遍く遍く
古代インドハリネズミ
忘却への罰
地球人類が宇宙へと進出し始めて500年。
未だ解明されていない物質、VISNU。それは400年ほど前に発見された。
VISNUの力は凄まじく、燃料として活用すれば少量でロケットを宇宙空間まで飛び出させるほどだ。
VISNUの最大の利点は、どんな物質からも採取できることである。それは遍くすべて――万物に宿る。
宇宙飛行士を目指す少年、ジシュナ・弓塚はマハーバード大学に飛び級で進学していた。
いまは、VISNUの原理を解明する研究室にゼミ生として参加している。ジシュナの発想は独創的で、教授を唸らせるものも多い。
ジシュナはゼミの後、酒の飲めぬ飲み会に参加してからの帰りだった。
齢15になり、女性にも興味が出てきたのだが年上の女性たちからは子ども扱い、相手にされないジシュナである。
不貞腐れ、ジシュナはその憤りを研究へとぶつける。研究室には真夜中まで教授がいるので今からでも行けば研究室に入れてくれるだろう。
「教授……教授、いませんか?」
ジシュナは研究室の扉をノックするが、返事がない。
ドアノブを回すと、ドアは開いていた。教授はいない。しかし、電気はついたままだ。
少し散らかっている研究室。本が開いた状態のまま地面に伏せてあった。
貴重な本はそれだけで財産である。電子書籍がハッキングやクラッキングなどでデータが損失される事態を警戒し、紙の本はこの時代まで生き残った。
しかし、需要が低下したため本の価格は高騰した。教授は貴重な本をぞんざいに扱うことはしない。
「これは……『VISNUと偉大なる神』?」
ハードカバーの薄汚れた本は、数多あるVISNU研究の書籍だった。しかし、ジシュナはそれを研究書とは認めない。
神秘主義的で宗教の教義のようなものが並んだその本はなぜか神とやらの名称が使われなくなった古代語で書かれているし、作者自身、その古代語を理解しているのか怪しい。
南アジアにあった国の古代語だが、失伝して久しいその言語を正しく扱える者は研究者の間にも存在しない。
「教授がこんな眉唾本を読むなんて」
ジシュナは眉をひそめて本を閉じた。
教授は、ジシュナにとって絶対の存在だ。些か自信のあった知性も、教授と出会ったことで井の中の蛙だったと知った。
意見を交わす度にジシュナは自分の中の考えが深まる感覚がして、それを快感だと思っていた。
ジシュナは閉じた本を、少し放り投げるように机に置いた。
その時、本の隙間から栞が落ちる。ジシュナは思わずそれを拾い上げると、それが栞ではないことに気づいた。
「なんだこの栞は……19200426?」
栞だと思った紙には、不可解な数字が殴り書かれていた。
ジシュナの明晰な頭脳は、それを見た瞬間に8桁の数字と教授の金庫を結びつけた。
教授はその金庫に最新の研究成果や癖で書いているメモ日記のようなものを大切に保管している。今時、ダイヤル式だ。
いけないことだとはわかっていても、ジシュナは知的好奇心が強い少年だ。
崇拝する教授を尊敬する気持ちと、だからこそその考えを覗いてみたいという気持ちがせめぎ合う。
「金庫のパスワード……倫理的にダメなことだとはわかっていても、真理への探究を阻むこともまた……」
教授には更に斬新で深みのある考えを提供することで許してもらおうと、自分を納得させてジシュナは金庫に手をかける。
「1920……0426。あった、論文と……日記だ」
金庫が開く。
金庫には書きかけの論文とメモを兼ねた日記が三冊置かれていた。
ジシュナは夢中で論文を読みふける。VISNUへの新たな知見、これまでと異なる角度からの探究、そのすべてが新鮮でジシュナは目を輝かせて論文を読んだ。
ついに、VISNUの正体へと手をかけようとしたところで、論文は途切れていた。
「この論文は面白い。教授はやはり、天才だ」
