第3話
連れて来られたのは巨大な岩がごろごろとした、世界の果てを思わせる荒野だった。月夜に切り立った岩肌のシルエットが浮かび上がり、地平線の向こう側まで続いている。犬の遠吠えみたいなのが耳朶に触れ、思わず慄く。
泥人間が好みそうな不吉さに満ちた土地だ。
泥人間は岩の間を縫うように進んでいた。何処もかしこも同じような景色にしか見えないのに、何を目印にしているのか。
いずれにせよ、足の裏がいい加減痛い。
「あの」
泥人間が振り向く。
「もう、ここで結構です」
面倒臭そうに彼は腰に手を当てる。
「どこに行く気だ?」
「ええと、それは……」とあたしは口ごもる。
ここがどこかも分からないので答えようもなかった。
それにもし答えられたとしても言わなかっただろう。捕まるだけだ。
「助けていただいてありがとうございました。さよなら」
それだけ早口に告げ、退却しようとする。手首を掴まれ、あたしは「ひゃっ」と飛び上がる。
泥人間があたしを見下ろしている。
彼は上背がある。一八〇センチ近くありそうだ。なので、あたしは必然的に首を後ろに七十五度位の角度で曲げ、仰向く姿勢を取る。
「やめておけ、オオカミに喰われて終わりだ」
一緒に行ったところでどうせ同じでは? と邪推したが言わないでおいた。
「それに、あんたは俺を助けた。あんたがいないと困る」
そう説かれたがあたしには彼を助けた記憶は皆無だ。それに面識もないのに何を困ることがあろう。
大体彼の言葉は端的過ぎて理解出来ない。眉尻をポリポリ掻いていると、泥人間があたしの手を引いたまま、強引に、そして支配的に歩き出した。
「うええぇぇ……」
あたしは半泣きだった。これでは逃げられない。
◆
洞窟の入り口らしき地点に出た。入り口が丸太を組んだ扉で封鎖されている。泥人間の巣だろうか。
ああ、どうせなら食べられる前に、お寿司でも食べておけば良かった。下らない後悔が過ぎる。
洞窟の内部には仄かな光が拡散していた。岩盤を利用した天井を木材で補強し、床は板張りになっている。大きなストライプ柄のソファーにテーブル、本棚、ランプ。泥人間に相応しい居住空間とは言い難い造りだった。
奥のダイニングらしき所に読書中の人がいた。遠目に見てもぜんまい以外は普通の人間だった。長い髪を後ろで束ねた、太った若い男だ。
彼は来客を察知し、本を投げ、敵に遭遇したかのように手近のモップを装備した。
それら一連の行動の後、メタボリックな長髪の男、略してメタボロン毛は、眼球を目一杯に見開いた。
「……まさか、ナオヤ?」
ちろっと横を見てあたしに衝撃が走った。泥人間が微笑んでいる。
「ああ、信じられねえ。おい、みんな。ナオヤだ! ナオヤが帰ってきたぜ!」
メタボロン毛の大声を聞きつけ、奥から人が三人出てきた。
どの人も泥人間ではなかった。ぜんまい付のただの人間だ。
「ナオヤ、よく無事で……。毎日お祈りしてたんやで」
緩やかに波打つ髪をアップにし、下がった眦(まなじり)の皺が親しげな中年女性が近づいてきた。息子に会った母親みたいな笑みを浮かべている。
隣にいたのは若い女性だ。背が高く、おでこを出したポニーテールが快活な印象を与えた。成長期に滞りなくすんなり伸びた手足と、黒目がちで少し目と目の間が離れているところが、サバンナに生息するインパラを思わせる。
「ひどい顔ねえ」と彼女は可笑しそうに笑いながらも、感涙を堪えている様子だ。
「また会えるとは正直思ってなかったけど、とにかく嬉しいよ。あの呪いをどうやって……」
三十代前半くらいの肌の浅黒い男性が、泥人間の肩に親しげに手を置く。
南国出身のような、彫りの深い顔立ちで、昔サーフィンをやっていました、という雰囲気をそこはかとなく醸し出していた。
「その、彼女のことは、本当に、何て言っていいのか……」
「いや」と泥人間。
久々の感激の再会を果たしているといった光景だった。
あたしはこれ幸いとばかりに自分の存在感を消していた。
ナオヤと呼ばれた泥人間は、多少和らいだ口調で説明し出す。
