15光年の隔たり

てる

第1話

中学三年になった頃、初めて彼女ができた。後にも先にも彼女がいたのはこの一度きりで、そんな彼女とも長続きはしなかった。恋人と呼ぶのも憚られるような、大人の真似事。互いが互いの彼氏彼女を演じていただけで、最後まで二人で一つの恋人同士になれた気はしなかった。

デートもろくにしなかった。平日には学校があったし、長期休暇に相手を誘い出すことには躊躇いがあった。結局、デートは大抵日曜にして、お金も自由も無い中で一緒の時間を楽しむというより、ただ二人で時間を潰しているような感覚だった。

私達が別れる直前にしたデートはよく覚えている。当然と言うべきか、数少ないデートの中でも一番酷いものだった。


夕方に彼女と待ち合わせて夏祭りの出店を回り、花火を見る予定だった。混み合う祭りの中で、手を繋ぐことに照れていた私たちは、不運にもはぐれてしまった。互いの照れがそうさせたのだから、恋人としては上等に聞こえるかもしれないが、最後まで見つけられずに別々の場所で見た花火が、私たちに楽しげな思い出を残さなかったことは想像に難くないだろう。

私が、退屈そうに座り込んでいる彼女を見つけたのは、もう最後の花火が打ち上がった後のことだった。

その日は七夕でもあったので、私たちは帰り掛け、神社に立ち寄ってそこの大きな笹の枝に各々短冊を吊るした。それも済んでから、私は後ろめたい気持ちと共に、人のいない河川敷へ彼女を連れて行って星を見ることにした。

二人きりで静かな草むらに腰を下ろしたのに、私は何を話していいかわからなかった。重い沈黙が二人の間に腰を据えて、私の方ばかりをジッと見ている気がした。私は、彼女の目線が星に向いている間、二人で見られなかった花火の埋め合わせを考えていた。せめて何か、楽しめる話をしたい。

私はふと、短冊に書いた願い事について聞いてみようと思った。話題としてつまらなくはないし、私自身、彼女がどんなことを願っているのか少し気になったのだ。

しかし、先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「ねぇ、短冊に書いたお願いって、すぐに叶ってくれるのかな。」

彼女は呟くように言った。月が明るくて、日は沈んでいたが彼女の顔はよく見えた。どこか寂しげで悲しげで、隣に私がいながら、その言葉は空虚に向けて発せられたように聞こえた。

「どうだろう…」

私は気の利いた言葉を必死に探した。

「ずっと遠くにあるし、叶うまでには時間がかかるかも」

絞り出して言えたことは、そんな曖昧なものでしか無かった。


私たちは、それからほどなくして別れた。きっと、大人の真似事をするには早すぎたのだろう。七夕以降、互いになんとなく相手との距離を感じて、デートどころか会話もろくにしなくなり、やがて彼女の方から別れを切り出された。私は結局、彼女の多くを知ることも、私の多くを知ってもらうこともできず、ぎこちなさを感じながらも、自己満足に彼女を巻き込んでいただけなのかもしれない。別れ話の最中も、ずっとそんなことを考えていた。

話の最後に彼女は「一緒にいてくれて嬉しかった」と言った。この言葉に、私の心はとても安堵させられた。しかし、それに被せて自分も同意できるほど大人でも無かった。

もっとも、こうして大人になった今、その言葉に意味通りの気持ちがこもっていたかなんてわからない気がしているが。

知識や理屈ばかりを蓄えて、歳を重ねて私は大人になった。厄介ごとや面倒ごとを避け、大衆の進む道ばかりを無感動に選択して生きてきた。学生の頃の思い出も、語るほども無い中で唯一、鮮やかな色をしているのが、そんな失敗した恋なのだ。



その週の日曜日、昼過ぎまで寝ていた私は、異変に気付いて目が覚めた。

全身は水をかぶったかのように汗でぐっしょり濡れていて、部屋は異常に暑かった。辺りを見渡すと、ゴトゴトと異様な音を立てて、こともあろうか温風を吹き出ているエアコンに気が付いた。夏中酷使して、夜通しつけっぱなしにしていたから無理もないだろう。しかし、これから夏本番ともあろうこの時期に故障されて、放置するわけにはいかない。私はしぶしぶ電気屋に修理を頼みに行くことにした。

修理は電話で依頼してもいいのだが、歩いて向かってもそう遠くはない。少し外の空気も吸いたかったし、何より室内は外より暑かった。

電気屋までは歩いて五分ほどで着くが、そのうち三分間くらいは昔通った中学校の広いグラウンドの前を歩く。日曜だったので、当然グラウンドに生徒の姿はなかった。それでも、古い記憶が思い出されて、当時の賑わいが目に浮かんだ。