ジシュナは論文を金庫に戻す。
そして、日記へと目を向ける。
「……ここまでやったんだ。日記に目を通さなかったからといって僕の罪が消えるわけではない」
自らに言い訳をしながら、ジシュナは日記に手をかける。
日記には、教授にしては意外なことに研究以外のことも詳細に書かれており、プライバシーの塊であった。
娘のこと、自分自身の趣味のこと、嫌いな共同研究の相手。
教授の喜怒哀楽がわかるような、感情のこもった日記だった。
ジシュナにとっては教授がこんな感情に溢れた文章を書くことは意外だったし、趣味でラクロスをやっていることや娘がいたことも初めて知った。
「教授、娘さんがいたのか」
教授に心酔するジシュナは、自分もスポーツでもやってみるかなと思いながらも聞いたことのない娘の話に困惑した。
ところで、この日記には日付がない。おそらく時系列順には書かれているのだろうが、いつ頃書かれたのかは書いた本人にしかわからない。
やがて、ページが三分の一ほどいったところである記述を見つける。
『あの子が死んだ』
ジシュナは思わず目を伏せた。あの子とは、教授の娘のことである。
これ以上この日記を読むことは教授を侮辱することに繋がると思ったが、ジシュナは続きの記述に目を惹かれてしまう。
娘の死を記した次のページから、VISNU研究についての記述がページいっぱいに書き記されていたのだ。
そう言えば、教授の古い論文には論理に難のある点や研究対象への洞察に乏しい部分が見られた。
そして、ある時を境に教授は緻密な論理と正確な実証研究を展開するようになる。
この日記の記述は、そのスタイルに変わってから初めて出した論文に書かれていた内容が記されている。
「この日記は一財産だ……」
論文には書かれないトライ&エラー、思考の試行が記されている。
これを読めば、教授がどのようにしてあの研究結果を記すに至ったかが手に取るようにわかる。
人が他者に見せるのは、その一部分である。ジシュナは教授という人間のすべてを知りたいという欲を持っていた。
そのジシュナにとって、この日記は彼の倫理観を著しく後退させる魅力を有している。
「続き……日記の続きを」
ジシュナは夢中になって日記をめくる。
やがて、研究に関することだけを書いていた教授の記述に変化が訪れる。
『求めていたものが見つかった』
膨大な数式の後に、書き殴るように記されていた。
その後は教授の感情がまた爆発する。喜びを露にするように、『やった! やったぞ!』といった言葉が並ぶ。
「何を見つけたんだ、教授は……」
しばらく喜びの言葉は続き、再び数式の羅列が並ぶ。
この数式はジシュナも見覚えがあった。
「これは……教授の論文が『VISNU』で大々的に取り上げられた数式だ」
VISNU研究が肥大化したため、VISNUに関する研究だけを掲載するジャーナル誌が現れた。それこそが『VISNU』である。
この権威のあるジャーナル誌に掲載されることは名誉なことであり、そこで大々的に取り上げられたとすればそれはその人物の力量を示すこととなる。
しかし、この日記の記述は妙だった。
トライ&エラーの末に導き出した数式ではない。始めからこの数式があること、その証明の仕方がわかっていたような書き方だ。
数式を先に書き、その後に証明を多少の試行錯誤を加えながら書き上げる。証明の結果、数式を書き直すということもない。
「あり得ない書き方だ。教授は始めからこの数式が成り立つことを知っていた? 誰かから聞いたのか?」
教授を疑いたくはないが、ジシュナの頭には陰で教授に知恵を授けている者の存在が過っていた。
日記を読み進めていくと、再び奇妙な記述が現れる。
『舌に在るVISNUに感謝を』
舌に在るとは、なんだろうか。
ジシュナにはさっぱりわからず、そのまま一冊目の日記が終わってしまう。
不穏な気配を感じつつも、ジシュナは二冊目の日記を手に取る。
