04 雨模様の真実
彼女と再会してから六日目の夜は、ひどい雨模様だった。台風が突然訪れたのか、吹き荒れる風と降る大粒の雨が街を染め上げる。
きっと、今日は彼女は来ないだろう。彼女は雨が嫌いだ。濡れることも、水それ自体も。海や水を眺めることは好きだけれど、自分が触れるとなれば話は別だと、プールの時期になるたび零していた。そもそもプールに入ることのない柊と、ずる休みをした花が、見学者の集まる日陰でこっそりおしゃべりに興じていたこともあった。
だから彼女は来ないだろう。分厚い雲の向こうで陽も沈み、人々の寝静まる時刻になっても収まらない雨模様を見て、今日の約束はなしだな、と柊は判断した。
彼女が海に来ないのであれば、今晩自分がやるべきことなどほとんどない。柊は、何をするか決めかねながら、ふらりと住宅街へと入った。
懐かしい街並みがそこにはあった。柊の両親は、柊の入院先が変わったときに、見舞いに来やすいようにと大病院の傍へと引っ越した。それが原因で、外出許可が下りたときも、この街に帰ってくることはほとんどない。
昔住んでいた家と花の家が連なる道を通り抜け、花とよく遊んでいた散歩道を歩く。近道と称して金網に空いた穴を通り抜けていた場所は、とっくに補修されて頑丈な塀が出来上がっていた。
懐かしさが胸に込み上げる。きっともう帰ってこないであろうこの場所を、最後に歩けたのだから。
足が向かうままに歩けば、辿り着くのは柊が昔入院していた病院だった。住宅街の中にぽつんと聳えるその病院は、小ぢんまりとした市立病院だ。白い壁の向こう側、カーテンのひかれた部屋で、きっと柊のような人が寝ているだろう。もっとも今日は、すべてを掻き消すような雨の音が五月蠅いだろうけれど。柊の病室の西側の窓からは、門を潜って柊に会いに来る花がよく見えたな、と思った。
今より少し短かった黒髪が揺れていて、今より少し笑顔が多い彼女だった。家でぞんざいに扱われている妹を気にかけ、時間が空けば退屈している幼馴染の見舞いに来る。多少口は悪かったけれど、それも気になるほどじゃない。彼女が来てくれる時間だけが、真っ白な箱庭で日々を過ごす柊にとっての楽しみだった。
懐かしさに目を細める。閉め切られた門の向こうは、一年半前から訪ねていない。柊の第二の家といっても過言ではないような懐かしさのあるその場所に、柊は肩の力を少しだけ抜いた。
──僕がずっと守ってあげる、と花に言ったのは、いつのことだっただろうか。
この病院に入退院を繰り返している頃の柊ではない。あの頃は、自分が彼女に甘え続けていた記憶があるからだ。献身的に病室を訪ねてきてくれる彼女と話すことだけが柊に許された楽しみで、唯一許された青春でもあったから。彼女の家のことを気にかけていられる余裕など、柊にはなかった。だから、違う。そもそも、そんな風に思い返さなくたって、忘れるはずもないのだけれど。柊は、この期に及んで弱気に逃げている自分を叱咤するように、拳を強く握る。
花は、家にもろくな居場所がなく、不愛想なせいで学校の友達も多くはない。ひとりで立っていられるような顔をして寂しがりな癖に、意地っ張りで人に頼れない。ひとりで家のことも、妹のこともと抱え込む彼女を救いたくて、幼い自分が吐いた言葉だ。覚えている、確かに、鮮明に。目の前が霞むほど降る雨の隙間に当時の記憶を映し出せるほど、鮮明に。
約束をしてから、僕は彼女の支えになれていただろうか。ろくに走れもしないような、彼女より数倍弱い体で、彼女を守ることは、出来ていただろうか。そうでなくたって、この今の自分に、彼女は守れるだろうか。そう考えただけで、柊の心を弱気が覆うのだ。
──だってもう、僕は。
思考の海へと沈んでいく柊の耳に、寝静まった住宅街には似つかない、騒々しい足音が触れた。
その音につられて、我に返った柊は振り返る。星空も月も黒雲に隠れ、街灯の少ない路地は薄暗い。こんな雨の中、外に出ている人のほうが少ないと言うのに、その足音の主は傘もささずに走っている様子だった。
その黒髪をしとどに濡らして、体に張り付いた服に頓着することもなく、息を切らしてそこに立っていたのは花だった。目を見開いた柊は慌てて振り向く。
「花?」
「…………柊、居た……」
「い、るけど……どうしたの、花、今日は雨だよ」
「分かってるよそんなこと!」
降り注ぐ雨の中、怒鳴り声が響く。花の頬から滴り落ちるのが雨なのか汗なのか、涙なのかの判別さえつきやしない。
「もういなくなったかと思ったじゃん」
「……居るよ。多分」
「なんで今日海にいなかったわけ」
「花、雨嫌いでしょ。雨の日に外に飛び出したりなんてしない、そうでしょ」
「柊のためなら雨の中だって走る、覚えてないわけ!?」
やっぱり花は泣いているようだった。涙交じりの声でそう怒鳴られて、柊は肩を揺らす。その声は柊の耳に触れ、そして雨風の音に掻き消されていった。
だって、花は変わってないんじゃないの。
花に無遠慮にぶつけかけた言葉をすんでのところで飲み込んで、柊はそっと花との距離を詰めた。分かっている、成長していないなんて嘘だ。変わっていないのは柊のほうで、花はとっくに数歩先を歩き始めているはずなのだ。彼女が給食で食べられなかった野菜はとっくに食べられるようになっているし、お互いを見たって男女を感じさせない体型だった癖に、しばらく会わないうちに彼女は随分と女性になっているし、きっと精神面でだって、それなりに成長しているはずなのだ。病室でひとり閉じこもって、窓の外ばかり眺めていた柊なんかに比べれば。
彼女の頬を滑り、零れ落ちていく雫のひとつでも、この指で拭えたら。そう思って彼女の頬に添えた手は、静かに彼女の体を
その光景に、花の瞳からこぼれる涙は量を増した。雨水で冷えたはずの彼女の体で、涙を流したせいか頬だけが赤く染まっている。
──これだから、彼女に触れなかったのに。彼女も、触れようとしてこなかったのに。
分かっていた。
とっくに分かっていた。
もう自分が、彼女に触れられないことも。本当は二度と、声を交わすことすらできないはずだった、ことも。
梅雨の真っただ中のあの日あの時、自分は家族を、それから花を置いてこの世から去ったということも。
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