スタンとニール 読切版

@karutu

スタンとニール


「最近は事件を起こすと犯人の両親の職業まで晒される世の中になっちまったんだなぁ」

「......そうなのか?」

 スタンは運転席で、数時間座りっぱなしのおかげで凝り始めた右肩を、左手で解しながら、助手席に座る大男のお喋りにうんざりした様子で形だけの相槌を打った。

「ほら、見ろよこれ。さっき入れたニュースアプリの見出し。元防衛大臣の息子が経営するライブハウスでドラッグ捌いてたってよ。おかげで親父は明日の朝に謝罪会見で退任の話をするらしい」

「そうか」

「でもなぁ、親がどんだけ偉かろうがその子供も利口って訳じゃないと思うんだよな。何のために親の七光りって言葉があるんだよ? 親の威を借りて全能感に酔っちまって調子に乗るのが人間てもんじゃないのか?」

「そうかもな」

「だろー!? 高官のジジイだろうがパートのおばちゃんだろうが、育て方で違う人間が出来るよなぁ。むしろ貧しい方が優しい心を持ってると思う! 人の痛みが分かるというか何というか」

「こないだ他人の首をへし折って貰った金で肉を食いまくったやつが、それを言える立場にあるのかな?」

「おお、それもそうか。ははっ、俺ってば自分を棚に上げちゃダメだよなぁ」

 スタンの皮肉めいた言動にも、ニールは笑顔を見せた。能天気な大男の様子に、いら立ちを感じたスタンの深いため息が狭い車内に響く。

「ニール。張り込みの時ぐらい黙ってろ。暇なら、そのタブレットでラジオでも何でも聞いて良い」

「でも......俺が一人で楽しんでたらスタンが寂しがる」

「......寂しくない」

「即答しないってことは寂しいってことだ」

「あまりにバカバカしいから言葉を失っただけだ」

「分かったよ。そういうことにしとく。まったく、スタンは意地っ張りだなぁ」

「ニール」

 視線のみを動かし、下から睨みあげて凄むスタンの空気ごと凍らせるような気迫に、ニールはお喋りで楽しく弾んでいた胸中がしぼんでいくのを感じた。毎度のことだが、こうして二人乗りの狭い車内に押し込められているとつい早口でまくし立てる自分の悪い癖を、今更ながら思い出す。

「ごめん……」

「お前のお喋りは嫌いじゃないが、今はやめろ。分かったか?」

「分かった……」

 思い出した頃には、いつもスタンの機嫌が急降下のあと、そのまま直行を続ける。この体感距離三十センチも満たない空間が氷点下以下になるのは毎度自業自得だが苦手だった。

 何十回目かの後悔のより、肩ごと数センチ削り取ったかのように俯いて落ち込むニールを見て、スタンはもう一度深いため息を吐いた。

 スタンの沸点は、普段であれば割と低い位置ではない。集めた証拠を目の前で広げて浮気を問い詰めたところ、癇癪を起こして顔に水をかけてきた元恋人にも怒らないし、バーの裏を通り過ぎただけで、ガラの悪いティーンエイジャーから新品の靴に唾を吐かれても怒らなかった。怒るエネルギーを循環して、一週間分の洗濯物を回す労力に当てるほうが得意だ。

 だが一つ例外がある。

 仕事中は別だ。仕事をしているときは集中力を使う。全身の労力も、脳のストレス値も尋常ではない。

 だから邪魔が入ると怒る。計画に齟齬が出ると怒る。苛立ちは徐々に積もって怒りに変わる。

「......スタン」

「ん?」

「......ココア買ってきてもいい?」

「静かにな」

 百九十センチの長身を丸めて、いそいそと出て行く背中を一瞥したスタンは、年季の入った座席のシートを変えるべきか悩んで、結論を出した。車両ごと変えてしまおう。

 正直、張り込みに使う車両は地味なほど良い。目撃されても、アストンマーチンだとかムルシエラゴよりも一般的なフォーカス社の車が断然良い。けれども、今乗り回している二人乗りの小さなフォード社のフォーカスには飽きが来ていた。