『霊魂と物質 VISNUとは霊魂にあるのですか VISNUよ」
まるで、『VISNUと偉大なる神』にあるかのような記述を見つけてしまったことに、ジシュナは落胆を隠せなかった。
その落胆も、次の瞬間には不可解な表現への疑問に塗り替えられる。
『なるほど そのような構成因がすべてを形作っているのですね』
何かと会話するような書き方である。
このようなことは、一冊目には見られなかった。
書き方も丁寧な話し言葉。目上の者に、恐る恐る話しかけるような語り口だ。
「教授はいったい何を書いているんだ? それに、この余白はいったい……」
教授の二冊目の日記には、不自然な余白があった。余白のあとで教授の記述が続くのだ。
余白の大きさは様々であり、そこに記されていた何かを消したかのような印象を受ける。
しかし、消し跡などはない真っ新な余白である。
『ところで――よ』
何かが書いてあったのか。
不自然な余白がついに文中にも出てきたのである。
『申し訳ありません 私が消して』
『それには及ばない? ありがとうございます』
唐突に書かれた教授の謝罪の文字は震えていた。
何か強大なものに脅されて書いたような、そんな印象を受ける文章である。
そして、教授は震えながらも何かへの嘆願を書き記している。
『畏れながら このような失態の後に恐縮にあるのですが』
『私の娘に どうか一目合わせていただきたく』
私の娘。つまり、教授の亡くなった娘である。
「死者に会う……」
死者へのコンタクトは、人類の夢でもある。
年を取るにつれて、もう一度会いたいと願う人間は必ず出てくる。その程度に差があるとはいえ。
そして、死んだ人間にどうしても会いたいと願う人間も必ず存在する。
「教授、悩んでいたのかな」
宗教観が大きく衰退した現代において、死後の世界はほぼ信じられなくなった。
死者への供養も大切な人を失くした人間へのメンタルヘルスとしか捉えられていない。
しかし、典型的現代人でありオカルトや神秘主義的な傾向を毛嫌いするジシュナにもの人情というものがある。
娘にもう一目会いたいという教授の考えを否定する気にはなれなかった。
そして、驚愕の記述が続く。
『本当ですか! ありがとうございます!』
『ええ! 文字だけでも 文字だけでも』
『ありがとう ありがとうございます』
ジシュナは気の毒になり、目を逸らした。
精神を病んでしまっている。教授は、娘の死をきっかけに研究にのめり込み、それでもなお乗り切ることができなかったのだ。
そのようにジシュナは解釈した。
続く記述も、ジシュナの考えを補強した。
『おお スジャータ スジャータよ!』
『お前の字を見間違えるはずがない お前の残していったノートや日記を私は何度も読み返していたのだから』
『元気 と言うのはおかしいか 私のことを覚えているだろうか?』
『あまり構ってやれなかった 研究ばかりの私に呆れてはいなかったか?』
スジャータとは、教授の娘のことか。
ジシュナはこれ以上、教授の気の毒な様を見ることがつらかった。
しかし、崇拝する人が立ち直るきっかけがあるのではないかという思いから読み進める。
教授の記述の後は、大きな余白が続いた。
そして、気づけばそのページは一度濡れたような跡が残っていた。
『すまない すまない 私にはそのような言葉はもったいない』
『生まれてきてくれてありがとう 私はお前の言葉が聞けて 読むことができて幸せだ』
『ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう ありが』
狂ったように『ありがとう』の記述が続く。
ジシュナは気味が悪くなって、日記を落としそうになる。
「教授には……メンタルヘルスが必要だ。少し休んでいただかなくては」
ジシュナは頭痛がして、眉根を揉んだ。
