第五話

 馬を前にして、香雪は立ち尽くしていた。

「……また乗るんですか?」

「急ぐでしょう?」

 急ぎますけど、と香雪は口の中でもごもごと答える。

「それに、鉢植えを抱えたままいくんでしょう? 危ないですから前に乗ってください」

「いや、さっきみたいに後ろでいいです……」

 香雪は冥王花を抱きしめながら首を横に振った。春家の邸から百花園に戻る時は後ろに乗って、青雲の背中にしがみついていたのだ。

 青雲に触ることは、もう嫌とは思わない。けれど距離が近すぎるのはどうも落ち着かないので遠慮したい。

「不安定で危ないですよ」

 こんなことで揉めている場合でないのは承知の上だが、青雲の前に乗るということは密着度が高すぎる。

「ほら、行きますよ」

「……はい」

 呆れたような青雲に促され、香雪はしぶしぶと諦めた。

 青雲の腕が香雪を包み込むように手綱を握る。

 落ち着かない。ものすごく落ち着かない。

 青雲には他意がないとわかっている。身近で感じる体温にも性的な意味などないし、まして馬の上だし、警戒しているわけでもないのだが、無性に落ち着かない。

「舌を噛まないように気をつけてくださいね」

 青雲は本当にまったく意識していないようで、そんなことを言いながら馬を走らせている。口を開くと注意が無駄になりかねないので、香雪は鉢植えを抱きしめつつ青雲の胸にしがみついてこくこくと頷いた。


