僕のやるべきこと

しましま

僕のやるべきこと

 とても懐かしい風景。緑生い茂る森の小川。

 透き通った水を何度も両手にすくっては、溢れる涙を混ぜて川に返した。


「……美奈…………」


 ここに来ても何も変わらない。そんなことは分かっていた。

 きっと、今の僕の気持ちを暖かく包んでくれるのは彼女との思い出だけ。

 

 だから僕はここに来たのである。




 真夏の昼の暑苦しさに目を覚ました。

 額を流れる汗を手で拭い、置いてあったスマホを手に取る。暗い画面には一時三〇分という文字と、覇気のない顔が映っていた。


 重い身体を起こして、のそのそと部屋を出る。居間に入ると、すぐに崩れるようにソファに飛び込んだ。ゆっくりと身体が沈み、空気の漏れる音がした。


 だらだらと寝転がって、ニュースの声を流すように聞いていた。最近のニュースなんてどれもこれも同じで、もとより興味がないというのもあって、まるで聞く意味を感じられない。


 目を閉じてため息を吐く。

 昨日までの楽しい日々は嘘だったのだろうか。


 こうなるぐらいなら、あんなこと言わなければよかった。

 あの時の彼女の顔が目蓋の裏に浮かぶ。


『蓮なら分かってくれると思ってたのに!!』


 高校を卒業したら東京に行ってデザイナーになると言った美奈を、僕は理由も言わずに止めた。

 美奈に夢があることも、遠くへ行ってしまうことも知っていた。本当は応援するつもりだったのに、僕は本音を中途半端に伝えてしまった。


「……なんで? なんで応援してくれないの?」


 理由もなしに止め続ける僕に、だんだんと表情が暗く険しくなっていった。


「……蓮なら、蓮なら分かってくれるって思ってたのに!!」


 美奈は怒ってしまった。というより、悲しんでいた。僕が応援してあげなかったから、僕が理由を言わなかったから。


 でも、君と離れたくないから、なんて自由すぎる理由を口にする勇気は僕にはなかった。


 心では応援してる。だけど一緒にいたい。


 せめて、君が好きだと告白する勇気が僕にあれば……。

 良い方にか悪い方にか、きっと全てが終わっていたのだろうと思う。


 もう一度重ねるが、僕には勇気がなかった。



 このままグダグタと何もする事なく、気がついたら夏休みが終わるのだろう。そんな事を思いながら、もう一度寝ようとテレビのリモコンに手を伸ばしたその時だった。


 眠気を一瞬で吹き飛ばす、悪魔の声が聞こえた。


『ーー衝突し、バスは大破。死者八名、負傷者一名です。市内に住む平谷美奈さんが意識不明で病院に送られ、運転手含む八名の男女がーーーー』


 喧嘩をした日、つまり昨日、美奈が事故にあったという内容だった。美奈は僕と喧嘩して別れた後、街から一人でバスに乗って帰った。そしてそのバスが事故を起こしたらしい。それもバスが大破する程に大きな事故である。


 ニュースという悪魔が教えてくれたのは、たったこれだけだった。



 あまりに突然の事に頭が真っ白になり、しばらくの間テレビを見つめてぼーっとしていた。


 数分の時間が経ち、事の重大さに気づいた僕はいても立ってもいられなくなって、すぐに着替えを始めた。

 そして鍵もかけずに家を飛び出して、全力で自転車をこいだ。真夏の暑さも感じず、疲れも何もなかった。病院までの二キロの距離は、美奈の事で頭がいっぱいで、ほんの一瞬に感じられた。


 病院に着くと真っ先に受付に走った。汗だくの男がものすごい勢いで迫るものだから、受付の女の人も待合室の椅子に座る人たちも驚いていた。

 事情を話して病室の鍵を受け取ると、また走り出し美奈のいる病室へと向かった。


 個室のドアを勢いよく開け、


「ーー美奈!!」


 彼女の名前を叫んだ。美奈はベッドの上で驚いた表情を浮かべて座っていた。なんとなく、違和感を感じた。


「お見舞いに来てくれたの? ありがとう」


 ニコッと笑う美奈を見て、少し安心した。そっと胸を撫で下ろし、さっきの違和感は何かの間違いだと思った。

 でもすぐに、それは僕の勘違いだという事を美奈は教えてくれた。


「えっと、君が蓮くんなのかな?」


 笑顔のままそう言った彼女に、僕は言葉を失った。

 それはもはや驚きや衝撃なんてものを遥かに超えていた。心の中が一気に空っぽになった。



 美奈は僕のことを覚えていない。



 無意識に涙が頬を伝い、ようやく口を出た言葉は、


「美奈……ごめん」


 たった一言の謝罪の言葉だった。

 強く閉じた目蓋には隙間なんてないのに、涙が溢れた。


 受付の人が言っていたことを思い出す。


『平谷さんは…………いえ、分かりました』


 僕が今の美奈に会ったところで意味がない。分かっていたから、僕を止めようとしたのだろう。


 美奈は僕のことを忘れてしまった。


 改めてそう感じると、余計に涙が溢れた。


 美奈は……僕を知らない美奈は、どんな表情で僕を見ているのだろうか。それを知るのが怖くて、いつまで経っても顔を上げることが出来なかった。


 顔を下げて泣き続けていた僕に、美奈は言った。

 