精神科医の参考資料とするためにも、日記を読み進めなくてはならない。
ジシュナは何かと理由をつけて日記を読み続けようとした。そこに、彼らしくない論理的な無理があろうとも。
次の記述では、教授の文章が落ち着いていた。ジシュナは少しホッとしたが、独り言のような書き方には変わりない。
『ありがとうございました 星の記憶 貴方様に記録されていた魂だったとしても私は幸せです』
余白が入る。
『私にやってもらいたいことがあると? 何なりとお申しつけくださいませ』
またも余白。
そして、一言だけ教授の言葉が残されてそのページは終わる。まだ半分も書いてないというのに。
『なるほど それを行えばよいのですね わかりました』
その後も余白となるが、ここでジシュナは違和感を覚える。
今までの余白は、そこに何か書いてあったかのようで消し跡の無い不思議な余白だった。
しかし、この教授の記述の後にある余白には何も感じない。
「次のページは……普通の日記か。ふむ、これは二年前の出来事だな」
学会での内容のようだ。
日付もきちんと書いてあって、普通の内容だ。教授もこの頃には落ち着いたのかとジシュナは安心した。
「そしてその次は、一年と九ヶ月前……三ヶ月も日記を書かないでいたのか」
ジシュナはそう言うが、教授の不可解な独り言と普通の日記にも相当な時間差があったようで書くボールペンの質が変わっている。
そして、次もまた三ヶ月の月日を置いていた。
『ついに彼が来た。彼は飛び級してきた少年で、少々生意気であったが私の弁舌の前に屈した』
ジシュナは自らの顔が熱くなるのを感じた。
この少年とはジシュナのことだろう。ちょうど彼が研究室にやってきた時期と重なる。
ジシュナは自らを天才だと思っていたため、最初は教授にすら食ってかかっていた。
その度にコテンパンにやられ、それを繰り返すうちに教授という人間を尊敬するようになったのだ。
今度は、教授は日記を数日おきに書くようになっていた。
『彼はまた懲りずに私に弁論を挑みに来た。片腹痛い』
『このような生意気な少年のことだ。あのようなことをするという話も納得がいく』
などの記述が続いた。
ジシュナは耳を真っ赤にしながら、あの頃の自分を張り倒してやりたくなった。
しかし、徐々に様子が異なる。自分が丸くなり、教授を尊敬するようになってからだ。
『最近の彼は、初対面の時と随分印象が変わってしまった』
『本当にそんなことが起こるのだろうか』
『私について回る彼は、まるで息子のようで微笑ましい』
教授の言葉に、ジシュナは感動した。
尊敬する教授に、息子のようだと言われて嬉しくないはずがない。
ジシュナ自身も彼のような父が欲しいと思っていたほどだ。
『だが、このままではまずい』
『このままではいけない』
『決定事項なのだ、すべて』
一年前を超えたあたりから、教授の記述に焦りが見え始める。
『私の権力で彼を遠ざけることは無駄だろう。なぜなら、権力など意味をなさない方が決めたことなのだから』
『私はあの方に大恩があり、すべての人類はあの方に大恩がある』
『腹を決めよう』
そのような記述の後、またも普通の日記に戻る。
ジシュナはその情緒不安定な様子を不審に思ったが、日記が平常に戻ったことに安堵しつつ読み進める。
何も変わったところはなかった。
そして、一週間前の日記にたどり着く。二冊目の日記も残りわずかだ。
『約束の日まで残り一週間となる。私はおそらく、三日前から書き残さなければならないだろう』
五日前の日記。
『あと少しだ。私も娘のいるところに帰れる』
ジシュナは、雷に打たれたような気分になった。
「教授は……死ぬつもりか!?」
ジシュナは腕につけた時計型PCを起動してメールを送ろうとするが、なぜか電波が繋がらなかった。
こうしてはいられない。ジシュナは慌てて研究室を飛び出そうとする。
