第3話 百二十五尺の人生
土浦の学校に勤めていた時のことでした。
それがなんだったか、今となっては、思い出すことも出来ないのですが、きっと、嫌なことばかりが続いていたに違いないのです。
だから、私、思い切って、休暇を取り、冬の北陸を旅したのです。
飛行機で、ヤンキースの松井秀喜選手のふるさとがある小松空港に降り立ちました。
北陸には、加賀、和倉、芦原と、その名をとどろかす温泉郷がありますが、私が選んだのは、加賀温泉郷の一つ粟津温泉でした。
小さな山間のこじんまりとした温泉場です。
粟津の温泉を選んだのは、因縁かなにかがあってのことではないのです。
ただ、小松空港から近いと言うだけで、それに、その宿を予約をすれば、サービスで空港に迎えに来てくれると言うのですから、そんなことで、手っ取り早く決めた温泉場であり、宿であったのです。
せっかくだからと、極め付けのカニを用意してもらい、初めて、カニのあらいなるものを食しました。
氷水で洗ったカニのハサミの肉は、小さなつぶつぶの、それに色がついていれば沖縄の海ブドウのような、しかし、色などついていませんから、なんだか、魚卵を飲み込んでいるようだって、そんなことを言ったら、世話してくれた仲居さんが不機嫌になってしまったことを覚えています。
土地の名産に、なんと失敬なことを言う客かと呆れ返ったのではないかと思っているのです。
冬の北陸の寒さは尋常ではありませんでした。
つくばも山からのおろしの風は、乾燥してこれまた冷たいのですが、粟津の夜の街の寒さは、これでもかって湿気をふくんだ冷気が、浴衣の裾から、腹、胸へと押し寄せてくるのですからたまりません。
食事を終えて、外に出たものの、ほんのわずかの時間で、すぐに、暖かい宿の囲炉裏の前に戻ってきてしまったのです。
そんな旅の折に、宿の人にすすめられて、千里浜を巡りました。
なんでも、日本国内で、浜辺を一般車両が走れるのはここだけだと言うのです。
常磐の浜を釣りして回っていた時、浜辺に愛車のビートルを乗り入れてしまい、出るに出られず往生したことがあり、以来、浜に車で入ることなどなかったのですが、そこは誰もが車で波打ち際を走れると言うのです。
だったら、そこに行こうではないかと、レンタカーを用意してもらい、出かけました。
冬の北陸の海というのは、まことに凄惨な姿をしています。
凄惨なんて言葉を使うと、あのカニを食べていた時のように、北陸人にまた叱られると思いますが、つくばからやってきた私にはそうとしか見えなかったのです。
強い風が日本海の向こうから吹き付けています。
その風に波長をあわすように、波が、ゆったりと盛り上がってくるのです。
常磐や九十九里では、そのあと、波濤が音を立てて砕け散りますが、ここは太平洋ではありません。
盛り上がった波濤はそこに雪、いや、雪ではありません。
よく見るとそれは泡です。
その泡を抱いて、ゆっくりと盛り上がりを見せてくれるのです。
見慣れない光景というのは、人の目を奪います。
しかも、私の目は、その光景を頭の回路で遅らせて、まるでスローモーションのようにして、脳のひだに刻み込んで行ったのです。
泡は盛り上がり、もう、これまでという頂点まで行くと、あっけなく崩れ落ちます。そして、さらに泡をそこに生じさせるのです。
きっと、子泡に違いないなんて、その子泡が沖に戻され、大人になって、波と共にまた戻ってくるんだと、そんな空想をしながら走っていたのです。
唐突に、その時、私の脳裏に、一枚の画があらわれました。
唐招提寺御影堂にある東山魁夷の「濤声」と名付けられた三幅の画です。
井上靖の「天平の甍」を読んで、唐招提寺に関心を抱き、その際にその画のあることを知ったのです。
そしたら、先だって、新聞記事にこの画家が、「濤声」を仕上げるために、千里浜を巡ったのは七十年代のことだと、そんなことを綴る記事に巡り合ったのです。
七十年代と言えば、私が井上靖を読んでいた頃合いです。だから、きっと、その時、唐招提寺には魁夷の作品はまだなかったのかしらって、でも、時間は圧縮されるのが常ですから、そんなことより、私は、魁夷は、その時何歳だったのだろうかとそちらの方に興味がいったのです。
魁夷という方は、自分は偉大な画家であることを公にして、スケッチする場所を訪問することは一切なかった方だと、ものの本で読みました。
絵の好きな男が、宿を取り、スケッチブックを抱えて、毎日、毎日、そこが気に入れば、ひと月でも滞在して、それで、あの人は何者だとなり、魁夷とわかるといった具合であったというのです。
明治の時代、『遠野物語』の柳田國男が、各地を訪問し、民俗の取材に当たるとき、一等車に乗って、仰々しく旅をしたのとは対照的だと思いながら、私は両名の尊敬する作家のありようを面白く思ったのです。
その魁夷、この浜を訪問し、スケッチをしていたのは、もう六十代になっていた頃合いだと言います。
七十年代の六十代は、現代とはさほど異ならないとは思いますが、それでも、私の記憶の中には、六十を超えれば、もはや、一線を退き、悠々自適の生活をしている、あるいは、もうあの世に行くような姿形になっているというイメージが強くあったはずだと、若き日の自分の思考回路を手繰り寄せるのです。
そのあの世に行くような年齢の画家が、請われて鑑真の為に絵を描くのです。
その鑑真ご本人も、幾度の失敗を重ね、その苦労がゆえに失明し、それでも日本にやってきた特別の人です。
その時の年齢、六十五歳と聞き及んでいます。
恐るべき六十代なりと、当時、そこまで歳もたどり着いていないまだまだ若かった私は、思ったものでした。
あれは、そう、七十年代も終わり、八十年代になった頃合いでした。
早稲田の界隈で、安酒を飲み、級友たちと大隈講堂の階段で、それでも話し足りなく、夜を徹して議論をしていた頃のことです。
見上げると、そこに百二十五尺の大隈講堂の塔が聳え立っていました。
しらじらと夜が明けるに従って、塔の先端の白い鐘楼がくっきりと見えるようになったのです。
百二十五尺とは、三十八メートルです。
しかし、そんなメートル換算など意味はありません。
大隈重信先生は、人は節制して、健康を保てば、百二十五歳まで生きることができると、そう信じていたのことを由来としているからです。
明治の政治家の豪胆なる言葉ではありますが、昨今の医学の発展は、それを馬鹿馬鹿しい話だと一笑に伏すことのできない、そんな時代になってきています。
そんなことを考えれば、これからの人間は、鑑真、魁夷の六十代の倍の、百二十まで生きて、おのれに課せられた業を残さねばならないのです。
歳とったとか、もう歳だなんて、言っちゃおれないのだと、私は、時折、あの時の北陸行を懐かしんでは、自らに鞭打っているのです。
夢路の果て 中川 弘 @nkgwhiro
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