おいしいチャーハンの作り方

山南こはる

第1話

 歌え、踊れ、そして飛べ!

 ピアノの師である高柳たかやなぎ先生は、いつも香織かおりにそう言っていた。

 香織だけではない。歌うように、踊りを舞うように、そして空へと飛翔するように。これは高柳先生の生涯のテーマであるらしく、彼女はひじょうに躍動感のあるピアノを好んだ。とうぜん、それは弟子たちの奏でる楽曲にも要求された。先生いわく、たとえばしっとりとしたピアノソナタ月光などでも、しっとりした曲にはしっとりした曲なりの、歌い方や踊り方、そして飛び立つ方法なんかがあるらしい。

 香織は高柳先生に習った子どもたちの中でも、技術的な部分でいえば、抜きん出ていたのは間違いない。それもそのはず、彼女の父は著名なピアニストだったし、母もまた、音楽教師だったから。

 それでも高柳先生は、いつだって彼女の表現力にダメ出しし、そして求めるのだ。歌え、踊れ、そして飛べ!

 それは子供のころから、そして中学二年生になる今にいたるまで、香織を呪詛のように苦しめた。同時に両親もまた、彼女のピアノの表現力の乏しさについて、言及するようになる。

 香織のピアノはいつしか楽しみから義務になった。将来を嘱望され、父と同じようなピアニストになること。香織の目の前には、いつだってレールが敷かれている。白と黒の鍵盤で造られたレール。ピアノの前が、自分の居場所。ピアノの椅子が、自分の座るべき椅子。ピアノあってこその自分。

 香織は自分という人間のあいまいな形をつかめないまま、今日も鍵盤の前に座る。




 隣のクラスに転校してきた渡辺わたなべみずほのことを、香織はよく知らない。

 ただ、彼女もまたピアノの名手だということはウワサに聞き及んでいた。事実、彼女は合唱祭のクラス伴奏を引き受けることになったらしい。隣のクラスの伴奏者はてっきり、松井千恵まついちえがやると思っていたのだ。

 あの松井千恵が、伴奏者の座を譲った。それは香織にとって、少なからず衝撃を受けた。彼女もまた、高柳先生に師事しており、香織とは長い付き合いである。ピアノが弾けるもの同士、同じクラスには一度もなったことはないが、それでも香織にとっては、気心のおけない友人である。

 千恵は気が強い。自分から伴奏者の座を譲るとは、とても思えない。でなければ技量で負けたのだ。

 渡辺みずほは、松井千恵より優れたピアノの演奏者。高柳先生の求める躍動感あふれるピアノを、誰よりも忠実に求めてきた千恵。

「千恵ちゃんが負けちゃったんだもん。私だって、自信ない」

 香織は力のない右手で鍵盤をなでる。そして目を閉じる。真っ暗になった彼女の視界に浮かび上がるものは、白と黒の鍵盤でできたレール。どこまでも真っ直ぐ進む人生のレール。

 香織にとって、ピアノはすべてだった。ピアノ以外に生きる道を知らない、なんて不器用な女の子。


 翌日、ピアノ教室で顔を合わせた千恵に、香織はそれとなく訊いてみた。

「ああ、みずほちゃん? あの子、上手いから。……私なんか、足元にも及ばない」

 千恵の左手は、意味不明な音符の羅列を弾き続ける。

「私、正直、ピアノ弾けるってことだけで、あのクラスで生き残ってきたんだよね」

 香織はうなずく。

 彼女だって似たようなものなのだ。ピアノが弾けるから、合唱祭で必要だから。だから、生存を許される。あの息苦しい教室の中で、ピアノの前は、ただ唯一、深い呼吸を許される。香織にとっても千恵にとっても、ピアノの前というものは、そういうものなのだ。