「急がなくては……なっ!? 開かない!?」
研究室の扉は開かなかった。出るときは内鍵を開けるだけなのに、その内鍵が回らない。
管理室への連絡を入れるも、繋がらない。
扉をドンドンと叩くも、誰も助けにこない。
ジシュナは閉塞感に、頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。多大なストレスが脳にかかっている。
「何か、無いのか」
周囲を見回すと、先ほど投げだした日記に目が向いた。
なぜか日記は不自然な形で開き、四日前を指していた。
『少々早いのですが 書き始めたいと思います』
ジシュナは遺書かと思い、次のページをめくる。
自殺するとしても、そこに居場所のヒントが隠されているかもしれない。
三日前。
『今日は彼が論文を提出した。内容は――』
またも、突然通常の日記に戻った。
二日前も、先日も起こった内容がそのまま記述されている。
しかし、少し妙なことがある。
これは日記である。必ず教授本人の主観や感想が記されていた。
この三日前の記述からは、起きた出来事が記されているだけでまるで
そして、本日。
ジシュナは今日、教授と一日の行動のほとんどを共にした。
別れたのは飲み会に行く際、教授が研究の続きをしたいということで行動を別にしたのだ。
『――飲み会に参加。終了後、研究室へ向かう』
しかし、そこには実際と異なることが書かれていた。
教授は飲み会に参加しなかった。ジシュナの記憶が確かなら、そのはずである。
『研究室に入る。本を手に取る』
文章も短く無機質な、ロボットが書いたようなものになってきた。
『金庫を開ける。論文を読み始める。日記を読み始める』
ここで、ジシュナは気づく。
「これは……僕の日記!?」
そう、この本日の日記だけはジシュナの行動を追っているのだ。
手が震え、動悸がする。だが、ジシュナは読み進めることをやめない。
『後ろに人がいる』
その記述を見た瞬間、ジシュナは振り返った。
「なっ――う、うわあああ!」
白髪の老人が虚ろな目でジシュナを見つめていた。
心臓が止まりそうになりながらも、ジシュナはその老人に声をかける。
「あ、あなたは……」
ジシュナは白髪の老人に見覚えがあった。
彼は、似ても似つかないが教授その人に違いない。
「教授! 教授、どうされたんですかいったい……この日記は何が」
「……もう、時間がない。ジシュナよ、三冊目だ。三冊目を開け」
教授はそれだけ言うと、目を見開き喉を押さえる。
「教授!?」
「おおっ、おおっ、ぐ……スジャータ、私もそちらに……」
教授は口から、泥のような液体を零していた。
まるで沼地の泥を飲み干して、それを嘔吐しているかのような。
「教授、救急車を呼びましょう! さっきは扉が開かなかったけど、外から入ってきたんですよね? 今すぐ外に……」
「もう、遅いのだよ。ジシュナ、あの方は怒っている。君がかつて何をしたのか知らないが、あの方は君のことを一際気にしていた」
「あの方とは、いったい……」
教授はぜいぜいと息をしながら、ジシュナの肩を掴んだ。その手は枯れ木のようで、子ども並の握力すらないようだった。
「私の金庫、開けたね? だから、ぐぇっ……それを読んでいるわけだ。君がそんなことをするとは思わなかったが、あの方の予言に間違いはなかった」
「それは……申し訳ありません、しかし、あの方とは?」
ジシュナは非常事態故に忘れていた自らの非を思い出し、謝罪する。
教授は頑なにあの方の正体について話さない、ジシュナの質問に答えない。むしろ、聞いていないようだった。
「私の金庫のパスワード、19200426……これは何だと思う? かつては娘の命日にしていた。だが、変えたのだよ」
「今はそんな話! 教授、急いでください……クソ、扉が開かない!」
教授の後ろにある扉にジシュナが手をかけるが、扉は開かない。
