第2話 最期の一瞬


 若い人の突然の死について、いつも練習をしている体育館の隅で、卓球の練習の休憩時間の合間に、ちょっとした話題になりました。


 きっかけは、大腸ガン検査の結果、異常がなかったと診断されたクラブ会長さんの話からでした。


 あんな辛い検査をして、異常がなかったと、会長さん少々不満気に言うのです。


 異常がないに越したことはないけれど、そうまでして検査をしなくてはいけないものかとそんな言葉で、この話題が始まったのです。


 この歳になって、ガンになったからと言ってどうってことないと強がりを言います。

 私はといえば、その大腸ガン検査が嫌で、学校にいる時から、学校医になんだかんだと言っては、ごまかして、それをしないで来ていますから、もしものことがあれば、きっぱりと観念しようと覚悟だけはしているのです。


 それにしても、最近、若い人たちの突然死っていうのが多いよねと、ブルーベリー栽培を趣味で行い、代々受け継がれてきた農地に、百本余りを植えて、それを観光農園にしている女性が口を挟みました。


 この方、ゴシップにも詳しいのです。

 大谷選手の同僚のメジャーの投手がそうだったし、日本の音楽グループのまだ二十代のなんとかという男性もそうだったって、若い人の突然死を語り出したのです。


 きっと、自分が死んだって気がつかないでいるのよって、その方言うのです。


 そうか、自分が死んだって気がつかないんだって、私、妙な発見をした時に感じる一種の驚きにも似た感覚を、その時得たのです。


 人間は、病院のベットに横たわり、その側に、あれやこれやの液体の入ったビニール袋を吊るされて、そこから出ている管を腕から注入されて、生命を維持され、その時が来るのを待つ。

 それが、私の人間の最期のありようだって、そんな感覚が強くあったものですから、自分が死んだって気がつかない、そんなありように驚いたのでした。


 その方、私はって、持ってきたブルーベリーのこれでもかって入ったタッパウエアーをいくつも出して、皆に、勧めながら、言うのです。


 終活しているのって。


 ブルーベリーの苗木は、孫の誰それちゃんと誰それちゃんにって、そして、その時は、こうしてくれ、ああしてくれって、子供たちにも言っているのって。

 そんなことを言って、笑うのです。


 苦しんで苦しんで、醜くなって、やせ衰えて、意識も何もなくなって、その時を待つのは嫌だから、延命とか、薬で生かされることは絶対拒否って、そう思っているのって語るのです。


 子供は、親のことを大切に思って、一分も一秒でも息があるようにしておきたいと思うはず、だから、そうではないよと言い聞かせているのって、そう言うのです。


 だって、私、自分の親を看取った時、そう思ったんだからって。


 会長さんはじめ、それなりのお年になられた方は、ウンウンとうなづきながら、その話を聞いていました。

 きっと、身にしみて、その話を受け止めていたのだと思うのです。


 教師をしていた私は、若い人たちの病のこと、そして、あまりに早い死というものを体験を、実際にしているのです。


 教師になりたての頃でした。

 入学式を終えて、教室に戻ってきて、最初のホームルームをしていた時です。

 一番前に座っている女子生徒の顔が、はっきりとわかるほどに紫色に近い色合いになっていたのです。

 どこか具合が悪いに違いありません。

 保護者を探し出し、副担任に言って、一緒に保健室に行かせ、私は、ホームルームを始めました。

 すると、程なくして、救急車のサイレン音が聞こえてきたのです。


 翌朝、母親から電話で、脳腫瘍で入院したとの連絡を受けたのです。

 緊急手術をして、なんとか命だけは助かったと、私は、その言葉を聞いて安堵したのです。

 結局、その生徒は、入院が長引き、たった1日の登校で、学校を辞めていきました。でも、賀状のやり取りは長い間続いたのです。

 成人した彼女は、養護施設の看護師として、自分の体験を生かして、困難を抱えた人たちのために力を尽くしています。


 そうはいかなかった生徒もいました。


 なんでも、積極的で、将来が楽しみな生徒でした。

 ひかるくんと私、他の先生があまりに褒めるので、廊下ですれ違ったその生徒を、呼び止めました。

 すると、先生、僕は「光」って漢字では書きますが、「アキラ」って読むんですって、ニコッと笑って言うのです。

 そんなやり取りから、なんだかお互いに親近感が生まれて、私とアキラくんは仲の良い教師と生徒になったのです。


 一年後のことでした。

 頭が痛いから休むと、たまたま、私が母親からの電話を受けたのでした。

 風邪でしょうから、お大事にって、しかし、翌日も、その次の日も、アキラくんは学校を休みました。

 担任であった先生に問いますと、入院をしていると言うのです。

 見舞いに行ったのかと問いますと、まだだって、それに、親御さんが今しばらく待って欲しいって言っているって、そう言うのです。


 私は、ただ事ではないぞって、その時思いました。


 私は、アキラくんの容態を問うために、ご自宅に電話を入れました。

 お父さんが出ました。

 病状が悪いことが、その言葉から察することが容易にできました。

 原因も分からず、ただ、脳に障害があるようで、時折、頭を抱えて、痛がると言うのです。

 結局、アキラくんは学校を辞めました。

 入院が長引き、登校できないからです。

 高い授業料を払う分、それを病院代にかけたいとお父さんは言うのです。


 そんな折に、私は、ついに学校を辞める日を迎えました。


 辞める前に、アキラくんに会いたいと思い、お父さんに電話を入れました。事情を説明し、だったらと面会日を指定してくれました。

 私は、私の好きな桃を、それをアキラくんに食べてもらいたいと思って、持っていきました。


 思いの外、その日のアキラくんは元気があり、ご両親もびっくりするくらいであったのです。お母さんがむいてくれた桃を四人して、笑みを浮かべながら食べました。


 退職をして、伸ばしに伸ばしていた私の脳にはびこった腫瘍の切除手術に私は臨みました。視神経を圧迫し、左目の視力を脅かしていた良性の腫瘍です。

 そして、主治医にそそのかされて、いい歳になったのだからと肺の検査だけはしろと言われ、肺なら仕方あるまいと、そしたら、腎臓にガンが見つかり、脳の手術から一ヶ月を置いて、今度は腹の手術をしたのです。


 それが落ち着いた頃、私は私の幼な子が暮らすオーストラリアに出かけました。

 成田の第三ターミナルで、ジェットスターの便を待っている時でした。

 私のiPhoneが突然と鳴ったのです。

 アキラくんが亡くなったと言うのです


 到底、葬儀にはでられません。


 でも、それがとても嬉しく思えたのです。

 あの元気な、活発なアキラくんの死に顔を見ないで済むのですから。


 私は、着いたその夜、ゴールドコーストで、アキラくんに手紙を書き、それをお父さん宛に、メールで送ったのです。

 サーファーズの海の彼方に見える南十字星が君だと思って、僕はずっと見ているとそう書いて。 


 その後、お父さんから、そのメールを葬儀で読ませてもらったと連絡がありました。


 人間は肉体こそ滅んで消えて無くなりますが、その心、ふれあいはいつまでも残るのだとその時、私は得心したのです。


 だから、自分が死んだのかどうなのか分からないままと言うのは、私にもよくわかりませんが、それはきっと嘘ではないかと、私、そっと思っているのです。

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