月潰夜(げっかいや) 第2話
私はミヤがいなくなった日から今までのことを鮮明に思い出していた。
南国の旅行から帰って来て、一週間後にミヤは突然いなくなった。
学校に行くのを見たのが最後。彼女は家に帰って来なかったのだ。私はミヤの大好きなハンバーグを用意して待っていたのに、夜中になっても彼女は帰ってこなかった。
私は警察に捜索願を出し、ミヤが出てくるのを待ったが、朝になっても連絡は無い。その夜も、次の日も、そのまた次の日も、ずっと連絡は無い。
家族は全員ミヤのことを心配していた。もちろん、母親の私は胸が引き裂かれそうな思いだった。大好きな娘が突然姿を消す、なんて・・・・・・
誘拐?それとも家出?
何かヒントがあるかもしれないと、ミヤの部屋を隅から隅まであさった。
すると、ミヤの勉強机の中からノートが出てきた。どうやら、そのノートは日記のようだった。日付ごとにいろんなミヤの思いが書いてあったが、特筆しておかしいところは無い。ただ、事実が淡々と書き留められているだけだ。しかし、最後の頁を見て、私は目を見張った。「暗闇坂に行きたい」と書いてあった。
暗闇坂? 一体何のことを言っているのだろう?
私は暗闇坂についてネットや雑誌で調べた。すると、不気味な風俗街であることがわかった。ミヤが仲良くしていた三組の楠木ユカを家に呼び出した。そして根掘り葉掘り、暗闇坂のことや、ミヤに一体何を吹き込んだのか問い詰めた。
すると、楠木ユカはミヤがいなくなる前に、暗闇坂のことについて彼女に話したということがわかった。それは時空の歪んだ場所。一晩で大金が手に入る場所だと。彼女はオカルト好きで有名な馬鹿女で、ミヤからたびたび話は聞いていた。前々から危険な奴だと目をつけていたが……私の娘に何てことをしてくれたのだろう。
私は暗闇坂がどこにあるのか楠木ユカに問い詰めた。さんざん詰ったあげく、楠木ユカは「だいたいの場所は予想できる」と番地をメモ帳に書いて渡した。そのメモをもとにネットで地図を調べると、隣の県の知らない町の霊園を指していた。こんなところに? 町が?
私は、身代金を要求された時のことを考えて、全財産を銀行からおろして持って行った。指定された場所に到着すると、やはりそこは墓で、何もないように思えた。楠木ユカは嘘をついたのか? 普通に考えてこんな場所に街など存在しない。もっと彼女を問い詰めればよかったが、真剣な顔をしていたし、もう喋る気力もなさそうだったので諦めた。
霊園を進んでいくと、大きな墓と墓の間に異様に黒い隙間が見えた。その隙間から、太鼓のような音がした。人の話し声も聞こえる。私が隙間に手を伸ばすと、瞬時に引き込まれた。
気がつくと私は、汚い緑のテントの前で立ちすくんでいた。頭上からはスコールのような雨が振り、辺りは異様なにおいが充満している。死んだようなボロボロの人間が、屋台と提灯の間を彷徨っている。こんなにたくさん提灯があるのに、異常なほどの闇が広がっている。
そこが暗闇坂だった。
「あんたの娘を返すことはできないよ」
傘を持っていない私に、あの日も老婆は冷たく言い放った。
緑のテントが売春小屋というのは、一発で見てわかった。その店頭で煙草をふかしている老婆が、「娘はここにいる」とはっきり私にそう言ったのだ。
「じゃあ一体どうすれば?」
「あんたが自分で娘を買えばいい」
私は家から全財産を持ってきたが、それは老婆の提示した金額に到底届かなかった。この世界は、暗闇坂の物価は異常だった。数億、何十億、兆、京、そんな単位のやりとりがなされているようだった。
一体なぜミヤはこんなところに行きたかったのだろう? 楠木ユカに騙されたのだ。来ればたくさんお金がもらえると、安易な言葉に騙されて、売られたのだ。
まだ十四歳の娘だ。世間知らずでまともな判断力や人を見る目が無い。そんな彼女を母親の私が一刻も早く取り戻さなければならない。彼女を買い取らなければならない。しかし、そのお金は………
「あんたが自分を売ればいい」
その言葉を聞いて私は吐きそうになった。
「ここでものを買うってことはそういうことだよ。何かを買うときは相当の対価と交換なんだよ」
今まで化粧も浮いた行動もせずに実直に生きてきた私にとって、それは死刑宣告と同じほどの衝撃だった。不特定多数の男と、しかもこんな汚ならしい場所で……途方のない金額を身体で稼げと?