 たまたま人間、または大量の銃器を積むのに適した車を探していた時、中古車店で色が気に入ったのを購入したのだ。だが惰性で洗車をしないせいで小奇麗なロイヤルブルーの車体には泥や埃、水垢がこびりついて汚い星空を作ってしまっているし、先日派手に社内でやらかしてしまったので、天井を見上げると血痕の北斗七星が恨めし気に浮かんでいる。

 買い換えてしまおうか。そう思って長年握りしめてきたハンドルを見つめると、愛着がない訳でもない、と気付く。一度出した結論を引っ込めるのは癪だが、再考するべきか。

 急遽開かれた脳内会議の最中、買い換える派のスタンが「新車の色はもう少し鮮やかな青色が良い。ほら、こないだCMで見たやつ」と言い出した直後、助手席側の窓ガラスがノックされた。一瞬、サツか質の悪い一般人か、と身構えたが先程ココアを買いに行った大男と知って肩の力を抜き、窓ガラスを開けた。

「ど」

「スタン、これ」

 どうした、と呆れと警戒と諦めを綯交ぜた言葉が出かかるのを、ニールの呑気な声が遮った。が、話の途中で遮られることも苛立ちの一つではあるが、それはスタンの中で今回カウントされなかった。

 ニールが、これ、とスタンに見せるように持ち上げたのは今しがたここで帰宅するのを待ちかねていた標的の男だった。歴史ある由緒正しいマフィアの家系の当主が敬愛している末の息子をヤク漬けにした挙句、昏睡している間に臓器をいくつか取り出して売りさばいた金で自分用のドラッグを購入したドラッグの売人が、鼻血を出して白目を剥いている。

「……あー」

「こいつ、俺がホットココア持って並んでたら目の前でレジの店員をバタフライナイフで脅しやがったから、止めたんだ」

 スタンは依頼主から渡された資料の中の写真を取り出して、男の顔を確認した。前歯は欠け、鼻血で口から下は血まみれだが禿げかかった癖のある髪型と釣り気味の眉毛、しわが目立つ中年男の顔つきは間違いない。写真を見てろくでもなさそう、という印象を見事に裏切らなかった。

「せっかくやけどしないように熱々のを交互に持ち替えて待ってたのに、ぐだぐだ店員と世間話してると思ったら急にだぜ。これだからヤク中って嫌いだ。周りの迷惑を考えろよな」

「お楽しみの後、喉が乾いたんだろ。縛ってトランクに入れろ。殺すなよ」

「おっけー」

 軽々と片手で引きずって行くニールの背中を肩越しに眺めながら、手元を操作してトランクを開ける。成人男性がトランクに乗っかった反動で車内が揺れた。同時に、歯が何本か折れている男の喚き声が聞こえたが、誰かの拳が骨にぶつかったような生々しい音にかき消されたような、そうでないような。

 ニールがトランクを閉めて、助手席に戻ってくる。男を掴んでいた右手はまっさらだが、左手には街灯の明かりで若干のぬめりがあることをスタンは見逃さなかった。特別、夜目が効くというわけではなく、この大男はどこかしら汚しては気にせず車に乗ってくるので注意深くなってしまったのだ。

「殺してないよな?」

 シートベルトを締めるニールにアルコールのウェットティッシュを渡しながら、スタンは一応尋ねた。

「おう。一発かましただけだぜ」

「お前が知ってる一発と俺の考えてる一発の威力は違う」

「そういうもんかね。たぶん生きてる。たぶん」

「ハァー……そういえば、ココアはどうした」

「あっ、忘れた……買ってきて良い?」

「仕事が終わったらだ」

  へーい、と不満げな声を漏らして唇を尖らせるニールを無視して、草むらに潜む肉食動物さながらに、小汚い斑点模様を背負った紺色の車体が静かに動き出した。

 標的の男が帰宅するのを二ブロック先の路地裏で張り込みをしていたので、男の自宅へ向かう必要があった。今回の依頼は標的への復讐以外に、末っ子の臓器の取引先の調査も加わっている。家を丸ごと調べるのは何日かかるかも分からない。そのためスタンは本人への尋問、または拷問も視野に入れている。

