05 約束
台風一過、という言葉がよく似合うような空模様に、柊は苦笑いを零した。
桟橋の橋に座っていた柊の横に、再会した日と同じ白いワンピースを着た花が腰を下ろす。毛先にウェーブのかかっている彼女の短髪が風に靡き、肩の触れ合いそうな距離感で座っている柊の体を擦り抜けていく。
「その服なんだ」
「……悪い?」
「…………悪いとは言ってないけど。僕が居なくなった後に、また飛び降りようとするんじゃないかって心配してる」
「ノーコメント」
今日は雨がひどいから、また明日。
そんな馬鹿げた別れの言葉で昨日は解散した。目を逸らし続けていた真実に、互いにかける言葉など見つからなくて、阿吽の呼吸で逃げ出した。そしてその『明日』は約束通りに訪れて、台風を連れ去っていったのだ。
裾にレースの付いたワンピースは、彼女らしくないといえばらしくない服装だ。スポーティな服を好む彼女の服のレパートリーとしては、柊の記憶にない程度。会わないうちに服の趣味趣向が変わったのかもしれない。
「……似合ってるよ」
白い肌と溶け合ってしまいそうなその服は、嫌というほど彼女に似合っていた。
柊がそう言えば、花は微かに目を見開いた後に照れ隠しのように柊を睨みつける。桟橋から放り出された足をぱたぱたと動かしながら、花は呆れたように言ってみせた。
「バーカ。会った時はそんなこと言ってくれなかったくせに」
「そんな状況じゃなかったよ」
「最期にその言葉が聞けたらあたし、きっと未練なんてなくなったのに」
「……じゃあ嘘。似合ってない」
「……サイテー」
そう吐き捨てた彼女の真意は、未だに読めなかった。
人が死んでから四十九日の間はこの世にいる、なんてことをどこかで聞いたことがあった気がしたけれど、実際に天国や地獄があるのかは置いておいて、意識はどうやらしばらく浮遊している様子だった。六月の末に病気に負けた柊は、親や親族の泣き顔をさんざん見て罪悪に駆られる日々だった。死にたくて死んだわけじゃないけれど、親より早く死ぬのは親不孝の最たるものだ。あんなに色々な人に大事にしてもらったと言うのに、柊は誰にも、誰一人の力にも、恩返しさえもできなかった。
ぼんやりとした意識の中で、地元にいる花のことを思い出した。柊がぼんやりと意識を持ったのは葬式のときのことで、そこに彼女が居ないことに落胆したのだ。
──忘れられてしまっただろうか、だなんて能天気なことを思った。
彼女は自分を忘れて幸せになってくれただろうか。あの家の環境は少しはマシになっているだろうか。友達や恋人を作って、楽しい高校生活を送ったりなんて、しているのだろうか。
恋人、と思うと、もう止まっているはずの胸が痛んだ。この世に未練たらたらだな、と自嘲しながら花のいる地元へ向かったのが、一週間前のこと。
海にある長い桟橋の端に履いていたばろぼろのサンダルを丁寧に揃えて置いて、今にも飛び降りようとしている彼女を見つけたのも、一週間前のことだった。
その瞬間の激情が何かを変えたのか、はたまた神様の気まぐれか。触れられないことなど知っていて、それでも彼女に留まってほしくて、手を伸ばした時のことだった。声の限りで彼女を呼んで、花がその声に振り向いたのは。
そこから許されたのは、限られた夜の時間のささやかな逢瀬だった。
「……僕が居なくなったら、花は?」
「さあ。知らない」
「その服着てるのが不穏すぎて嫌だよ」
「…………だって、妹だって父親から離れられる道進んだし。こんな傷だらけの体で、あたしの性格じゃ友達なんかできないし。頭だって、アンタと違って悪いし。挙句の果てにこの怪我が治ったら会いに行こう行こうと思ってるうちに、怪我が治る日なんて来ないし、アンタも死んじゃうし」
もういいよ、と体育座りをした彼女は、やけに綺麗な笑顔で言った。
「もういいよ。……最期に柊に会えたから」
「……そっか」
「死んだら天国で会えるかな」
「……地獄かもよ」
「うわ、そういう怖い想像させないでよバカ」
花はそう言ってから、するりとサンダルを脱いで自分の隣に置いた。裸足になった彼女の肌が、月光と海に照らされて蒼く染まる。
死なないで、と言えたら良かったのに。柊は自分の弱さに歯嚙みして、いつかの彼女の真似をするかのように体育座りをして膝に顔を埋めた。薄手のジーンズをすり抜ける感覚がするけれど、普通の動作に見えるようにつとめる。
彼女を止めに来たのだ。世界に絶望した彼女を止めに来た、はずなのだ。それなのに柊の喉には言葉が張り付いて出てこない。このまま彼女が苦しむくらいならいっそ、だなんて馬鹿げたことばかりが頭を過って、肝心のことが言えない。自分もあの苦しい病気から解放されて少しだけ、少しだけ安堵していると言うのに、なにもかもを失った彼女にかけられる言葉なんてひとつもないような気がしてしまう。
「……馬鹿」
「はあ? アンタにだけはバカって言われたくないんだけど。バーカ」
「…………自分にも花にも言ってるんだよ」
「言ってるじゃん」
「……なんで今更会いに来たのか、教えてあげようか」
自棄になってそう言えば、花はぴくりと肩を揺らす。
