黒い薔薇のある静物画
鹽夜亮
第1話 黒い薔薇のある静物画
とある内陸県の山奥。地図からはとうに消された場所に、それはある。僕は、知り合いから貰った古地図をもとに、道とは呼べない草だらけの舗装路を、愛車で恐々彷徨っていた。助手席では、道の凹凸に合わせて、新調したカメラが躍っている。まだ扱いに慣れていないそれに、幾ばくかの愛着と、頼りなさを僕は感じていた。
山奥の林道を幾度も往復して、やっとの思いで目的地への入口を見つける。とてもではないが、車で入っていける様子ではない。錆びだらけで、無造作に開け放たれた鉄製のゲートの前に車を止めると、僕はカメラと小さなカバンを手に、晴天の元を歩き始めた。
古地図を見る限りでは、目的地はゲートからそう遠くない。しかし、自然に浸食された道路は、その行先を巧妙に青々とした草木の内に隠している。人が往来せずに久しいのだろう。歩いた跡さえ、見当たらない。視線を上げた先にある突き抜けるような晴天は、人っ子一人いない山奥で自らの影だけを相棒に歩く僕を、どこか別世界からの視点のように見下している。
車を降りて、かれこれ十分ほどが経った。やっとの思いで、僕は目的地へとたどり着いた。眼前には、蔦に塗れた看板が、掠れた文字でその存在を誰にともなく主張している。看板の先には、石畳だったと思われる小道が続いている。そして、その先には蔦に覆われ、外壁はヒビだらけ、玄関ホールの大きな窓さえ跡形もなく割れている、とうの昔に廃墟となったホテルがあった。
その光景を前に、僕の心臓は躍っていた。それは久しく運動をしていなかったせいであるのかもしれないし、今から自らの踏み込む場所への不安と恐怖を源泉としているのかもしれない。だが、僕は、その動悸が、期待であることを信じてやまなかった。看板にフォーカスを合わせ、シャッターを切る。カシャリという子気味良い音とともに、目の前の一瞬間が記録される。角度を変えて、また一度。そして、また一度。同じ場所を、何度も何度も撮り続ける。あらかた満足すると、僕はついに荒れ果てた玄関ホールへ向けて足を踏み出した。
粉々になったガラスに気を付けながら玄関の扉を潜り抜けると、そこには退廃が広がっていた。幸い、人に荒らされた様子はない。しかし、どこか慌ただしささえ感じさせるような、椅子やテーブルの乱雑な様子が嫌に面白かった。赤い絨毯で彩られた床も、今や草や苔に浸食されて、カラフルな様相を呈している。絨毯を這うように蠢く、網静脈のような緑の浸食は、たまらなく美しかった。赤一色のキャンバスに、子供が好き勝手に緑色をぶちまけたかのような、偶然の絵画。脈絡も、意味も、意図も、何も持たない自然の在り様に、僕は夢中でカメラを向ける。
僕は、何か死にゆくものに惹かれる性質を持っているようだ。散る花、枯れた木、自殺願望に苛まれる病人、…そして今僕がいる、廃墟。どれもこれも、共通項は死への近接だ。僕はそれに途方もなく惹かれる。磁石のようにひきつけられて、いつの間にかそれに近づいている。そうして、僕はそれを必死の思いでつなぎとめようと…否、観察しようとする。それが死のうが死ぬまいが、僕にとっては大した問題ではない。ただ、それが死に近いということそのものが、僕をどうしようもなく惹きつけてやまない。その僕の性質が、いったいどこからくるものなのか、それはいくら自問自答をしてみても、回答を見つけることができずにいる。
廃ホテルのロビーを抜け、階段を上がる。造りはいかにも豪奢だった。バブル期を思わせる、金遣いの荒さと往時の盛況を僕は偲んだ。階段は思いのほかしっかりとしていた。足場に困ることはなかったし、軋む様子もなかった。コツコツと自分の足音だけが広いロビーで反響している。僕は、聴覚にも視覚にも、孤独を感じた。悪い気持ちではなかった。死へ近接した孤独は、どこか居心地が良い。何も、取り繕う必要がないからかもしれない。
階段を上りきると、正面に大きな扉が聳えていた。この先にこそ、僕がこのホテルを遠路はるばる訪れた目的の場所がある。廃墟好きの一部の物好きたちにとっては、それなりに有名なある部屋が、この扉の奥にはある。そこは数多の写真家に撮影され、多くの人々にある種の感動を与え続けている。ホテルが死してなお。
