第四幕 ⅳ


 第四幕アクトフオウ



     ⅳ


 ほどなくして、山根は信じられないという面持ちで足を止めた。

 彼の大作りな見慣れた顔を、シグルドが困ったような可笑しいような曖昧な表情で見返している。左手はまだ少女の首を掴んだままであった。その光景を前にして、

「……何をしている」

 再び山根が呻くように言った。驚愕と恐怖とを浮かべた視線が下がり、シグルドの千切れかけた右腕に流れ、左腕を経由して有栖川ミチルの痛々しい姿に落ちる。途端に、彼の視線に憤りが追加されたのを察して、「きみも存外に物好きなのだな」とシグルドが肩を竦めた。

「そんな格好でよくここまで来たものだ」

「質問に答えてくれ」

 珍しく強い語調で返され、シグルドはさらに肩を竦めた。

「まあ落ち着きたまえ。これには理由がある」

「どんな理由があるというのだ?」

「きみには関係のない理由だよ」

「ふざけるな!」

 いつもなら適当に応酬するところを、今日ばかりは山根は激昂した。

「どっ、どんな理由があれば、スワロウテイルと帝国學園の地下迷宮が繋がっていて、そこの喫茶店主が幼気いたいけな女子学生に危害を加えようとする場面が生まれるのだ?! 関係ないわけがないだろう?! だって隧道ずいどうに下りる鉄梯子てつばしごは、私の尻の下にあったじゃあないか!」

 興奮のあまり裏返った声で喚く彼に、シグルドはいくらかばつの悪い顔をする。

「あそこがちょうど、隧道と繋げるのに具合が良い場所だったのだよ」

「だから何故こんなことをする必要がある? 理由を言え、理由をっ」

「見ての通りだ」

「それじゃあわからん!」

 地団駄を踏む山根の顔色は真っ青であった。どうやら、口ぶり以上に事を知った衝撃は大きかったようである。

「わかるだろうに。いや、」

 対して、シグルドの物言いは冷たかった。

「わかっていただろう?」

 そもそも五番街の喫茶店『スワロウテイル』の主人は、謎に満ちていた。詩堂という姓以外はほとんどが不明で、住所や下の名前でさえ明らかになっていない。そして、そのことを誰よりも承知しているのが山根だったはずなのだ。

「ああ、わかっていたとも。きみは怪しい奴だ。喫茶店と地下隧道が繋がっていた絡繰からくりも、知ってしまえばあり得そうだと思えるほどに怪しい奴だ。そういうことなら、帝都の情報に異様に詳しい理由も納得がいく」

「では何が不満だ? もしかして、私が人間ではないことかな? 確かにそれは言っていなかったと思うが」

 重要事項をさらりと告げられて、山根が一瞬絶句した。が、すぐに思い直したように険しい顔でシグルドを睨む。

「そうだな……聞いていなかったな」

「ちなみに、吸血鬼バンパイヤという種だ」

「…………」

「もう一つおまけに言うと、この有栖川ミチルは吸血鬼と人間の混血種なのだよ。前に話した裏切り者カインのことを覚えているかい? 奴の娘だ」

 山根は無言で瞑目し、深い息を吐いた。

 その姿は、今まさに真実を知って狼狽しているというよりは、聞きたくなかったことを聞かされて機嫌を悪くしている風であった。しばらくして、「悪い冗談だ」とつぶやいたのを耳に、シグルドは片眉を上げる。

「驚かないのか?」

「驚いているとも。むしろ呆れてしまうよ。きみにも、私自身にも」

「ほう?」

 興味の色を湛えた、けれども人間ではありえない葡萄酒色の瞳を、山根はまっすぐに見つめた。

「どうせ私は吸血鬼と人間の見分けがつかないさ。彼女が男連れでいる時も、相手のオズとかいう奴の正体に思い至らなかったぐらいだ。そんな私をからかうのは楽しかったか詩堂? 今夜きみは、わざとずさんな行動をしておいたろう? 裏口の鍵を鉢植えの下なんぞに置いたり、地下に続く跳ね扉をきちんと閉めておかなかったり──おおかた、それを見つけた私がどうするか想像して面白がっていたな」