潮風が海を波立てて、ざざんと音を立てている。月光は微かに柊の体を透かし、病室で着ていたカーディガンを闇に溶かした。この街でいま、花だけが真実だった。
目を細めたのちに、小さく頷いた彼女に、柊は静かに告げる。
「……約束、果たしに来た。君のこと守るって」
「…………は、」
「守るって言ったでしょ。だからいつまでも傍にいて守るよ、花のこと。ねえ、それじゃ駄目かな」
微かに交わった視線に、花の瞳が揺れた。拳を握りしめた柊に、花はいびつに笑いかける。
「……死んだ人が何をいまさら」
「だからこそずっと傍にいられると思うんだけど」
「……嘘つき。夜明けにはいなくなっちゃうんじゃないの」
「…………今日で四十九日だからね」
そのあとどうなるのか、柊には分からない。夜明けが来て、もしかしたまた明日も当然のように意識だけが浮遊するのかもしれない。この世に残してしまった未練など星の数ほどあるから、天国になど行けないのかもしれない。それとも、ただ、消えるのかもしれない。
それでもいいから彼女を守りたい、と思ったのは嘘じゃない。
「……花が好きだよ。だからせめて、最期くらい守らせてよ。花を殺そうとする花からくらいしか、守れないけど」
彼女の決意を揺らがすことは出来るだろうか。ああでも、花はああ見えて僕の言葉には流されやすいところがあるから、あるいは。
彼女の瞳が揺れて、潤む。柊の言葉は花の心に届いてくれただろうか。細くて女の子らしい手が小さく握られて、力が籠められる。一瞬唇を固く結んだ花は、そのあとにゆっくりと言葉を紡いだ。
「……──嘘つき、薄情もの、今更だよ。あたしが本当に守ってほしいのなんてあたしからなんかじゃない」
「うん、ごめんね」
「あたしのこと置いてった癖に」
バーカ、と涙交じりの声がする。不敵に笑ったその瞳からは、ぽろぽろと生ぬるい雫が零れていった。柊が、もうなににも触れられない手でそれを拭おうとすると、彼女はだまってその頬を差し出した。
「──きっとあたし、誰かに、柊にそう言って欲しかった」
「…………意気地なしでごめんね」
「いい。あたしも、言えなくて、会いに行けなかったから」
ねえ、生きてほしい? だなんて、彼女が意地悪に笑う。からかっているような、どこか小馬鹿にしているようにさえ見えるその表情と仕草は、素直になれない彼女なりに甘えているのだと柊は知っていた。世界の誰よりも。
「生きてよ。僕の分まで」
「……──バーカ。バカな柊のために生きてあげてもいいよ」
「……そうしてよ。僕の分まで、よろしく」
「あたしがちゃんと生きて、そのあと死んだら、命まるごと押し付けた責任取ってよ」
「いいよ。なんでも言うこと聞いてあげる」
花は、柊の言葉を聞いてから、そっと立ち上がる。先ほど脱いだばかりだったサンダルをゆっくりと履いた。コツン、と靴底とコンクリートがぶつかりあって音を立てる。レースのワンピースが靡いて、彼女の涙を攫って行った。
女性らしいくびれと、病弱だった柊よりも細い手首が彼女の女性らしさを煽る。涙ながらに、強がって笑う彼女に、柊もなんとか口角をあげてみせる。
柊も、花に合わせて立ち上がる。気が付かない間に10センチほど、背丈に差が出来ていた。彼女の瞳を覗き込みながら、笑う。
花はその熟れた唇で、強がりながら言葉を吐いた。
「柊に次会うときは、もっと女らしくなろうって思ってこの服買ったんだけど。女の子から見せ場奪うなんてサイテー」
「ごめんって。すごく似合ってる、可愛いよ」
「当たり前でしょ、少しは努力したんだから」
「いつもの花だって、十分女の子らしかったよ」
震えた声で紡がれるいつも通りの強がりに、柊も昔の調子で返す。優しい風の吹き込む病室に、彼女と遊んだ公園、少しだけ一緒に居た中学の教室に通学路、すべてが走馬灯のように頭を巡っていた。もう死んでいるはずなのにな、と柊は自嘲する。
確かめるように顔を近づければ、花の顔がわずかに歪む。あふれる大粒の涙の向こう側の瞳が期待と、それからどうしようもない悲しみに揺れていた。触れられない、触れ合えない、だってふたりは世界に隔てられている。
確認するように首を傾げれば、花はきゅっと口を結んで柊を見上げた。それを合図に、重ならないはずの唇を重ねる。感覚も温度もないけれど、それはたしかな口づけだった。
桟橋は月光に包まれている。夜空に瞬く星が街を見下ろしている。
ひと夏の、幽霊と少女の出会いだった。それは幼馴染との別れで、はじまったばかりの恋の終わりだった。世界から見放されて神様に祝福されたふたりは、蒼に染まる街の中で確かに笑い合う。それは明日には消えてなくなるであろう不確かな柊という存在と、強かで脆い花の、あらたな約束。
「……幸せになって、花」
「柊が、ずっと守ってくれるんでしょ? あたしのこと不幸にしたら許さないから」
月光に照らされてそう言った花は、今までにないほど綺麗に笑った。
蒼光の街 深瀬空乃 @W-Sorano
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