第31話 初夜

 雪が降る季節となった。

 辺りは雪を被り、宦官達がせっせと雪掻きに勤しみ、下女は火鉢で石を焼き、懐炉かいろを作っていた。

 茶会以降、太后の動きは静かになり、アトはようやっと一時の安寧を得た。


 ところが、何故かアトの側付き以外の侍女や、宦官達がアトを恐れるようになってしまった。

 先程も、ちょっと運んできた朝餉の皿を傾けただけで、命乞いをするように謝る。


 どうしたことだろう? と、首を傾げていると、綾月が言った。


「希勇君自らが、あの侍女達の腕を折ったりするからですよ……。」


「そんなこと言ったって……!」


 しょうがなかった。

 あの時、彼女等を許すわけにはいかなかったし、かと言って、命を奪うまでのことはしたくなかった。

 だったら、アト自身が上手く加減して叩き、最小限の怪我で済ませてやる他なかったのだ。


「まぁ……死刑にするより、貴妃の威厳を周りに示せたのは、良かったかもしれませんね。」


「威厳……。何か怖がられてるだけだと思うんだけど……。」


「軽んじられるより余っ程マシです。」


 アトは全く釈然としなかったけど、綾月や李華は少し安心した。

 少なくとも、下手な嫌がらせは、もうされないだろう。


 出自が卑しいがゆえに、軽んじられていたが。元々、武功立て後宮入りしたアトである。

 “怒らせると不味い相手”と周囲に畏怖させることができた。


 そして何より……、陛下が彼女に処分の如何を任せたのが大きい。それだけ陛下の信頼が厚いと、示せた。


 こうなると、泱容も行動しやすくなり、早速……、


「今宵、陛下のお渡りになられます。」


 と、陛下付きの宦官が恭しく伝えにやってきた。

 アトはこの時、“また!?”と、眉間にシワがより、李華が慌てて


「畏まりました。」


 と、かわりに返事をして宦官を見送った。


「希勇君! お顔に出すぎです!」


「うっ……ゴメンナサイ。」


 このやり取りを見て、翠蝶はちょっと驚いたようにアトに訊ねた。


「希勇君は……陛下と元々恋仲であったと聞き及んでいたのですが……。」


「それはっ……。」


 李華はそのまま言うのは不味いのでは? と、思い、何か言い繕うとしたのに……。


「恋仲じゃないよ。私もよく解らないで輿入れしたから……。」


 と、アトが馬鹿正直に言ってしまったので、李華は目眩を起こした。

 が、

 綾月が呆れて言った。


「そう思っておられるのは希勇君だけですよ。」


「え!?」


「それに、まかり間違っても貴妃が、陛下のご寵愛を疑うようなこと言うものではありませんっ!!」


「はい……。」


 アトはすっかりしょげて肩を落とした。


 ここに来て怒られてばかりだ。


 綺麗な襦裙を着て、楚々としたお姫様がこんなに大変だったなんて、知りもしなかった。

 アトは寒空を眺め思った。


 前みたいに褲を履いて、その辺駆け回りたい。


 今思えば、寒い冬にそんなこと、思ったことすらなかったかもしれない。


 庶民にとって冬は辛い。

 飢えと寒さとの戦いなのだ。


 贅沢になったもんだな……。


 それにしても、なんだろう……。

 皆がどうも、泱容あの男が私に惚れているなどとおかしなことを言うのだ。


 絶対に無いのに。


 今夜だって、何事か用事があって来るのだろう……。


 それにしても、何故私を貴妃にしたのか……。


 今夜こそ、その答えが聞けるだろうか?


 夜――。


 静かな夜が、雪のせいで更に音がしない。


 その静かで寒い夜中に、アトは、涼しい顔して宮の前で泱容が来るまで、待ってないといけない。


 鼻水垂らしそうなのを石像になったつもりで、必死に耐え、つっ立っている。


 もう寒すぎて体の感覚がない。


 そして、やっと泱容は宦官をぞろぞろ従えやって来た。


 その場で皆叩頭した。


 アトも寒さで固まった体をカクカクと動かし、叩頭した。


 もう、あまりに立ち居振る舞いが不器用であるので、泱容控える宦官達は唇を噛み締め、笑うまいとこらえていた。

 泱容は、


「よく炒った鉄観音をもて。」


 と、即座に命じ、アトを立たせると、


「礼など良い。これからは省く。」


 と言った。


 良いのだろうか?

 この無様ななりでは、やはり皇帝の威厳に傷をつけてしまうのだろうか?