僕はまた、心臓が跳ねるのを感じた。額にうっすらと汗がにじむ。苔の生えた扉に手をかけると、そこからは無機質な冷たさが伝わってきた。ゆるりと力を入れて押すと、それは想像に反して軽快に開いた。
扉を開けた瞬間に飛び込んできた光景に、僕は凍りついた。確かに、それは僕が散々ネットで目にした部屋に違いなかった。半円系にガラス張りの部屋で、そのガラスの手前に一つだけ椅子が鎮座している。ガラスは蔦や草木でステンドグラスのように装飾され、黴臭い室内に葉脈のような影を作っている。あまりにも美しかった。
ただ、僕が凍りついた理由はそれだけではなかった。たった一つだけ置かれた椅子に、こちらへと背を向けて誰かが座っていた。人形のようにも見えた。それほどに、その人影は微動だにせず、ただ座っていた。喪服のような黒づくめの服装に身を包み、長い黒髪を背中に垂らしたその人物は、女性に見えた。美しく伸びた背筋に、どこか育ちの良さを感じた。だが、そんな些細なことはどうでもよかった。あまりにも、この部屋と調和していた。美しかった。廃墟にこれほど溶け込むことのできる人間など存在しない、そう言い切れるほど、ただただ目の前の光景は美しかった。
カシャリ、と手元で音がして、僕は自分がシャッターを切ったことに気が付いた。それは無意識だった。絵画を目にして立ちすくむ人のように、僕は意識を失ったまま、時間も何も、全てを忘れたまま、ファインダーを覗いてシャッターを切っていた。
「カメラかしら」
人形にすら思えた人影の声で、僕は我に返った。人影は、未だに微動だにせず、声だけを発している。
「失礼しました…、あまりにも、その、綺麗だったもので」
「構いません。どうぞご自由に。私も、ただ自由にここに座っているだけですから」
自由。その言葉に僕はクラクラとした魅力を感じた。そうだ、ここは自由の場所だ。束縛だらけの、クソッタレの日常から解放された、黴臭い退廃の匂いのする自由の。
ファインダーの中の景色は、まるで静物画のように完璧に、あまりにも無機物的に僕の脳裏へ美を送り込む。その中の彼女は、まるで黒い薔薇のように見えた。それは、あまりにもキザな比喩だろう。だが、僕には素直にそう思えた。喪服のような黒と、背景と化した自然の緑が、異様な調和を醸し出している。自然の調和ではない、どこか歪んだ、人間の見る『調和』が確かにそこには存在した。
「貴方は、何故ここに来たの」
ファインダー越しの彼女は、相変わらず微動だにせず、声だけを僕に向ける。まるで虚空から何者かに話しかけられているような気分だった。目の前の生き物が、『生きている』という実感がどうにも僕にはわかなかった。退廃と調和する彼女は、あまりにも僕の思うところの美と死に近接しすぎているように思われた。
「朽ちるものが好きなんです。花は散り際、人は死への道すがら。…建物ならば、旺盛を極める生前より、自然に浸食された死後が。このホテルのこの部屋は、その筋では有名ですし」
僕は口を動かしながらも、シャッターを切る手を止めなかった。否、止めることができなかった。カメラの中は、同じような構図の、違いのわからぬような写真で埋め尽くされていった。
「そう。ここに来る人はどちらか。死に美を感じるか、それを嘲るか」
「嘲る輩は、このホテルまで来ることは稀でしょう」
廃墟には、常に心霊の噂が付きまとう。誰が首を括っただの、殺人事件がおきただの…後から後から人々は何かと『曰く』をくっつけて、それを面白おかしく嘲る。僕はそれが嫌いだった。この死に近接した崇高な美を、穢されるような気がして、ならなかった。だが、このホテルはその人々の嘲りとは、幸運にも縁遠かった。それはこのホテルに至るまでの困難な道のりにも明らかだったし、ホテル内部の荒らされた形跡がないことにも明らかだった。
「貴方は私と同じ」
「…僕は、貴女のように絵になれません」
「私はここに近すぎる」
