月潰夜(げっかいや) 第1話
私はとにかく自分の身体を売りたくて仕方無かった。
裕福な生活をしていたにも関わらず。家族がいて、友達もいて、学校にも普通に行けたし、私の人生はいたって順調。何不自由なく健康に育ち、今まで生きてきた。
だけど明らかに欠けているものがあった。
だから、荷物をまとめて家を出た。家族には相談しなかったし、予兆も感じさせなかったと思う。
白い満月が空に浮かんでいる奇妙な朝だった。
決断という感じはしない。サナギから孵化した蝶が自然と羽ばたいていくように、私は当たり前とそこへ向かっていた。
「
それは、どこの市にも区にも町にも属していない狭間に存在している。ある条件が揃うとふいに現れる街。そこは、一言でいうと風俗街だ。
ネットや雑誌の情報をあさり、噂や都市伝説に敏感な三組の楠木ユカを通じて、
そこで身体を売った女性は、通常では考えられないほどの大金を手にすることができるらしい。
「怖い」「こんなところに住んでる人って底辺」と、世間の人は言うが、私はその底辺にとてつもなく興味があった。
私は鏡の前で自分の裸を確認する。少しずん胴だが、通用するだろう。
新幹線で二時間、電車を乗り継いで一時間弱。
迷路のような都会の電車を攻略し、私はいくつもの改札をくぐり抜け、階段を上りた。地上に出たり地下に入ったりした。
やがて、ある街にたどり着いた。
そこはとても汚い街で、ゴミ箱があるのになぜか道路に空き缶や煙草の吸殻が棄てられているような場所だった。
楠木ユカの情報を元に、自力で算出した
現在、15時32分。
本当にこの隙間に
意を決して、身体の厚さにぴったりの隙間に入ってみる。闇が濃くなるほどに音は大きくなり、やがて赤い小さな光の粒が見えてきた。光の粒は広がっていき、その中に私は人影を見た。やがてその周りに屋台と提灯が見えてきた。先ほどまで夕方だったはずの空は、すっかり暗くなっていた。
不気味な光景に、目を凝らしていると、ふいに頬に冷たい感触を覚えた。
雨が降り始めたのだ。
しまった、傘を持ってくるのを忘れた。周りの人々は皆傘を持っている。私は仕方なく、近くにあった緑色のテントの中に入った。
雨は止む気配がなく、むしろその勢いを強めているようだった。
「買うの、売るの」
ふいに後ろで、しわがれた声がした。
赤い提灯の下、白髪の老婆が私を見つめていた。唇の真ん中が半分に裂けている。私はその口元を見て、ごくりと唾をのんだ。
老婆の後ろからは、若い女性の甲高い笑い声が聞こえた。緑のテントは、女性の裸のマネキンが何体も無造作に飾られている。
その妖艶な雰囲気から風俗店であることがわかる。
「売ります」
私は即答した。
老婆は、雨漏りがするテントの中で、煙草ポケットから取り出して火をつけ、煙を燻らせた。
老婆の煙草は、私が昔家族旅行で行った、南国の空港みたいな香りがした。あの時は楽しかったな。木漏れ日のように大切な家族との思い出が蘇ってくる。
しかし、ずっと嗅いでいると排気ガスみたいなにおいに変わった。私の脳裏に「あの日」の記憶が蘇り、頭痛がしてくる。
今自分が何をしようとしているのか?