 アトはちょっと心配した。


 しかし、鉄観音を宦官が運んでくると、泱容は人払いをし、アトの両肩をさすった。


「お前、食べてるのか? こないだと変わらん気がする……。」


 と、愚痴られてアトは吹き出した。


 くくっ ……ふっ、あはははははは……


「陛下、お母さんみたい……。」


 すると、泱容は少し頬を染め、


「子供みたいなことをするからだっ! ほらっ! 冷めないうちに茶を飲め!」


 と、茶杯をアトの手に持たせた。

 茶杯の温みが指に染み、一口飲めば、五臓六腑に染み渡り、茶杯はすぐ空になった。


「もっと持ってこさせるか?」


 泱容が気遣わしげにアトを見る。


 陛下が優しいだなんてっ……!!


 アトはびっくりしてしげしげと泱容を眺めた。


「何だ?」


「え……だって、陛下がすごい……優しい。」


 すると、泱容は固まった。


 言っちゃ不味いことでも言っただろうか!?


「わ……私はっ…………結婚したのが始めてだっ!」


「???? はい……?(え? 皇后様はどうなるの?? まだ娶って間なしだから?)」


 気まずい沈黙が流れた。


 なぜだか解らないが、泱容がおかしい。


 こないだもこないだでおかしかったし……。


 それでも! ちゃんと聞いておきたい。


 気まずい沈黙の中、アトは意を決して泱容に訊ねた。


「陛下。あの……。」


「なんだ!?」


 泱容はさっきの間抜けな答えに恥じ入り、赤らめた顔で大分過剰に反応した。


「私を娶ったのは、どうしてですか?」


 アトは真剣な面持ちで泱容を見つめた。


 泱容も聞かれて当然であると思う。

 アトと始めて出会ったときは、“どうせ裏切られる”と、猜疑心から遠ざけ、真っ直ぐで純朴で、変に頑固な彼女を知っていくと、“出来たら幸福であって欲しい”と願い、いざ、男の影がちらつくと、どうしても許せない。


 しかし……こんな狭量な自分を、彼女が受け入れてくれてくれるだろうか?


「そ……その。私は……お前が、可哀想だと思ったのだっ!!!!!」


 可哀想?


 庶民だから??


 アトの内にそこはかとない怒りが込み上げてきた。


 確かに、庶民は食うや食わずで、いつ何が襲ってくるか分からなくて大変だけど……。


「へー。そうですか……。」


 アトはゆらりと立ち上がった。そして、


「私は憐れまれる程やわではございませんので、今直ぐ後宮から叩き出してくださいませっ!!」


 と怒りに任せて叫んだ。


「ば……馬鹿を申すな!! そんなことできるわけ無いだろ!!!」


「できるでしょ!? 陛下が一言“出てけ!”と言えば叶いまする!!」


「い嫌だ!!」


「どうして!!??」


 子供のように駄々をこねだした泱容に、アトはイラつき声が大きくなった。すると、不意に、


「あっ……!!!」


 アトは泱容に抱きすくめられた。抵抗して突き放そうともがくと、


「皇帝の玉体に傷を入れれば死罪は免れんぞ?」


 と、脅され、怯んだ隙に、事に及ばれた。


 アトは悔しくて、その間ずっと涙を滲ませ枕をギュッと鷲掴んだ。


 事が終わって後、アトはずっと泱容に背中から抱きつかれた。まるで許しを請うように、頭を肩に預けられ、腹が立っているのに、何故か切ない気分になった。


 そして、その日から幾晩か泱容が通うようになって、アトは夜が少し怖くなった……。


 言われなくとも解る。


 皇帝のお手つきなった。


 ここを出ることは本当にもう、二度とない。


 不安定に微妙になっていく立場。貴妃なら皇帝の寵愛を何より喜ぶものだが、


 アトは塞ぎ込んだ。


 どうしていいのか、分からない……。


 そして、ある晩。


 夜伽を終え、寝台に寝っ転がっていると泱容にこんな事を聞かれた。


「何か、欲しいものはないか?」


「え?」


「お前は、物をねだったことないだろ?」


 欲しい物……。


 そう言われて、アトは剣を思い浮かべた。


「……剣。」


「ん?」


「剣が欲しい! 鍛錬場も!」


 アトは必死に泱容を見上げた。


 しばらく、無言でいた泱容は、


「分った。」


 と、答えた。


 かなり後に聞いたことだが、

 アトが願い出たことは、大変なことで、泱容がその願いを叶えるのにかなりの骨を折ったと、苦笑いをしながら語った。

























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皇帝の剣 泉 和佳 @wtm0806

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