 半ば諦めを含んだ友人の言葉を肯定するように、シグルドが笑った。

「やっぱりわかっているのじゃないか」

「だからわかっていると言ったろう」

 憤懣ふんまんやるかたない様子で、山根が体ごと大きく首を振った。

「薄々わかっていて、ここまで来てしまう自分が嫌になる。毎度ながら、それを承知で仕掛けるきみの性格もどうかと思う」

 彼をこの場所に導いたのは、喫茶店の休業日を巡る話のように、よく二人が交わす暗黙の遊びと同じであった。だが今回は、少なくとも山根は嫌悪感を抱いており、シグルドのほうは逆に愉快そうにしていた。

「好奇心旺盛な山根くんのことだ、きっと見つけるはずだと思っていたよ」

「とはいえ、ここまでは来ると思っていなかったか?」

「半分は。後の半分は期待していた」

「期待?」

「きみはずっと私の正体を知りたがっていたからね。ここまで来られたら教えてあげようと思っていた」

 山根はわずかに鼻白んだ。

莫迦ばかにされたものだな」

 自嘲気味の一言に、しかしシグルドは「とんでもない」と即座に否定する。

「私はきみのそういうところが気に入っているのだよ。何しろ我が兄弟ですら、私の遊びに付き合ってくれる者は少なくてね。オズなどは遊びと言えば肉弾戦しか頭にない。山根くんのような人物は貴重だ」

「それは痛み入る」

 平板な調子で言って、山根の表情がふと改まる。視線は再びシグルドの左腕を辿り、その手が掴む少女の首で停止した。先ほどまで虚ろに開いていたミチルの目は、今はもう瞼の下に隠れていた。いつの間にか、死んだように意識を失っている彼女を注視して、山根は友人だった吸血鬼に懇願した。

「きみの遊びに乗ってここまで来たのだ。満足だろう? おかげでへとへとになった私に免じて彼女を離してはくれまいか」

 シグルドは唇を横に引く独特の笑みを見せた。

「らしい言い分だ」

 どこか達観した口調で言って、あっさりとミチルの首から左手を外す。

「問答無用で離せと言われれば、即座に握り潰したところだが。……そんなにこの娘が好きなのかね?」

 問いかけではなく、確認の響きを持ったシグルドの言葉に、山根の顔が傍目はためにもそうと知れるほどに赤くなった。

「ばっ、莫迦を言うなっ。そんな乳臭ちちくさい学生にわ、私がっ、もったいない! あ、いや、これは私ではなくて、彼女に私がという意味でだな!」

 意味のわからない友人の言い訳を黙殺して、シグルドは草の上に倒れているミチルを一瞥する。つい今の今まで赤黒く腫れていた彼女の首筋は、彼が手を離したことで鬱血から解放され、すでに回復を始めていた。

「山根くんといい、オズといい、ビィビィといい、揃いも揃って骨抜きにされるとは、大した毒をお持ちだな、半魔のお嬢さん」

 皮肉げに言った瞬間、雑木林の奥で雄叫びが上がった。同時に周囲の木々が激しい葉ずれを起こし、どこかで枝や幹が軋んで折れる音がする。その派手な破壊音に、山根が口を噤んだ。一秒ほど硬直した後、「なんだなんだ」とうるさく言うのを横に見て、シグルドは地面についていた片膝を引いて立ち上がる。

「そろそろ潮時か」

 と、歩き出しながら左手で吹いたのは指笛である。そこに山根が追いすがった。

「ま、待て詩堂。これはなんだ?」

「オズが暴れているらしい。じきに幹でも折って現れるだろう」

「は? みき?」

 きょとんと目を見開いた友人を振り向き、シグルドは倒れているミチルを軽く顎で指し示した。

「大丈夫だ。彼女さえ無事なら人間ごときに何もすまい」

「ごときって──お、おい、待ってくれ! どこへ行く?!」

 短く言い置いて立ち去ろうとする彼を、なおも山根は追いかける。しかし、途中で相手の背中から無言の圧力が発せられ、足が動かなくなった。動かなくさせられたと言ってもいい。その間も、シグルドの歩みは進んでいる。