「あの子が助けてくれた」
彼らが一斉にこちらを見た。目を合わせないように、もじもじと膝を摺り寄せる。
「まさか」とメタボロン毛が首を振っている。
「誰もあそこには近寄れなかったのに?」
元サーファーが近寄ってくる。及び腰になり、あたしは両手にグーを形作り身構えた。
「君、どうやって?」
「彼女は黒谷、」
ナオヤが親指で指したまま、助け船を請うような目付きでこちらを見る。
「……麻奈」と教えてあげる。冷たい口調になってしまったことに関しては申し開きしない。
「黒谷麻奈」とナオヤは言い直す。
ナオヤはあたしの両肩に手を添えると、あたかも物を扱うみたいに体の向きをひょいと転回する。
皆があたしの背中を見て、同時に息を飲むのが分かった。
あたしは逆に溜息を吐く。
ぜんまいがないのがそんなにすごいのか。付いている方がどちらかと言えば奇異だ。
「信じられん」
元サーファーの半信半疑な声がした。ポニーテールの女の子が人差し指で顎の下を押す。
「ナオヤ、もしかして、巻いてもらったの? 彼女に?」
ナオヤがそうだと認めると、洞窟の住人達は、それが怪奇現象並みにおかしなことであるかのように顔を見交わしている。
元サーファーがニヤつきながら目線の高さを合わせてきた。
「ね、じゃあさ。俺のも回してみてよ」
「はあ」と消極的に言うと、ポニーテールの子が急に真っ赤になって息巻いた。
「ごめんごめん、シノブ。冗談だってばー」元サーファーが宥めすかしている。
「もう、ゴローなんて知らない。勝手に死ねばいい」
彼女はぷいっとそっぽを向く。
他の面々は苦い笑いを噛み殺しているようだ。
意味が分からないのはあたしだけらしい。
ウェービーヘアのおばさんが心配そうに話し掛けてきた。
「黒谷さん、ゆうたね? 大丈夫? 血が付いているみたいやけど。それに、傷だらけやし」
額の湿布を思い出した。さっきからヒリヒリする気はしていたが、膝にはガラスで切ったような細い傷もある。
しかし彼女が訊かんとしているのはイチゴの汁のことのようだ。彼女の指先から出ている矢印は寝巻きを示している。
「あ、これはイチゴの……」
おばさんはいきなりあたしの胸元の匂いを嗅いだ。思わず身じろぎする。
「ほんまや。イチゴの匂いする。あんたまさか、食べたん? イチゴ」
あたしは控え目に頷く。おばさんが目を丸くしている。
メタボロン毛がいたく感心したように腕を組む。
「……イカすぜ」
全然褒められた気分はしなかった。
◆
ナオヤはシャワーを浴びてくるとどこかに消えた。泥人間がシャワーなんて浴びた日には溶けて排水溝に流れるのでは、と余計な懸念を抱く。
リビングルームみたいな部屋で傷の手当てを受け、膝に絆創膏を貼ってもらった。
「まあ、裸足やし。痛そうやねえ」
おばさんの温厚さがママの面影とダブった。
ママ、どうしているだろうか。眠ったまま起きないあたしの横で泣いているかもしれない。
胸が切なくなる。あたしを忘れて、一刻も早く楽になってもらいたい。
「あんた、どっから来たん? どこの子?」
保安官にも同じことを訊かれ、寝ていると答えたら変な目で見られた。そこで答え方をアレンジした。
「……日本」
おばさんが首を捻る。
「ニホン? 聞いたことないわ」
彼女の言葉に、あたしが今度は首を傾げる。どう見てもおばさんは日本人だし、第一関西弁じゃないか。
次第に思考回路が混乱をきたしたので考えを追いやった。
夢の中なのだ。深く考えてもしょうがない。
「あの、どうしてイチゴを食べてはいけないんでしょうか?」
「何も知らんのやね? あんた。赤い色は創手の色。せやから赤い物を使えるのは創手だけ。イチゴを食べることが出来るのも創手だけやし、赤い服を着られるのも創手、もしくはその周辺の人間だけ。もし食べたんがばれたりしたら、あんた、天罰ゆうて死刑になるで?」
「ああ、死刑……」
死刑から逃げてきたとは言えなかったが、荒唐無稽な話に聞こえた。
「何だか、無茶苦茶ですね」
「あんた、ほんまにそう思う?」
「ええ」と肯定する。
