第六話
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香雪が目を覚ますと、まったく見知らぬ天井が見えた。
ぱちぱち、と何度も瞬きを繰り返して確かめるが、幻ではない。寝心地も良く、小屋にある寝台よりもずっとやわらかく上等なものだとわかる。
ここ、どこだろう。
起き上がって周囲を見回すが、やはり知らない場所だ。部屋の中を勝手に物色するのもどうかと思ってしまい、寝台の上でぼんやりとするしかない。
「ああ、お目覚めになられましたか」
すると一人の女性が部屋に入ってきた。
「は、はい。えっと……?」
「すぐに坊ちゃんをお呼びしますね。こちらを羽織っていてくださいな」
にこにこと嬉しそうに微笑みながら女性は香雪の肩に上衣をかけて部屋から出ていってしまう。
「……坊ちゃん?」
碧蓮城ではなさそうだとは思ったが、やはり違うらしい。
そして坊ちゃんなんて呼ばれるような男なんて、一人しか心当たりはなかった。
「よかった、気がついたんですね」
「……青雲さん、ここ、どこですか」
「うちの邸です。あ、離れなので安心してください。男性は近づかないように言い聞かせてありますから」
「いやいやいや」
香雪は首を横に振る。
「なんでわたしが冬家の邸にいるんですか。冥王は? どうなったんですか?」
「冥王は香雪さんが冥王花を捧げたあと消えていきましたよ。夜が明けて、今はまだ昼前ですね。香雪さんは気を失っていたので俺が運んできました」
「百花園に運んでくれればいいじゃないですか!?」
「いや、あちこち汚れてましたし手当もしたかったですし、そうなると着替えさせてくれる女手が必要でしたし……」
それはそうか、と納得しかけたが。
「いやいやいや」
再び香雪は首を横に振る。
「別にそのままでもいいし花梨もいるし、こんなこと噂になったら困りますよね!?」
「俺は別に困りませんけど」
どうして困るんですか?と首を傾げる青雲に、香雪もだんだん問題ないような気がしてきた。
「城や街は……?」
「大きな被害はありませんよ。邪気が濃くて少し体調を崩した人はいたみたいですが、それも今日休めば大丈夫でしょうし」
よかった、と香雪は胸を撫で下ろす。
「何か食べますか?甘い物でも用意させましょうか」
思えば昨日は午後からろくに食事をしていない。
「いえ、碧蓮城に行かないと。……わたしの服どこですか」
「洗濯中じゃないですかね」
「……なら着替えを貸してください」
着替えてすぐに碧蓮城に向かうのかと思いきや、香雪は百花園に向かった。
「何か用事でも?」
「わたしは花守として城に行くんですよ」
なぜか同行する青雲に、香雪は答える。
「それならこの衣では色がおかしいでしょう」
冬家でかりた衣は、年頃の少女らしい桃色だ。一目で名家のお嬢さんだと思われそうな質のいいものだから、このまま城へ行っても問題はない。
百花園には花梨が一人、いつもと変わらず作業している。香雪が戻ってきたことに気づくと慌てて駆け寄ってきた。
「香雪様!」
見知った顔に香雪も安堵したのも束の間。
「あああああ香雪様がついに朝帰りだなんて……! 私を置いて大人にならないでくださいいいいい!」
「……まさか第一声がそれとは思わなかったわ」
呆れ果てて香雪はため息を吐き出す。しかし花梨の甲高い声に懐かしさを感じてしまうから苦笑した。昨日も会っているのに、一週間くらい会っていなかったような気分だ。
「香雪様を冬家の邸でお預かりしてますと、夜遅くに青雲様からお聞きしておりましたので!」
「……ってことは、花梨は寝ていないんでしょう? 今日はもう作業はいいから、早く休んで」
昨夜は花梨も含め、蒼家の人々は大忙しだったはずだ。香雪はぐっすり眠ってしまったけど、花梨は徹夜のはずだ。
「はいはい、香雪様の支度を手伝ったらしっかり休みますから」
小屋に向かいながら花梨はやる気満々で笑う。
いつもなら手伝いなどいらないと断るところだが。
「……そうね、今日は手伝ってもらったほうがいいかな」
碧蓮城にやって来た花守の姿に、誰もが目を奪われた。
花色の衣に翡翠の帯。それは春の青空と芽吹いたばかりの緑を連想される色だった。
金の髪は風がときおりいたずらに揺らしては陽の光を受けてキラキラと輝いている。
長い睫毛がそっと影を作り、紅をさした唇はぞっとするほど艶やかだった。