「どこへ行くんだ!」

 もう一度、山根が声を張り上げると、思案するかのような沈黙を挟んで、黒い後ろ姿が止まった。

「今回は目論見もくろみが外れてしまったからね。次の手を考えなくてはならないのだよ」

 かろうじて声の届く範囲からの応答に、

「カインか?」

 山根が緊張気味にその名を口にする。ひどく事務的にシグルドが「そうだ」と頷いた。

「奴め。私が動いていることは察知しているはずなのに、娘を餌にしても結局は姿を現さなかった」

「……なぜそんなにこだわる?」

 しばしの間があった。やがて、夜空の雲をたなびかせ、雑木林をどよめかせる風に乗って、無感情な答えが返った。

「エビル・レポートだ」

 山根が首を傾げる。

「えび、なんだって?」

「魔族報告書とも言う。カインが明かした制御暗号の印譜いんぷは、報告書として他の研究機関に複写コピーが送られていた。我らが焼却したのはその原本だ。もちろん複写のほうも調べ上げてすでにほとんどの在り処は掴んでいる。が、妙な保護プロテクトがかかっていてね。容易に閲覧ができない代わりに、焼却もできない。研究者たちもお手上げで、ゆえに吸血鬼の研究は凍結されている。どうやら、解除できるのはカインの奴だけらしいのだ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、シグルドは言った。後ろ姿でも、そうと知れる声と物言いであった。

「だから私はもう一度、奴に会わなければならない」

 制裁も必要だが、実はそちらのほうが急務だと聞いて、山根はしかつめらしく口を開いた。

「そこまでする必要があるのか? 閲覧できないなら、焼却されたも同然だろうに」

「いいや違う」

 即答して、シグルドがちらりと振り返る。

「カインが生きている以上、我らのエビル・レポートが世に出ない保証はない。きみは、己の自由意志が他人に奪われる方法をばらまかれて、平気で生活していられるかい?」

 そう言われて、山根が返す言葉を失った時、風がいっそう強く吹いた。

 いや、それは自然の風ではなかった。千切れた草や小枝、砂などが上空へと一斉に舞い上がり、山根は思わず袖で顔面を覆う。ややあって、そろりと腕を下ろすと目の前の光景は一変していた。

 そこに現れていたのは、黒いほろの馬車であった。

 車を引いているのは、背に大きな一対の翼を持つ天馬ペガススである。

 山根はその馬が、五番街の喫茶店主が所有するイカロスという名の魔族であることを、よく知っていた。しかし、彼の記憶の中ではイカロスは天馬であっても複製種で、翼は飾り以外の何物でもなく、空を飛ぶことなどできないはずであった。

 なのに、今こうして目の前にやってきたイカロスは、背の翼を羽ばたかせ、足で宙を掻いて窪地の上数センチの位置で滞空している。

「いつから」

 飛べるようになった?

 声にならない山根の問いを汲み取って、シグルドが答えた。

「もとからだ」

「まさか」

「こいつは複製種ではなくて原種だよ。帝国學園の地下にいた魔族でね、生まれつき目が見えないために、地下墳墓カタコンベにうち捨てられていたのを失敬した」

 簡単に説明しつつ、シグルドは軽く地面を蹴って御者台に飛び乗った。そこにはすでに、やはり山根のよく知る青年がイカロスの手綱を握っていた。

因幡いなばくん」

 山根は瞳をすがめた。

 女性客からの人気が高かった青年従業員の姿に、ふと思い出すことがあったのだ。

 青年はかの有名な因幡博士の血縁者であるという。これまではそう教えられても聞き流すだけだったが、その因幡博士ゆかりの帝国學園の地下に、シグルドが頻繁に出入りしていたとなると、話は変わってくる。

 今夜、地下迷宮の管理体制システムは一時的な停止状態にあった。

 おそらく何者かが、警備に仕掛けを施した影響だと思われる。おかげで山根は、本来なら不法侵入で捕まるところを逃げおおすことができたわけだが、問題は警備を攪乱かくらんした犯人であった。そんな芸当ができるのは、内部構造を知っている者以外にはあり得ないのだ。

「きみの仕業か!」

 しかし、山根の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、当の因幡青年はいつもと同じように会釈を返しただけだった。そうして、引き絞っていた手綱を緩める。