「ねえ、香織」

「何?」

「あんた、学年合唱の伴奏、立候補するの?」

 学年合唱。今年の課題曲は『夜汽車よぎしゃ』だ。とうぜん立候補するつもりで、香織は練習を続けている。

「うん、そのつもりだけど。……千恵ちゃんは?」

 千恵もまた、立候補するつもりで練習してきたはずだ。二人はよき友人であるとともに、よきライバルでもあった。子どものころから、変わらない。

「んー。正直、どうでもいいかな?」

「千恵ちゃん……」

 香織は目をみはった。いつも熱心だったはずの友人の変節ぶりが、心に痛い。

「だってさ、自分より圧倒的に上手い人間が現れてさ。あの子、私がやるはずだった伴奏を、さっさと奪って行っちゃったんだ。……やる気なくなるよ、こんなの」

 千恵の右手の人差し指が、無意識に鍵盤を押す。高らかに響く、ラの音が、二人しかいない部屋の中に吸い込まれていく。

「高柳先生も、みずほちゃんの演奏、聞いたらいいと思う。……きっと一発でホレちゃうよ。……そして私のことなんか、もう目にも掛けないと思う」

「……」

 渡辺みずほ。かくいうすごい人物なのか。香織はまだ話したことすらない未知の同級生を、かすかに恐れた。

 自分の居場所が失われる。足元が崩される、そんな不安。冷たい汗が、背筋をすべり落ちる。

「香織も気を付けなよ。あんたは私より上手だから大丈夫だと思うけど、このまま行ったら学年合唱も全校合唱も、校歌の伴奏も、みんなみんな、あの子がやることになるかも知れない」

「……」

 伴奏者。

 それはピアノが弾ける人間にとって、ある種の誇りだ。香織も千恵も、学校生活にあまりなじめないタイプの子どもには、それはただ一つの生存権獲得の道であり、課せられた義務でもある。

 小学校のころから、ずっとそうだった。ピアノの前は、自分たちに保障された、間違いない居場所だった。香織も千恵も、それは同じ。

「私、あの子、きらい」

 ボソッと毒を吐いた千恵。それをとがめることができない香織。

彼女だってきっと、千恵と同じ立場に立たされれば、同じことを口にしていたかも知れない。渡辺みずほはピアノの名手。それだけは、間違いない。

 ややあって、香織は、

「私、立候補するよ。……『夜汽車』の伴奏」

 他に立候補する子が誰であろうと、今までそうしてきた。伴奏者の座を勝ち得たこともある。敗れたこともある。それでもずっと、彼女は信じてきたのだ。ピアノの前こそが、自分の座る場所である、と。

「そっか」

「千恵ちゃんは、やっぱり諦めるの?」

「うーん……」

 結局、千恵は煮え切らないまま、ハッキリとは返事をしなかった。




 その一週間後、ついに香織は渡辺みずほと対面した。

 場所は第二音楽室。合唱部の部室である。見学者が来ると聞いてはいたが、よもや彼女が来るだなんて、想像だにしていなかった。

「みずほちゃん、いらっしゃい」

 田村美穂たむらみほが、入り口でおずおずとしているみずほを招き入れる。香織はピアノの前から、知らず知らずみずほをにらみ付けた。

 千恵から伴奏者の座を奪った。気の強い、勝気な女の子を思い描いていたが、実際の渡辺みずほはぜんぜん違った。小柄でやせていて、物静かそうだ。

「みずほちゃんはピアノも上手いんだよね?」

 美穂は邪気なくそう訊いた。

「う、うん。……ちょっとね」

 何がちょっと、だ。あの千恵を伴奏者の座から引きずり下ろしたのだから、そうとう上手いに違いない。

「みずほちゃん、伴奏できる?」

「うん」

「じゃあ、今度やってよ。香織も、たまにはこっち来て歌おうよ!」

「……」

 香織は返事をしない。部室中が、みずほを中心に和気あいあいとした雰囲気に包まれる。

 九月中旬の、まだ蒸し暑い空気が、窓の外から流れ込んでくる。生暖かい風は、疎外されたままの彼女の髪をそっとなで、また開いた窓の隙間から、這うようにして出ていった。

「そう思うよね? 香織ちゃん!」

 美穂がピアノの方を振り返ると、もう香織の姿はなかった。




 部活をすっぽかし、家に帰るとカバンを置き、財布を手に取った。中には三千円と、交通ICカード。確か中には千円チャージされていたはずだ。

 香織は迷うことなく家を飛び出した。九月を過ぎると、日が落ちるのが加速的に早くなる。向かったのは三つ先の駅。途中、百貨店の地下に寄って、手土産のお菓子を買う。母はいつも、人さまの家に行く時、こうやってお菓子を買っていくのだ。

 彼女は制服姿のまま、あるマンションの一室のチャイムを鳴らす。Qちゃんの家だ。

 Qちゃんは年の離れた香織のいとこで、本名は志田尚子しだなおこという。尚子だから、Qちゃん。安直なあだ名だ。だがQちゃん本人もそれを気に入っているらしく、二十歳近く年下の香織も、昔からそう呼んできた。

「あら、香織じゃん。どしたの?」

「ごめん。急に来て……。ちょっと、話したいんだ」

 香織は泣きそうな声でそう呟くなり、手土産を押し付ける。日持ちのするクッキー。Qちゃんの大好きなお店のものだ。夕焼けが西の空に迫る。子どもの帰宅を促す放送が、反響する。

