第1話
最初に覚えたのは眩しさだった。
目に沁みるような光。あたしは眉間に皺を寄せつつ、片目を明ける。
数秒様子を見てからもう一方の瞼も引き上げる。太陽だと分かった。
あたし、今外にいる……?
やっぱり外にいた。
吸い込まれそうな水色の空には、神々しいまでの火輪が照り映え、薄綿を千切ったような雲が漂流している。風が前髪を揺らしていった。
青空を目に映したまま、状況を判断しようと努めた。
事故に遭い、最初に病院で目が覚めた時に似ている。外に出された記憶などない。もしかしてまたもや事故に?
いやいや、まさか。病室にいたはず。病室に――。
後に見た光景が、ありありと脳裏に去来する。
吐き気がした。
喉を押し上げるかのように、苦い何かがせりあがってくる。苦い何かは、あたしの全身を覆った。自分自身が汚物になったみたいだった。
あたしは咽ぶ
締まりのない蛇口から水がたらたらと滴下するように、両方の目尻から止め処なく涙が零れた。
こめかみを通過した落涙が、次々に生え際に吸い込まれていった。
どれくらいの間そうしていたのか。漠然としていて自分でもはっきりしない。
涙の跡がすっかり乾き、肌がピンと突っ張る感じがするのに、充分なだけの時間は経っていた。
不意に耳元でブウンと鈍い音がした。
必死に目玉をその方向に向けようとする。するとその音源は鼻先十センチの距離で止まった。寄り目にすると胴体は黒く、お尻だけが黄色い蜂がいるではないか。
空中に浮かんだまま、それはあたしの鼻に留まろうか、留まるまいか迷っているようだった。
刺される!と思った。
それで咄嗟に手をワイパーのように振った。
びっくりした蜂はほうほうの体で頭上を越えてどこかに飛び去った。
鼻が腫れ上がる危機を回避し、あたしは「ふー」と安堵の鼻息を吐く。
空を見ていて思い出した。
さっき手で蜂を追い払った気がする。あたしは瞬きを連打した。まさかと疑った。
でもやってみる価値はあるかなとも考え直す。試すだけなら無料だ。
さして大きな期待もせずに、右手を挙げてみようと試みた。
いとも簡単に出来た。今まで0.1ミリも動かせなかった右手が目の前にあった。
本当に自分の手だろうか。これは怪しい。
その手を顔の方に近づけ、頬に触れてみた。感覚が残されていた頬に、手の温もりが伝わる。
どきっとした。恐る恐る右手で自分の顔面を撫で回す。手のひらの方にも、こじんまりとした鼻柱の手応えがある。
嘘だと思った。
もう一度空を仰ぐ。
はやる心を静めて、自分の触覚を研ぎ澄ませた。
右手、左手、右足、左足の所在を感じた。四肢が横たわっているのが分かる。
背中、お尻、頭が重力で地面に押し付けられ、柔らかい草の上に寝転んでいることまで知覚出来た。
あたしは感嘆の声を漏らしそうになる。
両腕で踏ん張り上半身を起こした。首を巡らせてせて辺りを見晴るかす。
15センチ程の背丈の草が風に靡き、波のように寄せては返している。深緑の海にいるみたいだ。
背後にはこんもりとした黒い森、更に奥には空と同じ色の山脈が連なっていた。山の谷間にある丘陵だ。
ポストカードでしか見たことがない、これぞ絶景と言わしめる大パノラマが三次元で展開されている。
手を支えにし、産まれたての小鹿さながらにプルプルと四つ足になり、次にゆっくり両足で立ち上がる。
多少立眩みを覚えたが、自分の足で確かに立っていた。
笑いが込み上げた。
「ふ、ふ」と喉から音が出て、嬉々とした。
「あ……あ、あ。あー」
最初は風邪を引いたように掠れ気味だったが、段々とはっきりした声になった。
あたしは初めの一歩を踏み出した。足はちゃんと前に出た。
大股で草を踏み締めながら、振り子のように行きつ戻りつ歩行する。
「せいっ」と草を蹴ると、モンシロチョウが驚いて、でも焦るでもなくひらひらと飛び立った。
あたしは走った。
「ぎゃー」とか「出来たー」とか「ひゃっはっは」とか奇声を発しながら草原を駆け回った。
でたらめに両手を振り翳し、独楽のようにくるくると踊る。
しばらくすると風景が独りでに回り出した。眩暈すら愛おしく感じてあたしは大声で笑う。