教授はジシュナを無視して話を続ける。
「ははは、それはね、かつての私の死んだ日だよ。1920年4月26日。あの時の、偉大な頃の私が今の私となって忘れてしまった。その罪が消えないように、パスワードを変えたのだ」
「何を……何の話をしているというのです!」
ジシュナは激昂し、教授の胸ぐらを掴む。その体は少年であるジシュナにも簡単に持ち上げられるほど軽くなっていた。
「君はいったい、何をしたというんだ。私への怒りの比にならないほど、あの方は君に怒りを覚えていた……いや、怒りではないか。罰だ、罰だよこれは。罰、罰、罰」
教授は何度も「罰、罰」と繰り返す。壊れたラジオのように。
「関係性が近いほど、より深く重い罰が下る。私はあの方が舌にちょっとお邪魔してくれただけだったから、この程度で済んだのかもしれない」
「だから、教授――」
ジシュナは思わず、手を放した。
教授が再び大量の泥を吐き出したのだ。その勢いは止まることなく、教授はどんどん干からびていた。
「ああ……スジャータ、君にまた」
教授はそう言うと、泥を吐ききって塵のように消えた。
この不可解な現象を、天才少年ジシュナは説明できない。
全身を恐怖が支配していた。体が動かない。
未知の病気の類かと、疑ってしまう。
その場合、感染した教授と触れ合ったジシュナも危険である。
「きょ、教授……そ、そうだ、あの日記」
ジシュナは教授の言葉を思い出した。
確か、三冊目の話をしていた。日記は二冊目で本日に辿り着いているが、三冊目がまだある。
三冊目に、この未知の病気について書いてあるかもしれないとジシュナは希望に縋った。
人類は未知の脅威に対して、科学の力で乗り切ってきた。
ジシュナは未知に、ただ迷う羊ではない。
「これだ……三冊目の日記!」
日記を開く、そこは真っ白だった。
「は、白紙……」
絶望がジシュナを包む。
その時だった。
『雷の子よ 何を項垂れているんだ』
日記に文字が浮かび上がってきた。
このような技術は珍しいものではないが、どう見ても紙の日記に起きる現象ではない。
「な、なんだこれは……」
ジシュナは茫然として、恐怖を感じることすら忘れてしまう。
『こんどは呆けるか どうしようもないやつだ、お前は』
「なんだ、お前は! お前はいったい……」
ジシュナが呟くと、文字が続けて日記に現れる。その代わりに前に書かれた文字は消える。
消えた文字のあった場所は、二冊目の日記にあった不自然な余白のようだった。
『こちらが文章にて意思疎通をしてやっているのだ お前もそれに倣え』
つまり、文字でのやり取りを行えと言っているのだ。この何者かは。
ジシュナは希望に縋り、ペンを取って自らの言葉を記す。
『お前は何者だ』
『無礼者め そのような口の利き方を許した覚えはない』
ジシュナは唇を噛みしめる。こんな状況で、他人への礼儀に気をつかっている場合ではなかった。
『まあよい お前には思い出してもらう』
日記に瞳のような絵が浮かぶ。
『私の目を見ろ』
その時、ジシュナは不思議な感覚に陥った。
一種の全能感。何者にも成れて、どこにでも行けるような感覚。
そこで見たのは、宇宙の夢だった。
ジシュナが宇宙飛行士になりたかったのは、地球上の生物や物質がほとんど解明され尽くしていたからである。
彼は未知を宇宙に求めた。そして、教授の下についてからはVISNUに対しても。
日記の瞳と目を合わせたジシュナは、図鑑や映像で何度も見た銀河を幻視した。
そして、知らぬ惑星、知らない銀河も。
それぞれの銀河に在る鼓動を感じ取り、それらが一定のリズムを刻んでいることに気づく。
多種多様な宇宙の存在が一つの像を描いていく。
その姿を見た時、ジシュナは悲鳴を上げた。
「うわあああああああ!」
ジシュナは日記を投げ出そうとするが、まるで手に根が張っているいるかのように日記は離れない。
