第四幕 ⅲ
ⅲ
「だから巻き込むなと言ったのに」
有栖川ミチルの変貌ぶりを見て、シグルドは嘆息混じりに言葉を落とした。
表情一つ変えずに魔族を絞め上げた少女の首にはもう、痛々しい傷はない。彼女は動かなくなったビビアンの体を地面に投げ出すと、傍らに落ちていた例の赤い傘を拾った。開いていた逆さチューリップをすぼめ、鋭く前に出た先端部を、俯せた背中に突き刺す。一度びくりと大きく跳ねた人型のシルエットは、すぐに糸の切れた操り人形のように弛緩して果てた。
その姿が、傘の扱われ方こそ違うが、赤の帽子屋に襲われた直後の父親──有栖川
「ミチルさん」
なんの感慨もない目で、鳥頭の悪魔とその背中に咲いたチューリップを眺める彼女を、オズが呼んだ。
声にふくまれた嬉色に、シグルドが眉をひそめる。
顔を上げたミチルは、自分を呼んだ相手を認めると、止まっていた足を動かした。
待ち構えていたオズの両腕が、おいで、という風に開く。それに
「良かった、死ななかったね」
「…………」
弾んだ調子で言うオズを、ミチルの
二つの月光の真下で、ニコニコ抱き合っている彼らの向かい側で、シグルドが嫌なものでも見たような顔をした。じきに、
「またか」
と響いた声はひどく刺々しかった。
「これでは〝あの男〟の二の舞だ」
ミチルを懐に入れた格好で、オズが振り向いた。
「うるさいな邪魔するな」
「結局は、貴殿も腑抜けに成り下がったというわけか」
「だから誰が腑抜けだ?」
「お前だ」
忌々しげに吐き捨てた途端、シグルドの口からこれまでの抑えた物言いが消えた。
「なぜよりによって有栖川ミチルなのだ? お前は彼女が何者か知っていてそうしているのか?」
強い問いかけに、しかしオズは平然として「もちろん」と頷いた。
「知っているとも」
「なに」
「カインの娘だろう?」
事も無げに告げられて、苦い沈黙を返したのはシグルドのほうである。そしてその沈黙が答えでもあった。
「初めて会った時から妙だと思っていた」
オズが目を細めて、腕の中にいるミチルを見た。
「この娘からは、人間と同族の両方が混じり合った匂いがする。おかげで迷っているうちに食えなくなった」
「ではなぜ吸血した」
「決まってる。腹が減ったからさ」
わけもなく自信満々に、オズは答えた。
「目覚めてから一番最初に牙を立てる相手はミチルさんだと決めていた。半魔なら死ぬこともなかろうし、それに……誰の
「物好きなことだ」
眉間にきつく皺を刻んだまま、シグルドは「そうだ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「十八年前、〝あの男〟が馬鹿らしい脱走の後で研究所に連れ戻された時、一緒にいた人間の女は身ごもっていた。だからこそ〝あの男〟は取引をしたのだ。奴は、人間と魔族の混血児である自分の子を無事に出産させることを条件に、仲間を売った……!」
シグルドの目が射るようにミチルを捉えた。今の今まで黒かったその瞳が、彼女やオズと似たような赤みを帯びている。けれどもそれは血色でもなければ
「生まれた子供は、半魔とはいえ普通の人間と変わりなかったと聞いている。研究員たちは落胆し、産後の肥立ちが悪い母親と共に帰国させた。その頃はもう〝あの男〟は我らの襲撃で行方知れずになっていた。ゆえに箱舟管理局は、親子の警護と監視体制を強化する意味で、母親を職員の一人と結婚させたそうだ──有栖川実秋という男とね」
再び、シグルドがミチルを
「当時、子供はまだ一歳にも満たなかった。本人は何も知るまい。自分が有栖川家の実子ではないことも、人間ではないことも」
会話の合間を見計らったように強い風が吹いた。周囲の木々が枝葉を揺らし、先ほどまで快晴だった夜空に、どこからか湧いた灰色の雲がかかっている。気温が低くなってきていた。