 スタンは依頼主からの要望にはなるべく応えることを信条としている。業務の内容自体は法に触れているし、決して褒められたものではないが、自分なりに仕事に誇りを持ちたかった。持てているのか、と聞かれると分からない。今のところ、依頼主から『また頼むよ』と言われた事はあるが、『良い仕事だ』とは言われたことも、聞いたこともない。

 緩やかにハンドルを回し、近隣住民と遭遇する事もなく無事に標的の自宅へ辿り着いた。アンティークな造りの独り身向けアパートだ。標的の男が着ている鼻血で汚れた光沢のあるショッキングピンクのドレスシャツからは想像できないほど、まあ洒落ているアパートにスタンは意外に感じた。同時に気がかりな点がいくつか浮かび、眉間を思わずほぐす。

 アパートというのは少し厄介だ。壁が薄いと物音や大声なんかはすぐ筒抜けになって不審に思われるし、死体はしっかり処理しないと匂いに気付かれてしまう。

 かといって屋上で、というのも以ての外だ。殺し屋の知り合いで、屋上で奮闘していたらたまたまウェブサイトの、地図サービスの航空写真にバッチリ映ってしまったという話を聞いたことがある。その殺し屋はスタンが知る限りやり手の方ではあったので、話題になり警察が介入したが証拠不十分で打ち切りになったらしい。

 口笛を吹きながら、成人男性を肩に担ぐニールを、スタンはちらりと見やった。自分一人ならともかく、こちらにはやや大きめのやんちゃ者がいる。知り合いのようにうまく誤魔化せるか、若干不安なところはある。

 標的の部屋は幸いにも一階の端の部屋だった。隣室と、真上の部屋を偵察したところ、真上に住人はいない。隣室にはおそらく、女性物と思われる花柄の傘と真っ赤なチューリップの鉢植えが玄関先に飾られていた。部屋の明かりは消えているので、もう寝に入っているのだろう。そのまま眠ってくれると有難い。余計な手間を増やすのは気が引ける。

 部屋のドアの前で、ニールが男の尻ポケットを探って小首をかしげる。

「こいつ部屋の鍵持ってねぇ」

「その前に閉まってるか?」

 呆れ気味のアドバイスにおお、と感嘆の声を上げたニールがドアノブを回すと、無防備にも招かれざる客を拒むことはなかった。

 部屋に入ると、素人にも分かるほど何かを焚いた匂いがした。鼻先を摘み、携帯の電灯で足元を照らす。口を縛られたビニール袋の塊を主に、細々としたゴミがそこかしこに散らばっている。ドラッグの売人の部屋は何度か訪れたことがあるが、中の下くらいには汚い。

 スタンは土足のまま、しかし足音には気をつけて部屋に踏み入れる。電気代を払っているという前提で、部屋の明かりを探しながら、同じく土足で静かに歩くニールを振り返った。人間一人を抱えといて、足音や物音を抑える術があるのは、ニールの長所の一つといってもいい。

「そいつを椅子に縛れ。口に布を詰めるのも忘れるな」

「最初に靴下?」

「ああ、そうだ」

 わざわざ聞くな、と言いたいのを抑えながら、ようやく居間の明かりを見つけた。趣味の悪いピンクの蛍光灯にうんざりし、さらに酷いことに酒瓶とタバコの吸い殻が溜まりまくった灰皿、異様に長いパイプ瓶、注射器、白い粉末と乾いた苔のようなものが大量に入っているビニール袋が目に入る。おおむね予想はしていたが、スタンは頭に浮かんだ一言を口にすること以外に感情の捌け口がなかった。

「最悪」

「分かる〜。くせぇしきたねぇし、これじゃ俺たちが粗探ししてもバレねぇな」

 ニールは目に留まったスキャンティを男の口に詰め込み、懐から取り出したガムテープで上から塞いだ。さらに長く伸ばしたテープで男の手足をぐるぐると椅子に巻き付ける。スタンが近づいて巻き具合を確認すると、寝室を指した。