日記に次の文字が書かれるのも、ジシュナはただ見ていることしかできなかった。
『お前は何を見た』
その文字を見た瞬間、片手が日記から離れる。
無意識にペンを握る。
『うちゅう』
『そうだ それは我 そして我は全 そして我はお前だ』
ジシュナは、目から血を流していた。
脳が熱い。焼き鏝を直接に脳に突きつけられているような熱さと窮屈さをジシュナは感じていた。
『あなたは なに』
『人の言葉では 神』
ジシュナは必死にその言葉を否定しようとする。
神など信じない。いないことを証明できないが、いることも一切証明できない存在。まやかしだとジシュナを含めた現代人は思っている。
『忘却の罪 重き』
日記に渦のような模様が描かれる。
『触れよ』
ジシュナは言われるままに模様に触れた。
その瞬間、体をねじ切られるような痛みがジシュナを襲う。
高揚、怒り、恐れ、覚悟、喜び、平穏、悲しみ、苦しみ、そして想像を超えた怒りと苦しみ。
感情の荒波に飲まれ、ジシュナは息ができなくなる。
意識がハッキリしてきた頃には、脂汗が全身から湧き出ていることに気づいた。
「い、今のは……」
『過去を思い出したか その中で詩を詠ったはずだ それすらも忘れる 愚かな』
詩と言われ、ジシュナは先ほどの光景に想いを馳せる。
霊魂と物質、活動、変化、生成、展開、消滅――。
この世の真理に踏み込んだ神の詩。
「あんなっ、あんなもの! 真理であるはずが!」
足元から、自分の常識が崩れ去る。
自分の右手が、右手であることを疑うものはいない。
しかし、右手が右手ではないことを第三者から完璧に指摘されてしまったら。
そして、自分も右手が右手ではないことに気づいてしまったら。
気持ち悪さが身を包むだろう。自分の存在を疑う。感覚と理解が乖離することの違和感を抑えきれなくなる。
「うええっ、うええっ」
ジシュナは嘔吐した。
吐き出されたのは、泥。
日記にはまだ続きが書かれている。
『忘れることは 罪 罪 罪罪罪罪 罰を!』
ジシュナは本能的な恐怖を日記の文字から感じた。
自分にとって――かつての自分にとって最も恐怖していた出来事が自分に起きることを予感する。
『輪廻の荒波に飲まれよ! 安息は訪れぬ!』
またも、身を引き裂かれるような感覚に陥る。
否、ジシュナの体は不自然に捻上げられ、ねじれている。
無理な体勢に骨は折れ、折れた骨が肉を破る。
流れるのは血ではなく、泥。
「いやだ! ゆるして、ゆるして……」
絶叫が、研究室に響く。
◆
ある日、ある大学の研究室で一人の変死体が発見された。
白紙の本を掲げ、奇妙な体勢で祈るように死んだ少年。彼は泥の水たまりの上で死んでいた。
死者がまだ15歳の少年であったことから世論は激化し、厳しい捜査が行われた。
明らかに自殺の線はない。しかし、他殺である証拠が見つからない。
監視カメラの映像では、彼が研究室に入ってからは誰も研究室に入っていないのだ。
それでも、完全に密室の殺人であるとは言い難い。
その日、今まで不具合を起こしたことのないVISNUエネルギーが数瞬の間働かなるという事態が起こった。
その一瞬の間だけは監視カメラも動いていなかったのだ。
捜査は難航した。
同時期に行方不明になった少年の所属していた研究室の教授が怪しいという線もあったが、その教授も見つかることはなかった。
この事件は迷宮入りすることとなる。
そしてこの事件を境に、徐々にVISNUに関わりの深い人間がいなくなっていく。
いや、VISNUへの関わりの深度など、大した問題ではない。
なぜならVISNUは、この世界のどこにでもあるのだから。
遍く、遍く。
遍く遍く 古代インドハリネズミ @candla
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