「まあいいけど。……晩ご飯、食べてく?」

「え、いいの? だって、和則かずのりさん」

 和則とは、Qちゃんの夫だ。夫妻が結婚したのは、今年の春である。

「いいのいいの。出張で、今日と明日は帰ってこないから。ほら、入って」

 彼女に促されるまま、香織は玄関をくぐる。新築のマンションは綺麗で、空気にもまだ生活臭は染み付いていない。

「お子さまはコーヒー飲んでもいいのかな?」

 香織の母は厳しい。カフェインが入っているからと、娘がコーヒーを飲むことを、いまだだに反対しているし、Qちゃんもそれを知っている。

「うん。バレなきゃ大丈夫」

「叔母さんはあいかわらず厳しいねえ」

 いとこはやかんに水を張り、火にかける。読みさしの本が、テーブルの上に伏せられていた。

「それで? いったいどうしたのさ」

 香織の手土産であるクッキーを皿に出す。キッチンにはすでに多種多様なものがあふれ、とても引っ越してきたばかりの新婚とは思えない。そこだけ新築マンションの清潔な香りが失われていた。

「何かあるように見える?」

「そりゃそうですとも。テスト前でもない、なのにマジメなあんたが部活をすっぽかしてここに来るっていうことは、何かあったんでしょ?」

 文化祭前で、ピアノ弾きは忙しい時期なのにね。Qちゃんは付け加える。

 彼女も中学生まではピアノをやらされていたクチだし、その苦労も分かるのだ。だが彼女は香織と違って、才能もなければピアノそのものが嫌いだった。

「実はね……」


 香織は湯気の立つコーヒーを手の中におさめて、ぽつぽつと語りはじめる。転校してきた渡辺みずほのこと、伴奏者の座を奪われた松井千恵のこと。みずほが合唱部に入った時、自分はどうするべきなのか。その他エトセトラ、エトセトラ。

 彼女は恐れていた。自分の居場所を失うということ。ピアノの前だけは、自分を裏切らないと信じてきた。そこに座っていれば、座り続けるだけの努力をしていれば、たとえ多少の問題や人づきあいがうまくいかなくても、居場所は与えられると思っていた。

 短い十四年間の人生。ずっと信じていたちっぽけな空想が、ひっくり返されようとしている。

 Qちゃんはあいづちを打ちながら、香織の向かい側で、コーヒー片手に話を聞いていた。香織のコーヒーには砂糖もクリームもたっぷり入っている。対するQちゃんのコーヒーには何も入っていない。ただのブラック。大人だけがそのおいしさを理解できる、苦い苦い、コーヒー。

 香織は話を終えた。葛藤とわだかまりで終わった独白。コーヒーはぬるくなり、カップの底に泥水のように沈殿している。

 炊飯器がピーッと音を出す。ご飯が炊けたのだ。保温のタイマーが入ったが、Qちゃんは席を立とうとしない。

「どうしたらいいかな? 私」

「……」

 こう見えても、Qちゃんはその昔、中学校の教師だったことがある。ただ他にやりたいことができたからと、若くしてその職を投げ出した。今は稼ぎの良い夫のもとで、専業主婦に甘んじているが、元来、青少年の悩みを聞くのは得意なのである。

「居場所、か」

 彼女はコーヒーを飲み干して、席を立った。流しにカップを置き、小さなガラスのボウルを取り出す。大さじのスプーンを取って、調味料を計測しはじめた。中華スープの素、醤油、マヨネーズ。

「夕飯、チャーハンでいい?」

 他に何にもないんだけどさ。Qちゃんは笑ってそう付け足した。

「う、うん」

 いいも何もない。彼女はもう、調味料を準備しはじめているのだから。

「Qちゃん、手伝うこと、ある?」

「お客さまはそこ座ってなさい。コーヒー、下げてもいい?」

「うん」

 ピアニストの手にケガさせたら大変だからね。彼女はそう言いながら、左手で炊飯器の保温を切った。冷蔵庫からハムとねぎを取り出し、きざみ始める。

「香織に元カレの話、したことあったっけ?」

「ううん、聞いたことない」

「だよね」

 彼女と会うのは親戚の集まりの席くらいだった。そんな席であけっぴろげに元カレの話なんて、普通はしない。このいとこなら、正直、それくらいはわけない・・・・だろうけど。