「お前は手帳でも走り書きのメモでもいいから、手がかりを探してこい」

「一人で尋問タイムかよ! ずりぃ〜」

「ニール」

 不機嫌な声を隠さないスタンの声に、ニールは言葉を詰まらせる。

 ニールの悪癖は一つに留まらない。

 基本的に頭脳労働よりも肉体労働の方が得意だ。そして、それは本人も今までの経験から自覚している。それ以上に、ニールは気に入ったもの以外は大抵の物を壊すのが好きだ。それは人体も例外ではない。爛々と輝く瞳がそれを物語っている。最近は派手な仕事がないので、欲求不満なのだろう。

 今回は大人しく引き下がらずに頭一つ小さいスタンの両肩に両手を置いて食い下がった。一度だけ怒ったニールに顔を片手で掴み上げられて以来、向日葵のように大きい掌がこちらを向くと、スタンは少し緊張する癖がついた。

「……そいつが騒いだら呼んでくれよな? な!?」

「分かったから」

 僅かな譲歩を見せたスタンの態度に、ニールは満足げに頷いて寝室に向かった。先日政府高官の別宅に押し入った際、大事な物は寝室にしまいたがると教えた事を覚えていたようだ。

 スタンはキッチンに行き、汚れていないコップに水道水を注ぐ。だらけきった四肢をダイニングテーブルの椅子に縛り付けられ、鼻の両穴から血を流す哀れな標的の頭から水を飲ませてやる。起きない。

 時間は無限にあるわけじゃない。スタンはコップを床に落とし、割れた破片をそのままに調理で使う銀製のボウルを引きずり出して水道水で満たした。

 溢れないように両手で持ち、標的へ思い切り縦にぶちまける。

「うっ! ふ、ぐっ……ふ、っ」

 標的が目を開けた。体調がすこぶる悪そうではあるが、思いやる義理も余裕も今のスタンには存在しない。

「起きたか? 臓器はどこへやった?」

「っ!? んぐ、ぐっ」

 男はスタンと目が合うと驚きから怒りに表情を変え、縛られた手足の先を持ち上げようとして、椅子を揺らす。スタンは温度のない瞳で男の顔を覗き込んだ。

「お前が一ヶ月前にパーティーしたお坊ちゃんの臓器はどこやったかって聞いてんだ。住所、名前、電話番号、取引先が分かるもの何でも良い。誰に渡したのか教えろ」

 スタンは男が素直に従うのを期待したが、ものの見事に裏切られた。口の中に無造作に突っ込まれた靴下にほとんど遮られていたが、一般的な罵倒をスタンに言い放つ。スタンは男の言葉にならない何かを理解する前に、瞬きもしない内に持っていたボウルで男の顔を軽く“撫でた”。プラスチックが割れたような音が響き、ニールが怪訝な顔で寝室から顔を出す。

「スタン、今の……ああ、そっちか」

「何か見つかったか?」

「ん、寝室には趣味の悪ぃアダルトグッズと拳銃と弾が入ったサイドチェストしかなかった。一応クローゼットの服と鞄、下着の中まで見たけどなかった。あと、女の死体が邪魔だったからベッドの下までよく見てない」

「そうか。ニール、手を貸せ」

「おっ、いいよぉ。何する?」

 元より家宅捜索など地道な作業に期待はしていなかった。スタンの言葉に、ニールはあからさまに嬉しそうな表情を浮かべて寝室から素早く戻ってくる。

「利き手の親指と人差し指以外を全部折ってから手の縄だけ外せ。抵抗するようなら足も折って良い。首の骨は折るなよ」

「えーと、首と、利き手の親指と人差し指以外は折って良いって事か?」

「……ああ、ペンごと握らせてやれば、指はいらないか」

「そんなら五本一気に折れて楽だなぁ」

 分かりやすく男が怯えた。証拠にズボンの股座が濡れている。

「くっせぇ」

「おいおい、人の臓器掻っ捌いといて自分は骨折られるの怖がるって意味不明だっつの。人の体いじるんだったら、自分もいつかいじられるかもって覚悟を持ってねえとこの先やってけないぞ?」