生徒は毎年移ろうのに、彼らの思い出はだけはずっとこの景色のまま、同じなんだろうと思うと、自分だけが勝手に大人になってしまって、置いていかれてしまったような気がした。まるでここだけは、ずっと時が停滞しているように思える。置き去りにされたようにも思わせるけれど、変わらない景色が思い出を風化させずに守ってくれてもいる。


私が遠い目でグラウンドを眺めながら歩いていると、不意に声をかけられた。

「やぁ、久しぶり」

私に話しかけた女性、その人に私は見覚えがあった。どこかで見たことがあるが、すぐには思い出せなかった。昔会った人ではないが、私の目はその姿に二度以上触れているようだった。

結論から言えば、私はその女性に会ったことがあった。それは私の中学生時代の恋人だったのだ。淡いブルーのTシャツと白いスカート。場違いなほど、彼女は夏の女性らしい姿をしていた。夏の象徴のような装いの彼女は、しかし私の記憶の恋人とは微妙にズレていた。彼女はこんな派手な服は好まない。私に向けられた笑顔も、あまりにも無防備すぎている。そして何より、彼女の背丈は私と同い年のそれでは無かった。

「紗季…?え、どうして…」

私は、かつてそうしていたように、彼女を下の名で呼んだ。

「ちょっと出掛けようと思ってさ。ここで待ってたの」

私の抱えていた疑問は、彼女の弁明で晴らされるものではなかった。それが紗季に違いないのなら、彼女は幼すぎたのである。

私の頭は少し混乱していた。いや、かなりと言ってもいい。しかし、だからこそ私は、もうこのまま狂ってしまって、流れに流されたほうがいいのではないかと思った。彼女という存在が持つ矛盾について、うまく問いただせる気もしなかったので、私は余計なことは言わないでおいた。

「そっか…。久しぶりだけど…えっと、どこへ行くの?」

「ええ、まさか忘れてるの!?今日って七夕じゃん!」

七夕…?そんな言葉はここ十年は考えてこなかった。しかし言われてみれば今日は七月七日で、七夕だ。だが、だとしたら一体どこへ行くというのだろう。

私がキョトンとしていると、紗季は私の方へつかつかやってきて、私の右手を引いて歩き出した。

「さ、早く行こう」

私は紗季に手を取られた瞬間にハッとした。なるほど、そういうことか。ならとりあえず今は野暮なことは考えず、紗季が私の手を離すまでは、紗季に任せてついて行こうと思った。彼女はどこからどう見てもご機嫌だった。


その光景は、はっきり言って歪だった。いや、犯罪を疑われていたかもしれない。軽装のスレたおっさんと、私服の少女とが手を繋いで街中を歩いている。それも先頭は少女で、おっさんがつれ歩かされている状況だ。

「なあ、どこへ行くのかくらいは教えてくれよ」

私は周囲から向けられる視線に耐えきれず紗季に聞いた。目的地がわかれば、私のこの先の見えない不安も少しは和らぐかもしれない。

「どこって、そんなのお祭りに決まってるじゃん!」

祭り、紗季はそう言った。紗季は七夕に私を待って、祭りに行くらしい。私の中であの悲惨な夏祭りデートと、今日という日が繋がったのはこの時だった。

「もしかして、稲荷の祭りの事か?」

私は、ようやく思い出した手掛かりを確かめるために紗季に聞いた。私達がはぐれ、結局最後まで紗季を一人ぼっちにしてしまった祭り。地域では稲荷の祭りと呼ばれていた。

「やっと思い出したんだ。まぁ、忘れてなくてよかったよかった」

どうやら当たりのようだ。そういえば稲荷の祭りに行ったのも、紗季とのデートの時が最後だった。小さな街にしては大層な花火が打ち上がるので、行く価値は大いにあるのだ。疑念は尽きないが、きっと紗季はあの時一緒に回れなかった屋台と、一人ぼっちで見るしか無かった花火を、今度は二人で見る気なんだろう。今日紗季に会ってから、初めてその思惑を理解できたような気がして私はホッとした。

不意に現れ、私の理解の追いつかぬままに紗季は進んだ。最後に口を聞いたのはもう二十年以上も前で、それも決して愉快な話じゃない。学生時代に残した、苦い失敗の相手。互いを理解しようとして付き合ったのに、結局分かり合えなかった人。それはつまり、例えば今ここにいるどんな見ず知らずの人よりも、想い合える可能性の低い人という事かもしれない。しかし、それでも紗季は私の古い恋人であって、その事実は破局してしまった今も変わらない。私たちの関係がいくら希薄で粗末であったとしても、互いの青春があの頃、この相手にあったことは変わらないのだ。