茫洋としているミチルの、乱れた前髪をオズの手が撫でた。ついでに彼女の滑らかな頬にまで指を落としながら、「まあ私は、シドの事情もカインの事情もどうでもいいんだが」と前置きをして口を開く。
「有栖川実秋とやらをあの使い魔が殺したのは、偶然か?」
言って、死んでいる
不本意そうにシグルドが頷いた。
「標的の選択はまったくの無作為だった。その中に有栖川ミチルの養父が入ってしまうとは、不幸な偶然だ。私は、できるなら彼女を刺激したくはなかったのだがね」
今や表情に変化が見られるようになった彼の顔には、後悔というよりは諦めに近い色が浮かんでいた。
「心理的な負担は、血の中に眠っている魔性が目覚めるきっかけとなる。せっかく
三度シグルドは、ミチルと、彼女を抱えるオズとを睨んだ。
「どうやら遅かったらしい。お前たちが接触を持ってしまった時点で、私は方針を変えるべきだった」
二人が出会ったことで、事態はすっかり彼の想定外の方向へと転がってしまった。
刷り込み薬の作用があるとはいえ、オズはカインの娘の有栖川ミチルを慕い、あまつさえ吸血し、その牙によって覚醒した彼女の魔は、赤の帽子屋だったビビアンを討ち果たした。なのに、本来の標的であるカインは傘の挑発に乗ってくるどころか、姿を現す気配もない。すべては、計画が裏目に出た結果であった。
「まったく」
嘆くように片手で顔面を覆い、シグルドは天を仰いだ。
「少し回りくどかったな」
誰に言うともなくこぼして、つるりと外した手の下から青ざめた顔が現れる。暗い炎を宿した葡萄酒色の瞳が、まっすぐにミチルを見た。その毒を吹くような視線の前へ、オズが体を割り込ませた時にはもう、シグルドは動いていた。
水溜まりの向こう側で黒いスーツ姿がかき消え、一瞬でミチルの右隣にやってくる。彼女の肩を掴もうと伸ばした右手は、しかし寸前で舌打ちと共に身を反転させたオズの、やはり右手によって阻まれた。
「何をする気だ?」
どこか茶化した口調でオズが尋ねた。笑ってはいるものの、血色をした彼の瞳の中には同じく闇がある。
「こうなった以上は仕方あるまい?」
シグルドが淡々と応じる。彼の目はオズではなく、その背後に庇われているミチルを注視している。二人が組み合った右手同士の間で圧力が拮抗し、骨の軋む音がした。
「そこを
「断る」
「この裏切り者め」
「私もか? 片腹痛いなシド。これだから硬い奴は嫌いだ」
「おや意見が合う。昔から私も、お前のことは大嫌いだったのだよオズ」
そう言い放つと、シグルドは空いた左手を閃かせた。瞬く間に現れたのは、一振りの抜き身の短剣である。その
「誰が持っているのか忘れたのか?」
ふっと唇を横に引いて、シグルドの左手が無造作に短剣を振るった。反射的にオズが身を引き、右手の力が緩む。そこに生まれた隙を突いて、黒いスーツ姿はもう一度ミチルに迫った。
「…………」
逃げるわけでも恐怖するわけでもなく、目の前に来たものへの単なる反応として虚ろな少女が顔を上げる。その頬へ、シグルドの右手が伸びた。
「シド!」
唸るような怒声は、けれど今度ばかりは間に合わない。
刹那、肉を打つ乾いた音が夜の雑木林に響き渡った。
吸血鬼の手の甲で、右から左になぎ払うように打ち据えられて、ミチルの上体が大きく傾いだ。そのまま足は地面を離れ、宙を滑って移動する。短くはない滞空時間を経て、吹っ飛んだ体がどさりと草地に落ちた。
それきりぴくりとも動かない様子に、シグルドは目を細める。その耳に、骨の折れる不快な音が届いた。見れば、一瞬遅れて追いついたオズが、ミチルを打った彼の右手首を鷲掴みにし、あらぬ方向へと曲げたところであった。
もはや笑ってはいない。