会話は、どこかぎこちない。だが、微妙なニュアンスは彼女の思うところを僕に確実に伝えてくる。不思議な感覚だった。それは、どこか根底で繋がっている、同種であるからこそ通じ合えるかのような錯覚を僕に感じさせた。
「死、にですか。それとも廃墟にですか」
ふふ、と初めて彼女の笑い声が聞こえた。無機質で静かな、それでいて上品な声だった。僕は場違いに、深窓の令嬢などという言葉を考えたりした。令嬢と呼ぶには、あまりにも彼女は世俗に反している。
「どちらにも」
幾分楽しげに聞こえた返答に、僕は満足した。その答えが返ってくることを、僕は心のどこかで見知っていたように思った。まるで答えの用意された公式を、パズルを当てはめるようにして解いているような感覚だった。
「僕は貴女に近いでしょうか」
僕は彼女になりたいと思った。彼女に近づきたいのではなく、彼女になりたいと。
「近くて、遠い。接しているけど、決して触れることはない」
「僕は、貴女にはなれないのでしょうか」
僕はファインダーを覗くのを止めて、肉眼で目の前の非日常を眺めた。それはファインダーを通して眺めるよりも、異様なまでに完成されきっていた。僕は圧倒されるのを感じた。気圧されるのを感じた。畏怖を覚えた。だが、狂おしいほどに彼女になりたくて仕方がなかった。
「貴方が心の奥底でそれを望むなら、いずれ貴方は、貴方の望むものになる」
「であれば」
僕は一歩足を踏み出した。視界がフォーカスを変えた。黒衣の彼女が僕の視界の中で、少しだけ大きくなる。
「僕はきっと貴女のように」
「いつかなるでしょう」
そう言う彼女の後姿は、今までと何一つ変わらなかった。僕は、彼女の顔が見たいと思った。同時に、見てはいけないと思った。それは禁忌に触れる行為のような気がしてならなかった。何より、彼女を前から見ることで、この完璧な静物画が崩壊してしまうことを、僕は恐れていた。
僕は踏み出した足を、一歩後ろに戻した。また眼前の静物画は、ファインダー越しに見たそれと同じ構図に戻った。何一つ変わらなかった。
「日が暮れる」
彼女が呟いた。僕はその一言で、日差しが西日に変わっていたことをやっと知った。廃墟はオレンジ色の太陽に焼かれていた。蔦や草木の緑さえ、柔らかな炎に包まれていた。僕は哀愁を覚えた。美を感じた。散り際の花を思った。
もう一度、シャッターを切ろうとファインダーを覗きこもうとした。
「もう終わり。変わってしまったから」
彼女の一言に、僕は時を止められたかのように動きを止めた。確かに、変わってしまっていた。先ほどまで必死に、無我夢中にカメラに収めていた静物画は、もうそこにはなかった。美しい夕映えの刹那に、呑み込まれていた。
「貴方は帰らなければならない」
「日が暮れる前に」
「貴方はまだ私ではない」
「帰らなければならない」
無機質に、そしてこれ以上ない優しさを湛えた言葉が僕へ降り注いだ。それは網膜を緩やかに焼く夕日のような、奇妙な暖かさを持っていた。
「また、会えますか」
僕は視界に、変わってしまった静物画をなおも捉えながら、解答のわかりきった質問を口に出した。
「もう二度と会うことはない」
「貴方が次にここに来るのは」
「私がいなくなって、貴方が私になってからのこと」
「だからもう二度と私と貴方が会うことはない」
僕はその言葉を聞くのを最後に、廃墟を後にした。愛車に戻った時、ちょうど西の山の尾根に、太陽が消えたのが見えた。僕はカメラの中身を確認することをしなかった。そこに何が映っていたとしても、それはどうでもいいことだった。愛車のエンジンをかけると、迷うことなく僕はカメラのフォルダ、今日の日付のものを全て削除した。一枚として見ることなく。今日の全ては僕の脳裏に焼き付いている。写真の中であの景色を見てしまえば、脳裏に描かれた完璧な調和が乱れてしまうように思われた。
帰りの道すがら、僕の脳裏には、一つの椅子の上にガラスの花瓶におさめられた、一本の黒い薔薇の静物画が浮かび続けていた。
それは死と退廃に彩られた、完全な白黒の芸術に他ならなかった。
黒い薔薇のある静物画 鹽夜亮 @yuu1201
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