紗季が何を考えているかは分からなかった。私をどう思っていて、今その思いがどう変化しているかも分からない。それでも、私にとって人生でたった一人の、唯一の恋人だったのが紗季だ。家族愛とも、友情とも別の絆の為に交際した、たった一人の人。もっとも、私の想いは紗季にも他の誰かにも届くことはなく、またあの頃と同じように、それが自分の中で完結している、自己満足であると否定できないのだが。

私は幻想の中に浸っているような気分になった。紗季の装いが私にそれをより強く思わせる。私は繋がれた右手に目を落とした。この手を昔、繋いだことがあれば。思い出の人は今、私の思い出に残るままの彼女よりも積極的で、背も少しだけ高い。そんな不条理な姿にも、私は確信を持ってこの人を紗季だと信じられたのに。


いつのまにか私たちは商店街を抜けていた。川と車道に挟まれた道に、私達以外の人はいなかった。やがて脇の川は太くなり、私たちの道は車道から離れていった。

私はここに来たことがある。それも、一人では無かった。河川敷の道を歩きながら、私は坂下の草むらを見て思った。紗季、あのつまらないデートの後、ここに来て星を見たことを覚えているのか?君はあえて私をここに連れてきたのか?私は、紗季がどんな顔をしているのか気になって、紗季の横顔に視線を向けた。

その時、紗季が突然歩みを止めた。どこか思いつめた様に、紗季は真剣な顔をしている。私は、この顔を知っている。ただならぬ思いと、考えが交錯しているときに紗季が見せる表情。そして、紗季がこの顔をしているとき、私は紗季のその思いを何一つとして理解できないのだ。紗季、あの日君は、確か私にこう聞いたな。『ねぇ、短冊に書いたお願いって、すぐに叶ってく…』


「ねぇ、今日が何の日かわかる?」

紗季は、私の目を真っ直ぐ見つめて聞いた。

「七夕」

「ううん、違う。もっと大事な日のはず」

大事な日…?紗季は私に聞いた、ならそれは私にも紗季にも大事な日なのだろう。心当たりは一つしかなかった。

「紗季と、最後にデートした日」

「最後って…」

紗季は私に向けていた目を落とした。坂下の、草むらのあたりを見ていた。

「そう、あのお祭りに行った日だよ」

「覚えてるよ」

紗季はそこで、今までずっと繋いでいた手を離した。私の右手は、力なく私の右脇に帰ってきた。

「私も、覚えてる」

そう言ってにぃっと笑ってみせた。紗季は道をそれ、坂を下って草むらに座り込んだ。私もそれに続いた。


「あの時、なんでここに連れてきたの」

紗季はいきなり苦しい問いをかけてきた。論理的な理由は、正直無かった。

「それはその、ここって星が綺麗だからさ」

「星はどこでも綺麗でしょ」

「まぁ、そうなんだけど。でもここは他の場所よりも、もう少し綺麗に見えるんだよ」

口から出まかせだった。二人になりたかった、祭りの会場はうるさかった、君に、はぐれたことを詫びたかった。そんな正直な事は、とても言えなかった。

「そっか。うん、確かに綺麗だった」

紗季はそれでも納得してくれた様だった。

私はなんだか情けなくなった。あの日、私は君に詫びたかった。それでわざわざこんなところまで君を連れてきて、でも謝れた記憶はない。もう別れたからとか、時間が経ったからとか、言わなくたって伝わるだろうからって、そんな言い訳を口にも心にも出さずにしてきた。君がどんな思いで私と一緒にいてくれたのか、どんな考えで私とここまできて星を見たのか、どんな孤独であの日花火を見たのか。私はそれについて今までずっと考えて後悔してきた。それなのに、君がこうして隣にいる今、私はまたあの夜みたいに、言わなきゃいけない事を心の中で噛み潰すんだ。

君が、今どうしてまた僕の前に現れたのかはわからない。わからなくていい。だって君は、きっと僕の知っている君とは、また少し違うんだろう?君の思惑より、きっと私の罪の方がずっと重い。だから、君がどういうつもりであっても、私は今君に会えたのだから言わなくちゃならない。

私は頭の中で言葉をまとめた。そして、立ち上がった。

「紗季、俺はあの日」

言い掛けて、私の口は動かなくなった。違う、口だけじゃない。身体も、表情も、鼓動さえ止まっていた。その上、その視線の先にいた紗季さえも止まっていたのだ。世界が、硬直した。ただ一つ、坂の上を歩く影だけを除いて。

硬直していた世界は、すぐに動き出した。だが、その停止した刹那は、確かに世界を両断していた。私の口は、いよいよ何も言えなくなった。紗季は私の方を向いて、次の言葉を待っていた。しかし私はなぜか、さっき私の言った言葉が紗季に届いていないと知っていた。紗季から見た私は、不意に立ち上がり、口を開けて硬直したままとわかった。