考えるだけで恐ろしい。光から闇へと転落していく恐怖。それが繰り返される日々が始まるというのか。
店の外の埃だらけのマネキンは、雨に撃たれて黒い涙を流している。
この気持ちは何だろう。今までコツコツと並べて来たドミノを一気に倒してしまうような感覚だ。
「あんた、大丈夫なのかい?」
私はドキッとした。
老婆は私の年齢を見透かしているようだった。確かに私は風俗で働けるような年ではない。でも、大丈夫だ。やる気と勇気さえあればなんとでもなる。
老婆は、私をテントの中に招き入れた。
店内は、薄暗く空気がどんよりとしていて、かび臭い。天井には、煙草の煙が充満し、埃が渦を巻いていた。
入口から奥に入ると、白と黒の市松模様タイルの長い廊下が続いている。廊下の先は闇で見えない。
その廊下に、赤い衣装を着た二十歳前後くらいの女性がずらりと一列に並んでいた。皆、地べたに三角座りをしている。
恐ろしいほど冷房が効いているため、皆鳥肌をたてている。私は、一人一人の顔をじっくりと見つめた。
全員がじっと私を黙って見つめ返した。
私は、小部屋へ案内された。そこは、壁一面に時計がかけてある奇妙な空間だった。もう何人が座ってそこで説明を受けたかわからないほど、小部屋の椅子の座面は擦りきれていた。私はその椅子に座り、老婆から身体を売るにあたっての説明を受けた。
私は老婆から一つ黒い腕時計を渡された。時計の秒針が通常の倍のスピードで進んでいる。
現在、22時42分。
あのゴミだらけの街に来た時は、確かまだ15時だったはずだ。
老婆は、なぜ私がここに来たのか聞くことはなかった。ただ、慣れた口調で、淡々と店のルールを説明するだけだ。
やがて私の目の前に一枚の紙がペンとともに差し出された。
「誓約書」と書いてある。
何かの呪文を読んでいるような気分だった。いろんなことが書いてあったが。私は全てにチェックを入れ、あっという間に最後の項目、「わたしは事故や病気、怪我があっても自己の責任で対処します」にチェックをつけ終えた。
一番初めのお客さんは誰なんだろう?
そう考えながら、私は誓約書にサインしようとすると、老婆がボソッと呟いた。
「よく考えなよ」
今まで淡々と説明してきたくせに、何を今更・・・・・・私は、署名欄に自分の名前を書き終えて、老婆に誓約書を渡した。
「風鈴がなるまでに化粧、ちゃんとしなさいね」
そう言うと、老婆は部屋から出ていった。
私は、ファンデーションやアイシャドウ、マスカラなど、化粧をしたことがなかった。
だけど、今日は気合いをいれて初めて口紅を塗ってみたのだ。
他の女性と同じように、裸になって、赤い衣装を身に纏う。自分の身体を守っていた衣服がはがされると、私はとたんに心細くなった。
冷房が効いた廊下で、自分の名前が呼ばれるのをじっと待った。
周りにいる女性は、強ばった表情をしている者もいれば、
そんな女性たちを見て、私の拍動は徐々に速くなっていった。僅かだが、不安という名の恐怖が芽生え始める。
でも、もう誓約書も書いてしまったし、ここで身体を売らないという選択肢は無い。
やがて風鈴が鳴った。私は身体を震わせた。
この音を聞いたら、お客さんが来たということだ。立ち上がると受付に向かい、番号札をもらう。私の番号は27だ。
受付の先にあるわたり廊下を通り、テントを抜けて、部屋が集合しているプレハブ小屋へ向かう。
プレハブ小屋の中は、全面ピンクの塗装が施されている。壁や屋根が薄いため、トタン屋根を叩く雨粒の音が止むことがなかった。
全部で13個部屋があり、9つ目の部屋の表札部分に私の整理番号「27」が記載してあった。
この部屋だ。
老婆に言われたとおり、3回ノックをすると、「どうぞ」と、中から低い返事が聞こえた。私は時計を見た。
現在4時24分。
この客は12時間の接客を希望してきた。
ここを出られるのは何時になるのだろう?そして、扉の向こうには誰がいるのだろう?