ふうん、と言ったきりおばさんは沈思する。
「もう一つ、訊いてもいいですか?」
「何?」
「ソウシュって何ですか?」
少しだけ彼女は神妙な面持ちになる。
「創手ゆうのは、創造の創に、手足の手、って書くんやけど、まあ神様みたいなもんかなあ。この世界を創ったお人なんて言われてん。聖都城に住んでるゆう話やね」
「ここには神様が住んでいるんですか?」
「いわゆる神様とは違うとあたしらは思うてる。まあ、一番偉い人って意味で神様だってゆうてるだけやない?」
やたら冷めた口ぶりのおばさんだった。何だかあたしの夢の割には、世界観が壮大過ぎる気がした。
「あんた寒いんと違う? そんな薄っぺらな布切れ一枚で」
首振り人形のようにカクカクと頷いて見せた。
おばさんはランプを手に他の部屋に案内してくれた。階段を昇った先の、角にある部屋だ。
木のドアを開けると、木製の二段ベッドが目に入る。机が一つに椅子が一脚。部屋の隅には、海賊の宝箱に似た重そうな木の箱があった。
それしかない。
味気ない、という味のある部屋ではある。
おばさんが木の箱を物色する。
中には淡い色調の服がきちんと畳まれてあるが、言われてみれば確かに赤い服は一着もないようだ。
「たぶん、サイズもちょうどいいくらいやないかな」
おばさんはオフホワイトのガーリーなワンピースを取り出した。赤毛のアンみたいな服だ。
ある疑問が浮上し、着るのを躊躇した。
「これ、誰の服ですか?」
「これ? ヒメ」
「ヒメ?」
おばさんは木箱の蓋を閉める。
「その人は今どこに?」
「ここにはおらん」
ではどこに? と訊いたが教えてもらえなかった。無断で他人の服を着てもいいのだろうか。
「ええのんと違う?」おばさんが即答する。「あんたはナオヤが連れて来た子やし」
「はあ」と言葉の意味を消化不良のまま、おざなりな返事をした。
部屋の奥にバスルームがあるから使ってと言われた。今日からここに泊まれとも。今日からという単語に引っ掛かる。
素性の知らない人間を、しかも連泊させてくれるのだろうか。後でお金を請求されたらどうしよう。一銭もないのにと気が気でなかった。
おばさんは大笑いした。
「お金なんて取らんて。それに、ナオヤがあんたをどこにもやらんと思うし」
「どこにもやらない?」
「そう、あんたは彼のぜんまいを巻いてやらんといかんのやろ?」
「あたしじゃなくても、ここには人の手がいくらでもあるじゃないですか」
「そんなに単純なこととちゃうねんで? 誰でもいい訳とちゃうし」
要領を得ない回答が跳ね返ってきた。
おばさんが退室したのでシャワーを浴びることにした。
バスルームにはバスタブがあって、トイレと洗面台もあった。ここは水道が通っているらしい。
シャワーからは適温なお湯も出た。毎日シャワーを浴びることが出来るのだ。痒い所に自由に手が届く。
入院中は夏場でも週に二度しか沐浴してもらえず、痒い所はございませんか? 何て親切に訊いてはもらえなかったのだ。
あたしは心ゆくまで全身を洗いまくった。
髪を拭きながら久しぶりに鏡の前に立った。事故前の顔に戻っている。鼻の奥がツンとした。
鏡の中の自分は口角を上げて、ちゃんと笑っている。半開きじゃない。そんな有り触れたことが、途方もなく嬉しかった。
耳の裏から後頭部に掛けて、大ミミズのようにのたくっていた傷跡もないし、鼻の穴には栄養チューブも差し込まれていない。
両頬に懐かしいえくぼも出現している。
パパはあたしのことを小さい頃「えくぼちゃん」と呼んでいた。大きくなってからも酔うとたまにそう呼んだ。事故後はもう口にしなくなったが。
鏡に向かって笑顔を作っていた。角度を変えたりして、とりわけ美人でもないのに、女優みたいに何べんも。
「へくしょん」
我に返り、着替えることにする。
ワンピースには背中にボタンがあった。
リビングに戻ると人っ子一人いなかった。両手を後ろに組み、ぶらぶら部屋を探検する。
誰もいないというのは嘘だった。ソファーに人がいる。あたしは柱の影にさっと身を隠す。
