終幕 α
α
私の友人が開いていた喫茶店『スワロウテイル』は、唐突に休業となった。
それというのも、店主を始めとする従業員一同が、一夜にして姿を消してしまったからである。しかし店内の装飾や備品の数々はそっくりそのまま残されており、貸店舗の賃料も指定の銀行口座から支払われている。ゆえに閉店ではなく休業であった。
一言の断りもなく締め切られた喫茶店の入口には、連日、事情を知らぬ客や、または突然に休業となった人気店に興味をそそられた野次馬が訪ねてきたが、数日もするとそれもまばらになった。世間の
とはいえ
座る場所はもちろん、いつもの指定席である。ここは、店内の客席やその向こうの入口の死角になっているので、隠れて寛ぐには便利なのだ。それに、珈琲豆の香りは外から覗いただけではわからない。
「……
薄くもなければ濃くもない。よって無難だが、つまらない。
自分で淹れたウィンナー珈琲の味気なさに、私は溜め息をついた。
今にして思えば、裏口の鍵をあんなにわかりやすい場所に隠したのは、彼がこうなることを見越していたからのような気がしてならない。
鉢植えの下に見つけて返しそびれてしまった鍵は、現在も私の懐の中にある。おかげで私は、この建物の貸し主から彼の代理人のように扱われるはめとなっていた。
断ろうと思えば断れたのだが、彼の正体が正体である上に、私の指定席の下には
我ながら情けないとは思うものの、近頃ではすっかり、週に二三度の割合で店に来て、換気や軽い掃除をするのに体が慣れてきている。しかし、掃除の後の一杯はいつまで経っても美味く感じなかった。
私は、中身が半分残ったカップをカウンターの上に置いて、再び溜め息をついた。
窓ガラス越しに差し込む午後の日差しを吸って、珍しくも半透明の赤いカップが怪しい影を落としている。この茶器の出所が、帝国學園の地下迷宮だなどと誰が思うだろう。
いまだに、二週間前の満月の夜が夢のような気がする私は、
「趣味の悪いことだ」
と、あれきり帰って来ない男に向かって文句を言った。
なぜならば、彼が告白をする少し前に、別の人物によって今回の出来事のあらましを、ほとんど教えてもらっていたからである。
その人物は、地下隧道を通って帝国學園の魔族保管庫にやってきた私の前に、足音と声だけで現れた。実際は無数にある棺の影にでも身を潜めていたのだろうが、腰を抜かしていた私には声だけでも十分に怖ろしく感じられた。
彼──男の声であった──は、便宜上『
そして、私の知る詩堂という名前の男は魔族であることと、彼ら吸血鬼たちが十八年前から起こしている諍い、さらには
私は承諾せざるを得なかった。
L氏の口調には有無を言わせぬものがあったし、彼の話が本当なら頼みを聞くことはやぶさかではないと思ったのだ。何より、あの怖ろしい魔族たちが眠る地下空間から一刻も早く逃げ出したかった。
L氏は礼の代わりにと、地下迷宮から外へ出る抜け道を私に教えて立ち去った。他に方法もないので彼の言葉に従ったところ、私は學園の外れにある焼却炉の脇に辿り着いた。そこから出口を探して雑木林を歩いているうちに、詩堂の声が聞こえ、あの深夜の邂逅と相成ったわけである。
その後──L氏からの接触はない。
詩堂と交わした会話から、彼の正体は自ずと知れるような気がしたが、私は敢えて思考を停止させてわからないことにしていた。今さら何かを知ったところで、友人が帰ってくるわけもないからだ。
「さて」
私は冷めた珈琲を流しに捨てて、立ち上がった。相変わらず指定席の下には閉ざされた跳ね扉が存在しているが、もう
鞄の中には、幾重にも布を巻いた抜き身の短剣が収められていた。
あの夜、駆けつけてきた
かくして私は、もとから現場にはいなかった人間となり、後からやってきた宇都宮公義らに黙認されつつ、短剣を手に密かに學園を出たのだった。──帝都を震撼させた通り魔『
それから二週間。もうこの物騒な代物を手放してもいい頃合いだろう。しかし、先方からは一向に連絡がない。仕方がないので、本日こちらから返しに伺うことにしたのだ。よくよく見れば短剣には名前が刻まれており、私は勝手にその相手を持ち主と定めた。
持ち主は現在、彼女と聖グリプス病院にいるという。
……誤解のないように言っておくが、決して短剣を口実に彼女とお近づきになろうとしているわけではない。顔を見に行くのは、あくまでもついでである。
裏口を開けると、喫茶店の外では、もうじき六月を迎える初夏の風が吹いていた。
降り注ぐ日差しの眩さに目を細めて、私は、見舞いの品は何がいいだろうかと考えた。
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