「この先なんかないだろ」

 スタンはニールの的外れな説教を一蹴して洗面所に行き、バスタオルを掴むと男の股座へ放り投げるように掛けた。

「ほら、言えよ。言わなきゃ五分ごとにこいつがお前の全身の骨を折るぞ」

「折るぞ〜?」

 人懐っこい笑みで、自慢の拳を見せつけるニールに男は心底怯えきった表情で、見開いた瞳に涙を浮かべるようになった。良い傾向だ。スタンは脅しの効果に手応えを感じ、ニールの邪魔にならないよう、ダイニングテーブルに寄りかかるようにして立った。

 ニールは立ち込めるアンモニアの匂いにも臆せず、男が着ているドレスシャツのよれた襟を正している。指紋が残らないよう、少しお高い手袋をプレゼントしてやったのは記憶に新しい。ニールは気に入って、仕事の後は欠かさず手入れをしている。

「見ろよスタン、このシャツのボタンヘビ柄だ。今まで色んな奴見てきたけど、中でもクソダサいぜ」

「ニール、楽しいのは分かるが少し声を抑えろ」

「悪い悪い、でもギャグだとしたら笑えね?」

「そろそろ五分だ」

「よっしゃ」

ニールがウォーミングアップのように手指を伸ばして、何度か巨大な手のひらを開いたり閉じたりするのを見て、男が身を仰け反らせて逃げるような素振りをする。無意味な抵抗を眺めている間も時間の無駄だ。けれど、この汚い部屋をこれ以上詮索するのも、寝室にある死体というのにも興味がなかった。男が吐けばさっさとこの部屋から出ることができる。

「~~っ!! ~~~っっ!!」

「うんうん怖いよなぁ」

「っ、むっ! むおっ!」

 男の背後にニールが立ち、指先に触れただろうタイミングで、男は何か言いたげに涙で濡れた瞳でスタンを見つめて叫んだ。

「待て、ニール」

「あ~! なんでだよ」

「うるさい。おい、話す気になったか?」

 スタンの問いに男は何度も首を縦に振った。ため息交じりに、スタンは懐から拳銃とサイレンサーを取り出す。目の前で拳銃にサイレンサーが取り付けられるのを見て、男がびくりと体を強張らせた。

「ニール、こっちに戻ってこいつを頭に。俺が両手首を解くから、メモ帳に分かる文字で書け。妙な仕草を見せればこいつが撃つ」

「撃っちゃうぜ~」

 ニールの大きい手にオートマチック式の拳銃が収まると随分小さくなって、プラスチックでできた水鉄砲のようだった。スタンは男の背後に回り、ニールが額へ銃口に向けたのを確認してから、手首を縛るガムテープを剥がした。

 散らかったキッチンカウンターから、何とかボールペンとキッチンナプキンを見つけ出し、男の手に握らせた。

「さっさと書け」

 男は震える手で、自分で理解できるのかも怪しい文言を書き始めた。ペン先の動きが止まり、スタンはキッチンナプキンを奪い取る。住所と電話番号、倉庫のナンバーらしきものがあった。文字列の下に、スタンが頼んでいない一節が書き添えられていた。

『俺は助かるか? 頼む、命だけは』

 キッチンナプキンをコートのポケットへしまい、スタンは男を一瞥するとニールに視線だけを向けた。それで何を伝えたのか、男には一切理解ができない。けれど、ニールがにっこりと獰猛に歯を見せて笑ったことで、さらに自分に悪夢が起きることを想像できるのは難しくなかった。

 ニールの拳を何度か受けて、男が失神したのを見てスタンは部屋の電気を消した。情報を手に入れて、ようやくこの部屋から去ることができる開放感で胸が満たされる。スタンの急行下していた機嫌は多少上向きになっていた。暗闇の中でガムテープを剥がす音に向かって、はやる心を抑えきれずに振り返る。

「ニール、早くしろ。外の空気を吸いたい」

「待ってくれよ~。ていうか電気消すの早くね?」

「急げ、まったく」

 仕方なく男が縛り付けられている椅子に近づき、足元のガムテープに手を伸ばすが先ほど男が催したのを思い出して舌を打った。できれば触りたくない。スタンは下ろしかけた腰を上げなおす。

