第2話『August』

 昼間、曇り空のドイツの空を、DB605のエンジン音が震わせる。

 雲塊を突き抜け高高度にて合流できたBf109はたったの十二機だった。ベルンハルト・シュレーゲルは十一機の貴婦人たちを見定め、彼女たちにいったい誰が乗っているのかを思い出し、酸素マスクの中で舌打ちする。到底、迎撃可能な面子とは言えない。

 過半数は飛行時間が二百もない男たちばかりで、二人ほど爆撃機隊からの機種転換組が混じっている。数ヶ月前はただの若者で爆撃に怨嗟を抱いてた者たちと、つい最近までハインケルの爆撃機もどきを動かしていた者たちが、メッサーシュミットに乗ってここまでやって来ていた。

 

 だが、やっと雲の層を突破したというのに、彼らでは到底あの重爆連合の中に突っ込むことはできないだろう。できたとしても、忌々しい五十口径機関銃の銃火の前に黒煙と絶叫を吐きながら落ちるに決まっている。だが、やらなければならない。それが命令であるからだ。不可能なことであっても、他に道はない。

 それが命令であるからだ。消費する燃料をあくまでも有意義とするためだけに、十二機のメッサーシュミットは編隊を組み直す。ふらふらと失速しそうな機が何機かいたが、構ってはいられなかった。なんとか踏み止まれと念を掛けると、不思議とその機の揺れがやんだ。

 このままさらに上昇し、と周囲を見渡すと、上空になにかが煌いた。瞬間、アイクの絶叫が通信機を打つ。


『敵機上空! 散開、降下!』


 瞬時にシュレーゲルは機を翻し、爆撃機隊迎撃を諦めて逃げた。雲の中に突っ込み、低空へと逃げる。無線機からは逃げることのできなかったパイロットたちの絶叫が聴こえてきた。

 ブリーフィングでは古参の言葉は絶対であり、士官であっても下士官であるアイクの言葉を聞くように言っていたのだが、権利を得た若者はそれを存分に使いたがる習性がある。

 自らのちっぽけなプライドが、下士官への反逆を決意させ、そして若者を殺した。若者の熱意とはどうしてこうも悲劇的なのかと、シュレーゲルは思った。自身もまだ二十半ばだというのに、もはや彼は枯れ木のような老いを感じていた。過ぎ行く季節もなにもかもを遠めに見つめ、過ぎ行くのならば過ぎ行くが良いと思っている。

 まるでパウル・ポイメルのように、戦場と死というものに慣れきってしまっている。その目は淀み、死神の鎌が首元にかかっていた。だが彼は気付かない。彼にとって死とは終末ではなく、行き着くべき駅の一つでしかない。


 雲を切り裂きながら数機のメッサーシュミットが下界へ降り立つ。高度は三千メートルを切っている。生き残ったのは何機かとシュレーゲルが確認しようとすると、雲から数機の銀翼が現れた。見間違うことはない。流麗な動体に水滴型の風防、末端が断ち切られた翼。それは間違いなく、P-51Dマスタングである。


「敵機上空、五時方向、数は六。各機散開!」


 スロットルを押し込み、シュレーゲルは高度を犠牲に速度を稼ぐ。すると、すぐ後ろに一機のG-6が取り付いてきた。ひよっ子ではなく、アイクの機体だ。機体の胴体に書き込まれた数字は、白の7だ。他は皆、水平方向に旋回していた。

 すべては一瞬のことである。旋回中のメッサーシュミットが、まるで昆虫採集家がピンを屍骸に打ち付けるように、五十口径の機関銃で曇天に打ち付けられる。身震いするかのように振動し、ずたずたに引き裂かれた胴体から出火し、黒煙を引きながら墜落する。

 十二機のうち、最初の攻撃を切り抜けたのはたったの五機だった。他はすべてマスタングによって撃墜され、焦ってパラシュートを素早く展開しすぎたパイロットさえも、その標的となった。