誓約書の、「わたしはお客様が誰でもお断りしません」という項目をふと思い出した。
私は深呼吸をして中に入った。
意を決して部屋の中に入ると、大きな赤いベッドの上に蛇がいた。
いや、蛇だと「思った」。それは、全身に刺青を施した人間の男だ。
「こんばんは」
蛇男は、抑揚の無い声で私に挨拶した。蛇男の爪先から後退した髪の生え際、顔面の皮膚にまで何百匹の蛇がびっしりと彫られていた。
あまりの男の異様さに、私は逃げたくなった。
「今、逃げたいと思った?」
私は、蛇男の機嫌を損ねないように夢中で首を左右にふった。
男は、白い部分が目立つ眼球で、私を値踏みするようにじっと見つめた。
下半身に悪寒が走った。
「俺がなんでこんなに蛇を彫ってるか想像できる?」
私はまた首を振った。しかし、男は私を無視して続けた。
「俺を見て怖がる反応が楽しいから」
こいつ狂ってる。そう思ったのと同時に蛇男は私に急激に接近してきた 。
私の胸に触れた。「小さいな」と男が呟いた。男のザラザラした手の感触が皮膚から伝わってくる。それは、彼が手のひらにも蛇を彫っていたからだろう。無数の蛇が乳房の上をかけまわった。
「赤い蛇が好き? 青い蛇が好き? それとも白い蛇が好き?」
それは私への問いかけではなく、限りなく男の独り言に近かった。
私は深呼吸をした。もうすぐくる。痛いかな? 痛いかな?
男は私を包むように覆い被さってきた。そのとき何かを耳で呟いた。それは日本語ではなくて、どこか知らない外国の言葉に聞こえた。今考えると私の想像できない卑猥な言葉を言っていたのかもしれないが定かではない。
男の生暖かい吐息が顔にかかった。何か科学薬品みたいな臭いがする。洗剤と洗剤を混ぜたような不快な臭いだ。私は吐息だけで、男が普通の人間ではないと判断できると思った。
ぞわぞわと這い上がる嫌悪感から逃れることもできず、やがて鋭い痛みが下半身をかけめぐった。ささくれを一気に剥がした時のような痛みだった。想像していたよりも凄い。これは衝撃の痛さだ。
蛇男はそんな私の心情などカケラも考慮せず、さらに行為を続けた。かさぶたが剥がれていって、治りかけた傷を抉られている気がする。本当に痛い。これが痛みでなかったら一体何だというのだろう?
こんな行為を快感という人の気持ちがわからなかった。全く気持ちよくない。一刻も早く終わってほしい。
私は心のそこからそう願った。蛇男の行為を早く止めさせるために、わざと背中に手をまわして 抱き締めてみた。背中の刺青のぼこぼことした感覚。
私は蛇男の背中に蛇が何匹いるか数えてみた。蛇が1匹、蛇が2匹、蛇が3匹………こうしていれば、少しは痛みに気をとられなくていいのではないかと思ったからだ。
何十匹目かくらいで、蛇男はやっと果てた。
私が呆然とベッドで横たわっていると、蛇男がシーツを見てボソッと呟いた。
「血」
くらくらした頭をあげてみると、確かに私の股間から血が出て、シーツにこびりついていた。充血してヒリヒリするし、内臓が破られたような鈍痛がしている。
恐怖で硬直している私を、蛇男は何もしないでじっと見ているだけだった。私はシーツの上の血と、自分の皮膚についた血をふいた。彼の顔上の蛇がぐにゃぐにゃと動いている。男は、満面の笑みを浮かべていたのだ。
結局その日、私は何回も身体をこねくりまわされた。
蛇男が帰った後、風呂場でやつの体液を念入りに洗い流した。石鹸で何度も何度も、触られた箇所を洗う。爛れた性器を洗うと石鹸がしみて、あまりの痛さに声をあげそうになった。
その後、換金所で客が支払ったお金をもらいに行った。それが百パーセント私の取り分になるのだ。腐っている床上にある精算機は、錆びて傾いていた。自分の整理番号を打ち込むと、ひび割れたメーターに金額が提示された。
カタカタと機械が計算して、最終的にはじき出した金額に、私は息をのんだ。
「金五百万円」
機械が桁を間違えているのではないかと思ったが。
たった一晩でこんなに……?