もしここが街中だったら、気違いだと暗黙のうちに了解され、黙殺されただろう。でも、どうせここには誰もいない。
そうしながら頭では考えていた。きっと、遂にあたしは死んだのだ、と。ここは天国に違いない。
だってこんなに美しい世界は見たことがない。
神様があたしの願いを聞き届けてくれたんだ。
死ねてハッピーと思っていた。
もう一つの可能性のことも考えた。もしかしたら病室のベッドで夢を見ているだけかもしれない。
それならそれでもいい。ずっと永遠に目覚めないで欲しいと思った。
あの汚れた体には戻りたくない。
決して。もう二度と。
◆
その日は年末最後の大学入試公開模試の日だった。
十二月半ばの街はクリスマス一色で、地元商店街の軒先もLEDのイルミネーションで飾られていた。
朝の光の中で見ると、それは安っぽい緑の電線が、支柱に絡まっているようにしか見えなかった。
受験生で、おまけに彼氏のいないあたしにとってクリスマスなど鬱陶しいだけのイベントだ。
サンタが枕元に〈合格〉を置いていってくれるのなら話は別だけど。
当時十七歳のあたしは塾に向かって猛然と自転車を走らせていた。
第一志望は、都内にある名門私立大学の文学部国文学科だった。前回の模試の判定があまりに芳しくなかったので、猛勉強したつもりだった。だから努力の成果を試したいという気負いもあった。
それで深夜まで最後の詰め込みをし、寝過ごし、自分の詰めの甘さが露呈した次第だ。
薬屋の店先にある、日に焼けてくすんだカエルの人形が、サンタの扮装にされていた。
薬とクリスマスに何の関連性があろう。カエルのありがた迷惑そうな笑顔が、ちらりと目に入った。
交差点の青信号が点滅していた。この交差点を渡れば塾まで直ぐだ。
更にピッチを上げ、立ち漕ぎしながら無人の横断歩道を渡った。
クラクションも何の音もなしに、大型トラックのフロントの〈FUSO〉のロゴが横から急接近してきた。
自転車はタイヤの下敷きになり、水飴みたいにぐにゃりと曲がって変形した。
あたしはと言うと、まるで案山子のように弾き飛ばされ、ガードレールに頭から落ちた。
事故の最中の記憶はない。最後に覚えているのは、赤い服を着たカエルのにやけ顔だ。
で、次に気が付いたら病院だった。
二、三回回瞬きして目を開く。
誰かが見下ろしている気がしたが、あたしは瞼を支えていることが出来ず、再び昏睡状態に臥した。
二度目に目覚めた時には、幾許か意識が明瞭になっていて、ここが病院なのだと見当を付けるくらいは容易かった。
何故か背中が異常に重いと感じた。
何かが動く気配がしたのでちらりと目を遣ると、ナース服を着た若い看護師さんがいた。彼女はあたしを見るなり、新種の生物でも発見したかのように声を上げた。
「先生! 」
呼ばれたのは分厚い眼鏡を掛けた額の広い医師だ。天然パーマの髪を無理やり七三分けにしている。度のきついレンズのせいで、顔の印象が良くか悪くか相当変わっていそうだ。
彼は胸ポケットからペンライトを取り出し、あたしの眼球を照らし始めた。
強い光がまともに見られず瞬きした。灰色の天井にオレンジ色とも緑色ともつかない残像が遊泳。
「黒谷さん、黒谷麻奈さん。分かるかい?」
先生が訊いた。うん、と頷いたつもりだった。
でも、何か様子が違った。
「ここは病院だよ、分かるかい?」
頭が動かせなかった。
え、何で? と思った。
次に分かったのは声も出ないことだった。
え、何で? と同じ疑問がまた湧き上がった。
「心配しないで」と先生は言った。心配だった。
いや、体に異変が起きているのだ。心配するなだなんて出来ない相談というものだ。
ベッドの足元で両親がやきもきしている。先生が場所を空けると、ママとパパが待ちかねたようにいそいそと寄ってきた。
ママは泣いていて、パパは泣きそうだった。
「麻奈ちゃん、麻奈ちゃん」
ママの呼び掛けに笑って見せたつもりだった。
しかし数秒後、ママはわんわん泣きじゃくった。パパが肩を抱いてやっている。
パパとママが密着しているなんて、若い頃の写真でしか見たことがない。
一体、何事?