言葉がキャンセルされて、立ち上がっただけの私は、坂の上を歩いて行く男を見た。停止した世界で唯一動いて、私の目に焼き付いた男。私には、その男を追う理由があった。私の贖罪は、その男にあった。

「ま、待て…!」

私はよろけた身体を奮い起こして、坂を駆け上がろうとした。だが、それは叶わなかった。走り出した私の脚に、紗季がしがみつき私を止めた。私はそのまま、柔らかな草の上に転んだ。

「だめ!追っちゃいけない」

紗季は転んだ私の顔に向かって小声で言った。

「どうして!俺に言ってやらないと」

私は、歩いて行ってしまう幼き自分を目で追いながら言った。もう、彼はずっと遠くに行ってしまっていた。

「何て言うつもりなの。何を言ったって変わらない事だよ」

紗季は、私がもう追う事は諦めているのを感じて、冷静な口調で言った。

「あのままじゃ、あいつはまた紗季とはぐれる、そうなったら台無しじゃないか。今、俺が一言『照れずに手を繋いどけ』って言えば救えるかもしれない」

紗季は私の言葉を最後まで聞いてから、静かに言った。

「救う方法は、他にあるでしょ」

私は言葉を失った。私が救いたかったのは、幼き自分でも、二人の関係でも、その後の自分の後悔でもなかったはずだ。そうだ、俺が救うべきもの、俺があの日救えなくて、いつか救いに行きたいと思っていた人は別にいる。

「…紗季」

紗季はにっこりと微笑んで、転んだままの私に手を伸ばした。

「私、今日そのために来たの」

「助けて…あげてね」

あぁ、紗季。思い出した。君が見せたその笑顔が、私に思い出させてくれた。

わかってるさ、助けに行こう。


日はもう西に傾いていた。世界は、目を刺す様な橙色の光に溢れている。私達は幼き私が見えなくなるまで、草むらに座って待っていた。

「紗季は、あの日この道を通った?」

「うん、行きもここを通ったよ。でも私達が来るよりも先に行ったはず」

「そっか」

私はあの日、紗季を待たせては悪いと思って、かなり早めに家を出ていた。それでも紗季の方が早かったのか。それだけ、楽しみにしていたという事なのか…?

私はまた罪の意識に苛まれかけた。いや、そんな事は後でいい。

「じゃあ、もう行こうか」


祭りには独特の空気があるように感じる。この道の先で祭りをやっていると思うだけで、その空気を感じるのだ。近付けば近付くほどそれは強くなって、祭り独特の、乾いた音と人の気配が身体に響く様に伝わってくる。

やがて、祭りの会場が見えてきた。

もうすでに多くの出店が出ていた。同じ法被を着た老人たち、大勢で群れながら祭りを回る学生、ハチマキを巻いた恰幅のいい男。大勢の人がガヤガヤと出店の間を練り歩いている。

最後に祭りに来てから、もう四半世紀近くたっている。私は当時よりも、より多くのものが見えるようになっているのがわかった。あの頃は出店の正面からの姿や、煌びやかな商品やお菓子しか見えていなかった。きっと、祭りの本質とはそこにいる人々だ。あれだけ多くの人が、たった一つの町や集まりから来ている。「家族」というまとまりの、その次に狭いコミュニティはきっとご近所というところだろう。その狭い集合から集う人々に、ちゃんと目を向けたのは初めてだった。

だが、今日の祭りに限っては、私が一番大切にすべき人は別にいるはずだ。私にはこの日、真っ直ぐ目を向けるべき対象がいた。


「はぐれるまでは、まぁ好きにさせてあげましょう」

紗季は黙って頷いた。

「それで、一つ聞いてもいい?」

私はついに、ずっと疑問になっていたことを聞くことにした。

「紗季、今何歳なの?」

紗季は、明らかに私と同い年ではなかった。それが、かえってこの一日を幻想的に感じさせている。しかし、同時に紗季は私の思い出のままの姿とも合致しなかった。つまり、紗季は中学三年生ではなかったのだ。そう、私の見立てで、はそれより二、三歳上のような。

「なんでよー、同い年でしょ!」

紗季が誤魔化して言っているのは直ぐにわかった。女性に年齢を聞くな、と言う事なのだろうか。しかしどう見ても彼女は、女性の一番華やかな年頃の姿をしている。実際はそれより老いていたとして、それは若く見えると言う事なのだから、別に明かしてくれてもいい気がするのだが。

