第4話 神田響介
目が覚めて、最初に視界に飛び込んできたのは見慣れぬ天井だった。
全く持って、状況が呑み込めず、ぼくは空間の中に宙づりになっているような感覚に陥っていた。
頭がガンガンと痛い。どうやら、記憶を失うほどに飲んでしまったようだ。
体を起こすと、自分がパンツ一枚しか身に着けていないことに気づく。
ドキリと心臓が飛び上がった。
周りを見渡すと、男のぼくには縁のなさそうなかわいらしい家具が所狭しに並んでいる。広い部屋ではないが、室内はよく片付けられており、住んでいる人の性格がうかがえた。どうやらアパートの一室のようだ。備え付けられたキッチンからは、コーヒーのにおいがベッドまで漂ってくる。
どうやら、ぼくは女性の部屋で記憶のないままに一夜を明かしてしまったようだ。
こんなこと本当にあるのかとため息をついたぼくに、さらに衝撃的な事実が目に飛び込んできた。
ちょうど右側の壁、ベッドの真横に女子高生のものと思われる制服がかけられていたのだ。
ぼくは口の中が急速に乾いていくのを感じた。
それを見て、少しずつ昨晩のことを思い出し始めた。
高田馬場から勢いそのままに電車に乗ったぼくと鈴花は、そのまま鈴花の自宅がある高円寺駅を目指した。当初の予定では、鈴花を駅まで送り届けて、どこかの漫喫で一夜を明かす予定だった。しかし、鈴花はトイレで制服から私服に着替え、ぼくに美味しい飲み屋さんがあるから行こうとしつこく誘った。
もちろんぼくは、固く断った。しかし、その時、どうしようもないほどにお酒を飲みたい気分だったため、最終的に折れてしまった。
そこから、お店に入ってビールとサワーで乾杯したところまでは思い出せるのだけれど、それ以降は全く思い出せそうにない。
必死に思い出そうと頭を抱えるも、記憶は暗闇へと吸い込まれる。
そして、行きつく結論はただ一つだけだった。
「もしかして、ぼくは鈴花と……」
3回目だろうか。そこまで思考が及んだところで、勢いよくドアが開いた。
「うわぁ!」
思わず声が出てしまった。
「あ、神田さん!起きたんですね!」
ドアを開けたのは、鈴花だった。
鈴花は、Tシャツにパーカー、下はジャージというとてもラフな格好に加え、ピンク色のかわいらしいエプロンをしている。
「ごみ収集車、もう行っちゃってました」
鈴花は悔しそうにそう言うと、右手に持っていたごみ袋を玄関に置いた。
いまだに状況をつかみ切れないまま、ベッドの上に置かれた自分のスマホで時刻を確認する。
もうすっかりお昼の時間だった。
鈴花はぼくの混乱をよそに、いつも通りに家事をこなしているといった様子だった。
まずは洗濯機に洗濯物を突っ込み、洗剤をスプーンですくって入れる。
「神田さんのも洗っちゃうよ」
「ああ」
キビキビと動く鈴花に思考が追い付かないぼくはそう返事するしかなかった。
そうして、簡単な掃除、溜まっていた洗い物など様々な家事を手際よくこなしていく。
その姿をぼくはぼんやりとベッドの上で見ていた。
洗濯が終わり、濡れた洗濯物をベランダに全て干し終わったところで鈴花はつけていたエプロンを外した。
「神田さん、コーヒー飲む?」
「いただきます!」
申し訳なさから、思わず敬語になってしまった。
「今は、甘いものが飲みたい気分なんです」
そう顔を赤くしながら鈴花はコーヒーを持ってきた。
ぼくはブラックで、鈴花はカフェオレ。
ぼくたちは一人暮らし用の小さな机を挟んで向かい合うように座った。
正直、今は鈴花と目を合わせるのでさえ恥ずかしい。
それを紛らわすためにぼくはひたすら熱いコーヒーを飲んだ。
すると、鈴花が上目づかい気味に視線を向け、ぼそりとつぶやく。
「昨日は楽しかったなあ」
「ゴホッゴホッ、アツっ!」
思わずコーヒーを吐き出しそうになった。しかし、舌は確実にやけどした。
「そ、その…。昨日のこと、全く覚えていないんだけど、まずいことしてないよね?」
おそるおそるぼくは鈴花に聞いた。
「神田さん…、すごかったよ……」
「ま、まじか……」
背中に嫌な汗が流れる。
明日のニュースにぼくの名前が載るのかもしれない。
そんなことを想像しただけで、ぼくは恐怖に戦慄した。
「ぷぷっ、嘘だよ~。神田さん、何考えていたんですか?」