機械から、バサっと封筒が落ちてきた。自動販売機のように、下の受け口にお金が落ちてくるのだ。ずっしりと重みのある封筒を握りしめ、中身を確認した。確かに五百万円入っている。私は絶望から天国へ上り詰めていた。これが
仕事が終わった後、時計を見ると13時7分だった。思ったより早く終わった。疲労した身体をひきずり、食堂へ向かった。薄汚れた緑色のタイルの上に、黒い机と黒い椅子が並んでいて、隙間に赤い衣装の女達がぴったりとはまるように着席している。何個も換気扇がついていて、ゴオオっと音を立てていた。誰も話さないで、黙々と食事をしている。
茶碗に肉と野菜と何か煮こごりみたいなものをのせてもの凄いスピードでかきこんでいた。肉も野菜も、酸っぱくてすえたにおいがする。それを白い煮こごりみたいなもので隠して誤魔化しているような、見たことのない料理だった。
一体この肉はなんだろう?と思いながら、私も彼女たちの真似をして、いっきにかきこんでみる。あまりの不味さに舌が痺れた。
縮れ毛の黒髪をした少女が私をじっと見つめている。他の風俗嬢と話してはいけないルールがあるので話しかけることはできないが、彼女を見ていると自分の拍動が速くなるのがわかった。
縮れ毛の女は、背中に火傷のあとがあり、目が出目金みたいに大きく腫れている。その上に塗ってある大量の軟膏のせいで、前髪がべたついて不潔に見える。彼女に笑顔はなく、口角が垂れ下がって、表情は死んでいた。
ここで働いていたら、彼女のように身体に傷があっても別に不思議ではなかった。客に身体を痛め付けられて遊ばれる子はたくさんいるし、そういうことが赦されるのが
彼女は一体一晩でいくらもらっているのだろう? 一体客にどんなことをされているのだろう? 私は気になってしかたがなかったが、とりあえず食堂を後にした。また次の客の相手をするために。
来る日も来る日も、私は身体を売った。もうこうなると、流れ作業だ。幸い、私はすぐに指名が入った。私のことを覚えている客がリピートをするのだ。特に蛇の男は何回も来た。何回も私を買い、何回も消費した。
体力も気力も限界に達していた。
風鈴の音が、常に聞こえている気がする。廊下で眠っている間も夢の中で風鈴の音が聞こえるようになった。これが夢ならどんなにいいことか。
下半身からの血は止まらなかった。内臓が腫れ上がっているため、腹部が盛り上がっている。このままだといつか子宮や腟が飛び出てしまうかもしれない。
だけど、私は自分を消費することを止める訳にはいかなかった。ここで止めてしまったら、今までの努力が無駄になってしまう。
何日かして、私の売上は、宝くじほどの金額に達した。
私は、あることを提案するために老婆のもとへ向かった。
老婆は、煙草を咥えて新聞を読んでいた。私は今まで貯めてきたお金を、机上に全て出して提示した。
しかし、「これじゃ足りないよ」と老婆はお金の束を突き返した。
私は
「じゃあ、いつまで? 一体幾ら払えばいいっていうの?」
「しつこいな。口応えするんじゃない」
「これだけ貯めたんだからもういいでしょ」
「たったこれだけじゃないか」
老婆は、机上に置かれた札束の山を振りはらった。ドサドサと札束が床に落ちた。私が命懸けで稼いだお金だったが、汚い床に落ちてしまうと、それはただの紙屑に見えた。
「あんたは、人の値段をわかってないよ」
人の値段ですって?
私は奥歯をギリギリさせた。
初めての日は五百万で売れたが、日によって私の価格はバラバラだった。一万円の日もあれば、十円だった日もあった。一千万の日もあった。値段なんて、あって無いようなものなのだ。
滅茶苦茶にもほどがある。
客のものさしで、値段が決められるシステムになっているこの世界で、よくも「人の値段」なんて軽々しいことを言えるなあと思う。
「……を返してよ」
私は涙を堪えて老婆に訴えた。
「は? なんだって?」
老婆は耳が遠いのか、わざとなのか、聞き返した。
「娘だよ! ここにいる私の娘をさっさと返せって言ってるんだよ!!!」
私は怒りで唇を噛みすぎて血が出ていた。
「娘、ねえ?」
老婆は興味の無さそうな目をして、再び煙草に火をつけた。家族旅行で行った南国の空港のにおいが、私の鼻腔をつく。
旅行に行ったあの日、娘のミヤはまだ元気だった。
私はミヤがいなくなった日から今までのことを鮮明に思い出していた。
(つづく)
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