第3話 明雪鈴花

時刻は21時30分を少し過ぎたところ。

やっと高田馬場駅に到着した。

思いつきで始まった私の旅もそろそろエンドロールが流れる頃だろうか。

特に、これといった劇的なことが起こるわけでもなく、私は明日から日常に戻っていくという事実を新宿のいつもの雑踏の中から感じ取っていた。

まるで、私の人生みたいに味気のないものだった。

平坦に続く高速道路のように私の人生が流れていくと思うとやるせない気持ちに襲われる。

ふと、隣を歩くこれまた平凡な年上の男性をちらりと見る。


神田響介。


ワンサイズ大きめの濃い緑のモッズコートを羽織り、下はジーパンにスニーカーというこれまた平凡な見た目。身長は私より頭一つ分くらい大きい、平均的な高さ。髪型は、特にこれといったこだわりもなさそうな感じにもっさりしている。それでも、目と鼻のバランスがしっかり均衡にとれていて、肌も女子の私がうらやましいと思うほどにツヤがある。有名な美容院に行って、髪型を流行りの俳優さんと寄せる感じにすればイケメンということができるほどだとは思う。もう少し頑張れ田舎者、と心の中で応援するにとどめる。


少し考えてみれば、私は神田さんのことを全く知らないことを思い知らされる。年齢も職業も。知っていることと言えば、名前と神田さんが何でここにいるのか、そして、神田さんが何となく私に似ていることくらいのことだ。そんな人と半日かけて東京に戻ってきたのだから、十分すぎるほどに劇的な旅なのかもしれない。


神田さんはこれから好きな彼女に別れを告げに行く。

そんな人の背中を押すことができたのだから、私も立派な物語の登場人物だろう。そう、自分に言い聞かせたところで、この旅のまとめにとりかかっている自分がいることに気づく。

結局、私は何も見つけることができなかったし、自分から逃げ切ることもできなかった。神田さんを助けるという都合の良い言い訳を自分の中に作り、またここに戻ってきてしまった。

私は、もう逃れられないのかもしれない。

そう、心の中でもう一人の自分が言ったような気がした。

彼の後ろに並んで、エスカレーターを降りた。

神田さんはなんだか心ここにあらずと言った感じだ。

「大丈夫ですか~?」

神田さんは私の言葉に振り向きもしない。どうやら、本当にダメみたいだ。でも、その姿はオーデション会場にいる私の姿とどこか重なった。きっと、神田さんにとってここは私にとってのオーデション会場並みに嫌な場所なのだろう。

やはり、神田さんのことが心配だった。

しかし、ここから先にはついていけない。

なんて言ったって、私が修羅場を作り出すわけにはいかないのだから。

神田さん一人で頑張ってもらうしかない。

そう、決意したところで前方から甲高く、良く通る声が駅構内に響いた。

「響介!」

呼ばれたのは、神田さんの名前。

驚いて前方を見ると、そこにはモデルのように美しく、大人の色気を醸し出す女性が立っている。しかし、その表情は子供のように驚いた顔をしていた。

私は神田さんを一瞥する。

神田さんは魂が抜けたかのように呆然と立ち尽くしていた。


そして、それは突然に起きた。

「ごめん。」

神田さんはそう一言つぶやくと、負け犬のような悲壮な表情を浮かべる。

「どうしたんで…ンンッ!」

神田さんの死人のような唇が私の唇の熱を奪った。

たくさんの人が行き交う改札の目の前で私たちは、数秒間のキスをした。

それは、どこまでも熱く、そしてどこまでも冷たいキス。

また、これが私にとっては初めてのキス。

私は視界がぼんやりと滲んでいることに気づいた。瞼をそっと閉じると、神田さんの唇とは対照的な温かい涙が頬を伝った。

神田さんと私の体温が心地よく溶け合ったところで、神田さんはそっと唇を放した。そして、私の顔を見てつらそうな顔を浮かべて、もう一度謝った。

振り返ると、神田さんの彼女が口を開けてこちらを見ていた。

神田さんは、そちらに目を向けることもなく私の手を取って、再びホームに歩き出した。やや猫背になったその背中は、どこまでも小さかった。


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