第2話 神田響介

電車に揺られること六時間。

時計は夜の九時を指していた。

ぼくらは数回電車を乗り継いで世界で一番利用者数が多いことで有名な新宿駅にようやく到着した。

「ふぁ~、ねむ……。」

少女は先ほどからずっとこの調子だ。

電車に乗ってから最初の一時間はテンション高めでたくさん話しをしたのだが、一回目の乗り換えを終えると突然スイッチが切れたかのように、ずっと眠りっぱなしだった。おかげで乗り換えには苦労させられた。

「神田さんの彼女さんはどこに住んでいるんですか?」

「高田馬場駅が最寄りだ。」

「そうですか。」

そう言って、少女もとい、明雪鈴花(あけゆきりんか)は眠い目をこすりながらぼくのことを山手線へと誘導した。

ぼくらは地元の駅を出発するとすぐに簡単な自己紹介をした。改まってするのも恥ずかしかったが、おかげで少女の名前もわかったし、ぼく、神田響介(かんだきょうすけ)のことも『神田さん』と呼ぶようになった。『おにいさん』のほうが個人的に好きだったのだが、長旅の初っ端で印象を悪くするのを避けるために言わないことにした。


しかし、新宿駅には何度来ても慣れそうにない。

行き交う人々は、どうしてここまで他人に興味を失うことができるのだろう。お互いがまるで動く障害物を避けようとするがごとく歩を進める。時には、泥酔したサラリーマン、時には人ごみの中で抱き合うカップル、そして時には歩くのに精一杯のお年寄りさえも、彼らの瞳は『障害物』としてひとくくりに認識していそうだ。想像しただけでぼくはぞっとした。


新宿方面に向かう山手線のホームに到着すると、案の定混雑していた。

鈴花は「こんなの混んでるうちに入らないよ」と言っていたが、田舎に住むぼくにとってはこれだけの人が電車に乗っているのを見ることは滅多にない。

ぼくらは、仕事帰りのサラリーマンの後ろに二人で横になって並んだ。

東京も雪が少し降ったようだが、もうすっかりやみ、雪は跡形もなくなっていた。

「鈴花はこれからどうするんだ?」

「お家帰るよ。もう家にも連絡入れたし。」

スマホを出しながら、鈴花は言った。

「家はこっちのほうなのか?」

「いや、まあ遠回りなんだけど神田さん心配だし、高田馬場までは一緒に行ってあげようかな、と思って。」

鈴花の顔はどこか得意げだった。その顔がかわいかったから、それくらいわかっていることは伏せておいた。


数分後には電車が到着し、それに乗った。車内は乗客が持ち込んだ様々なにおいで溢れ、そのにおいに慣れていないぼくは気持ち悪くなりそうだった。しかし、密着した結果、ちょうど鈴花の髪がぼくの鼻の近くに来たため、嫌な臭いは鈴花の髪のおかげでかき消された。お風呂に入れていないはずなのに不思議だった。


高田馬場まではおよそ5分。


ぼくの心臓の鼓動は電車が進むのに比例してはやくなった。

彼女と会うのは、だいぶ久しぶりだった。もちろん、できることなら会いたくない。しかし、ここまで来て、心のどこかで彼女と会うことを楽しみにしている自分がいることに気づいた。

