第2話
板張りの床に三方は漆喰塗りの壁、高い位置に小さな窓が一つあった。もう一方の壁は丸い鉄の棒が嵌った頑丈な格子になっている。
鉄格子の向こうの壁には〈この顔に見覚えがあったらすぐに連絡を!〉というポスターが貼られ、指名手配犯の顔写真がこちらを威嚇している。
白い固い長椅子に座るあたしは、牢屋にぽつねんと一人だった。
こめかみに手のひらを押し当てる。湿布で治療されてはいたが、ガーゼの下で大きなコブがその存在感をアピールしている。
夢の中なのに痛かった。何も殴らなくたってと物申したい気持ちが胸中に沈んで溜まる。
一応女の子なのに。
人の気配に顔を上げた。
格子の向こう側に帽子を被った大柄な男の人がいた。年の頃は四十代、黒っぽいスーツの内側に銃を携帯し、胸には銀色のバッジが着いている。
「手荒な真似をして済まなかったね。まさかまともに当たるとは」
あたしの非難めいた視線に気が付いたらしい。
彼は傍にあった椅子を引き寄せ、帽子を脱ぎそこに腰掛ける。
「私はアンソニー・マクファーソン。この村の保安官だよ」
どう見ても東洋人顔なのにアンソニー? 違和感は禁じえなかった。
「それで、君は誰だ?」単刀直入な質問だ。
「黒谷です。黒谷麻奈」とあたしも率直に答える。
「クロタニマナ」と彼は鸚鵡おうむ返しに繰り返す。
「どうも、その、先刻医師とも話したのだが、黒谷さん、君は生きているらしいね」
問い掛けとも、確認ともつかない言葉にあたしは瞬きする。
「ぜんまいなしで生きている人間は見たことがない」
そうなのだ。理解不能で奇妙奇天烈なことなのだが、ここの人達は全員、背中にぜんまいが付いている。
天使の羽根ならぬ、墓石の形にそっくりの双葉の形の大きなぜんまい。
普通の人間にしか見えないのに、シンプルなデザインのちっぽけにさえ見える金属の部品が生えている。
そう、付いているというよりも生えているという感じだった。
生えていないのはここではあたしだけのようだ。自分の夢だというのに、解せないことだ。
「一体どうやって生きているんだい? 動力は?」
「……食べたり、寝たり、とかでしょうか」
この返答にますますアンソニーは眉間の皺を深くする。聞きたい答えと違ったのかもしれない。
「ぜんまいを外した瞬間に人間は息絶える。外して尚、動き回れるのは……幽霊くらいだろうな。もしそんな存在があるとすれば。それ以外には、創手様くらいだろうか」
「ソウシュ?」
あたしの問いが届いていないように、ブツブツと何か言いながら、アンソニーは首を縦に振ったり横に振ったりと忙しそうだ。
「考えても仕方あるまい。説明のつかないことは世の中にいくらでもある」
勝手に納得した彼はこちらに向き直った。
「黒谷さん、どこから来たんだね? その格好は……まるで寝巻きのようだが」
「はい、あたし寝ているんです。病室で」
「病室で寝ている? 今? では私が話しているのは、目の前にいる君は誰なんだ?」
「あたしです。これは、夢の中でしょ?」
アンソニーはまるで憐れむような目であたしを見始める。頭がおかしいと思われているようなので、それ以上言わずに口を閉じた。夢の中の相手に何を言っても無駄な気がした。
「混乱しているらしいな。とにかく、君はどこか怪我でもしているのかい? その、ここ以外に」
彼は自分のこめかみを人差し指でちょんちょんと突いた。
頭がイカレていると言いたいのか、それともこめかみのコブのことか。後者ということにしておこう。
「いえ、別に大丈夫です。何故ですか?」
アンソニーはあたしの寝巻きを指差す。水色の寝巻きの胸元に、イチゴの汁が点々と血飛沫のように付着していた。
「ああ、これは血ではありません。イチゴです。イチゴの汁」
保安官の顔色が急変する。