さっきはあんなイケメンいなかったはず。
灰色っぽいリネンのシャツに、黒いズボンとサスペンダーという他の男の人と何ら変わらない服装だった。
遠巻きにその人を深々と注視していると、見られていた当人が耐えかねたように面を上げた。
「あんた、そこで何をしているんだ? こそこそと」
とっくにばれていたらしい。何食わぬふりを装い、ちょうどムズった鼻の下を擦る。
あれ、今の声の感じはもしや。
「あの、まさか、ナオヤさん?」
瞠目する。彼は意外にも若く、そして思いの外美形だった。
泥人間時とのギャップがそう見せているのではないことは断言出来る。彼の顔立ちには非というものが皆無だった。
均整の取れた鼻梁に、すっきりした顎のライン、肌は男の人じゃないみたいにきめ細かくて、そこに切れ長なのにぱっちりした目と、薄い唇が当然と身を落ち着けている。かっこいいというよりも綺麗という形容詞の方が符合する。歌舞伎の女形のような。
何故直ぐ分からなかったのか合点がいった。目の色が違うからだ。薄っすら茶色の混じった黒瑪瑙のような瞳の周りを、青みを帯びた白目が縁取っている。
ナオヤが眉宇に皺をぎゅっと寄せる。穴が空く程ねっとりと見られ、気分を害したようだ。
「目の色が違う」と言うと、ナオヤは「ああ」と気のない返事。「ぜんまいが切れそうだったからだろう、さっきまでは」
ぜんまいの回転が切れ掛かると、目の色が金色に変色していくということらしい。
金色は危険信号ということだ。今は黒いのでぜんまいが満タンを表示している。
他人事ながら大変なのだなと思った。
「誰もいませんね」とリビングを見渡す。
「もう直ぐ朝になるし」
そんな時刻だったのか。あたしはいつも不眠気味だったので、夜通し起きているのも珍しいことではない。
「座れば?」と勧められる。
自分が柱にまだ抱きついていることに気が付いた。
ナオヤから一人分のスペースを空けてソファーに腰を据える。
彼はソファーの背もたれに肘を突いて、斜めに腰掛けていた。ぜんまいがあるので真っ直ぐ着席出来ないのだ。
彼は何かのバインダーを開いている。そこには新聞記事の切抜きがびっしりと貼られていた。〈聖都新聞〉という新聞だ。
「何をしているんですか?」
「俺が知らない間の歴史のおさらい」
受験勉強した頃を思い出した。あんなに暗記した日本史も今は忘却の彼方だ。
ふと視線を感知した。ナオヤの目線があたしを上から下まで往復する。顔を見ないので服を見ているのだろう。
「ヒメさんという方の服を借りました」
「そのようだな」とナオヤは愛想なく目を逸らした。
彼の顎の左脇にホクロを発見した。ともすれば近寄り難い印象の彼の面差しに、それがどこか一点の余地というか、直径三ミリの愛嬌を添えている。
想像力を働かせた。もし彼が学校にいたならば、○○王子というあだ名が付いていただろう。
……氷の流し目王子とか。
ああ、我ながら捻りがない。
それきり沈黙が流れた。あたしには嘗て不言不語しかなかったので、別にそれは苦に思わなかった。
ダイニングの方の壁に写真が飾られている。あたしは座りながら、見るともなしにそれを眺めた。
「その額はどうしたんだ?」
ナオヤの目は労わる風でもなく、バインダーを見ているのと同じように、単に見ているという感じだった。
「保安官に警棒で」
ナオヤは鼻で息を吐くように笑った。鼻で笑ったのはあたしのことではなく保安官のことだろう。保安官はあたしを幽霊だと勘違いしていたから。
「あの、訊きたいことがあるのですが」
会話の糸口を打開してみた。
「何故助けてくれたのですか?」
彼は切抜きを裏返したりしながら、あたしなど眼中にないかのように返答をした。
「死なれたら困るから」
またそれかとあたしは目を回す。
「おばさんも似たようなことを言っていましたが、一体何が困るのか分かりません。誰でもいい訳ではないとかいうことも聞きましたが、何のことやらさっぱり」
「そのうち分かる」
一向に答えになっていない。非難の意味で瞬きした。たぶん彼には通じない。