鈴花がニヤニヤしてぼくの顔を覗き込む。
それを聞いて、へなへなと座っていたベッドに倒れこんだ。
「まじで、そんな悪い冗談はやめてくれよ……」
「ごめんなさーい」
鈴花はいつものように悪戯っぽく笑いながらそう言った。その声音にもちろん反省の色はない。
「でも真面目な話、本当に昨日は大変だったんだからね。むしろ、感謝してほしいくらい」
そこから、昨夜ぼくがどんなにどうしようもなかったのか順を追って説明された。正直、耳をふさぎたくなるような話しかなくて、聞いていてつらかった。
「居酒屋を出たのは良いんだけど、そこからここまで連れてくるのが大変で。今、あちこち筋肉痛だよ~」
「ほんとうにごめんなさい」
ぼくは心から反省の意を込め、そう言うことしかできなかった。
「でも、鈴花って一人暮らしだったんだな」
反省会も終わり、カップに入ったコーヒーも冷め始めた頃。ぼくはふとそう尋ねた。
「うん、そう。もともと、地方に住んでいて、実家はそっちにあるんです」
「どうしてこっちに来てるんだ?」
「夢を叶えるために、なんてテンプレみたいだけど、本当にそのつもりで」
「すげえな」
「本当にそう思ってる?」
鈴花は頬を膨らませ、不満そうにしているが、それは本心から出た言葉だ。
ぼくはこの歳になっても、夢の一つも語れない。そもそも、今は夢に破れた負け犬だ。それをいつまでもいつまでも抱えて、それを言い訳にして過ごしている。そして、昨日はそれから解放するために一歩踏み出したのに、それすらもうまくできない。ぼくは自分自身にとことん嫌気が差した。
「また、神田さん、元気ない顔してるよ。嫌なこと考えてるでしょ?」
「そう見えるか?」
「この家でそんな顔するの禁止!家が不幸になりそう」
「それは言い過ぎだろ」
鈴花は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「神田さんがどれほどつらい思いをしてきたのかは、私は知らないよ。でも、きっと苦しんでいるのは神田さんだけじゃない。現に、私だって夢を叶えるためとかかっこいいこと言っているけど、何一つうまくいってないし、そんで逃げだしちゃうくらいなんだから」
鈴花は、遠い目をしてそう語る。その横顔はとても年下のものとは思えなかった。
「やっぱり、私と神田さんは似てるよね」
「そうなのかな」
その言葉の真意は全く分からないけれど、なんとなく鈴花のその言葉に安心している自分に気づいた。
「高校生に励まされているようじゃ、ぼくもまだまだ大人になり切れていないみたいだな」
そうしみじみと語ると、鈴花は目を丸くしてぼくの方を見た。
「え、神田さん、私言ってなかったっけ?」
「ん?なんのこと?」
一つ間を置いて、鈴花は突然腹を抱えて笑い出した。
「はー、おかしい。神田さんってやっぱり面白いよね」
「だから、なんだよ」
「私はもうとっくに高校卒業してるし、何ならもう立派な大人だよ」
「は?」
どうやら、ぼくが偶然に出会った少女、もとい大人の女性は女子高生のコスプレをして外を闊歩する少し痛い趣味をお持ちの人だったみたいだ。
鈴花はぼくと同い年だった。
「明雪鈴花は正真正銘の二十歳だし、お酒だって合法的に飲めますよ」
そう鈴花はぼくに運転免許証を見せながら言った。
「というか、ぼくより早く生まれてるじゃないか」
鈴花は4月生まれで、一方ぼくは8月生まれ。
「その辺は誤差だし、むしろ神田さんのほうが大人びてない?苦労してるっていうか?」
「もう、さん付けはやめてくれ」
同い年という事実を聞いた瞬間、なんだか妙に気持ち悪くなった。それに、苦労してるって一言は余計だ。
「気が向いたらやめるね~」
この反応は、当分の間やめないだろう。
「そもそも、なんで制服なんか着てたんだ?趣味か?」
「私はそんな痛い趣味なんか持ってないよ」
「じゃあ、なんで?」
「えーと、なんでだったかな~」
鈴花はらしくもなく、答えることをためらっている。
「じゃあ、鈴花は制服で町を徘徊するのが好きな二十歳の女の子って認識でいいか?」
「ちゃ、ちゃんと話すよ!」
初めて、鈴花よりも上に立つことができたのではないかと感じた。