「まぁ、若く見えるって言うならその想像の年齢でいいよ」

紗季がそう言うので、私は仮に十八歳としておくことにした。紗季がもし当時のままの姿、十五歳ではむしろその方が不都合が生まれる恐れがあったので、ちょうど二、三年歳を取っておいてくれて良かった。


「それで、時間まで待ってるのもあれだし、見つからない様に二人で回らないか?」

私がそう言うと、紗季はわかりやすく顔を赤らめて照れた。あぁ、私は素敵な恋人を持っていたんだな、そう思った。私は多少成長していた。この年の離れた女の子を、今更恋愛対象に見ない事。彼女が嫌がらないのであれば、手を引いて祭りを楽しむ事。そのくらいのことはできると思った。或いはその成長とは辛い人生が忘れさせてしまった、恋の緊張なのかもしれない。そしてそれはきっと、人として惜しむべき損失なのかもしれないが、その代償が古い恋人との思い出のデートのやり直しならば、私には安く感じられた。

「嬉しい。けど、それは後でその女の子にしてあげて。きっともうすぐその時は来るから」

紗季は俯いたままそう言った。私にはそれが、照れてしているようには見えなかった。

今日紗季は、私にあの日のやり直しをさせに来てくれた。私を必要な場所まで案内して、大切なことを思い出させてくれた。私が抱えていた長く、苦しい後悔の鎖を解く機会をくれたのは紗季だ。君は、それが私をどれだけ救うのか知っているのだろうか。私達はあの時失敗した。君は私に「別れよう」と言ったかもしれない。でも紗季、きっと君は、私が君にそう言わせたとは知らないだろう。私たちの交際は、私だけの経験でも、私だけの後悔でも、私だけの過去でもない。君という、一人の素晴らしく愛らしい女の子が、私のためだけに動くことはない。私が、紗季にそうさせてはいけないはずだ。間違いだけを正して、それで過去が救いきれるものか。

私は呆然と祭りの賑わい眺める紗季の手を握った。

「いいや、行こう」

「え…」

「嬉しいんだろ。なら行くしかないだろ」

「でも…」

紗季はまた不安と悲しみの混じったような顔をした。

「俺が今、紗季と回りたいんだ」

私は紗季の手をぐいと引いて、紗季を立たせた。紗季の表情はさっきのまま複雑な思いに駆られている様だった。けれど、それだけじゃなかった。紗季の頬はさっきよりもずっと、赤くなっていた。


それから私たちは、祭りの出店を端から一つずつ回って行った。チョコバナナ、あんず飴、綿菓子、焼きそば、金魚すくい、射的、クジ引き。全ての店を見て回り、紗季が少しでも興味を示したら、立ち止まって二人で楽しんだ。

紗季は金魚すくいが上手かった。射的は一発も当たらなかったし、綿菓子を顎につけて気付かないでいた。チョコバナナを甘すぎると言って私に半分よこし、それぞれ別の店で焼きそばを三種類も食べた。その紗季の行動の一つ一つを、私は目に焼き付けるようにずっと見ていた。きっと、もうこの紗季に会うことはないんだろう。私は道理ではなく、そう感じていた。祭りを二人で回る間、私たちは片時も手を離さなかった。



「そこのベンチに来る」

紗季は、川沿いの堤防下にある小さなベンチを指差して言った。そこは祭りの入り口の反対側から出て、少し進んだ先にあった。最果てに構えた焼きそば屋の裏で、ダンボール箱のゴミが散乱していた。

「こんなところで…」

私は、こんな寂れた場所で孤独に私を待っていたであろう紗季を案じた。私の申し訳なく思う気持ちは、表情に現れていたらしい。

「違うの。私が来たくて来た所だから。気にしないで」

そこはとても綺麗と言える所ではなかった。祭りの華やかさに当てられて、なおも暗い雰囲気を孕んだような所の影にあった。

「わかった」

「じゃあ、私がいるとややこしいことになるし。もう行くね」

紗季はそう言って立ち去ろうとした。

「待って!」

私は、紗季を止めた。告白するには、今しかなかった。

「あの日、本当にごめん。俺は、その、君を」

「…真剣に探していなかった」

紗季は振り向いて、黙って聞いていた。

「君がいなくて、俺はそのままでいいなんて、思ってた。はぐれたことは本当にわざとじゃなかったけれど、君が人混みで埋もれて、別れるかもしれないって…わかってた」

紗季は私の近くへ戻って来てくれた。私の目を真っ直ぐ見て、そして微笑んだ。

「いいよ、許したげる」

「今日、その埋め合わせ。ちゃんとしてくれたから」

そう言って私の胸に抱きつくと、小声で何かを囁いた。

「え、今なんて言った?」

「ううん、なんでもない。じゃあ、はぐれちゃった私にもよろしくね」

そう言って、紗季は小走りに祭りの中へと消えて行った。


一人になった私は、その寂れたベンチに腰掛けた。少し考えて、やっぱり立っておくことにし、やっぱり考えて、そこから少し離れることにした。紗季が初めからそのベンチを目指して来るとしても、こんな男が先に座っていたら逃げてしまう気がした。