「あそこにいるって、よく分かりましたね」
「怪しい奴は牢屋に入れられると、大体相場が決まっている」
失敬な発言とも受け取れるが、彼だって泥塗れだった時は非常に奇怪だった。
泥人間になるまでどれくらい時間が掛かるものか。興味が頭をもたげ、あたしは負に傾倒した意気地を持ち直す。
「土の中にどれくらいいたんですか?」
「この新聞の日付から察するに」殆ど上の空のように彼は言った。
「たぶん、三くらい」
「さ、三年?」
気が遠くなった。あたしは事故ってから半年と少しベッドにいたけど、それだけで狂いそうになったというのに。
「何でそんなことに?」
彼は静かにあたしを見遣り、ページを捲る。
「記憶を取り戻しに行って、創手に呪いを掛けられた」
「呪い? それで土の中に三年も?」
ナオヤは頷いている。ひえーと思った。夢なのにここは恐ろしい世界だ。
「さっきあたしが助けたって言ってましたけど、もしあたしが来なければ、もしかしたらずっと土の中?」
「ぞっとするな」とナオヤは答えた。
ぞっとした。
あの暗い地下室の土壁の中に永遠に閉じ込められたら、おお、嫌だ。悪寒がした。
ふと思い返す。壁から出ていた正体不明の物体、あれは彼のぜんまいだったのだ。たまたまあそこに肘を突いたから。
自分がもたらした天文学的な確立をざっと計算し、答えは出なかったけど、とにかく、くらくらした。
ぶんぶんと頭を振る。
「記憶を取り戻すって、どういうことでしょう?」
ナオヤのページを捲る手が一瞬時を止める。
訊いてはいけないことだったのかもとあたしは臆したが、彼はまたも端的に答えてくれた。
「俺には記憶がない。過去、五年より先の記憶が白紙だ」
「白紙?」
ナオヤは小さく首を縦に振った。
「俺だけじゃない。このアジトの連中は皆そうだ。人にもよるが、自分がどこで生まれたのかとか、家族が誰だとか、そんな基本的なことが分からない。ナオヤというのも名前なのかどうか、自信がない」
あたしは言い淀む。
「だから、記憶を取り戻したい」
彼の涼しい黒い瞳に、それまでなかった意志らしきものを感じ得た。
黙って頷いた。掛けるべき言葉は見出せなかったが、彼の言葉が嘘ではないということだけは理解出来た。
「その、創手、というのが記憶の鍵を握っていると?」
尋ねながら彼の顔色を盗み見る。
「そう確信してる」
「創手は神様……いえ、一番偉い人だって聞きましたけど」
「どうかな」とナオヤは嘲るような笑みを起こす。
人の頂点に立つ存在に、戦いを挑もうと、否、既に挑んでいるらしい。
彼の超然とした眼差しに呑まれた気がした。
動けずに俯いていると、ナオヤが目線で階段の向こうを促す。
「もう遅い。寝たら?」
「え、あ、はい」
追い返されるように起立したが、彼は着座のままだ。
「あの、寝ないんですか?」
「俺は土の中で飽きるほど寝た」
些か自虐的とも取れるが、彼もユーモアの引き出しは持っていたようだ。微笑みながら部屋に引き揚げる。
「黒谷、年は?」と取って付けたような声が追い掛けてきた。
「十八歳です」
だからどうしたということもなく、彼は頭をこくんと動かしただけだった。
きっと彼は自分の本当の年齢を知らないのだろう。
ナオヤはあたしなりの推定で二十代前半だが、彼から発散される物憂げな雰囲気が、年齢以上の落ち着きを見せていた。
落ち着きならいいが、日陰の陰鬱さを内包しているようにも見えた。
無償提供された部屋の、二段ベッドの下段に潜り込む。このまま寝ても大丈夫だろうかと憂慮した。
もし目が覚めて病室のベッドだったらと想定し、身が細る。
枕に頭を埋めると、上段のベッドの底板が目に入った。ちっぽけなベニヤ板だったが、あの病室の天井よりもずっと温かく感じられた。
からきしとんちんかんなことばかりで付いて行けない一日だった。まさか牢屋にぶち込まれるとは。
思い返し、低い笑いが込み上げる。
その時、何かが脳裏を掠めていった。
牢屋に入れられた時、格子の向こうに貼られていた指名手配犯のポスター、あれは今思えばナオヤだったのでは?