「今日は随分と愛らしい格好だけど、どうかした?」
「……昨夜は役目の最中、挨拶もなく退出してしまいましたので」
気を失ってしまったとはいえ、役目を途中放棄したようなものだ。結局後始末をあちこちに押し付けてしまったことになる。
「役目は果たしていた。気にすることじゃない」
花守としての香雪の言葉に、珀凰も帝として答える。
役目は果たしていた。
……そうだとしても。
香雪は目を閉じ、息を吐くとその場に膝をついて頭を垂れた。
「冥王が城まで迫り、御身を危険に晒したこと、蒼燕雀の手引きによるものです。すべては春家当主、花守であるわたしの不行き届き。その処罰はどうぞわたしにお与えください」
本来、冥王の出現と同時にすぐ対処するべきだった。それが叶わなかったのは、香雪が燕雀に捕らわれていたから。
すべて香雪の油断と甘えが原因だ。
ならば、罰は受けなくてはならない。
「……なるほど、覚悟の上でやって来たってことかな」
珀凰が苦笑する。まるで香雪の一部の隙もなく着飾った姿が死装束のようにも見えた。
「確かに、ああなったのは蒼燕雀が原因だろう。主たるおまえの責任であることは言われるまでもない」
厳しい声で珀凰は告げる。
そのことに香雪はどこか安堵していた。やはり珀凰は優れた帝だと信じることができる。私情を挟まず、冷徹になれる人だ。
「陛下……!」
しかし青雲は納得できない。すべてが香雪の責任だというのはあんまりだ。
その抗議の声を珀凰が手で制する。
「だが。おまえの指示によって蓬陽の被害も城の被害も最小限に抑えられた。冥王そのものを浄化したのもおまえだ。今回の一件、一番の功労者は誰だと問われれば誰もが春香雪の名をあげるだろう」
冥王の姿を目にした者は多くないが、城で起きた事件として記録には残る。そして、事態を知る者からすれば香雪の活躍なしには解決しないことだったのは一目瞭然だ。
「よって蒼燕雀の件での処罰なしだ。本人の処遇はおまえに任せる。……褒美もなしだが、ちょうどいいだろう」
「……褒美をいただけるようなことだとは思っていませんでした」
顔を上げた香雪がきょとんとして呟く。
その顔を見て、珀凰は思わず笑ってしまった。帝の顔が消えてしまうほど。
「国の危機を退けておいて褒美も要求しない気だった? 無欲にもほどがあるよ」
「花守の務めですので」
来るべき時に備えて冥王花を育て、その時が来たら冥王に花を捧げる。それは受け継がれてきた花守の役目のひとつだ。
「……香雪の目には冥王が先帝に見えたわけだ」
冥王についての話題になると、自然と何に見えたのかと話になる。
「陛下は何に見えたんですか?」
瑞月が珀凰に問いかけた。彼女はあの時、邪気の影響を受けないように執務室に隔離されていたので冥王を見ていないのだ。
「弱点を教えるようなものじゃないかな、それ。……香雪と同じだよ」
「……意外です」
香雪は目を丸くして驚いた。
珀凰の反応からして、何かしらの嫌いなものに見えているのだろうとは思ったのだが。
「こっちも意外だよ」
まさか同じものに見えたなんて、と珀凰は笑う。
「そうですか? だって、あんな男がもしも……」
もしも、自分の父親だと言うなら。
先へ続く言葉を飲み込んで、香雪が唇を引き結ぶ。
その様子に、珀凰が目を丸くした。
「あれ? もしかして香雪もあの噂信じてるの?」
「……え?」
まさか、という響きを含んだ珀凰の発言に、香雪は戸惑った。
あの噂というのは、おそらく香雪が先帝の子どもなのではという噂のことで間違いないだろう。
「香雪の父親は先帝じゃないと思うよ。確かめようがないけど、でもあの男がもし一度でも春香蘭に手を出していたなら、後宮に入れようなんてしなかったはずだからね」
まるで自分のことであるかのように珀凰は言い切る。首を傾げる香雪に、珀凰はさらに付け加えた。
「一度手に入れたものに執着する男じゃないよ。手に入らなかったから、どんな手をつかっても手に入れようとしたんだ」
「……そういうものなんですか?」
傍にいる青雲を見上げて問う。男の人の考えることなんて、香雪にはさっぱりわからない。
「俺に聞かれても……」
しかし青雲も困った顔をするばかりだ。
珀凰があれほどはっきりと言うのなら、信じてもいいのかもしれない。真実は結局のところ、わからないままだけど。
「……それにしても、気合いを入れるためにその格好なの?」
「どこか変ですか?」