それから、どれくらいの時間が過ぎただろう。紗季は予想よりもずっとゆっくりやって来た。今回は、一目見てそれが紗季だとわかった。ついさっきまで私と手を繋いで祭りを回っていた紗季よりも、彼女はほんの少しだけ若かった。そのほんの少しだけで、彼女の印象と私が見たときの一致感は大きく異なった。

紗季は思っていたよりも無表情だった。もっと悲しみや孤独や、或いは怒りを抱えてやって来るかと思っていた。よく似合った浴衣を着て、赤い巾着袋を持っている。そこにあることをあらかじめ知っていたかの様に、紗季は真っ直ぐ薄暗いベンチにやってきて腰掛けた。

私は祭りの賑わいの中に潜んで、その光景を眺めていた。なるほど、目を凝らしてそこにいると知っていなければ、気付かれないような場所だった。どうしてまた、こんな酷いところに隠れるように座っていたんだろう。

私にもう迷いはなかった。警戒される覚悟はもうできていた。私はもう、後悔や恐怖に慄いたりしない。だって、他の誰でもなく紗季本人に言われたんだ。「はぐれた私によろしく」と。

私は紗季の元へ向かった。表情だけは、どうしていいかわからなかった。ニコニコ笑っていたり、怒った様な顔をしていては騒ぎになりかねない。幸いにも、紗季が叫んだりしなければ気付かれにくい場所だったので、中学生に話しかける中年男性として周りに警戒される可能性は低かった。私は散々考えた後、優しく微笑みながらゆっくり近付いて行こうと決めて紗季に近寄って行った。

結局私の表情は、近付いてくる私に気付いてこちらを向いた紗季の、その懐かしい顔を見て、定まらなくなってしまった。雰囲気で言えば、道で昔親しくしていた友人に会ったときのような、不思議さと興奮と懐かしさを入り混じえた様な顔だった。

紗季は、私の顔をジッと見ていた。そして私の全く予期していなかったことを言った。

「遅かったね」

私は紗季の座ったベンチまで、あと二メートルというところで立ち止まってしまった。紗季の口ぶりはまるで、私がここに来ることを知っていて、しかもそれが今来るとわかっていたかのようだった。

「紗季…」

どうして。そう言いかけて、私はやめた。考えてみれば、十八の紗季に会ったのも、十五の自分を見かけたのも、「どうして」ということだ。冷静に考えて、異常な存在は私の方だろう。紗季の穏やかで、綺麗な瞳が私にそう思わせた。

ともあれ、事情を事細かに説明する必要はないようだった。私は警戒されない様にゆっくり紗季の横に腰掛けた。間に人一人座れるほどの隙間を開けた。

「なんで、こんなとこに来たの?」

「はぐれたから」

「誰と?」

その質問に紗季は驚いた顔をした。

「あん…。…彼氏と」

彼氏。私はその呼び名に少しときめいた。交際していても、相手を「彼氏」とか「彼女」とは呼ばない。第三者に対して説明するときに、初めて出てくる表現だからだ。紗季の口から、自分の事を指して彼氏と言われた。ややこしい状況だが、だからこそ聞けるフレーズは貴重だ。

「っていうか、あんたとよ。一人でずんずん行っちゃうんだもん」

紗季はやっぱり、不条理なこの状況をある程度理解しているようだ。十五の私、つまり彼氏とはぐれ、その彼氏の二十年後くらいの存在が現れているという事を。今日は、やっぱり野暮な事を言うのはよそう。改めてそう思わせられた。

「ごめん」

「本当に思ってる?人混みに突っ込んでいって、わざとじゃないかと思ってた」

紗季は、この時点でわかっていたみたいだ。

「あぁ、実はその通りだ。あの時…いや、さっきはごめん」

「ふうん。もう私に飽きちゃったって事?」

「違う!」

自分は、もっと冷静だと思っていた。私は気付けば紗季の手を握り、大声で叫んでいた。

「あ、ごめん」

私は握ってしまった紗季の暖かい手を元に戻した。

「でも、本当に違うんだ。俺は…あのときの俺はまだ知らなかったんだ。君がどれだけ大切で、かけがえのない存在なのか。俺は馬鹿だったよ、無感動だったんだ。君といて、どれだけ楽しいかは自分次第なんだ。真似事で交際して、勝手に楽しいことが起きてくれるって、それだけで達成なんだって思ってた。障害や、問題を乗り越えた先にあるはずだったものを、壁に当たった時点で諦めてた。」