しまった。迂闊にも口を滑らせてしまった。イチゴを盗んだことを自白しているようなものだ。
「あの、実は……」
「食べたのか? 君は」アンソニーが遮った。
「食べてしまったのか? 村外れの特約農家の、あの真っ赤なイチゴを」
あたしはびくびくしながら是認した。
「すみません、イチゴの魅惑に負けて、つい」
「直ぐに近衛部隊に連絡せねば」
アンソニーはあたしの弁解を黙殺した。その態度に胸騒ぎがした。
「あの、部隊って、あたし、どうなるのでしょう?」
「聖都の近衛部隊に連行されるだろう。直ちに裁判が開かれ、君は死刑だ」
「死?」
耳を疑った。たかがイチゴ泥棒で死刑になるのか。そんなべらぼうな。
「冗談ですよね?」
あたしは気安い口調で訊いたが、アンソニーは剣呑な顔でこちらを見ただけだった。
◆
保安官が退散してからしばらく経った。
上の方にある窓には、爪先立ちしても手すら届かない。外を窺うことも叶わず、あたしは檻の中を右往左往していた。
大丈夫、これは夢だ。死刑だなんて、そんなはずはない。と、しきりに自分に言い聞かせる。
自分の夢とはいえ、全く予期せぬことばかりだ。あたしもなかなかイマジネーション豊かだったということだろうか。
一人でニヤニヤしていると、俄かに外部が騒がしくなる。上空からバラバラバラという音が鳴り響いてきた。
この音、ヘリコプターの音では?
聖都の近衛部隊、連行、という保安官の言葉が蘇る。
あたしは怖気付いた。辺りの緊迫した空気に、なけなしの冷静さが煙のように掻き消える。
「ど、どうしよう」
声にしたがどうにもならず、またうろうろと歩き回るしかなかった。
バシャーンという音が鼓膜を震わせた。いきなり何だと反射的に振り仰ぐ。
頭上の窓が割られていた。ガラスの欠片が床に散らばり、裸足では近寄れない危険物に変わる。それらを避け、壁際の隅に縮こまった。
窓枠に手が掛けられたのを見て瞬きした。
汚れた手が二つ、それに続いてぬっと二つの目が現れた。
金色に光る両目。
震撼する。
教会の地下にいた化け物の目にそっくりではないか。カチンコチンになっていると、誰かが喋った。
「おい、出るぞ」
背後を振り返った。誰もいない。
「……あんたに言っている」
今度はもっとはっきり、呆れたような響きを持って耳に至った。
あたしでしょうか?
そう訊きたくて自分の鼻を指差す。
「早くしろ」
差し迫った、命令に近い物言いだ。あたしは口が利けず、あうあうと唇だけを動かす。
「死にたいのか?」
金色の目がすうっと細められる。それを見て粟肌が立った。
「どうなんだ!」
怒鳴られた。何故だ。破れかぶれで、あたしは何とか声を振り絞った。
「死にたくないです」
「じゃあ、腕を伸ばせ」
間髪入れずに、真っ黒な腕が窓枠から差し入れられた。
汚れていてもそれは普通の人間の腕のように見えた。黒い固い毛が生えているわけでも、黄緑色の鱗に覆われているわけでもなかった。
金色の目がすごい形相で睨んでいるのが分かり、言われるがまま長椅子の上に立ち上がり、腕を伸ばした。
「そこ、尖ったガラスがある」
泥人間の細やかな気遣いには、動転していたせいで気が及ばなかった。そのまま体ごと引き上げられ、何はともあれ脱獄は半分成功した。
広場に煤けた赤色の胴体に、鉛色のプロペラが二つ前後に付いた大型ヘリが着陸している。
周囲に赤い軍服を着た兵隊がいた。赤い上着に、赤いラインの入った黒ズボン、金の飾りの付いた帽子という格好だ。
あれが近衛部隊だろうか。何だかおもちゃの兵隊みたいだ。しかし彼らが肩から掛けている銃を見て取り、自分の呑気な第一印象を撤回した。
自転車置き場の陰に潜伏し、泥人間が脱出の機会を窺っている。
その間泥人間をまじまじと至近距離から観察した。
土に固まったような髪と服、人間と大差ない手足、そして背中にはやはりぜんまいが生えている。
