終幕 β
β
「ミチルさんミチルさん」
「はい。なんですかオズ」
今日も今日とて、いつもと変わらぬ調子で声を掛けられて、有栖川ミチルは視線を上げた。細く開いた窓から見える電線に、雀が五羽ばかり肩を並べて喋っている。そのゴム鞠に似た連なりを、オズの白い指が差した。
「食べてもよい?」
「いけません」
今朝から数えて七回目の質問に、やはり七回目の同じ答えを返して、ミチルは視線を掛け布団の上に広げた雑誌へと戻した。先ほどから、真剣な顔で頁をめくっているのは、帝国學園の森林公園にて読みふけっていた、あの『俺たちの
ミチルのベッドの隣に並べたパイプ椅子の上で、オズが残念そうに膝を抱えた。
「……ミチルさん冷たい」
もそっとつぶやいた声は、しかし彼自身の腹から発せられた虫の鳴き声に消えた。
帝都の一番街に建つ聖グリプス病院──特別病棟は十四階の個室である。
約二週間前、救急車でこの病院に運び込まれたミチルは、丸三日間たっぷり熟睡してからいつも通りに目を覚ました。枕元には例によって心配をしまくる兄と、久しぶりに顔を見た宇都宮公義、そして満面笑顔のオズがいて、一様にミチルの覚醒を喜んでいた。その後、医師の診察を受け、健康に異常がないと認められたミチルは、公義から一つの質問をされた。
曰く、自分の身に何が起こったのか覚えているか、というものである。
ミチルの答えは残念ながら「いいえ」であった。
雑木林で人間の片腕を見つけ、意識を失ったことは覚えている。その後、医務室で
しかし、それ以降が曖昧なのである。
どこからかオズの声が聞こえて、外に出たように思うが……わからなかった。
夜風に触れたかすかな記憶を最後に頭の中は白紙となり、飛んで三日後の病室へと繋がっている。それを正直に伝えると、公義は難しい顔をし、ややあって重々しく今回の出来事を説明してくれた。
彼の話によれば、ミチルはいつもの貧血で倒れて医務室で休んでいたところ、忍び込んできた中臣蒼也に襲われたのだという。その際に首の辺りを殴られてベッドから落下。体を床に強打して意識が混濁した。そこへ、ちょうど妹が煉瓦塔の自室にいないことを知って探し回っていたヒロムが現れ、助けられたのだそうだ。
話を聞いて、ミチルは首を傾げた。
公義の説明は一応の筋は通っていたが、微妙に自分の記憶と食い違っているような気がしたのである。それだけのことがあったにしては体は元気で、殴られたという首には傷一つなく、腕や足に痣もない。しかし、何度尋ねても公義や兄は同じことを繰り返すばかりで、それ以上の説明はなかった。
ちなみに、雑木林で見つけた片腕の主は、帝国大學の学生であったらしい。學園の外で事件に遭い、遺体の一部が敷地内に持ち込まれたようだったと、ヒロムが教えてくれた。
ぎゅぅるるるるぅるるるぐぅるるる。
幾度となく耳にする切なげな音色に気を止めて、ミチルは再び傍らを振り向いた。
見ると、パイプ椅子の上で器用に体育座りをしたオズが、膝の上に顎を載せてぼんやり
疑問を抱くたび、訊いてみようとはするものの、
「オズ」
呼べばすぐに振り返る彼のうれしそうな表情を前にすると、何やらどうでも良くなってしまうから不思議である。今回も、思わず引き込まれるように微笑み返してしまい、気づけばミチルは違う話を口にしていた。
「一つ相談してもいいですか?」
オズが、黒い目をわずかにすがめた。
「『獅子の
「う?」
かくり、と首を倒した彼に、ミチルは広げていた雑誌の一角をにこやかに示した。そこには、上半身裸の無駄に筋肉質な男が、何かを叫びながら角刈りの頭髪にトニック剤を注入している写真が掲載されていた。
「いずれ六万円が貯まったら、買って兄さんに贈ろうと思うのです。でも、ハイドゥ社製は二種類あるので迷っています」
「…………」
「ここに書いてある解説によりますと、『獅子の鬣』は野性的な毛根に、『龍の髭』は神秘的な毛根にしてくれるそうです。どちらも捨て難く思います」
軽く眉間に皺を寄せて悩むミチルの顔と、雑誌の写真とを、オズは交互に見た。そうして少し思案げにしてから、おもむろに雑誌を指さしているミチルの手を取る。
「私はこれがいい」
そう言って、人差し指を立てたままの手の甲に