先生が横から眼鏡顔を割り込ませる。
「いいかい? 麻奈さん。今から僕が言うことを良く聞いてね」
彼は文節を区切るようにはきはきと話した。指で数字の一と二を表す手振りも一緒に加えて。やけに懇切丁寧だなと思った。
「〈はい〉の時は瞬きを一回、〈いいえ〉の時は瞬きを二回だ。声の代わりにこの瞬きでお返事してくれるかい? もう一度言うよ。〈はい〉は一回、〈いいえ〉は二回。分かった?」
躊躇いながらも〈はい〉と一度瞬きした。
ママがまるであたしが運動会で一等賞を獲るという偉業を成し遂げた時みたいに感動していた。
ただ事じゃなさそうだ。ますます不安が募る。
「自転車に乗っていて、君は事故にあったんだよ」
その言葉を黙って聞いた。黙っていることしか出来なかったわけだが。
「交差点でトラックと接触したんだ。覚えているかい?」
爪楊枝の先程にも記憶がなかった。〈いいえ〉と二度瞬きする。
両親が固唾を呑んでいた。塾に行く途中だったことは身に覚えがある。
見える範囲だけでも、自らの置かれた状況を見極めようと目玉を動かす。天井、間接照明、広い病室、仕切りになるピンク色のカーテン、ベッドの脇に何かの機械、その機械から聞こえる微かなモーター音。先生、看護師さん。パパとママ。
「どこか体は痛むかい?」
痛いというより、重い。差し当たり、二回瞬きした。
一呼吸後に穏やかに彼は告知した。
「君は事故にあって、頭蓋骨と首の後ろの骨を折ったんだ。それで頸髄を損傷した。体が動かせないのも、声が出ないものそのせいなんだよ。ここまで分かったかな?」
ケイズイ? 骨? そうか、骨折したせいで体がうまく動かないのか。
一度瞬きした。
良かった模試でと思っていた。
本番の試験の日じゃなくて良かった。この時まではそう思っていた。
◆
思いつくまま気の向くままにあたしはほっつき歩いた。
傾斜を下って行くと、長い草に隠れていた小川が姿を現す。山の上から流れてきているようだ。
水面が太陽を反照し、水際には淡い青紫色の小粒な花が群生している。確かこの植物はオオイヌノフグリだ。
しゃがんで手を浸してみた。身を切るように冷たい水が、指の間をすり抜けていく。
飲めるだろうか。飲んでみよう。
両手を使って水を掬った。手首の内側を伝う滴が、透明な宝石みたいに見えた。
口に少し含んでみる。微かに甘い。そうしているうちに口の中の水が生温かくなってきた。
どうやら飲み込み方を忘れているようだ。
喉の奥を開き、ちょろっと水を流し込む。
「ゲボッ」
まずい。気管に入った。あたしは胸を押さえながら激しくむせ返った。涙目になりながらひいひい悶え、そしてまた笑った。
水も上手く飲めないのが何だか可笑しかった。ふう、と手の甲で涙と唇を拭う。
清流の流れに沿って歩くことにした。
「あるこー、あるこー。わたしはー、げんきー」という歌が口を継いで出た。
「あるくの、だいすきー。どんどんゆこう」
歌のリズムに合わせながら、何かに突き動かされるように手足を運んだ。
喉が渇いたら小川の水をがぶ飲みし(大腸菌の危険性など頭から消えていた)、疲れたら草の上に大の字になって寝転がった。
何という幸福感。満ち足りた気分だった。
鼻から思い切り息を吸い込む。排気ガスも汚染物質も含有していない純粋な空気だ。
生まれて初めて気体を味わった。
紺碧の空を仰視し、空色とはこういう色を差すのだと知識を深めた。高い位置に浮かぶ雲と、低い所を漂う雲とでは、流されていくスピードが違うのだと今まで知らなかった。
空って立体的だったんだ。
「あー、天国って最高」
独り言にしては大きなボリュームであたしは喋った。
新しい真っ白な体を手に入れた気になり、心が軽かった。
さよなら、汚れたあたし。あたしは今生まれ変わって、産声を上げたばかりなんだ。
「おんぎゃあおんぎゃあ、なんちゃって。あははは」
どう大目に見ても完全なる躁状態だったが、当のあたしは無自覚だった。