 高速で離脱するマスタングの編隊から、何機かがはぐれたのをシュレーゲルは見逃さない。操縦桿を振り、相手を誘う。まるで蛇行しながら逃げているように見せかけ、臆病者を演じる。それに貪欲なマスタングは食いついた。

 二機のマスタングがシュレーゲルとアイクの二機編隊に上から覆いかぶさるように襲い掛かってくる。だが、二人はそれを難なく交わす。風防に顔を押し付け、翼端切り詰め形状のシルエットを瞬きもせずに追いかける。操縦桿をぐるりときり、スロットルを押し込んでエンジンをぶん回す。Bf109が得意の、ローリング・シザースに持ち込み、近付いては遠ざかりを繰り返した。

 ぐるぐると延々と続くかのような、まるでダンスでも踊っているかのような一幕が続くと、天地の感覚が薄れていく。全力を発揮することを強いられたエンジンが、ややぐずりだす。

 速度計を見、フラップを展開し、素早くローリング。低速域での機動性なら、Bf109も負けたものではない。ふらふらとエネルギーを失ったマスタングが、シュレーゲルの前に現れる。座席に押し付けられた身体を力ずくで動かし、照準器を覗き込む。シュレーゲルはそのシルエットを見定め、偏差を計算し、機首にマスタングが隠れてしまってから、引き金を引いた。

 三門のラインメタルMk.108三十ミリ機関砲がそれぞれ五発ほどの砲弾を発射し、それは大きな弧を描いてP-51Dマスタングのシルエットに突き刺さり、炸裂する。

 八十三グラムの高性能爆薬が、美しい流線型のマスタングを粉微塵にした。直撃した箇所は根こそぎ吹き飛び、四散した鉄片がバブルキャノピーを貫通してパイロットの頭蓋を貫き、彼の命を一瞬で奪い去った。芸術的なパッカードエンジンはひしゃげ、漏れ出した航空機用ガソリンに火が点く。まるで流星のように、マスタングだったものは地面に墜落していった。


「こちら白の14、各機応答しろ」


 周囲を索敵しながら、シュレーゲルは言った。しばらくしてアイクのメッサーシュミットが翼を振りながら近付いてきた。角ばった風防の向こう側で、アイクが仏頂面で無線機が故障したことをジェスチャーで訴えている。


「こちら白の14、各機応答しろ」


 二機のメッサーシュミットは二機編隊ロッテを組み、雲の下ぎりぎりを飛びながら、上空からの奇襲を警戒する。操縦桿とスロットルを操作し、目をきょろきょろと落ち着きなく動かしながらも、シュレーゲルは虚空に問う。

 しかし返ってくるのは、生き残った者たちの肉声などではなく、無機質な空電だけだった。


―――


 白の7と白の14の二機は、数十分前に飛び立った飛行場へと戻ってきた。

 鉛色の空の下、吹きすさぶ風に嬲られてふらふらとしながらも、女性の細足のような着陸脚を下ろし、フラップを下げ、危なげなく着陸する。

 雲塊を突破できなかったメッサーシュミット数機が、既に林の中に引き込まれ迷彩ネットを被せられているのを横目に、シュレーゲルは角ばった風防を押し上げ、ラダーペダルとスロットル操作で整備兵の誘導に従い、メッサーシュミットを滑走路から退けた。

 ベルトを外そうと悪戦苦闘しているシュレーゲルに、班長が駆け寄り、主翼に脚を乗せてそれを手伝った。


「マスタングが来るかもしれない。早めに隠しておいてくれ。それと、滑走路脇の穴を、誰か埋めておいてくれないか。俺とアイク以外の奴らが、戻ってくるかもしれないから……」


 震える手でなんとかベルトを外すと、シュレーゲルはそう言って煙草を咥え、何度も取り落としそうになりながらマッチを擦って煙草に火をつける。


「一機落としたが、あの肥満児じゃない。報告しに行く。あとはやっておいてくれ」


 口から濛々と紫煙を吐き出し、シュレーゲルは古参の整備兵にウィンクをしてみせた。了解ですヤ・ヴォールと班長は返し、小さく見えるその大きな背中を見送った。

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