「おい、足はそのまま椅子の方を折れ。あと、腰から下はごみ袋でもなんでも被せろ」

「おっけーおっけー」

 ニールは言いつけ通りに男の両足が括り付けられている椅子の足を折った。音だけを聞くと骨の方をやったのか、と勘違いしそうだ。スタンはキッチンの床に散乱したゴミの間の点々とした足場を駆使し、黒っぽいビニール袋を引っ張り上げた。ニールが抱えようとしている所に、慌てて男の腰までビニール袋を引き上げる。

「俺は汚れても気にしないぜ。スタンは少し神経質だと思う」

「ヤク中の汚物でコートにつけて車に乗る気か? 正気を疑うよ。歩いて帰れ」

「イヤだ!」

「なら言うとおりにしろ」

 男を担ぎ上げたニールの赤毛を宥めるようにぽんぽんと手を置き、スタンは玄関に向かう。ドアノブに手を伸ばそうとした直後、インターホンが無残にも部屋に鳴り響いた。

「うお」

「トイレに隠れろ。静かにな」

「おっけおっけ」

 小声で頷いたニールがトイレに隠れたのを見て、覗き穴に顔を近付ける。ドアの向こうに、黒髪の少しぽっちゃりした女性が立っていた。11月のロンドンに適したコート姿でスカーフ付きの洒落たバッグを肩から提げている。恐らく隣人は寝ていたのではなく、今帰宅したのだろう。

 スタンは四度目の長いため息を吐き、居留守を選んだ。だが無慈悲にも二度目のインターホンが鳴る。びくりと肩を強張らせたのは、トイレから物音がしたからだ。インターホンを聞いて男が目覚めたか? スタンは一瞬思考を巡らせ、ドアノブを捻った。顔を出すと、隣人らしき女性がスタンの姿を捉え、ぎこちなく笑みを見せた。

「どうも、あの、私、隣の者ですけど」

「どうも、こんばんわ」

「こんばんわ。ええと、その、……こちらに住んでるランドリーさん、はいますか?」

「ああ……」

 厄介なことに隣人と男は一応顔見知りらしい。舌打ちをこらえ、スタンは愛想笑いを浮かべた。

「実は、今日あいつと飲んでて。今、酔って寝てるんです。だから、僕もそろそろ帰ろうかと思ってて」

「あ、そうなんですね……実は、以前から夜中になると、その、騒がしくなるのを止めてほしいっていうのを言いたくて……でも、寝ているなら仕方ないですね」

 女性が少し安堵したように笑うのを見て、スタンも安堵した。もし隣人トラブルであの男が逆上し、暴行事件でも起こして警察の厄介になっていたら、面倒なことこの上ない。

「すみません、あいつは昔から派手な奴で……僕から伝えておきますよ」

「本当ですか? ああ、良かった……ありがとうございます」

 血生臭さいこと以外で心の底から感謝の言葉をもらったのは、スタンにとってかなり久々だった。できれば一般人を巻き込まずにこのまま済ませたい。ドア越しに会話をしている女性には聞こえていないようだが、スタンの耳にはトイレからの物音が引き続き届いていた。どん、と何かがドアにぶつかる音が響く。

「じゃあ、皿洗いがまだ残っているので、僕はこれで」

「あ、あの」

「……はい?」

 聞こえたか。女性の引き留める声に、スタンは暗闇の中で内ポケットの拳銃に手を忍ばせた。

「良ければ、……その、一緒に飲みに行きませんか?」

「……あー」

 露骨に女性から目を逸らし、胸元の冷たい鉄の塊から指先を離した。

「い、いえ、だめならいいんです! 初対面なのに、こんなこと言って困りますよね……」

 予想外の誘いに、スタンは思考が停止した。物音は続いている。目の前に立つ女性は体型こそ平均より太めではあるが、化粧の感じも派手過ぎず、香水の趣味も悪くはない。指先を彩るネイルも小さいストーンを散りばめたサーモンピンクで、会社の同僚ならば素直に好感が持てる。