◆
日が暮れる頃になって、小川の先にある林の中に家が建っているのが見えた。
白い壁に茶色の屋根、可愛らしい小さな平屋建ての家だ。木の柵に囲まれた畑もある。
抜き足差し足で、柵まで辿り着く。不可解さよりも好奇心が勝った。
家の窓には人影一つなく、明かりも灯っていなかった。空き家なのだろうか。廃屋には見えないが、人の動静もない。
畑には縁がギザギザの葉っぱに埋もれるように、赤い実がたわわに実っていた。
熟れたイチゴだ。
見ているうちに、食したい欲望が生唾と共に湧いた。
あたしは嚥下出来ると経験から知り得ていたし、味覚を感じる舌もあった。
挙動不審の体で辺りを窺う。
少しくらいなら。誰もいないし。と、悪魔の囁く声が何処からか聞こえ、あたしは柵に手を入れ、一つ摘んだ。
今更気兼ねして、前歯で削る程度に齧ってみる。
「おお、イチゴだ」
甘酸っぱい感動と一緒に、実を口に放り込む。
ぷちぷちとした種の歯ざわりと、芳醇なイチゴの果汁がじゅわっと舌の上に解ける。イチゴを崇めたくなるくらい、それは美味だった。
理性という名の緩い牽制を振り切った右手が、無断で二つ目に手を伸ばす。
食べるという行為の素晴らしさに脱帽した。一心不乱でイチゴを貪った。
ずっとずっと考えていたのだ。もし今食べることが出来たなら、何を食べようかと。
1位はおにぎり(具は悩むが焼きたらこがいい)。
2位はフライドポテト。
3位はラーメン。
この上位三つの最強炭水化物は常に不動だ。
イチゴなら8位入賞圏内にランクインは堅い。イチゴ礼賛。ビバ・イチゴ。
夕刻の残陽も尽き果て、暮夜の半天には星がキラキラと瞬いていた。
住人の足音が近づいてきているのには、一切気が回らなかった。
それ程目の前のイチゴに、あたしの欲求を司る視床下部は魅せられていたのだ。
サクッと枯葉を踏むような音で、やっとあたしの煩悩丸出しの行動に歯止めが掛かる。
「……誰?」
女の声だった。その人が手にしたランプをこちらに向ける。
若い女の人が不審げに目を細め、こちらを凝視していた。
その女性は、〈大草原の小さな家〉的な素朴なワンピースとエプロンを着けていた。
一度躊躇った後、おずおずとあたしは視線を返した。
女の人はランプを取り落とす。ガチャンと割れて火が消えた。
「きゃあああっ!で、出たー!」
彼女の口から出てきた悲鳴に驚愕し、あたしは五〇センチくらい飛び上がって一目散に逃げた。
石垣があったので、そこに身を潜める。
巣穴から外部を警戒するミーアキャットのごとく、ひょっこりと顔を出してみる追ってきている様子はなかった。
ひと安心し、あたしは冷たい石に背中を預ける。
太古の昔から、自ずとそこに在ったような静謐さで、丸い月が浮かんでいる。光を邪魔する遮蔽物が何もないので、月光だけでどこまででも見渡せた。月の光が雪となり、辺り一面に降り積もっているかのようだった。
こっちにも人がいた。あたし一人きりじゃなかった。
自分の両手を目にして、何故悲鳴を上げられたのか頷けた。
イチゴの汁で手が真っ赤だったのだ。きっと口の周りも真っ赤に色付いているのだろう。
出たー、と彼女は目玉を剥いていた。
ちょっと笑えた。
彼女はクラシカルな服を着ていた。天国だし色々な時代の人がいるのだろう、くらいにしか思わなかった。
べたつく手と顔を洗い流したかったが、小川を見失ってしまっていた。
仕方なくそのまま石垣沿いに歩く。希望的観測で、街か村に出られるのではないかと見通しを立てた。
予見は難なく的中し、集落の明かりが近づいてきた。
小さな村だった。レンガの外壁に、水色や緑の屋根が載った家屋が立ち並んでいる。
どの家にも白い手摺りのポーチが付いていて、出窓や屋根裏部屋の小さな窓も見える。
ガス燈らしき明かりが随所に設置され、各戸の玄関先にもランプが下がっているので、村の中はオレンジ色を帯びた光と、生活感とで氾濫している。
