月潰夜(げっかいや) 第3話
「逃げた方がいいよ」
そう楠木ユカに言われたのは、秋くらいだった。
私は、腫れた眼球を指でもてあそんでいた。授業でとったノートがぶれて見えた。足も痺れている。それもこれも母親のせいだった。楠木ユカはだいぶ前から私が母親に殴られているのを知っていた。
前髪で腫れた顔を隠して、他の生徒と極力喋らない私に、楠木ユカはなぜか積極的に話しかけた。彼女も私と同じように、友達がいなかった。楠木ユカは、怖い話や悲惨な事件、事故が大好きな子だ。私の外見から、何か事件のにおいを感じて興味を持ったのかもしれない。
彼女は、私にさまざまな日本の凶悪事件や未解決事件を聞いてもいないのに教えてくれた。ネットや雑誌で人の不幸を調べるのが大好きで、どんな手口を使ったか、どんな死に方をしたのか詳細にわたって私に説明をした。長い話の中で、最後に「かわいそう」と付け加えてはいるものの、彼女は絶望に落ちた人間と自分とを比べて、まだ自分はましなほうだと、安心しているように思えた。
楠木ユカの話を聞いていても、私は何の興味も持たなかった。彼女の話に出てくる人物が、自分の境遇となんら変わりないからだ。むしろ自分のほうが酷いのではないか? ここ最近は、毎日のように母親に殴られている。私の家族はほかに父と弟がいるが、母は彼らには凄く優しくて私だけ被害を受ける。
こんなことをして何が楽しいのだろう?
私は母の気持ちがわからなかった。そして、そんな私に永遠と不幸な話を続ける楠木ユカも。
そんなある日、楠木ユカが面白い話を持ってきた。それが
誰も未だ見たことがない街なのに、その不気味さからマニアの間では有名となっていて、皆こぞって暗闇坂がどこにあるか探しているという。
「ここに行けば一晩で凄いお金がもらえるんだって」
ユカが、スクラップした雑誌の記事を見て楽しそうに話す。スクラップ生地は、糊でべたべたで、「売りますか?買いますか?」というキャッチコピーに、埃がついているのを私はじっと見つめていた。
「でも、そのかわりに変な客に殴られたり、身体をバラバラにされたり、殺されたりするらしいよ」
そんな馬鹿なことがあるだろうか。私は母に切られた唇を舐めた。一週間前に南国に旅行に行ったときに、父と弟の前で興奮した母に、スパッとカッターで真ん中を縦に切られた。
「凄くない?! ねえ、凄いよねこれが本当なら」
彼女は、何がそんなに面白くてわざわざ私の前でこんな話をするのだろうか。
「ミヤ、ここに逃げちゃえばいいんじゃない」
そうか。自分が行きたくないから、代わりに私をここに行かせようとしているんだ。
ミヤも母も、私を実験の道具だと思っている。そう思うと静かな怒りがこみ上げてくる。でも彼女の言うとおり、こんな世界にいるよりかは、ましかもしれない。
だから私は
母に殴られていたのと比べると、身体を売ることは別に苦痛ではなかった。
だって、ここでは殴られたり傷つけられたりしたら、ちゃんとその分お金がもらえるから。
その頃、驚くべきことがあった。
母が暗闇坂にやってきたのだ。
私がいつものようにテントの外で客の呼び込みをしていたら、ずぶ濡れになった母が歩いてきた。彼女は、私がいなくなった時と比べるとちっとも年をとっていないように感じた。
「娘を取り戻したいんです」
母は、私が娘のミヤであることに気がついていないようだ。
「娘はどこですか? ここにいるんですよね?」
私は、嘘はつかない。
「あなたの娘はこの店にいますよ」と、雨に打たれている母に告げた。
まさか母が
しかし、私は
私は母に、嘘の値段を提示した。実際の身請け値よりも何百倍も高い値段だ。母は最初驚愕していたが、割とすぐに自分の身体を売ることを決意した。
私は心が揺れていた。自分が娘だと気づいてくれるか、毎日淡い期待を抱いて母を見ていた。
母は毎晩身体を売って、とんでもない売上を稼いでくれた。私は母が消耗されていくのをいつまでも見ていたいと思った。
しかし、このままではいつか母が死んでしまう。
母が客に足首を切断されてしまった時、私は腹をくくった。
足首の無い母を車椅子に乗せ、店の女を全員廊下に並ばせて自分の娘を選ぶように言った。そこにはもちろん私も含まれていた。もし彼女が自分のしたことを覚えているはずなら・・・・・・間違えずに私を選んでくれるはずだ。
しかし、母は違う女を選んだ。私は落胆した。いや、予想通りだったのかもしれない。
母は私の顔など覚えているはずがないのだ。あんなに殴ってぼこぼこにしていたのだから、娘の顔の原型などわからないのだ。
私は、選ばれた二十歳くらいの女を呼んで、「ここから出たいなら娘のふりをしろ」と囁いた。女は暗闇坂から出られる嬉しさで感極まって、泣きながらうんうんと頷いた。
これでよかったのだと私は思った。母が自分の顔を覚えていなくとも、代わりに身請けされたあの子が幸せになれるのなら。
しかし、数ヵ月後また母は
娘が偽物だと気がついたらしい。そして、たぶんその子を殺した。母には血のにおいが染みついていたので、私はすぐにわかった。
母の「病気」は治っていなかったのだ。自分の娘に暴力を振るうために、客に暴力を振るわれてもいいと思っている。そんな彼女が、狂っているとしか思えなかった。私は、
どうしたら母が自分の行いに気がついてくれるものかと、わざと暴力的な客をあてがっていた。しかし、母は体力的に衰えていくだけで、何も中身は変わらなかった。
いや、変わろうとしなかった。
彼女は思考を停止させていたのだ。痛み全般に鈍感といったほうがいいのかもしれない。彼女はどんなに自身が破壊されても、娘を破壊しては必ず
人は変わらない。
やがて客に頭蓋骨を割られて、母は脳を私に差し出した。
身体の一部を売れば、換金出来るからだ。特に数ある内部器官でも脳の値段は桁違いに高い。ピンク色に輝く母の前頭葉を見たときに、私は何でこんな意味のないものをずっと持っているのだろうと思った。
何度も
「大丈夫なの?」
母は、激痛がするはずなのに大丈夫だと言った。
「よく考えなよ」
自分の娘がここにいるのに。
いや、無理か。
もう脳が半分ないのだから。考えることは難しいだろう。
彼女は永遠に私に気がつかないだろうか。その昔、母に裂かれた唇から、南国のにおいがする煙草をふかして私は椅子によりかかり、大きなため息をついた。
壁にたくさんの時計がかかっている。全ての時計の秒針は後ろへ進むことはない。ああ、また風鈴が鳴っている。遊郭への渡り廊下を、たるんだ皮膚の女が、ぼんやりとした目つきで進んでいくのが見える。
私は、冷蔵庫から母のピンク色の脳を取り出した。皿にもって、酸素に触れさせる。母の前頭葉はやがて色を失い、黒く変色していき、完全にその細胞の動きを止めたようだった。
私は、それが母の死なのかどうかわからなかった。
私はまだ母に期待を抱いていたのだ。脳をゴミ袋に入れて、食堂へ持って行く。肉と野菜を包む餡をかき混ぜている機械の中に、母の腐りかけの脳を放り投げた。脳は潰れて細かくなり、機械の中で
また母は、私のことや過去を思い出してくれるだろうか?
裂けた唇の割れ目を舐めながら、私はずっと風鈴の音を聞いていた。
(了)
ドグマリア 紅林みお @miokurebayashi
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