 スタンは女性がおろおろするのを眺めながら、しばらく悩んだ。下手な言い訳をすれば彼女は傷つくだろう。彼女の口ぶりや雰囲気から、そんな消極的な性格が垣間見える。

「ご、ごめんなさい……お邪魔しました」

「待って」

「え……?」

 沈黙に耐えられず背を向けた女性に、スタンは制止の声を投げた。彼女を観察する傍ら、一つの懸念があった。

 標的はこの後書類上"行方不明"の状態になる。すると、この女性にも警察の手が及ぶだろう。となると、彼女は今夜ここでスタンと出会ったことを証言してしまう。できるだけ不審な男、という印象だけは払拭させておきたい。

「実は……飲んでいたというのは、嘘なんです」

「嘘?」

「……僕は、男娼で。仕事で来ただけなんです」

 なるべくしおらしい表情と声を努めて前面に出したスタンに、女性ははっと口元を押さえた。そして、理解までに時間がかかったのか、じっと見つめた後に小さく頷く。

「そ、そうだったんですね……ああ、そっか、そんな気軽に言えないですよね、プライベートに関わるし……」

「すみません……あなたと飲みに行きたいのも山々なんですけど、後付けのオプション料金をもらえるまで、ここを離れられなくて」

「……そう」

「もらったら、僕は帰ります。そうすれば、騒音に悩まされることもないと思いますよ」

 スタンの言葉に、女性は複雑な表情を浮かべながらも納得した様子で自室へ帰って行った。スタンはドアを閉めて、先ほどから騒がしいトイレのドアを開ける。

「うるさいぞ。どうした」

「あ、悪い……ドア閉めたらコートの端挟んじゃって。何度も開けたり閉めたりしてたらトイレ狭いし臭いしで……怒ってる?」

「怒ってない」

「ああ、良かった。スタンが女を言いくるめているのを聞いて笑い声が聞こえちまったのかと思った」

「……」

「あ。ごめんってだってスタンがどんな顔で僕なんて言ってんだろうと思ったら、急に男娼とか言い出すし女に誘われてるしふひひっいてっ!」

 言い訳どこか懲りずに思い出し笑いを始めるニールの脛を強めに蹴り飛ばし、スタンはそっとドアから体を抜け出した。後に続くニールがのそのそと部屋から出る。男の意識はまだ回復していないようだった。力なく黒いビニール袋に包まれた下半身がニールの肩から垂れ下がっている。

 駐車場まで無事にたどり着き、ニールが男をトランクに詰めるまでの間、スタンは運転席で思い切り両腕を上に向けて伸ばした。深呼吸をすると、嗅ぎなれた車内のにおいが鼻腔を通り抜ける。独特な座席シートやガソリンが混じった匂いだが、それでも構わない。

 後はトランクの荷物を依頼主の元に送り届けるだけだ。ニールが助手席に乗り込み、シートベルトに巨体を収める。

「ふう、何とか終わったなぁ」

「そうだな」

 今度は本心の相槌だった。正確にはまだ完了していないが、気持ちだけは終わっているも同然だった。

「ま、スタンがいれば間違いねぇけどな」

 ニールの唐突な褒め言葉に、スタンは思わず車のキーを差し込もうとしていた手の動きを止めた。自分はいつも通り仕事を全うしようとしただけで、褒められる謂れはない。途中、小さいトラブルはあったがあれは誰にでも出来ることだ。

「いや、お前がいたからだよ。お前の脅しがなければ男は大人しく吐かなかっただろうし、俺一人じゃ部屋から運び出すこともできない」

「でも、それはスタンが全部俺に指示してくれたからだろ。俺だけじゃ、さっきみたいに女にあることないこと言ったり、コートも汚してた。ヤク中のおしっこで」

「……」

「だから、スタンのおかげだ」

 こういう時だけ、妙に正確な指摘をするニールにスタンは何も言えないまま車のエンジンをかける。アパートの駐車場から、二人と一人を乗せた紺色のフォーカスが動き出した。

「……そういえば」

「んー?」

「俺も紅茶が飲みたくなってきた」

「いいねぇ。俺はベイクドチーズケーキをホールで食いたい」

「ココアはいいのかよ」

「忘れてた! そうだ、ホットココアもだ」

 まだ朝陽が眠ったままの暗い空の下、二つのヘッドライトが殺し屋たちの帰り道を照らしている。

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