私の口からは、次々に言葉が出てきた。それは正解でも、謝罪でもなく、ただの愚痴だった。紗季はきっと、初めからそれに気付いていた。私はまだ、成長していなかった。

「それで」

私の言葉を遮って紗季が言った。

「それで今日は、どうしようと思って来たの」

私はそれで我に返った。そうだ、忘れたのか。俺が救いに来たのは、自分自身じゃない。

私は暗くなった表情を笑顔に変えて、紗季に言った。

「そう、それで今日俺は」

そうだ、俺は今日。

「君をさらいに来た」


「…は?」

「君の彼氏は、君の本当に魅力に気付いていないような馬鹿だ。だから、それを知っている俺が君を彼氏から遠ざけ、しかもさらっていくんだ。」

我ながらずいぶんイタい台詞を吐いた。でももう決めたことだった。私は、紗季と自分の関係が、もうそう長くないと知っている。きっとその事実は、歴史の不変性が働いて変わらないものなんだろう。そして私という存在もまた、事が済んだ後は彼女たちの前からいなくなるのだろう。ならば、私はもう思い残すかもしれない事を全て消化してしまおうと考えた。もう二度と会えないであろう恋人との、最後のデート。紗季、君は知らないだろうが、もう私の中ではそういうことになっていて、君を救う使命もきっとこれで果たせるんだ。

「勝手にすれば」

紗季の頬が赤くなるのを確認して、私は紗季の手を握った。


私たちの目的地は、一つしかなかった。

「ここじゃ、花火まで遠いよ。もっと前に行かないの?」

「いいや、ここが良いんだ。前の方には人が集中するし、中間はその集中した人でよく見えない。それに、最後に打ち上がるでっかいやつはここから一番綺麗に見えるんだ」

こういった情報の先回りも、特権の一つだ。私は、紗季を木のベンチの風下に座らせ、近くの屋台から焼きそばを買ってきた。

「なんで三つも!?」

「好きなんだろ、焼きそば。しかも全部種類が違うよ」

そう言ったときの紗季の驚き顔を見て、私は心底満足した。紗季は一周回って私を警戒しているようだった。

「なんでそんなこと知って…。私言った事ないのに…」

そんな事をぶつぶつ言ってる紗季はとてもかわいらしかった。あぁ、十五の俺よ、お前はなんて愚かなんだ。こんなおっさんに、お前の彼女はなびいちまってるぞ。お前は今、紗季とはぐれて清々しているのかもしれないな。お前の目が節穴なばっかりに、こんな素敵な恋人を放置して。それで一人で見る花火は、楽しくないだろうよ。

やがて花火が打ち上がり始めた。花火ほど、映像じゃ意味のない代物も少ないだろう。打ち上がる火の玉と人の熱は、画面越しじゃあ絶対にわからない。ひゅるひゅると切なく鳴いて登って行く花火と、固唾を飲んでそれを待つ人々の緊張。夜空に大きく咲いた火の華に目を奪われ、やがて…どんっ!っと心にまで響く鈍い破裂音。その全てが花火の魅力だ。それに何よりも、花火は誰か一人のために打ち上げられたりはしない。この会場にいる全ての人と、きっと遠くから見ている人もいる。みんなの視線と緊張と、それらが解ける瞬間が共有される空間。

私の横で、紗季が花火に目を奪われている。花火の光が瞳に反射して、キラキラと輝いている。あぁ、君を一人にしなくてよかった。君がこの花火を、たった独りで観ていなくて、本当に良かった。


「紗季」

「何?」

「多分もうすぐ、その…彼氏が来るぞ」

紗季の茶色の瞳が私に向いた。

「そっか。じゃあ、君はもう行くんだね」

「そういうことだ。それで、俺のことは…」

「言わないよ」

それに、と言って紗季はクスッと笑った。

「君の名前も知らないから、言いようがないや」

「それもそうだね」

私もその無防備な笑顔に笑い返して、それからもう一度紗季の手を握った。

「俺は、君が好きだよ。ずっと前から」

そう言って紗季の返事も待たずに、席を立った。

小さな影が紗季の元へ向かうのを見届けて、私はその場を離れた。


花火会場から離れた私は、紗季と話したベンチの脇を通り、店仕舞いする屋台の間を歩いて、稲荷の祭りから抜け出した。いくらか歩くと、もう祭りの気配はすっかりなくなって、辺りはもう夜だった。私は十八の紗季と歩いた道を、今度は一人でとぼとぼ歩いた。やがて紗季と腰を下ろした草むらの上まで来て、その場所をもう一度眺めた。もしかしたら、私はそこに紗季がいて「やぁ、おかえり」なんて言ってくれるんじゃないかと期待していた。そこには、もう誰もいなかった。