 合図を受けてイカロスが甲高くいななき、より強く翼を羽ばたかせた。

「詩堂!」

 山根の叫び声が、再び起こった突風にかき消される。

「待────」

 土埃が舞って窪地の泥が跳ねる中、山根の脳に直接、彼の静かな声が響いた。


「いずれ、また」


 柄にもなく神妙な声であった。

 風が最大になる。

 堪らずにまた袖を盾にした彼が慌てて顔を上げると、もう黒い幌を張った馬車は影も形もなくなっていた。



 吹き上げられていた葉が、斜めに空中を泳ぎながら地面に落ちた。

 あっという間に消えてしまった友人とその馬車の余韻から抜け出せず、山根は呆然として夜空を見上げた。二つ揃って昇っていた月は、気づけばだいぶ距離を開けている。それぞれに沈む方角を目指して別れたその月光は、今しがたの突風でほぼ干上がった水溜まりの穴と、ぬかるんだ地面についた鴉たちの足跡と、首の折れた悪魔の亡骸と、意識を失った有栖川ミチルと、その傍らで立ち尽くす山根とを等しく照らしていた。

 そこへもう一つ、木の葉だらけの男の影が加わる。

「逃げたか」

 悔しそうに舌打ちをした彼は、おぼつかない足取りで雑木林の中から現れた。声につられて後ろを振り向いた山根が、折れた枝でフロックコートの裾をずたずたにした姿を目の当たりにして、盛大な悲鳴を上げたのは言うまでもない。

 枝ばかりか、胸の中心に短剣の柄まで生やした吸血鬼──オズは、胡乱うろんな顔で和装の小説家を眺めた。

「うるさい黙れ」

 彼の背中には、無理矢理引きはがした樹木の皮と幹の破片がついている。それを見て、山根は慌てて己の悲鳴を手で封じた。一方オズのほうは、一瞬、何かを探すように視線を宙に彷徨わせてから、すぐに目的のものを見つけて表情を曇らせた。

「ミチルさん」

 言って、深草の上に横たわったまま動かない少女の前に、ゆるゆると両膝をつく。当然のことながら、呼びかけに対する応答はない。しばらく彼女の痛ましい寝顔を見つめていたオズは、その顔から視線は外さずに「おい、貴様」とまた山根に声を掛けた。

「は、はい」

 跳ね上がるように彼が身を正すと、オズの指が胸から生える短剣を示した。

「これを抜け」

「はい……えええっ?」

 勢いで答えてしまってから、山根は即座に困った顔になる。

「抜けというのはつまり、それを握って力を込めて引けと、そういうことですか。わ、わわわ私が?」

「何をごちゃごちゃ言ってる。早くしろ。私ではこれにさわれないのだ」

「い、いや、しかし」

「そう怯えずともよい。貴様は食わないでおいてやる。前にミチルさんが駄目だと言っていた」

「は、はあ」

 わけがわからずに頷いて、だがなおも躊躇う山根に、オズが再び低く命じた。

「早くしろ」

「はいっ」

 再び気を付けの姿勢を取った山根は、半ば自棄気味に柄に手を掛けた。

 それから奮闘すること一分あまり、オズは苦痛に、山根は普段使わない馬力に呻いたすえに、緑柱石の短剣は引き抜かれた。二人して荒い息をつく中、うちの一人が緩慢な動きでミチルのもとへ這っていく。オズであった。

「ミチルさ、ん」

 かすれた声で呼んで、彼は体から吹き出す己の血を啜ると、彼女の上に覆い被さった。白を通り越して青くなっている顔に顔を寄せ、口移しで血を飲ませる。けれども、意識のないミチルは容易に嚥下えんかすることができず、何度も唇の端からこぼしては同じことを繰り返した。やがて、ようやく一つ細い喉が上下する。

 それと共に、彼女の頬に赤みが差してくるのを確認して、オズの表情が和んだ。その目から、赤く禍々まがまがしかった色が褪せていく。急速に光を失い、ついに以前のような黒瞳こくどうに戻った途端、一気に脱力した体が地面に倒れた。

「そんな」

 オズの昏倒から数秒ほど置いて、情けない声を出したのは山根であった。

 不覚にも吸血鬼の行為に見入ってしまい、声を掛けそびれた彼の手の中には、血で濡れた緑柱石の短剣が鈍く輝いていた。

「どうしろと言うのだ」

 こうしている間も夜は更けていくばかりである。

 途方に暮れる彼の耳に、その時、遠くで人を叫ぶ声がした。

 ミチル、ミチル、ミチルぅぅぅぅう──────と、馬鹿の一つ覚えよろしく、同じ名前を猛烈に連呼している。

 それだけで相手が誰かを察した山根は、応えを返すべく、思い切り深く息を吸った。

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