鈴花は視線をぼくから机に置いてあるカップへと移した。頬も朱色に染まっていて、その表情はとてもかわいらしかった。ぼくはこれから告白でもされるんじゃないかと感じさせる表情だ。
「その日はね、とある映画のヒロイン役のオーデションを受ける予定だったんだよ」
「え、もしかして鈴花の夢ってのは女優なのか?」
「そうだよ」
ぼくは素直に驚いた。
確かに、鈴花は顔立ちは整っているし、かわいらしい。スタイルも目立ったところはないが、バランスがとれており、ウエストはきゅっと絞られていて美しい。
しかし、鈴花にはおそらく芸能人が持ちうるすごみとは無縁のように感じられた。むしろ、誰にでも親しみやすく、目立たたないところが鈴花の良いところだと思う。
ぼくが目を丸くしていると鈴花は顔を真っ赤に染めて、うつむいた。
「な、なんか言ってよ……」
鈴花は耳まで真っ赤だった。
「すまんな、目の前に女優の卵がいると考えたら妙に緊張してしまって」
もちろん嘘だ。特に緊張はしていない。この場を収めるためにはベストな選択肢だと思った。
「女優の卵、なんて買いかぶりすぎだよ」
鈴花は、今までに聞いたことのないほど覇気のない声でぼそりと言った。いつの間にか、赤く染まった顔は元通りになっていた。
「高校から家族と別れて上京して、もう5年目。正直、才能の限界を感じ始めてるよ」
確かに、現実は甘くないのかもしれない。ぼくが知っている女優だってほんの一握り。彼女らの下には数多の人が、数少ない枠を勝ち取るために日々奮闘しているのだ。
「つい、先日のことなんだけど、主役級のキャストのオーデションに合格した。その時は天にも昇るほど喜んだ。やっと、夢がかなう。私にも才能があったんだって。でも、急遽配役が変わって…。理由はなんだか分からないけど、私はそれで割と精神的に追い込まれたのよ」
鈴花は辛そうに説明してくれた。
しかし、そんなことがあるのだろうか。客観的に、一時合格したのを取り消すということはあってはならない。浪人を経験したぼくからも考えられないことだった。天国から地獄へ突き落すようなものだ。
「これでも、いくつかの映画やドラマには出てるんだよ。セリフはほんの数行だけどね」
鈴花はぎこちない笑みを浮かべ、テレビ台の中に収納された映画作品を数個取り出した。そこに並んだ映画は見たこともないような作品から、数年前に大ヒットし、社会現象を巻き起こした作品まで様々だった。
「こんなに出てたのか」
「うん、結構ね。でも、大した役を与えられることもなくて、一番良くてヒロインの女子高生と真っ向から対立するグループの一人ってところかな」
そう言って、ディスクをDVDプレイヤーに入れて再生した。
こうして、映画鑑賞会が始まった。
ぼくは鈴花がいつ出てきても反応できるように注意して見守った。
しかし、鈴花はなかなか出てこなかった。それに加え、映画の脚本もイマイチ。売れないのも納得だった。
映画も中盤に差し掛かり、睡魔との闘いに破れそうになった時、鈴花らしき人が画面に登場した。作品の中の鈴花は、今よりもさらに幼く感じられ、髪型も今のロングよりもだいぶ短いショートボブで、明るい茶色に染められ、毛先がカールされ、ふんわりしていた。
しかし、性格はそのふんわりした見た目とは反対で、女子の世界を巧みに演技で表現していた。
素人目から見ても、その演技は悪くないと思った。だが、それと同時に、心に残るものは何もなかった。つまり、とことん目立っていないのだ。
ヒロインが、鈴花たちのグループのいじめを乗り越え、物語はこれからクライマックスというところで鈴花は映画を止めた。
「まあ、こんな感じね」
鈴花はまたしてもぎこちない笑みを浮かべ、そう言った。
「この作品が今の私の代表作といったところかな、あはは」
ぼくは正直何も言えなかった。
「ちなみに、あのグループの他の二人は見事にその後、活躍していったんだけどね~」
言われてみれば、どこかで見たことのある顔だった。
「全く、嫌になっちゃう」
鈴花はわざとらしく深いため息をついた。無理に私は気にしていないという雰囲気を作ろうとしているのが良く分かった。それがとても痛々しかった。
「というか、なんでオーデション会場に向かわなかったんだ」