私は草むらに腰を下ろした。きっともうじきすると十五の私が彼女を連れてここに来る。だから、いつまでもここにいたらまずいんだろう。

私は、今日一日のことを、もう一度思い返してみた。突然現れた紗季に連れられてここまできて、自分がやらなきゃいけない事を思い出して、祭りまで彼女を探しに出かけた。はたして、これで良かったのだろうか。私のしていたことは、間違っていなかっただろうか。もしかしたら、私がベンチに座った紗季に話しかけたりしなければ、紗季ははぐれた彼氏と再開できていたかもしれない。紗季を木のベンチに座らせた後、十五の自分に買った焼きそばを持たせて、紗季の居場所を伝えるでも良かったかもしれない。そうすれば、或いは私と紗季の関係は…。

いや、考えても仕方なかった。きっとこれで良かったんだ。紗季との最後のデートは楽しかった、紗季も楽しそうにしていたし、それが間違ってる事はないだろう。それに、きっとこれは私にとっても最後の機会だったんだ。俺は今、紗季と一緒にいたかった。私の心理は結局、紗季を救うことよりも、二人の関係よりも、その先にある未来の後悔なんかよりも、きっと今が大事だったんだろう。もう、終わってしまったことだ、いつまでも見栄を張っていたってしょうがない。あぁ、そうさ。

「俺は今、紗季といたかったんだ」

誰もいない静かな河川敷で、星に向かって私は呟いた。




「へぇ、そうなんだ」

背後から、紗季が言った。私は起き上がって、急いで涙を拭った。

「そーんなに私のことが好きだったなんてね、知らなかったな」

紗季はニヤニヤしながら私の隣にやってきた。

「あの時邪険にするんじゃなかったね、私を」

「あぁ、本当に馬鹿だったよ」

私の涙は、もう止まらなかった。大粒の涙が後から後から溢れて、あっという間に袖をびしょびしょに濡らした。

「もう、これが最後なんだ。ごめんね」

知っていた、きっとそうなんだろうと思っていた。紗季は私の傍に小さく体育座りして、夜空を見上げた。

私は本当にこれが最後なんだと思った。星空を見上げた紗季の横に、同じように小さく座って天を見上げた。満天の星空から、一際強く光る星を見付けて言った。

「あれがアルタイルで、あっちがベガだよ」

「きっと今日はその真ん中くらいにいるよ」

「確かに」

そう言って二人でクスクス笑った。

私は紗季の手を握ろうとした。紗季は手を後ろに隠した。

「だーめ、私冷え性だから」

そう言って笑った紗季は、もう寂しさも悲しさも感じさせなかった。

「いいからいいから」

そう言って私は、氷のように冷えた彼女の手を握った。彼女は相変わらずニコニコして、私にすり寄った。私は紗季の手を両手で包んで暖めた。そして、空を見上げて言った。



「いつからこんなに冷たいの」

「十八のときかな」

紗季はエヘヘと笑ってみせた。

「そんな気がしてた」

「ごめんね、私ヘマしちゃって。そう、自転車って結構危ないから気を付けたほうがいいよ。バランス崩したりしたら大変だし」

「わかった、気を付ける」

「うん、気を付けてね。本当に、ずっと」

私にはまだ、紗季に聞かなければならないことがあった。

「短冊。紗季はなんて書いたの」

「私から言うのー?」

「俺は…くだらないことだよ。家内安全だったかな」

「そっかー、私は恋愛成就だったよ。ずいぶん叶うまで時間かかっちゃったけどねー」

「俺も同じ事を書いておけば良かった」

「ううん、どっちかだけでいいんだと思うよ。時間はかかったけど、ちゃんと片方で叶ってくれたもん」

「そうか、そうだな」

私達はそうして、草むらに座ったまま星空を見上げていた。そこは、あまりにも静かで、穏やかな空間だった。吹き抜ける冷たい風も、身を寄せ合う理由になって、虫の音もしない河川敷は、話をする理由になった。


やがてやってきた二人組に、私達はその場所を譲った。私達は手を繋いだまま、商店街を抜け、やがてあの中学校の前まで戻ってきた。

「じゃあね。今日はありがとう、元気でね」

「あぁ、ありがとう。楽しかったよ」

私達は、朝紗季と出会った場所で別れた。二、三度振り返って手を振って、四度目に振り返ったときに、もう紗季は行ってしまっていた。


私はそのまま家に帰り、床に着いた。翌朝、私がまた灼熱に起こされたことは、言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

15光年の隔たり てる @sasayuyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