい。ヴァルハラではなく、奴らにはニヴルヘイムの凍てついた世界が似合いだ。永遠に救われることなく、永遠に苦しみ続けるがいい。メッサーシュミットと、そしてフォッケウルフ、ドルニエ、ヘンシェル、アラド、ユンカース、多くの航空機と共に散っていった誇りある騎士たちの足元で、永遠に救いの声を惨めにあげるがいい。


「……作戦まで、あと何時間ある?」


 低く落ち着いた声で、シュレーゲルは問う。


「あと、十時間もありませんな」


 陽気に軽い声で、アイクが答える。


 1944年が終わり、1945年、1月1日の鐘がなる。

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