誰も知らない話

 部屋の鏡の前で、もはや光を無くした黒い立方体を握る青年が居た。ワインレッドのローブに髪の色と同じ焦げ茶色のブーツ。近くの椅子の上には革製のとても古く、彼の手の平に収まってしまいそうなほど小さい本が。本には飴色の宝石が嵌め込まれていて、どこも擦り切れていないところからどれだけ大事に扱われているのか伺える。


 青年は片手に持った魔導書を見つめてから目を伏せると、短く髭の生え始めた口まわりを動かした。これは自分を納得させるためのもの。意味は無いとわかっている。当時の自分ならばあの選択以外はしないだろうし、あれは万にも及ぶ人を救ったのだと言うことも分かっていた。でも、それでも。


「鏡よ、あの日の、人類歴千七百五十年、八月十六日の僕の夢の中へ連れて行ってくれ。」


僕はまだ、あの夏休みを忘れられない。

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トバリと錬金術の夏休み 柏木雨傘 @otukimi77

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