村の人に声でも掛け、接触を試みようかと思い立つも、その前にこの汚れた顔だけでも何とかした方がいいだろうと考えを改める。
水道を探し、家の裏手に回り込む。裏庭の隅に、緑色の汲み上げ式のポンプがある。
ここでは手押しポンプが主流なのか。レトロでいいかもと思った。
昔にアニメ映画で見たので何となく使い方は分かった。この大きなレバーを上下に稼働させるはずだ。
ちょっとそれを動かしただけで直ぐに勢いよく出水した。
置いてあった白いホーローの洗面器が水を受け、「ギョワン」という大きな音を立てた。
予想だにしない音量にたじろぐ。溜まった水で手と顔を洗い流し、見苦しくない程度の容貌に戻った。
「誰だ?!」
再びさっきと同種の声が浴びせられた。今度は皺枯れたお爺さんの声だ。二回目なので耐性があったせいだろう。あたしは幾分余裕を持って振り返った。
「すみません、ちょっとお水を、」
痩せた白髪の老人だった。幽霊でも見たかのように、何故か目を点にしている。
あたしは「あの」と手を途中まで挙げる。
取り付く島もなく、老人はそそくさと裏口から中に入っていってしまった。
何がいけなかったのか分からず瞬きする。ほとんど無意識だったが、瞬きで語る癖が残っているのだ。
去り際、きらりと老人の背に何かが光った気がした。気のせいかもしれない。
バタバタと慌しい足音をさせ、老人が長い物を手に再度登場した。
それが何か判明した瞬間、膝ががくがくと笑いだした。
老人が向けているのは猟銃だった。
初めて目の当たりにした銃らしき物体に竦んでいると、物騒なその老人が高らかに宣言する。
「わしはまだ耄碌もうろくしとらんぞ!」
彼は引き金に指を掛ける。
直ちに本日二度目の逃亡を図った。
茶色い柵をひらりと飛び越え、人気のない暗闇に姿を眩ませた。
「何で? 何で? 動機は?」と口の中でぶつぶつ転がす。
村の明かりが遠ざかり、月明かりに変じる。
古い鉄製の門扉が見えてきた。蔦が何重にも絡まり、夜目にも不気味な風情だ。
ぜいぜいと喘ぎながら振り向くと、村の方角から点々とした蛍のような灯火が、こちらに向かってくるではないか。
追っ手だ。追い掛けられている。
思い当たるふしのないあたしは頭を抱えた。
いや、一つある。イチゴだ。
門扉の向こう側に、背の高い尖塔のシルエットが見えた。教会かもしれない。
背後の光の群れが、蛍火から豆電球くらいに成長している。いずれ取り押さえられるのは時間の問題か。
ここに逃げ込むしかない。
手探りで門をまさぐる。
気ばかりが焦心に急き立てられるも、蔦と格子の間に隙間を発見し、どうにかこうにか体をそこに捻じ込んだ。反対側から蔦を詰め込み、侵入の痕跡を隠蔽する。
息吐く間もなく、あたしは建物の方に急いだ。
入り口を探し、うろちょろしているうちに裏側に来た。その場に立ちすくむ。
「げ……」
裏手は墓地になっていたのだ。奇なる形の墓石が等間隔に二列並んでいた。どことなくシンボリックな、双葉の形に見受けられた。
「お邪魔します」と心の中で手を合わせる。
この情景に、ここは天国ではないらしいと薄々気が付き、多幸感が引潮のように引いていく。
石造りの壁が一箇所、朽ち掛けた木戸になっていた。音がしないように用心深く、でも力を込めて引いた。びくともしなかった。
もう一度同じ作業を繰り返すも結果は同じ。
ははん、と勘付いた。あたしを騙そうたってそうはいかない。
逃げている立場の癖に、何故か刑事のような心持になっていたあたしは、思い切り木戸を押してみた。
想定以上に易々と、それは開扉した。
「あっ?!」
勢い余ったあたしはそのまま階段から転落し、一メートル程下の石の床に、ずでんとお尻から着地した。
「あ、あ、あり、あり……」有り得ないと言いたかった。
体をそろそろと起こして、落雷を受けたかのように痺れる尾てい骨を摩る。頭から落ちなくて良かったと心の底から感じた。兎にも角にも、ひょこひょこと隠れる場所を模索した。
