第5話 明雪鈴花

図星だった。

『鈴花の心はまだ燃え尽きていないんじゃないかな』

私は、まだ燃え尽きていない。燃え尽きることすらさせてもらっていない。

高校卒業後、すぐに上京し、一人暮らしを始め慣れない家事を必死にし、女優を育成するためのスクールに通うためにアルバイトも毎日のようにした。そして、オーデションも何度か受け、いくつかの役ももらうことができた。夢がようやくあと少しで届きそうな位置に来たのに、あきらめることができるはずがない。

あと一年、あと一年、と続けたが、なかなかブレイクするときが来ない。

街に行けば、同い年の子がおしゃれをして彼氏と腕組みをして楽しそうに歩く姿が嫌でも目に留まる。

『私にも、あんな人生の選択肢もあったのかな』

そう思う度に、私は泣きたくなった。

そして、逃げ出したくなる。

夢という監獄から脱獄したくなる。

しかし、その監獄から逃げ出すのは、相当厳しい。私は何度も逃げることにすら挫折し、この街へ帰ってくる。私は狭い監獄の中ですら、迷子になっている。そんな自分に腹が立つ。情けなくて泣きたくなる。


私は夕日が建物の間から差し込む道をひたすら歩いた。真冬にしては、風もなく夕日が若干温かく感じられる穏やかな気候だったその夕日の力を借りて心をほぐすかのようにゆっくりと歩いた。

私が一人暮らしの拠点を置いたのは山手線代々木駅から徒歩10分ほどのアパートだ。両親の支援もあり、一般的な女子大生の一人暮らしと比べたら割と良いところに住んでいる。住み始めてからもう2年の月日が経過した。住み始めた当初は、怖かったこの街も、今ではこうして落ち込んで歩いていると街が私を励ましているような気がするほど、私はこの街を愛しているし、きっとこの街も私を愛してくれているはずだ。

私はこの空が好きだった。青空にも夜空にもどちらにも染まり切らないこの空が。空を見上げれば月が煌々と輝く一方、西の端の方の空にはまだ太陽が残っていて、夜空にオレンジの絵の具をドジな絵描きがこぼしてしまったようだ。

この何にもなりきることができないこの空と自分を思わず重ねてしまう。

私は一体、何になりたいのだろう。私は一体、誰なんだろう。

そんなどこまでもリアルな現実が私の心を襲う。

そもそも、こんなリアルに襲われるようになったのはいつからだろう。考えれば考えるほど、疑問が湧いてくる。

今日は歩くだけ無駄かもしれない。

そう思い、家に引き返そうとすると、どこかで見たことのある顔と目が合った。

華奢な腕にはそぐわない大きなレジ袋を両手に抱えた彼女は、シャツの上にパーカーを羽織り、その上から大きなサイズのフード付きコートを羽織っていた。下はジャージにサンダルというとてもラフな格好だった。そして、フードをかぶり、黒縁の眼鏡。家にこもってアニメやゲーム三昧の生活を送っている人のような格好だった。しかし、着る人が来たら、そのように見えてしまう服装も彼女が着るとなぜかおしゃれに見えてしまう。彼女にはそのようなオーラがあるのかもしれない。

私が彼女を見たのは昨日だった。彼女はその時マスクと今日もかぶっている帽子を深くかぶっていたが、JR高田馬場駅で男といるのを確実に見た。いや、むしろ見られたのは私の方かもしれない。

だって、彼女にとって私は彼氏を強奪した女だ。

そう、気づけばこの場は一気に修羅場と化していたのだった。

私は気づかぬふりをして、彼女の真横を、目をひたすら合わせないようにして通り過ぎようとした。なんとか通り過ぎ、3秒が経過し、私もホッとしようとした次の瞬間。

「あ、あの!」

無視をしようとさえ考えた。しかし、ここでのベストな選択は決してそれじゃなかった。私は恐る恐る後ろを振り向いた。そこには、街灯に照らされた少女がいた。昨日見た大人っぽい姿とはかけ離れた、小動物のようなかわいらしさ残るあどけない少女だった。私ってそんなに怖いかな。いや、状況がそうさせているだけだろう。そう思いたい。切実に。

「あなたは…、あ、あなたはきょ、きょ、響介の何なんですか?」

目には涙さえ浮かんでいるように見えた。顔は真っ赤で、腕はプルプルと震えている。もはや重いという感覚さえ、彼女は喪失しているようだった。

しかし、他人から「私は誰だ」と問われるかとは、予想していなかった。私は今そのことで頭をいっぱいにしていたのに、あえて他人からその質問をされるとは…。腹が立つことこの上ない。切り替えて家路につこうとしたのに、どうして邪魔をするのだ。

「あなたの想像通りよ」

思わず口に出していた。今年一の演技だったかもしれない。恥ずかしながらそう思う。

彼女の顔はみるみる赤くなり、まるで季節外れのサクランボのように真っ赤に染まっていた。しかし、決して彼女は逃げ出さずにむしろ私を先ほどよりも厳しくにらんできた。そこには恐怖心はみじんも見られなかった。

「あなたのお名前は」

涙声になった彼女が私にそう尋ねてきた。

私は引き続き、高慢な女を演じて自分の名前を述べた。

「明雪鈴花よ。あなたは?」

「私は、道明寺美雨。」

そう答えて、美雨は私に背を向け帰っていった。

「道明寺美雨…。」

私はその名を自然と声に出していた。

どこか胸に突っかかったような感覚を残して、私は改めて家路についた。気づけばさきっほどまでの悩みもすっかりなくなったいた。

それと同時に、新たな悩みも浮上した。私は、響介のいないところで話をだいぶ複雑にしてしまった。

今、美雨にとって、響介は最悪な男となっているはずだ。遠距離恋愛中に我慢できず、他に女を作った最低やりちん男といったところだろうか。私は困りながらも、内心ではすこしわくわくしていた。なにか、面白いことが起こりそうな予感を感じていた。自然と笑みがこぼれる。

すっかり暗くなった夜道を私は一人で歩いた。2月の空はすっかり冷えこみ、私はパーカー一枚で外に出た1時間前の私を深く恨んだ。

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吹雪の夜に ぴょんすけ @pyonsuke

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