しかし、娘を取り戻すためにはそれしかなかった。
私は誓約書に震えながらサインをした。老婆はそれを冷たく見ていただけで、何も言わなかった。
それから悪夢のような日々が始まった。
私の値段は客が決めた。
私は周りの女と比べるとひとまわりか、ふたまわりくらい年をとっていて、とても風俗で働ける年齢ではないと思っていた。しかし、需要はゼロではなかった。私は、裸の上に薄くて赤い衣装を重ね、毎晩接客を始めた。客とは意志疎通が困難だった。目も当てられないほどの特殊な性癖を持っている人もいた。
しかし、なぜ自分はこうもしてまで、出ていった娘を取り返したいのか考え直した。本当に娘は取り戻せるのか? 他にもっといい手段があるのではないか、騙されていいように利用されているだけではないか、など。
しかし、一度誓約書を書いた以上、私に逃げ道は無い。朝から晩まで暗いテントの中で「客が来た」という合図である風鈴の音を聞いた。その度に私は震え上がった。慣れない行為や予想できないことを毎晩させられた。
その度に私は風呂場で念入りに身体を洗っていたので、肌はかさかさになった。やがて風邪をひきやすくなり、熱を出しながら客を相手したこともあった。
しかし、この頃は身体に傷をつけられないだけまだよかった。ある程度時が経つと、露骨に身体を痛め付けられることが増えた。
あるときは髪や皮膚を客が持っていた大型のハサミで突然切られた。皮膚が溶ける変な液体を顔にかけられたこともある。
なぜこんなことをするんだろう?
考えたことはあるが、それは一時的な思考に留まるだけで、それ以上深い考察はしなかった。
私は、人がなぜ人に暴力を震うのか真剣に考えるのが怖かったのだ。
自分が年をとっているから、癖のある客をまわされているのかもしれないと思った。でも、最後に莫大な売上がもらえると、どうでもいいと思うようになった。
私は思考がうまく働かなくなっていた。毎日微熱が続き、やがて食べ物の味を感じなくなった。そして最後は眠れなくなった。
眠れなくなると、体力の回復が遅くなる。それでも毎日客足は衰えないので休む暇はなく、心身が消耗していくのが目に見えてわかった。
鏡の中の私の表情は日に日に曇っていった。
高熱にうなされながら、出勤したある日、客の名前を言い間違えて、怒りをかい、両足首を鉈で切断されて仕事に復帰することができなくなった。
応急処置で、血止めの小麦粉みたいな粉をつけられたが、出血は止まらなかった。
私は最後の力を振り絞って、地を這いながら、老婆に貯めた売上金と切断された足首を渡した。
いや、渡した気がする。
痛みとショックで覚えていない。だけど、要求したいことは意識が朦朧としても覚えていた。
「娘をお願いだから返してください」
老婆は、そんな私の姿を見て、少しの間考えると、受付の奥から錆びた黒い車イスを持ってきた。歩けない私を車イスにのせて、廊下まで連れていく。ガタンガタンと車椅子が震動すると、足首についた小麦粉が床に落ちた。
「おまえの娘を返してやるから選びな」
市松模様の空間に、三角座りの少女が並んでいる。数十人の少女、その顔をひとりひとりじっと見つめた。やがて、黒い縮れ毛の少女を見つけた。少女は、泣きはらした目をしていて、いつ鳴るかもわからない風鈴の音に怯えていた。ミヤだ。やっと見つけた。
私は声を振り絞って叫んだ。目には涙が溜まっていた。
「この子です!この子が私の娘です!」
老婆は、ミヤを呼び、耳元でなにかを囁いた。きっと身請けされたことを言っているのだろう。
ミヤは私を見ると、少し驚き、気まずそうな顔をしたが、やがて嬉しそうに私のほうへ走ってきた。
「お母さん!!!」
***
気がつくと私は、自宅の縁側にいた。氷のはいった麦茶を飲んでいるところだった。
切断されたはずの足首もちゃんとあったし、顔面の溶けた皮膚も綺麗に治っていた。
あれは夢?