あの顔はもしかして、いや、絶対そうだ。
たしとしたことが、凶悪犯を野放しにしてしまったのだろうか。
あの眼差し、あの黒い目。
それ程悪い人には見えなかったが、優しい顔の裏で酷いことをする奴もいる。そういう奴はきっとあたしの予想よりも、わんさといるだろう。
他人を安易に信用しては駄目だ。
あたしは自分を言いくるめた。
◆
容態が安定したあたしは、救急病院ではなく、療養施設型の遠くの病院に転院になった。パパが四方八方にリサーチし、リハビリ治療が充実したその施設を探してきたのだ。
四季折々の織り成す美しい景観に囲まれた、緑の中に佇む施設らしい。大自然に囲まれたところであたしの手足が動くようになるわけでもなく、あたしは窓ガラスの端っこに見える枝葉を目で追い、徒然に風に揺れる回数を数えて過ごした。
ドアがノックされて理学療法士が入ってきた。あたしの担当は二十代前半くらいの、川島さんというお兄さんだ。ちょびっとだけジャニーズっぽい。
当時のあたしの周りにはおじさんとおばさんとお姉さんばかりだったので、若い男性というだけでジャニーズ系に見えただけなのかもしれない。
「こんにちは。夕べはよく眠れた?」
愛想よく川島が尋ねた。瞬きで〈はい〉と答えた。眠れていない日でも、大抵〈はい〉と答えていた。〈いいえ〉と言ってしまうと、理由をあれこれ訊かれて面倒だったからだ。
一日中何もしていないというのに、あたしは何をするのも億劫だった。
「じゃあ、早速始めようか」
関節が曲がって固まらないようにマッサージをしてもらいながら、当たり障りのない話をした。
「あの芸人絶対答え知ってるよね。なのにわざとウケ狙いで可笑しな回答しちゃってさ。そう思わない?」
日中はずっと点けっ放しのテレビで、クイズ番組をやっていたことを言われて知った。
〈はい〉と応じながら、川島の俯いた顔を眺めていた。
少しくせ毛の茶色い前髪が目に掛かっている。彼の柴犬みたいな目がこちらを見た。視線が噛んでしまったので、ふいっと逸らしてテレビの画面に目を移した。
視界の端の彼は、意にも介さぬように、慣れた手つきで膝の曲げ伸ばしをしていた。
「ああ、そうそう。あのタレントさん、一番前の席のアイドルタレント? 昔、甲州街道沿いのラーメン屋さんで見かけたよ。一人でニンニクラーメン食べてたな」
不覚にもちょっと笑った。彼と話している時だけは、いつも少しだけ和んだ。
事故後のあたしは無気力と死に憑かれていた。
目覚めればどうやったら死ねるかについて、茫漠と考えを巡らせる。人工呼吸器のお陰で自分で呼吸を止めることすら不可能で、ボードで〈殺して〉と頼んでも、誰もそんな依頼には応じてくれなかった。
何のために生きているのかなんて、そんな不毛なことを考えるのはとうに止めていた。
ドアをノックして、ママが「うふふ」と顔を差し込んだ。ママはパートの合間を縫って、必ず様子を見に来てくれる。往復三時間半の道のりを、雨の日も風の日も、小雪交じりの日にだって、毎日欠かさずに。
「あら、川島さん。いつもお世話になります」
川島の在室に気が付いたママが会釈する。地元スーパーの店名が刺繍された、ストライプのシャツを着ていた。ママはレジの仕事をしている。
「いえ、こちらこそ。いつも麻奈さんとは楽しくお話させてもらっています。ね?」
川島が笑顔を寄越した。
一度瞬きをして見せた。
ママが嬉しそうに微笑んでいた。綺麗だったママの髪には白い物が増えた。
あたしの信号無視による事故だったらしい。相手側には特に過失も見当たらず、訊いても教えてもらえないが、示談金も微々たるものだったようだ。
ママのカラーリング出来ずにいる、黒く伸びた髪の根元も、目の下の隈も、全部あたしのせいだ。
「川島さんっていい人ね。若いのに一生懸命で真面目な感じで」
リハビリが終わった後に、ママがタオルであたしの口元の涎を拭いながら言った。
あたしは一度瞬きをした。
ぜ、ん、ま、い、と、あ、た、し 奈須川 周 @syu-nasukawa
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