「蓮くんはさ、私の彼氏……とかだったのかな?」


「…………え?」


 思いがけない質問だった。少しだけ顔を上げると、美奈は少し恥ずかしそうに頬を赤らめて微笑んでいた。これもまた思いがけなかった。


「ママに言われたの。蓮くんって男の子が、一番最初にお見舞いに来てくれるって。そしたら本当に来てくれた」


 突然現れて、突然謝って、突然泣き出して、その挙句に黙り込むような奴に、美奈は尚も微笑んでいる。


「すぐに分かったよ、君が蓮くんなんだって」


「……どうして……?」


 泣いていたからなのか、たった四文字の言葉すら声が震えて上手く喋れなかった。

 美奈は枕で顔の下半分を隠して、少し上目遣いで言う。


「分からない。でもね、君がここに来てくれたとき、私の名前を呼んでくれたとき、とても嬉しかったの」


 未だ止まることを知らず流れ続ける涙を、美奈の言葉は更に加速させた。


「聞いたこともない声で、知らない顔で、本当に何も分からないはずなのに、鼓動が早くなって顔が熱くなるのを感じたの」


 僕と喧嘩したことも、自分の夢のことも、全部忘れてしまった。

 笑顔で話す美奈の顔を見て、改めて現実を知った。


 そして、なんて言えばいいのかとても悩んだ。

 ほんの数秒の間に、いくつもの考えが頭をよぎった。


 今までの出来事を全て話そうか。

 自分が君の彼氏なんだと嘘をつこうか。

 いっそのこと、自分は蓮くんじゃないと言って病室から逃げてしまおうか。


 分からなかった。何も分からなかった。

 何を言っていいのか、何を言うべきなのか、何を言いたいのか。



 考えて考えて考えてそれでも分からなくて、気がついた時には、それが心の奥底から姿を現してこぼれ落ちていた。


「僕は臆病だ」


 え? という美奈の声にも気づかず、僕は更に言葉を重ねた。


「僕が全部奪ったんだ。記憶も、未来も、夢も」


 

 僕のせいで美奈がこんな目に遭ってしまった。

 ちゃんと応援していたら、自分の気持ちを伝えていたら、こんな事にはならなかった。


 今だって、僕は自分のことしか考えていない。


 本気で美奈の事を想っているなら、一番悲しんでいるはずの彼女よりも悲しい顔は見せなかったはずだ。

 記憶を失ってしまった彼女に、暖かい話を聞かせてあげたはずだ。

 そして、自分の想いだって伝えられたはずだ。


 ごめんも、ありがとうも、好きだってことも全部。


 それがきっかけで思い出していたかもしれない。

 なのに、僕は言わなかった。


 言える時にも言わず、言わなきゃいけない時にも言わず、言わなくていいことばかり言ってしまう。



 僕は臆病だ。


 

 不思議そうに僕を見つめていた美奈に、最後の言葉を言った。


「…………ごめん……」





 僕は病院を出ると、家の近くの小さな山に向かった。幼い頃に二人で遊んだ想い出の場所だ。

 



 両手に汲んだ水を川へ返すと、揺れる水面に映る自分の顔を見つめた。

 どんなに後悔しても、どんなに悲しんでも、この暗い気持ちが小川の水と共に流れていくことはない。


 また一滴、涙が零れ落ちたときだった。


「…………あ」


 水面に映る顔に被さるように、お盆のナスとキュウリが流れてきた。

 こんな小さな山に民家はないし、誰かがわざわざ上まで登って流したのだろう。


 とても懐かしかった。


 まるでこの野菜の船たちが、何年も前の忘れてしまった記憶を乗せてきてくれた気がした。


『そのときは、わたしと一緒についてきてくれる?』


 明るくてまだ幼い美奈の声が、頭に流れ込んでくる。

 僕が忘れていた、幼い日の約束。


『僕はいつでも美奈の側にいる』



 


 もう一度、水面に映る自分の顔を見つめた。相変わらず覇気のない顔だった。

 だけど、もう涙は流れていなかった。


 

 ぐっと脚に力を入れて立ち上がる。


 そして小川に背を向け山を駆け下りると、僕はまた、病院に向かって自転車を漕ぎだすのだった。

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