隣には娘のミヤもいて、落花生の殻をむいていた。ミヤは「お母さん、心配かけてごめんね」と言った。その瞬間、私は暗闇坂から解放されたのだと実感する。私のもとに平穏な日々が戻ってきたのだ。
私と娘、夫の息子の四人の生活が始まった。三人は元気だったが、私は何となく体調が悪かった。常に悪寒がし、腹部に鈍痛があった。たまに吐き気もする。よろよろとして、うまく歩けない。
不審に思って病院で精密検査をすると、下半身の内臓が腫れていて破けていた。また、足首の骨にもヒビが入っていた。
暗闇坂でもらった傷は、外側は治るものの内部器官にはしっかりと残るようだった。
とはいうものの、日常生活に何の支障は無い。こんな傷、時間をかければ元通りになる。私は娘と二人きりの生活を再開するのだ。そう意気込んでいた。ミヤも楽しそうに、学校に通ったり私の手料理を食べたりしていた。年末にはまた一緒に旅行に出かけようと約束をした。
しかし、ミヤは一ヶ月後、手首を切って死んでしまった。
彼女はミヤにそっくりだったが、中身はミヤではない別人だったのだ。
彼女は暗闇坂から解放されたはいいものの、赤の他人である私に、自分が娘であると騙していることに耐えられず、罪悪感で自殺してしまったのだろう。
私は焦った。
彼女がミヤでなかったら、本当のミヤはどこにいるのだろう? まだ暗闇坂に取り残されているというのか。
「また暗闇坂に行かなければ」
焦った私は、また全財産を持って霊園へ向かった。しかし、そこは墓が並んでいるだけで暗闇坂はどこを探してもなかった。
私は楠木ユカの言葉を思い出す。街は常に変動していて、この世と別の世界の時空をさまよっているのだ。ある条件下、周期で出現することを。
だから、私は暗闇坂が現れる周期について勉強した。暗闇坂は、満月が昼の空に浮かぶ夜に現れることがわかった。そして現れる場所も、ある計算式に月の満ち欠けや湿度、温度などをあてはめることで求めることができるのだ。
本物の娘を取り戻すために、私はまた暗闇坂で貯金ゼロから働き始めた。
前回より増して、私は精力的に身体を売った。売って売って売りまくった。娘の金額は以前よりも一億円以上値上がりがっていたのだ。私はまた誓約書にサインをし、新人として働き始めた。
しかし、長く続かなかった。やはり途中で体調を崩し、それが慢性化していた時だった。ぼーっとしていたら客に鈍器で頭蓋骨を半分に割られ、脳が飛び出してしまった。
でも大丈夫だ。私は誓約書に「客に損壊された身体部分についても換金する」と付け加えておいたので、こういう時は脳を売ってしまえばいい。前回足首を売った時と同じように、身体を一部渡すと莫大な金額に換算されることを私は学んでいた。
半分の脳と、お金と引き換えに、私はミヤを取り戻してこの世に戻ることができた。
だけど、その子も残念ながら、やはりミヤではなかった。
本当に顔はそっくりなのだが、話し方やいろんなものごとに対する反応の仕方が違うのだ。ミヤはこんな声を出さなかった、こんな笑い方をしなかった。そして、こんな泣き顔もしなかった。そして、心が弱く、すぐに死んでしまうのだ。
もう私は何回暗闇坂に行ったのだろう?
私は何歳になっているのだろう?