着ているものはいつもと変わらないが、花梨が気合を入れて化粧をしてくれた。髪には簪もさしている。
「いいや。でもどういう心境の変化かなと思って」
香雪が着飾ることを好まないのは、珀凰も知っている。百花園から一緒に来た青雲はずっと変な顔をしていた。
そうですね、と香雪は呟く。
「高嶺に咲いてみようと、思いまして」
「……ふぅん? でもそれは、番犬がいるときだけにしておきなさい。面倒なことになりたくないならね」
番犬? と首を傾げる香雪の隣で、青雲がなんとも言えない顔をしていた。
*
少し拍子抜けするくらいに、香雪は日常に戻った。
秋は深まり、朝晩は手足が冷たくなるほど冷え込むようになった。
「お疲れ様です」
……変わったことと言えば、非番のたびに青雲が百花園にやって来るようになったことくらいだ。
「……暇なんですか? せっかくの休みにこんなところに来て」
しかも律儀に香雪の作業を手伝って行くのだ。青雲の多忙さも多少は見直しされたらしく、目の下にクマができるようなことにはなっていない。
「休みでも少しくらい身体を動かしたほうが調子がいいので」
いつも甘味片手にやって来るので、香雪も無下にはしない。決して餌付けされているわけではないと主張しておく。
「まだあの小屋で暮らしてるんですか?」
「小屋とか言わないでくださいよ。小屋ですけど」
香雪は相変わらず百花園で生活している。
「春家の邸は住めるようにするには少し手入れが必要ですし、壁も壊されていたりしますからね。すぐには移りませんよ」
そのうち邸に移ろうとは思うのだが、そのためにはいろいろと準備がいる。邸そのものは傷んでいないが、生活に必要なものはほとんど古くなってしまっているので買い直すか修理しなければ。
「……燕雀さんは、志葵国から追放したんですね」
「それだけのことをしましたからね。あの人もそのほうが幸せでしょう」
春香蘭はもういないのだから、この国にいる意味はない。そして彼自身の国や帝に対する憎しみは薄れていない以上、このまま蓬陽に住まわせるわけにはいかなかった。
「……縁談の申し込みが増えたと聞きましたけど」
「誰からそんなこと聞いたんですか」
「陛下と花梨さんから」
軽率に言いふらしそうな二人だなと香雪は眉を寄せる。
「陛下から送られてきた釣書は相変わらず見てないらしいですね?」
「見ませんよ。陛下からおすすめだなんて言われたら怪しくて開く気にもなれません」
あの珀凰がにこにこといい笑顔で、わざわざ手渡しで寄越したのだ。どんな裏があるのかと香雪は気が気じゃなかった。
さすがに捨てるとあとが怖いので、開かずに放置している。
「見るだけ見てみたらいいじゃないですか。ほら、名家の次男で体力自慢で、少しだけ花の世話も経験あり……とか婿にするにはもってこいの人とか、いますけど」
ものすごく聞いたことのある条件に、香雪は呆れたように青雲を見上げる。
「……本人が目の前にいるじゃないですか、それ」
「……わかりました?」
「わからないはずないでしょう」
どう考えても青雲のことじゃないか。花の世話のあたりで嫌でもわかる。
青雲は照れた様子はなく、くすくすと笑う。
「これでもわたし、忙しいんですよ。やりたいこともあるし」
「やりたいことですか?」
首を傾げる青雲を手招きして、香雪は百花園の南へ移動する。
赤く色づいた葉はだいぶ落ちてしまったけれど、今もその樹は堂々としていた。
「母さんが好きだったこの花を、咲かせてみようと思って」
幹を撫でながら香雪は告げる。やりたいと思い始めてから、言葉にするのは初めてだ。
もう何十年と咲いていない樹だから、簡単なことではないだろうけど。
花守としての務めや、天花などの関係のないところで、香雪がやりたいことを見つけたのだ。
「それはいいですね」
「でしょう?」
振り返りながら笑う香雪を見て、青雲は目を細める。
金の髪がまるで光を受けて輝く。無邪気に笑うその姿は、今まさに咲いたばかりの花のように愛らしかった。
「……ああ、春が来たみたいだ」
小さく呟いた青雲に、香雪は首を傾げる。
「何か言いました?」
どうやら香雪には聞こえなかったらしい。
「いいえ、なんでもないですよ」
季節は晩秋。まもなく志葵国にも冬がやってくる。
花守幽鬼伝 青柳朔 @hajime-ao
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