土塗れのぜんまいに触ってみたい衝動に駆られる。
人差し指を伸ばそうとしていたところで、泥人間がこちらに注意を向けた。何もなかった顔で直ぐ様手を引っ込める。
「今だ」
黄色の古めかしいトラックが路上駐車されている。荷台部分にクレーンの付いた業務用の車のようだった。
背中を丸めながら泥人間はそこに向かった。あくまで取り敢えず、あたしは付いて行った。
泥人間は足元の平たい石を拾い、慣れた手付きで窓ガラスを打破すると、ドアロックを解除し、運転席に押し入る。その一挙一動を傍観した。
これは器物破損と窃盗罪だ。イチゴ泥棒で死刑だと宣告されたのに、車なんて盗んだ日には――。
「乗れ」という泥人間の声が黙考を破る。
「頼むから、早くしてくれ」
ヘリの飛行音が後方から聞こえた。
「あわわわ……」
大急ぎで助手席に乗り込んだ。
日除けの部分を下ろすと、鍵が音を立てて滑り落ちてきた。それを額の前でキャッチし、泥人間はエンジンを始動させる。
これ以上首を突っ込まない方がいいのではないか。本能があたしの肩を叩いて気を引こうとしていた。
トラックは無灯火で、森の中を驀進していた。
舗装などされていない道なき道なので、車内の安定感は絶無だ。内臓が揺さぶられ、すこぶる気分が悪い。
こんな真っ暗な道を、どうして普通に運転出来るのか腑に落ちなかった。
交通事故はもうごめんだとも思った。
それより何より、泥人間が運転している事実に驚いていた。化け物なのに運転免許試験に通ったのか。
「名前は?」
細いシートベルトに強引に隠れる。当然、見えてる表面積の方が圧倒的に多い。
「く、黒谷麻奈です」
こちらが素直に称したにも関わらず、泥人間は名乗らなかった。
バックミラーで背後を確認し、「ふう」とか言いながら彼はブレーキを踏んだ。
耳を澄ませるがヘリの音はなかった。
ホーホーという、胸をざわつかせる鳴き声が、鬱蒼とした森の奥からひんやりとした風に乗って運ばれてくる。
「黒谷」
突然呼ばれて、あたしはびくっと自分の肩を抱く。
泥人間の金色の目が殊更光を増し、ギラついた目でこちらを見据えていた。
あたしを食べても美味しくないですよ。
そう言いたくても口が言うことを聞かず、寝巻きの胸元を掻き寄せ、シートの隅で体を萎縮させた。
「一先ず、これを巻け」
泥人間がくるりと背を向ける。
突き付けられたぜんまいにあたしはぱちくりする。
「このぜんまいを、ですか?」
当たり前のことを訊くなという視線を泥人間が肩越しに送ってきた。
あたしは顔面一杯に疑問符を浮かび上がらせて見せる。
「時計周りに」という指令に、戸惑いながらも従順に従う。
初めははギギギと重い感じだったが、段々と手ごたえが軽くなり、巻き終わる頃にはまた重たくなった。これ以上巻けないところであたしは手を離す。
泥人間は深く吐息を漏らした。一日中肉体労働に明け暮れた後に、一番風呂に入った瞬間のような、そんな溜息だった。
手の泥を払いながらあたしはしみじみと考えた。一体このぜんまいは何なのかと。
「よし、行こう」
気を取り直すように、泥人間は再びキーを回す。
唇を舐めて湿らせる。
「あの、行くって、一体どこに?」
泥人間は人間らしい所作で肩を竦める。
「仲間の所」
貧血を起こしそうになる。
泥人間は複数いるらしい。群れの仲間と一緒にあたしを晩餐にする気か。
隙を見て逃げよう。そう決意した。
面倒に巻き込まれそうだというあたしの予感は当たった。というよりも既に巻き込まれていることが明白になった。
そしてもう一つのことにも気が付いた。
あたしは今、死にたくないと考えていた。
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