冷めたコーヒーを飲み干してそう尋ねた。
「いや、今の流れなら何となく分からない?」
「ぼくはこう見えて、けっこう鈍感だ」
そう言うと、鈴花はくすりと笑った。
その笑みを見て少し安心した。
「嫌になったんだよ。夢に追われるのが。そして、自分に追われるのが。」
「ちょっと待て、夢って追いかけるものじゃないのか?」
「そうかな?私は夢って、もちろん追いかけるものだと思うけど、同時に夢に追われることもあると思うな」
「よくわからんから、詳しく説明してくれ」
「例えば、神田さんが何か夢を持つとするよ。確かに夢を持つことって素晴らしいよ。人生を豊かにするし、それに向かって努力することって、とってもすごいことだよね」
「ああ」
そう答えながら、一年前の自分を頭に浮かべる。
「最初、それは自分にとって幸せなことかもしれない。人は頑張るよ。その夢をかなえたい気持ちが強ければ強いほど。でもさ、いつかのタイミングで気づくんだよ。この世の中の人がみんな夢を叶えているわけじゃなくて、むしろ夢を叶える人なんて一握りだってことに」
確かにそうだ。ぼくは夢を叶えることができなかった人を一番身近に知っている。
「そして、それに気づいた瞬間から夢に追われ始めるんだよ。どこまでもどこまでも。しつこくしつこく。別に諦めればすぐに夢は追いかけるのをやめてくれる。でも、だからこそ、人は簡単にはあきらめることができない。諦めた瞬間から、その夢をもう一度追いかけることは不可能になるからね」
外はいつの間にか、オレンジ色に変わっていた。遠くからカラスの鳴き声が聞こえてくる。
「もっと怖いのは、夢を追いかけることによって自分自身を定義し始めたときだよ。その夢がなければ、自分が自分でないように感じられてしまう。夢の否定が直接自分自身の否定につながってしまうんだよ」
鈴花はまるで自分自身のことを語っているかのような口ぶりだった。
「こうして、人は夢という監獄の中に閉じ込められてしまう。私も、多分神田さんもまだ閉じ込められたままだね。『自分はまだできる、こんなもんじゃない、今に見てろ』そんな強がったセリフが頭の中で満たされる。そうじゃない?」
鈴花はともかくぼくにそんな自覚はなかったので、突然名前を呼ばれ驚いた。
でも、鈴花がぼくと似ていると言っていた意味が何となく分かったような気がした。
ぼくにも、夢があった。そして、その夢を叶えることができなかった。要するに、ぼくも鈴花も負け犬なのだ。
それでも、鈴花はぼくとは違うと思う。
「お前、かっこいいよ」
「はい?」
「夢を諦めることも勇気のある決断の一つだ、なんてぼくは鈴花に言いたくない。きっと、鈴花はぼくにそう言って欲しかったんじゃないかな」
「そんなことはな……」
「いや、あるよ。鈴花は、ぼくと自分が似ていると言った。それはきっと、ぼくが夢に破れた人間だからだ。そして、それをぼくはとことんあきらめようと決意したからだ」
鈴花は口をつむいだ。きっとぼくの言ったことが的を射ていたのだろう。
「たしかに、ぼく自身諦める決断をすることに勇気を要したし、時間もかかった。でも、それをぼくがしたのは、ぼく自身が完全に燃え尽きてしまったからだ。きっと、鈴花の心はまだ燃え尽きていないんじゃないかな。だって、ぼくの付き添いという形ではあるけれど、東京に戻ってきてしまっているのだから」
鈴花は何も言わなかった。
「だから、鈴花とぼくは全く違う。鈴花はやれるところまでやり切るべきだ。ぼくはそう思う」
二人の間を沈黙が流れる。聞こえたのは寂しげに鳴くカラスの鳴き声だけだった。
「なんで、会って数日の男に説教されなくちゃならないの」
鈴花にそう言われ、ぼくははっとした。
「ご、ごめんな……」
「何も知らないくせに、そんなこと言われると少しむかつく」
そう言うと鈴花は勢いよく立ち上がり、上着を羽織り外へ飛び出して行った。
残ったのは勢いよくしまったドアの音と、ぼくだけだった。
「やっちまったなあ」
そう誰かに向かってつぶやいた。
切実に、助けを乞いたかった。
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