果たしてまだそこにミヤはいるのだろうか。
暗闇坂ではこの世よりも何倍ものスピードで時が流れている。
条件が揃って、暗闇坂の現れる場所がわかると、私はいてもたってもいられなくなった。行きたくて仕方が無かった。私はミヤがいる「底辺の世界」に興味があった。
当時、私には夫と息子がいたが、誰も私の奇行に気がつくものはいなかった。暗闇坂は時が経つのが早いため、こちらで一時間経っていたとしたら、あちらでは12時間になってることもある。つまり、暗闇坂から帰ってきも、こちらでは時間が大して経過してはいないのだ。
私が最近暗闇坂に行ったのは、白昼に満月が浮かんでいるよく晴れた日のことだった。私は家族に何も言わずに家を出た。家族に何の予兆も感じさせず、普通に買物に出かけてくると行って家を出た。
新幹線で二時間、電車を乗り継いで一時間弱。暗闇坂に行くために私が持っていったものは、初めて買った化粧品の口紅と今まで貯めてきたお金、そして自分の身体。行く前に、鏡の前で、チェックをしてみた。腰回りに肉がついて若干寸胴になっているが、大丈夫だろう。
そして、都会の潰れた劇場と怪しい中華料理屋の間に、暗闇坂らしき空間を見つけた。
おなじみの顔、唇の裂けた老婆が私に話しかける。
「買うの? 売るの?」
「私は売ります」
即答したが後で後悔して言い直した。
「いいえ・・・・・・私は買います。娘を買い戻してみせます」
老婆は私の顔をいぶかしげに見る。年をとっているのもいいところだ。よたよたしていたし、内部器官もボロボロだろう。
「あんた、大丈夫なのかい?」
自分の年齢のことを心配されているのかと思った。しかし、よくよく考えるとそうではないことに気がついた。
老婆は何度も男を相手している私の身体が「大丈夫」なのかどうか、尋ねていたのだった。
まだ使えるのか、果たして自分に価値があるのか、見定めていたのだ。でも、年齢なんてこの暗闇坂ではたいしたことはない。大丈夫だ。例え病気になっていたって、娘を早く助けるために休んでいる暇など、母親の私には無いのだから。
「わたしは事故や病気、怪我があっても自己の責任で対処します」に、特に何も考えずチェックを入れた。
風鈴がなり、私は27番の整理券を持って、遊郭塔へ向かった。中に入ると蛇の入れ墨をしている男がいた。
「こんにちは」
男は、冷たく抑揚のないこれでそう言った。私は男の顔を見ると具合が悪くなった。下半身の傷がまだ治っていないのに、こんな奴の相手をして大丈夫だろうかと怖くなった。
そして、接客は想像を絶する痛みで、私の下半身は悲鳴をあげた。傷に塩を塗られている感覚だ。シーツに血までついた。こんなに痛い思いをしても、私は娘を取り返したかった。
彼女しかいないのだ。男が私の身体に癒やしを求めるように、私も癒やしが必要だったからだ。それが娘だ。
娘がどんな顔だったのか、正直覚えていない。
前回脳みそを換金してしまったので、記憶が曖昧になっている部分もあるが、私は娘の顔がぼんやりとしかわからない。ただ、だいたい検討はついている。娘の顔には傷があるはずだからだ。
目、口、鼻、手、脚、耳、腹、背中、ほぼ全てに。今日は、食堂で娘にそっくりな子を見つけた。たぶんミヤだ。だって、目が出目金みたいに腫れているし、火傷の痕もあるし、黒髪の縮れ毛だからだ。
私は数日後、ミヤと思われる娘を買い戻し、再び元の世界に戻った。ミヤは、暗闇坂を出られてうきうきしているようだった。「お母さん、大好き」と私に媚びを売る。
私は、駅前のスーパーで、合い挽肉を購入する。卵とパン粉、タマネギと一緒にこねて、ハンバーグを形成し、フライパンに油をひいて限界まで熱する。「美味しそう!」と言って私の周りを飛び回っているミヤの顔に、私はフライパンごとハンバーグをたたき付けた。ミヤは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに苦痛の表情に変わった。
「あついいいいい!!!」
挽肉にまみれたミヤを、湯気が立ち上るほど熱されたフライパンで何回も叩いた。それを、何も言わずに見ている夫と息子。これが我が家の日常だ。快感だった。ずっとこうしたかったのだ。なぜ、人が人に暴力を振るうのか、私は深く考えたことが無い。
しかし、私にとってミヤは無くてはならない存在で、こんなふうに空気を吸うみたいに殴れる相手がいないと、私は生きている心地がしないのだ。
だから、ミヤがいなくなってしまったら本当に困る。暗闇坂では辛い思いをしたけれど、ミヤを取り戻すことができて心から嬉しいと思う。またこれからミヤを死ぬまで殴れると思うと、私の心は安堵に包まれた。
(続く)
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