予想もしなかったオズの行動に、驚いたのはミチルである。
やや
やってきたのは、洗濯籠を抱えた兄のヒロムであった。
「あーうー、やっと乾燥が終わったぞー。ミチ、」
〝ル〟の形に唇をすぼめて兄は固まった。彼の目は、妹と、その手に口づけているオズの姿を余すところなく映していた。不穏な沈黙の後、宙を舞った洗濯籠が、中の衣類をまき散らしながらオズの頭にヒットする。
「何をしていやがるのだ、この爆睡吸血鬼め!」
しかし、オズのほうは動じる気配もなく、洗濯籠を頭に乗せた格好でミチルの手に頬を寄せた。それを見て、ヒロムがきいいいっと奇怪な叫び声を発する。
「寄るな触るなすりすりするなあっ。だから嫌だったんだ。こいつを一緒の部屋に入れておくのは! やっぱり引き離すべきだ! 問答無用で保管庫の棺に詰めて永遠の眠りにつかせるべきだったのだ。それをそれを……
「うるさい」
オズが冷たい一瞥を投げた。それにますますヒロムの頭に血が上る。
「んなら、もっと離れなさいっっ」
今にも掴みかかりそうな勢いの兄を、すでにこのやりとりに慣れてしまったミチルが冷静に止めた。
「落ち着いてください兄さん」
ちなみに、布団の上に広げていた例の雑誌は、早々に枕の下に隠している。
「まず、洗濯籠は病院の備品なのですから、投げちゃ駄目なのです」
「大丈夫だ、壊れていない!」
「次に、オズは私の大切な
「! だ、だってお前」
「いつも一緒にいるよう學園からお達しがあったのでしょう? 宇都宮さんもそう仰っていました」
ミチルが公義の名を出すと、苦い顔で押し黙った。
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「でも、だな」
一度は沈黙したものの、依然として妹の手を離さないオズを睨んで、ヒロムはまた口を開こうとする。だが、ミチルは皆まで言わせず、「それよりも」と先手を打った。
「私はまだ退院できないのですか」
救急車で運ばれた日から数えて、今日でかれこれ二週間である。
体はもう回復しているし、最近は貧血症状も現れていない。なのにどういうわけかミチルは退院が許されず、毎日検査だのなんだので、いまだに同じ病院にいる母の見舞いにも行かせてもらっていなかったのだ。
いい加減に不満顔になっている妹に、ヒロムが視線を逸らして頷いた。
「明日、新しい血液検査の結果が出るから……局長が確認してオッケーだったら、退院、かな」
「本当に?」
「たぶん」
歯切れが悪い。
むう、とミチルの頬が気持ち膨れた時、開きっぱなしだった部屋の入口に新たな訪問者が顔を覗かせた。オレンジ色に染めたベリーショートの髪が、白い病室を彩る。
「先輩!」
片手に花束を持った彼女を見て、ミチルが膨れていた頬をしぼめて顔を輝かせた。
「はあい。元気そうね?」
先ほどヒロムが投げた洗濯籠のせいで、衣服が散乱した賑やかな室内を目に、
心密かに安堵するミチルは、しかし自分が病院にいる間、式部が先頭に立って中臣蒼也に泣かされた女子学生たちを集め、學園側に訴え出たことを知らなかった。これにより、ミチルに対する暴行未遂で捕らえられていた中臣は、近いうちに帝国學園から除籍されることになっていた。
「そうそう」
ベッドの下に落ちていたパジャマの上着を拾って、式部がミチルの顔を見た。
「あなたにお客さんが来てるわよ。さっき廊下で一緒になったの」
と言って、後ろを振り返る。
つられてミチルが視線を動かすと、確かに入口から一歩引いた位置に、控えめに佇んでいる和装の男性がいた。
緊張した面持ちのその人は、ミチルと目が合うや慌てて被っていたパナマ帽を取り、深々とお辞儀をした。右手に革の手提げ鞄を持っている。そして左手には、今取ったパナマ帽と、
奇しくも、苺のシャルロットの絵柄が描かれたその箱を見て、ミチルが瞳に星を宿したのは言うまでもない。
久しぶりに極上の笑みを浮かべた少女に向かい、訪問者は真っ赤な顔で口を開いた。
「初めまして。私は────────」
エビルレポオト 夏野梢 @kozue_kaze
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