壊してしまった木戸から漏れ入る月光を頼りに、仄暗い地下室を、暫定障害物センサーに為り代わった手を、前方に伸ばしながらひた歩く。
ぺたぺたという裸足の足音がやけに大きい。
あたしは半袖の寝巻き一枚という、病室のベッドから脱走した闘病患者のような格好だった。
どこかで服を調達せねばと自分が目論んでいることに、我ながら苦笑する。
十メートル程探査したところで、行き止まりになってしまった。
建物の大きさからもっと奥行きがありそうだったのに。
立ち塞がっている黒っぽい壁に手を這わせる。その壁は脆くぽろぽろと剥げ落ちた。
湿り気のあるざらついた手触り。土だ。
地下室を見回す。
がらんとした地下室は、蝶番でぶら下がったままの木戸以外に、扉らしきものはなかった。
避難場所の目処が断たれ、途方に暮れた。
土壁からにょきっと突出した箇所がある。深く考えもせず、そこに右の肘を乗せ、溜息混じりに頬杖を突いた。
「いやはや参ったな」
体重を掛けた瞬間がくっと肘が落ち、心臓がびくんと跳ねた。
壁の出っ張りが壊れたのかと最初は思ったが、よく見ると出っ張りはまだそこに現存している。
ただ、あたしが体重を掛けたせいで、それの向きが少し変わっていた。
「なあんだ」と胸を撫で下ろす。たまげて損をした。
ふと、マナーモードのような振動を足に感じた。
怪訝に思って歩みを止める。やはり気のせいではないようだ。
ぱらぱらと裸足の足に何かが降り掛かった。足裏で踏み潰してみて、それが何であるか明らかになる。
「土?」
恐々壁を見上げた。壁全体が細かく揺れている。両目を大開きにし、瞬きを乱打した。卵の殻を破るように、土の表面にひび割れが生じている。
只ならぬ雰囲気を察した。してはいけないことをしてしまった子供の気分だった。悪気はなかったの、と誰にも訊かれていないのに言い訳を考え、後じさる。
壁が大きく崩落し、出っ張りもろとも大きな物体が床に産み落とされた。それがピクッと動いたのを見て、あたしは本気で怖くなった。
じりじりと後退しながらも、目だけは土塊に釘付けになる。
土を振るい落とし、塊が本体を曝し始める。
それはまるで人間みたいな形状をしていた。両手、両足、頭部もある。変な出っ張りの部分は背中に接合したままだ。
頭部らしき部位が、後ろに仰け反った。
その戦慄を覚える生命体は、のろのろとした動きで反った頭を正しい位置に戻す。
頭部に二つの穴がぽっかりと空いた。それは金色の光を宿した穴だった。
穴ではない。それがその化け物の眼球であることは一目瞭然だった。
琥珀のように微かな赤みを含んだ金色の虹彩、その真ん中に黒い瞳孔らしきものまである。その目は左右を舐めるように眺め、次に真っ直ぐあたしを捉えた。
咽頭の奥で出口を求め、渦巻いていた悲鳴があたしの口から飛散した。
「ひいいーっ!」
足をもつれさせながら、脇目も振らずに逆走した。
ここは天国ではない。夢だ。あたしは今夢を見ているのだ。それも、悪夢を。
四つん這いになりながら、形振り構わず石段を駆け上がる。
上がりきると、月夜に浮かぶ墓地が視界に広がる。
脳内で警鐘がガンガン鳴った。一刻も早くここから離れなければ。
あたしはまた走り出した。
建物の角を曲がり、教会の正面に回った途端に眼界がぐらりと傾いた。
そのままあたしは、陸に上がった魚みたいに地面に横たわっていた。
こめかみが酷く熱い。
目から出た星がチラつく中で、ランプを掲げた複数の人間があたしを検分している。
村の人に捕獲されたようだと夢うつつに観念した。
彼らは一様に墓石に似たシルエットの、双葉型をした何かを背中に着けていた。
何、それ?
声に出したつもりだったが、音としては不十分だった。
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