やはり、ぼくは彼女のことをしっかり好きだったんだなと再認識する。

もしかしたら…。

なんて考えてしまっている自分が情けない。今日は過去と決別するためにここに来たんだ。もう彼女に甘えることは許されない。

電車に揺られながら、ぼくは思考を巡らす。

「神田さん、緊張してるでしょ?」

 密着した鈴花が上目遣いでぼくに尋ねた。

ぼくの思考はそこで切断された。

「べつに、鈴花と密着して緊張しているわけじゃないぞ。」

「そ、それくらい知ってるよ!」

鈴花の声は思ったよりも上ずっていた。鈴花の方は、ぼくと密着してるために緊張しているようだった。

「彼女さんと久しぶりに会うから緊張してるんでしょ。ましてや、別れに行くなんて。さっきから心臓バクバクしてるじゃん。」

どうやら見透かされていたみたいだ。ここで変に取り繕っても格好が悪いので素直に頷いた。

「まあな。さすがに緊張するね。」

電車は新大久保に到着した。

そういえば、初めて東京に来た時、彼女と食べたランチが新大久保のチーズタッカルビだった。

あの頃は、二人で夢を語っていた。

懐かしさと共に、ぼくの胸は締め付けられた。

電車のドアが開き、鈴花が入ってくる乗客に押され、よりぼくと密着してきた。腕のあたりに何だか柔らかい感触を感じる。

「ごめんね。」

と、鈴花は顔をほのかに赤く染めてぼくに言った。今度はぼくと目を合わせようとしなかった。

ぼくは、あやまることじゃないし、むしろぼくはありがとうと感謝したいくらいだった。

「でも、よかったね。」

ギクッとなったぼくだったが、先に続いた言葉はぼくの予想と違っていた。

「きっと神田さん、私がいなかったら高田馬場通りこして、池袋辺りの漫喫で夜を明かしていたと思うよ。絶対に怖くなって諦めてたって。」

鈴花はにやりと悪戯っぽく笑った。

しかし、今回ばかりは鈴花の言う通りだった。事実、今までにぼくはそれを何度も経験している。結局、高田馬場に到着しても怖くなり、ぼくは電車の中から一歩も動くことができなくなってしまうのだ。そのたびに、自分が嫌いになる。それの繰り返しだった。

「ほんと、ありがとうな。」

「どうも。」

鈴花は満足そうな顔をぼくに浮かべ、いつものようににやりと悪戯っぽく笑った。ぼくはいつしかその鈴花の笑顔を見ると心のどこかが安心するようになっていた。

「心臓、ゆっくりになったね。」

「鈴花のおかげだな。」

本当に、ここまで鈴花には助けてもらってばっかりだった。

本来はぼくが助けなくてはいけない立場であるのに、これではどちらが年上なのか分からない。もちろん、幾分か情けない気持ちもあったが、それを上回るほどに鈴花の不思議な包容力はすごかった。


ぼくは今日、絶対に新たなスタートを切れる。そう確信していた。


『まもなく~高田馬場~高田馬場~。お出口は右側です。』

気だるげなアナウンスが車内に響く。

「じゃあ、そろそろお別れだな。」

「そうですね。寂しいです~。」

いかにもな棒読みだった。

「ぼくも寂しいよ。」

そう、真面目な顔をして言うと、鈴花はすぐに顔を赤くした。

この子は案外ちょろいみたいだ。

「改札までついていきますね。」

少し間を空けて鈴花は言った。

「大丈夫だよ。」

「改札まで見送るのが私の仕事です!」

と、鈴花は小さく敬礼のポーズを取って言った。

「まあ、そういうならお願いしようかな。」

公務執行を妨害するわけにはいかない。

そんなやり取りを交わしているうちに、電車は高田馬場に到着し、ドアが開いた。

鈴花は一瞬、人ごみに埋もれたがすぐにぼくを見つけ出し、小走りでぼくの横に並んだ。


車内から出ると、一年前の記憶が一気に蘇った。


改札に出るために、長いホームを歩く。


すると、下りのエスカレーターが見え、それを降りると改札へ続く通路に出る。


一年前に見たチェーンの蕎麦屋さんは、まだそのままだった。


その蕎麦屋を通り過ぎまっすぐ歩く。


そして、突き当りを右に曲がれば改札だ。


そういえば、去年のこの時期は、毎日のように改札の向こうにあいつがいたんだっけな…。


「響介!」


ぼくがぼんやりと過去の記憶に浸っていると、突然前方から声をかけられた。その声は、どこか懐かしかった。そしてどこまでも甘ったるく、ドロドロとぼくの脳内を駆け巡った。


ぼくは声のする方向を探した。


いや、探すまでもなかった。


田中美羽が立っていたのは、去年と同じ場所だったからだ。


しかし、去年と違う点とが一つだけあった。


それは、美羽の右隣に、ぼくの見知らぬ男が立っていたことだ。


果たして、これは間が良いのか、悪いのか。


ぼくの頭は意外なことにも冷静に、そんなことを考えていた。


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