完全に憤怒の色を表出した同胞の顔を前にして、シグルドが口元を歪める。
「その怒りはどこから湧いてくる? 刷り込み薬のせいか? それとも別の理由か?」
オズは答えなかった。勢いに任せて腕をねじ切ろうとするのを、シグルドは敢えて抵抗せず、逆に引き寄せるようにして体をぶつけた。乱暴な接触による衝撃で、手首に続いて上腕骨が砕けた。スーツの袖の中で肉が裂け、血が噴き出す音がする。が、直後に苦しげな声を発したのは、右腕を破壊されたシグルドではなくオズのほうだった。
「……き、さま」
「
皮と、わずかな肉片でかろうじて繋がっている右腕の惨状には目もくれないで、シグルドは左手に力を込めた。オズが体を引いて短剣を抜こうとするのを許さず、前へ足を踏み出してさらに深く刺そうとする。後退する側と前進する側。まるで十数分前のビビアンとオズのやりとりのように、連動しつつ移動していった二人の吸血鬼は、唐突にオズの後ろ頭が一本の樹木に行き当たったことで止まった。
相手が逃げ場を失ったのを幸いに、シグルドが一気に踏み込む。
短剣が心臓を貫通し、オズの口から苦痛の声が
やがて、吸血鬼の強い力により、柄の根本近くまで沈んだ短剣は、先端部が彼の背中を割って樹の幹に刺さった。
「────っ」
再び叫んだオズが、両腕を振って暴れる。しかし、刃は樹木にしっかりと食い込んでびくともせず、逆に抜こうとすればするほど、短剣は体を深く傷つけた。
「しばらく、そこでじっとしていろ」
樹に縫い止められた格好で吠えるオズを一瞥し、シグルドは踵を返した。左手で懐からハンカチーフを取り出して、己の革靴を軽く払う。そうして窪地の泥を落とされた靴が向かった先は、草地の上で倒れ伏している少女のもとであった。
「……さすがに我らの血を引くだけのことはある」
ミチルは生きていた。
打たれた際に切れた唇の端から血を流し、首筋を赤黒く染めながら、それでも瞳を開いている。浅い呼吸を繰り返す彼女を感心したように見下ろして、シグルドは身を屈めた。左手を伸ばして制服の襟元を掴むと、おもむろに空中へと吊り上げる。
「カイン!」
少女の体を片腕一本で高々と掲げ、彼は忌々しげに声を張った。
「いるのだろう? 出てきたまえ!」
夜気を裂く
「まだ十八年前の話は終わっていない」
どこかで怯えたように鴉が鳴いた。シグルドは続ける。
「来なければ、お前の娘の首が、ここで落ちることになるが良いか?」
冷たく告げてミチルの襟をきつく締め上げると、かすかに開いた彼女の唇から悲鳴のような声が漏れた。しかし、呼びかけに対する反応はない。短いとも長いともつかない残酷な沈黙を経て、シグルドが「そうか」と独りごちる。
「ようくわかった」
腕を下ろして跪き、またミチルを草地に寝かせた彼は、襟元に掛けていた手を細い首に移動させた。赤黒く腫れた打撲痕を容赦なく掴まれて、ミチルの体が跳ね上がる。シグルドの力ならば、少し握っただけでたちまち折れてしまいそうである。
冗談でもはったりでもない感情を宿して、葡萄酒色の瞳が光る。
指先が白く透き通り、力が込められた。
「やめろ!」
その時、後方で制止の声が響いた。
待ち望んでいたリュカインの声ではない。オズでもない。
しかし、知りすぎるほどによく知っているその声に、シグルドは驚いて振り返った。
「や、や、や、ややややめるんだ
震える声を振り絞りながら、水溜まり手前の茂みの中から和装の男が現れた。今さら誰かと問うまでもない、それはこの一年弱の間、五番街の喫茶店にほぼ毎日通ってきていた常連客であった。
「い、一体きみは何をやってるのだ?!」
声と同様に、震える足でおたおたと茂みをかき分けてくる小説家──
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