 碧蓮城に近づくと、そんなことも言っていられなくなる。


「……邪気が」

 身体が重くなるほどに邪気が濃い。

 まるで城を取り囲むように渦巻いている。

「冥王の姿は……ないみたいですね」

 馬上から周囲を見回して青雲が呟く。しかし濃い邪気がまるで霧のようにあたりにたちこめていて視界が悪い。


 碧蓮城に着くと、香雪と青雲は当然のように珀凰の執務室へと駆け込んだ。事態は城にも伝わっているらしい。誰もが慌ただしく対処に追われている。

「状況は悪いほうかな?」

 あまり動じていない顔で珀凰が問いかけてくる。顔を合わせて最初の一言がそれだから、おおよそのことは把握しているらしい。

「最悪ではないですよ」

 悪いといえば悪いが、まだ打てる手はある。

 香雪がはっきりと答えると、珀凰は微笑んだ。

「ならいい。期待してるよ」

 それだけだった。

 あまりにも珀凰らしくて、香雪は思わず笑みを零す。

「冥王はどんな姿でしたか?」

 瑞月が、唯一近くで冥王を目撃した青雲に問いかける。

「姿というものではなかったですよ。邪気が身体を包み込んでいて……」

 良順に似ていましたね、と付け加えるが、それは香雪にだけわかる例えだ。

「……それは、まだ冥王になりきっていないということなのかもしれませんね」

 鬼となった良順の姿を思い出しながら、香雪が呟いた。

「なぜ?」

「『こわいおばけの王さまは、きらいなものの顔をしている』んでしょう?」

 瑞月が言っていたことだ。香雪は忘れていなかった。

「冥王が城へ向かってくるという予測はあながち間違いじゃないだろうね」

「冥王になりきっていなかった、と仮定すると途中のどこかで止まっていたのかもしれませんね」

「……完全体になるのを待っていた。あるいは侵食に耐えていた、のかもしれませんね」

 瑞月がとても慎重に言葉を選んでいるのがわかる。

 気遣わせてしまっていることに香雪は苦笑した。

「わたしに提案があります」




 冥王の狙いは帝である珀凰だろう。

 その憎しみの核となったのは、香蘭が先帝に抱いていた憎悪だ。その本人がいない今、おそらく認識は歪んで珀凰に向けられている。

 ならば珀凰に近づいてきたところを浄化すればいい。

「……陛下を囮にするなんて言い出せるのはあなたくらいだと思います」

「でも、あなたも瑞月さんも思いついていたでしょう?」

 思いついても言えませんよ、と青雲は呟く。

珀凰本人は「やっぱりそれが一番いいだろうね」と笑って囮を引き受けた。

 ここは碧蓮城にある庭園だ。

 ある程度ひらけた場所で、かつ多くの人の目にはつかないところをと珀凰が選んだ。珀凰の私室に近いこの場所は、限られた者のみが足を踏み入れることを許されている。

 庭園の近くの部屋に飾られていた天花は場所を移し、邪気が集まりやすくなっているはずだ。

 冥王に普通の天花は効果はないとはいえ、やはり邪気の濃い場所のほうに引き寄せられるだろう。

「……きた」

 泥のような邪気が近づいてくる。

 ひそり、ひそりと現れたその姿に、香雪は呼吸が止まった。

 他の人の目には、どう映っているのだろうか。それはおびただしいほどの穢れを纏い、腐臭すら漂わせ、それでも『人の形』をしていた。いいや、人にしか見えなかった。


 冥王は、香雪がこの世で最も嫌う男の姿をしていた。


「…………先帝」

 蘇ったのかと思うほど、その姿は生前のままだった。

 囮役の珀凰は不快そうに眉を寄せている。香雪の隣にいる青雲は、顔色ひとつ変えていない。

 きらいなものの顔をしている。

 なるほど、と香雪は一度目を閉じた。

これはやりにくい。醜い化け物のほうがよっぽどいい。

 おそらく見る人によって、冥王は外見が違う。その人が最も嫌うものの姿をして見えるのだ。

「香雪さん」

 だいじょうぶですか、と。

 心配そうに問いかけてくる声で、香雪は自分が震えていたことにようやく気づく。


 目に入れたくないほど嫌いだ。

 近づきたくないほど嫌いだ。

 吐き気がするほど嫌いだ。

 殺してやりたいほどに嫌いだ。


 怒りと憎悪と、そして恐怖で身体が震える。

 だって、あの男のせいで母さんは――


 冥王の手が珀凰へと伸びる。珀凰は顔を顰めながらも動かなかった。囮としての役割を放棄しなかった。

 震える手で冥王花を手折る。

 動け、と足に命じる。

 立ち止まっている場合じゃない。香雪は、花守としてここにいるのだ。

 唇を噛み締めて、震えが止まらない足に力を込める。地面を蹴って、香雪は冥王と珀凰の間に割り込んだ。

 冥王の纏う邪気は濃く、少し吸うだけで喉に張りついて不快感を与え、さらに肺を汚染していくようだった。

 噛み締めた唇から血の味がした。それが気を抜けば邪気に飲み込まれてしまいそうな香雪の意識を保たせる。

「願わくば――」

 冥王花を掲げ、香雪は口を開く。

「地の果てにありて、冥王の花実らんことを」

珀凰に向けて伸ばされていた冥王の手が、香雪のほうへと伸びてくる。

 込み上げてくる嫌悪感を噛み殺して、香雪は俯いた。手の甲を虫が這うような感触がして悲鳴をあげそうになるが、実際は香雪の身体そのものが邪気に包み込まれそうになっていた。

「――香雪さん!」

 青雲の声がとても遠くにあるようだった。

 そういえば、冥王花を捧げた時に花守はどうなるのだろう。記録には何も書いていなかった。

 俯いた香雪の視界も、黒い邪気に侵されていく。燕雀に首を絞められた時と似ていた。息がうまくできなくて苦しい。


『香雪、辛い時や苦しい時は俯いては駄目よ。そういう時は空を見なさい』


 もういいかな。

 頑張らなくてもいいかな。

 そう思って力が抜けそうになった瞬間、昔母に言われたことを思い出した。


『空を見れば、自然と顔をあげるでしょう。ほら、何が見える?』

『……今日は曇りよ母さん』

『それはつまり雲があるってことじゃない! 雲があるなら、その向こうは必ず晴れているのよ』

 それは当たり前だ、と香雪は思った。胸を張って力説するようなことじゃない。

『いい? 曇っていても雨が降っていても、いつかは晴れるの。苦しいことはね、ずっと続くわけじゃないの』

 ……そうなのかな。

 香雪はもうずっと、苦しいままの気がする。

 一人になってからずっと、頑張って、頑張って、一人でも大丈夫だと言い聞かせてきた。誰かに甘えることなんてできなくなった。

『春の花もね、冬の寒さを耐えたから綺麗に咲くのよ。厳しい環境に触れないと咲かない子もいるの』

 でも母さん、わたしの名前には花がないわ。

 香雪は、春の花じゃない。そんなあたたかな名前じゃない。そういう名前を、母さんがつけたんじゃないの。

『香雪なら絶対に素敵な花を咲かせられるわ。だってあなたは、母さんの自慢の娘ですもの』

 香雪の金の髪を撫でて微笑む香蘭は、とてもとてもやさしい顔をしていた。こういうときの香蘭の顔は、きっと志葵国の誰も知らない。香雪だけが知っている『母親の顔』だった。


 空を。

 見上げて。


 ゆるゆると顔を上げた香雪は、花びらが散りゆくように崩れていく冥王の姿の中で、やわらかな翡翠の瞳と目が合った気がした。

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