「その元カレさ、チャーハン作るの好きだったの」

 Qちゃんは背中を丸めて、右手の包丁を動かす。

「でもね、そいつの作ったチャーハン。めちゃくちゃまずかったの」

「まずかったの?」

 香織は思わず訊き返す。Qちゃんは思い出したように、クツクツ笑う。

「そう、まずかった。ってか、料理じたい、上手くなかった」

 ハムとねぎをきざみ、ねぎの残りにラップをして、冷蔵庫に戻す。代わりに卵を四つ取り出し、大きなボウルにすべて割り入れる。慣れた手付きだった。

「“私が作るから”って言っても、そいつ、聞かないんだ。“私の方が上手なのに”って。たぶん、味とか、私の方が料理が上手い事実とか、元カレには関係なかったんだと思う」

「関係なかった、って?」

 意味が分からなかった。上手い人が作るべきだ。上手くない人間は排除される。上手い人間が頂点にのぼり詰めるのだ。

「あいつはね、信じていたんだよ。チャーハンを作るのは、自分の役割だ、って」

「でも、上手くなかったんでしょう?」

「そうだよ。上手くなかった。ってか、まずかった。それでもあいつは、チャーハンを作るのは自分のやることだって、そう信じていた」

 卵をかき混ぜ、炊飯器からご飯を取り出す。そして卵液の半分をご飯に注ぎ入れ、アツアツの卵かけご飯を作る。カーテンを閉めていない部屋。空は暗くなってきている。

「あの元カレは正直、変なヤツでさ。和則さんの方が何倍もいい男だけど、でも、信念のあるヤツだった。下手くそでもなんでも、チャーハンを作るのは自分のやることだって、フライパンの前は自分の席だって、そう強く信じる心を持っているヤツだった」

「……」

 香織は想像する。名前も顔も知らない、いとこの元カレのことを。下手くそでも精一杯チャーハンを作り続ける青年。フライパンの前が自分の居場所だと、頑なに信じ続けた、元カレ。

 Qちゃんはフライパンを熱し、油を入れた。暗くなったキッチンの電気を付ける。香織も気を利かせて、リビングのカーテンを閉めた。

「香織の居場所はどこ?」

「……ピアノの前」

 ずっとそう信じてきた。いまさら誰にも譲りたくない。でも自分より上手い人が現れたなら、その時はどうするべきか。考えたことはなかった。

「なら、それでいいじゃん」

「でも」

 香織はまだ納得できない。下手くそなチャーハンを作り続ける元カレの強さを、少しだけでもいいから分けてもらいたい。渡辺みずほよりも上手いピアノを弾けるだけの技量。努力だけで、何とかなるか、分からない。

「ってかさ、“上手いピアノ”って、なに?」

「上手いっていうのは……、その、音が綺麗で」

 楽譜通りに弾いて、みんなを感動させられて、聞き苦しくなくて。

香織は言葉を並べようとする。だが思い浮かべれば思い浮かべるほど、自分が求めている“上手さ”と、他人が求めている“上手さ”が、違うことに気付いていく。

「好み、ってあるじゃん。“たで食う虫も好き好き”じゃないけどさ」

 熱したフライパン。Qちゃんは卵かけご飯を流し入れる。ジュージューと音を立てるご飯を、木べらでならし、炒め付ける。切るように混ぜていく手付きは鮮やかで、香織はそれを見ていて、ふと思い出すフレーズがあった。

『歌え、踊れ、そして飛べ!』

 高柳先生が求める、ピアノの感情表現。ただ上手く弾くことだけが、楽譜通りに弾くことだけが、技量だとは限らない。

 元カレのチャーハンがまずいと思ったのは、あくまでQちゃんの主観によるものだ。もしかしたら他の人はおいしいと思ったのかもしれない。だがQちゃんがどう思ったとしても、元カレはチャーハンを作り続けた。自分なりのチャーハンを。

 歌え、踊れ、そして飛べ。いとこの右手が、フライパンの上で躍動する。混ぜられたねぎとハム。香織はそこに、生き生きと自分のやるべきことをなす人間の、楽しそうな姿を見つける。

「香織は進路、どうするの? やっぱ音楽科、行くわけ?」

「……うん」

 香織よりも両親、特に母親はそれを熱望していた。いつか母のなり得なかったピアニストへ、そして父を超えるピアニストになることを、香織は夢見たし、なかば両親に義務付けられてきた。

「じゃあ、こんなことでメソメソしなさんな。高校行ったら、全員、敵になっちゃうぞ」

「……そうだね」

「自分の弾きたいピアノを弾けばいいさ。自分がすばらしいと思うピアノの弾き方を、見つければいいんだよ。

 ……ってかさ、ピアノだけが生きる道じゃないんだぞ。若者よ。おいしいチャーハンが作れることだって、立派に誇れることだよ」

 Qちゃんは調味料を鍋肌に流し込み、手早く混ぜて火を止めた。こげた醤油の匂いが、部屋に漂う。

「お皿取って」

「はい」

 香織が取り出した皿に、チャーハンを二等分して盛り付ける。

「香織が生まれる前だけど、さ」

「?」

「実は私、一度、転校したことがあるんだ」

 初耳だった。二十歳近くも離れたいとこの、子どものころ。

香織はいつも、このいとこに対し、自分の話しかしてこなかった。彼女が何を考え、どうやって生きてきたのか。実のところ、香織はよく知らない。

「だから、そのみずほちゃんって子の気持ちは分かるよ。みんなと仲良くなるために、自分のできることをするのは、悪いことじゃない」

「……」

 みんなと仲良くなるため。香織は想像する。もし自分が転校したら。自己紹介で、何を言うのか。

「香織だって、周りがみんな知らない人だったとしてさ。やっぱ仲良くなるために、自分を知ってもらうために、“ピアノが得意です”って、言うでしょ?」

「うん」

 そう、みずほは必死なはずなのだ。そして彼女は大人しい。自分から積極的に話の輪に入るということを、得意にしているとは、とても思えなかった。

「そう、想像力ってだいじ。……ほら、冷めないうちに食べましょう」

 Qちゃんはスプーンを二本出して、チャーハンの皿に添えた。




 それから一週間後、学年合唱の伴奏者の選抜試験が行われた。

 口では“やらない”と言っていた松井千恵も翻意したようで、あの日から猛練習を重ねたらしい。香織の前に鍵盤を叩いた彼女は、心持ちぐったりとした様子でイスに座り込む。躍動感のある激しいピアノだったが、伴奏にしては主張が強すぎる。伴奏者が彼女に決まることはないだろうなと、香織は少しだけ、表情を渋くした。

 今、音楽室のグランドピアノの前で楽譜を広げているのは、他ならぬ渡辺みずほだった。テンポの小気味いい、それこそ華麗に踊るような音色。だがその舞は、やや硬い。

 香織は目をつむり、夜汽車のメロディの中に身を埋没させる。想像力を働かせろ。指を動かせ。歌え、踊れ、そして飛べ。彼女の脳裏には、チャーハンを作るいとこの姿と、転校してきて間もないみずほの不安が思い描かれる。

 自分の居場所。どれだけ下手くそでも、チャーハンを作るフライパンの前は自分の居場所だと、頑なに信じていた、Qちゃんの元カレ。

 香織は目を開いた。燦然と差し込む日差し。明るく切り取られた窓の影。みずほの夜汽車が室内に響く。

 どれだけ彼女が秀でていても、あの場所は私が座る場所だ。ピアノの前。そしてみずほもまた、それを信じているに違いない。

 一つの曲に、伴奏者は一人だけ。でも学年合唱だけが、合唱祭だけが、ピアノ弾きの出番ではない。入学式、卒業式。それこそ終業式から、その他の行事まで。学校生活の中に、ピアノが必要とされる場面は、いくらでもある。

 選抜試験が終わったら、みずほに声を掛けてみよう。誰が伴奏者になっても、どっちが伴奏者になっても、恨みっこなし。楽譜をにらみ付ける渡辺みずほの顔は、威風堂々としながらも、ずっとどこかで、心細そうだった。

 友だちになろう。千恵はすぐには打ち解けてくれないかも知れないが、三人揃ってピアノの前を陣取ろう。三人で同じ楽譜に額を寄せ合って、いろいろな表現を見つけてみよう。

 歌え、踊れ、そして飛べ! 高柳先生の信念を聞いたら、みずほはいったい、どんな曲を奏でてくれるだろうか。

 みずほの演奏が終わる。並んだライバルたちは、小さな拍手とともに、彼女の演奏をたたえる。

 次は香織の番だ。猛練習した。自信がある。だから不思議なくらいに、手は震えない。

「……」

 香織はみずほの顔をちらりと見た。いまだ固い表情を崩さない彼女に対し、ほんの少しだけ、微笑んでみせた。

 みずほと友達になったら、いろんなことを、いっぱい話そう。ピアノのこと、学校のこと、勉強のこと、共通の友達のこと。


 他には、たとえば、そう。いとこが教えてくれた、おいしいチャーハンの作り方、とか。

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おいしいチャーハンの作り方 山南こはる @kuonkazami

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